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LinkIcon  これまでの国内山行報告

越後の名山を訪ねて(弥彦山、米山)
――  ミニ越後シリーズ  ――
竹 中  彰(1964年卒)、投稿日2022年8月16日

 
 今秋の一橋山岳部創部百周年記念事業の「北岳集中登山」参加に向けて,少し体力面での準備をと思い始めていた7月下旬に、例によってトーチン会の本間さんから,八ヶ岳北部縦走と越後の山の計画が寄せられた。
 前者については日程、コース等をメールで打ち合わせていたが、双方の思いやスケジュール調整が難航し、この間に体力検証に御嶽山登頂を試みていた本間さんが,九合目辺りで退却したとの報に接し、暫く八ヶ岳計画は延期することとなった。
 代わって越後の比較的著名な登りやすい山として、弥彦山、米山の連続登頂計画が浮上し、一昨年の蓼科山のメンバーである小島(65年卒)、佐藤(久)(66年卒)さんを誘って4名で実施することとなった。(当初計画では刈羽黒姫山(891m)が候補にあったが、アプローチの悪さから除外された。)
 弥彦山は越後一之宮の弥彦神社として、米山は三階節などの唄で著名であるが何れもこれまで訪れる機会はなかった。
小生も別途6月上旬にJACの神﨑さんから、新潟支部が主管する「高頭祭(7/25実施)」に誘われていたが、日程都合がつかず参加を断念していたので、本間プランに乗ることとした。本間さんは予て地元精通者の加藤(博)(76年卒)(総務幹事)と打ち合わせて情報を仕入れ、最終計画案を纏めて宿とタクシーを手配し、メンバーに連絡して来た。
 メンバーは山行日程とアクセスについて計画書に基づき、出発までにジパングでJR乗車券、新幹線券を手配した。上越新幹線の燕三条(長岡)駅往復は明確だが、弥彦線、越後線、信越本線を利用して長岡駅に至る乗車券の買い方について出向いた駅の係員のアドバイスが区々(まちまち)であり、途中で若干の齟齬があった。何しろ弥彦線、越後線など通常お目に掛かれない新潟のローカル線を利用することは初体験であり、そのルートを理解するのも手間取った。小生のケースでは、乗車券は連続で東京―吉田-米山(往)、米山-長岡-東京(復)、初日の弥彦駅へは吉田乗り換えで片道190円を払い、柏崎で途中下車して一泊後米山駅へ。
 結果的には、東北地方を線状降水帯が襲い被害が生じていたにも拘らず、信越地方の天候は比較的安定し、計画遂行に問題はなかった。但し、コロナ禍で動きの鈍った身体には夫々の山の急登と暑さは格別堪えるものだった。
 
※8月7日(日) 
東京駅(7:04発とき303)-燕三条-吉田-弥彦駅(9:25着)
弥彦山登山口(10:02)-一合目(10:19)-二合目(10:51)-三合目(⒒:03)-八合目ベンチ(12:45)-九合目(13:06)-奥社(13:30-14:00)-ロープウエー上駅(14:30)-弥彦神社参拝-弥彦駅-吉田駅発(16:52)-柏崎駅着(18:02)-ホテル・サンシャイン(泊)
 
 久し振りに早朝4時過ぎに起床し、田園都市線つくし野駅発5:38の二番電車に間に合わせるべく、朝から高い気温の中で多量の汗かきを避け、駅まで自転車を漕ぐ。渋谷で山手線に乗り換えるべく、最初の改札口に向かった際には並んだ数台の改札機の何れにも乗車券投入口がついていないので稍焦ったが、裏に回って他の改札口の改札機には投入口があり、無事に入場できた。予定通り6:49に東京駅に着き、上越新幹線ゲートに向かう。
 既に入線していた「とき303号」の4号車自由席の座席を確保して、ホームに出て駅弁屋で昼食2食を調達した。定刻発車後、本間さんにSMSメッセージを入れると7号車にいる旨返信があった。昨年の火打・妙高行以来久しぶりの新幹線で越後湯沢を過ぎ、浦佐に至る間に車窓右手に八海山から駒ケ岳に至る、2006年に始まった越後シリーズで踏んだ山並みや、4年前までの2年間勤務した国際大学キャンパス方面を懐かしく遠望する。
 2時間の乗車で燕三条駅に到着し、乗り換えの為にホームに降りると本間、小島、佐藤のメンバー全員揃った。陸橋を渡り、弥彦線ホームで10分余の待ち合わせで吉田行の電車が到着し、吉田駅での乗り換え後9:30頃に重厚な甍をのせた駅舎の終点弥彦駅で下車した。
 駅前にタクシーが見当たらず、電話で営業所に問い合わせると配車に時間を要するとのことなので、弥彦神社横の登山口に向けて歩くこととし、朝から強い日差しを受けながら越後国一宮の弥彦神社拝殿脇を通過して、ロープウエー乗り場への道を分け、木製の鳥居をくぐり、小川を渡った先に10時前に杉木立の中の登山口に到着した。
 暫く呼吸を整えた後に登山スタートし、緩い登りを辿って20分弱で一合目の石柱に着いて休憩する。この後も次第に傾斜が急になる中で、ジグザグを切った道に略等間隔に合目柱が立っており、その後は我々も略これに合わせて15-20分弱の歩行で休憩を取りながら蝸牛の歩みで進んだ。本間さんは既に一合目でピッチが上がらないので、マイペースで行くとのことで別れ、三名で先行する形となった。
 登山道脇に簡易の東屋が設えてある「里見の松」を12:10過ぎに通過して間もなく、5ピッチで7合目の水場に着く(12:15-26)。ここに山の斜面から伏流水が現れ、小さな水槽と柄杓数本が置かれていた。冷えた水でノドを潤し生き返った心地がした。更に岩場混じりの20分でベンチのある8合目に至り、その後僅かの急登で頂上稜線に達し、ロープウエー駅と頂上を結ぶ中間、9合目に到着した(13:06)。
 ここからは林立するTVアンテナ等の脇や、弥彦神社奥宮の社務所を通過し13,4分でご神廟のある頂上(634m)に到着した(13:30)。真夏の猛暑の中とは言え、東京スカイツリーと同じ標高の山に登るのに、こんなに苦労するとは想定以上だった。越後開拓の祖神天(あめの)香山(かごやまの)命(みこと)(天照大神の曾孫)を祭神とするご神廟には、我々の様な通常の登山者の参拝に比べて、何事かを願って一心に時間をかけて祈っている女性の姿なども見かけた。
 山頂からの眺めは日本海側、越後平野側共に遠方の山並みは大気の湿度が高い所為か、何となく靄ってハッキリしないのが残念。日陰を求めて昼食をとり、ユックリ休む。目の前をオニヤンマが悠然と何度も同じ経路を往復している。今回テスト的にスズメバチ、アブ、蚊等の害虫対策で作り物のオニヤンマの模型を調達してザックに付けて来たが、その効果のほどは? 気持ち的に何時もより蚊に刺される頻度が減っている様にも感ずるが・・・。
 14時過ぎに下山を開始するが、9合目まで戻った所で暑さでへばり気味となったメンバーから、万一のルートとして考えられていたロープウエーを利用しての下山が提案され、即決で頂上駅に向かうこととなった。この間に小島さんの携帯に本間さんが「里見の松」から下山したとの連絡が入っていた。頂上駅前に喫茶コーナーがあり、久しぶりにソフトクリームを食した。なお、窓越しに日本海の海岸線が遠望できたが、すぐ隣に高さ100mのパノラマタワー(タワーの周囲を展望室が回転しながら上下する)が立っているが、目障りな感も。また、山麓から山頂傍まで14㎞弱の自動車道(弥彦スカイライン)が通じており、一般客誘致の設備が揃っていることも知った。
 本間さんとの合流を期して800円也の料金を払ってロープウエーに乗車する。慌ただしく頂上を辞した為に、事前に予定していた山上の大平園地内に設置されている日本山岳会設立発起人7人の一人、財政面の協力者‣高頭式(仁兵衛)の寿像碑に詣でるのを欠いたことは残念だった。
 ロープウエーは僅か5分ほどで麓に着き、送迎バスで登山口近くに送られた(14:30)。そのまま近くの拝殿に向かい、弥彦神社に参拝して本間さんを待った。電話で連絡を取り合うもなかなか出会えず、かなり時間が経過した後に先ほどの登山口近くで合流し、そのまま歩いて弥彦駅に向かった。弥彦発16時過ぎの電車で吉田駅で越後線に乗り換え、柏崎に向かい18時過ぎに柏崎駅に到着した。駅前ビジネスホテルにチェックインして人気のない街に出て居酒屋を探し、夕食をとった。   (総歩数137k)

弥彦山登山口
弥彦山頂上での三人
(竹中、小島、久さん)

※8月8日(月) 
柏崎駅(7:49発)-米山駅(8:03)  タクシーで大平登山口へ
登山口駐車場(8:25発)-林道分岐・大平登山口通過(8:45)-4ピッチ-二の字 (10:13-10:30)-771m峰通過(10:35 )-2ピッチ-ガンバレ岩(⒒:32‐⒒:40)-2ピッチ-米山頂上(12:09‐13:10)-4ピッチ-林道登山口通過(15:30)-大平駐車場(15:50)-タクシー乗車∸米山駅発(16:54)-長岡経由東京駅へ
 
 朝6時にホテルレストランで朝食をとり、ザックを纏めてロビーに降り、柏崎駅前コンビニで昼食、飲み物類を調達して駅待合室で待機する。同駅発7:49の直江津行信越本線に乗車して、15分弱の車窓に展開する夏の日本海の景色を観察する。
 米山駅は無人駅でそのまま改札を出るが、駅前には何も商店がなく待機していた予約のタクシーに乗車後直ぐに出発した。15分程の乗車で国道8号線、北陸自動車道を越えて南下し、オガチ川に沿って進んだ先の大平(おおだいら)集落*の自販機、簡易トイレもある登山者用駐車場に着く(標高235m)。
 * 米山の登山ルートとしては、我々が向かう大平コースの他に、谷根、野田、吉尾、下牧、水野林道と主なものだけで6つあるが、最もポピュラーなのが今回の大平コース。
 道中で運転手から、米山に因んで88歳(米寿)で登りに来た登山者がいた等の話を聞く。地域情報によれば集落は6世帯16人居住のとのことで、ヒッソリしている。駐車場で帰りの迎車を予約し、着替え等の不要な荷物をタクシーに寄託して出発する(8:24)。
 米山林道を外れ畦道を進みやや傾斜が強くなる中、再度林道に合流し、20分余で大平コースの登山口に至る。柏崎市が案内する5つの登山コースの内で最もポピュラーなコースで、ここから頂上までの所要時間は2.5時間とされている。なお、コース上には頂上までの距離2,700mを、地点ごとに登山口から、頂上までの距離をそれぞれ記した赤い標識が設置されている。
 登山口には山頂部の土砂が流出しつつある対策としての「土あげ運動」の案内と砂袋、土のストックが積まれていたが、負荷を少しでも抑えたい高齢者の我々は遠慮させて頂く(8:45)。
 登山口から道は傾斜のキツイ登りとなり、心肺機能の衰えをいやでも意識せざるを得ない。木立に囲まれたルートであり、直射日光は遮られるが風が通らず汗がふきだす。ペースもなかなか掴みづらく、20分前後歩いては休憩を繰り返すことになった。登山口から3ピッチ強で「二の字」と呼ばれる広場に着き(650m)、給水、エネルギーを補給する(10:13-10:30)。この時までに本間さんはペースが上がらず、例によってマイペースで進むとなった。休憩中に上から若い女性の二人連れが降りて来て、早朝は涼しくて登りも楽だったとのこと。
 出発して少し行くと狭い尾根を進む様になり、ここで「711m峰」(セブンイレブンと称するとも)の標柱を通過した(10:35)。ここまでヤマップの記録では50分弱で到達しているが、我々は1時間50分要しており、予想以上のスローペースになっていた。この先で50-60mの下りがあるが、直ぐに登りとなり、階段やハシゴの連続する歩き難い道となる。また、植生も広葉樹が主体であるが、ブナの木が目立ち、中にはかなり立派なものも目に付く様になる。ひたすらの登りが2ピッチ続いた所に道脇の岩にガンバレと朱書きされた、所謂「ガンバレ岩」が出てくる(800m、⒒:30)。この岩を過ぎた所から木間越しに海岸線が望め、涼風も暫し暑さを忘れさせてくれる。「ガンバレ岩」に佐藤さんが差し掛かった所で腰を上げて先に進む。傾斜は少し緩やかになり、少し先に「し羅場跡(しらばあと)」の標柱が立っていた。
 * “し”は屍から死を除いた字、意味は屍と同じ、なおコースガイドによれば下牧、水野林道コースの合流点から5分の場所にしらば避難小屋が設置されている。
 また、明治の初めまでは、この先は女人禁制だった由。この先左手に道を分けるが、米山林道の終点から登る最短コース(ここまで25分)だが林道が崩落等で通行不能になっている。
 小島、佐藤組と差が開き、暑さと疲れでもうギブアップかと弱気になって休んでいると、上から男女が降りて来た。大分前に「711m峰」の近くで追い越して行ったペアで、女性が「頂上は近い、小屋は涼風が抜けて涼しい」と励まされて、最後の力を振り絞って歩き出した。
 程なく、突然頭上に避難小屋が現れ、力が湧いてきた。頂上に着いて先ずはお薬師様に挨拶し、薬師堂の周囲を確認し、海岸線を含む麓を眺め、また、周囲に咲く大きなヤマユリを観察した後に先客1名がいた小屋に入った。ネットでは『日本一立派な避難小屋』と紹介されていたが、確かに大屋根の下に広々とした床張りの一階、二階があり、毛布等も用意されていた (12:28∸13:10) 。水場は登ってくる途中の分岐の近く、下り30秒とあるがもう少しかかりそう。
 両側のドアを開け、窓を開けていれば涼しい風が通り抜け真夏の昼さがり、「昼寝」には最適な場所の感あり。暫くすると途中で戻るかもと言っていた佐藤さん(12:35)、小島さんが到着した(12:40)、本間さん(小島さんへの携帯連絡で途中、二の字の手前でギブアップとのこと)が抜けたのは残念だったが、何とか3名で所期の目的を達成できて満足だった。昼食などをとった後に戸締りを確認して下山にかかる。
 なお、米山の頂上には現在の地理院の一等三角点が埋設されているが、少し離れて陸地測量部以前に内務省地理局が明治15年8月に設置した「原三角点」が残されている。これは雲取山、白髭岩(群馬・下仁田)と共に現存する3個の一つと言う。
 頂上を踏んで気持ちも軽くなったが、下りにも拘らずハシゴ、階段の連続でなかなかスピードは上がらず、事故の無いように慎重に下って行った。「ガンバレ岩」、「711m峰」でピッチを切った後も略30分毎に休み、林道登山口を15:30に通過し、朝と異なり急な階段のショートカット道を避けて,大回りではあるが米山林道を大平駐車場に下った。本当に大回りさせられて、15:50に本間さんの待つ駐車場に到着した。人家が出て来た所で、道端に1.2m位の柱に奇妙な飾りが立っていたが意味、内容は不明。10分程度の時差で佐藤、小島さんも合流し、無事にタクシーに乗車して駅に向かう。駅に着くと16:54発の長岡行電車迄たっぷり時間があるので駅前の温い水道で顔を洗い、汗を拭って衣装替えする。
 冷房の効いた車内でウトウトするうちに長岡駅に到着し、新幹線時刻を確認してから構内の飲食街でヘギ蕎麦の「小嶋屋」を見つけ、ビール、日本酒で乾杯し、暫し歓談。残念ながらこの店には、越後の酒として加藤さんがお薦めの米山の麓・上越市柿崎の「吟田川(ちびたがわ)」にお目にかかれなかったのは残念なことだった。19:17に予定の「とき344号」に乗車し、大宮で佐藤さんを見送った後、東京駅には9時前に到着し解散した。
 今回も本間さんの企画、手配になる越後シリーズ(弥彦山、米山)が無事に終了した。言い出しっぺの本間さんが今回の両山共に頂上を踏むことなく、体調不良で途中ギブアアップしたことは大変残念だったが、我々としては滅多に足を踏み込まない越後の長い海岸線を越後線、信越本線の車窓から垣間見ることが出来たのは幸せなことであった。
 本間さんには88歳まで山登りを続けて、是非、米寿のお祝いに弥彦山、米山に挑戦してリベンジして頂きたい。また、今回の山行に当たっては本間さんのアドバイザーとして現地に精通している加藤総務幹事の適切な助言、サポートの力に負うことが大きかったことを感謝したい。
 初日柏崎での居酒屋(寿司屋)「海鮮市場」でのイカタコ三昧、長岡駅構内でのヘギ蕎麦小嶋屋での反省会など、それなりに現地の旨いものを食し、平均年齢80歳を超すパーティーは残すところ余り長くない人生最終コーナーを愉快に過ごした2日間でした。 以て瞑すべし。
 以 上

登山道中のガンバレ岩下
米山頂上の薬師如来を祭る社
社殿裏から海岸方面(小島、久さん)

30年ぶりの蝶ヶ岳
山崎 孝寿(特別会員)、投稿日2022年8月20日

 気が付けば30年ぶりの蝶ヶ岳となりました。
 前回は小学生の娘と幼稚園児の息子を従え、中房に車を止め、合戦尾根(C1)、燕、大天井(C2)、常念、蝶(C3)、徳本峠(C4)、岩魚留小屋、新島々と縦走し、電車とタクシーを乗り継ぎ車をピックアップという流れでしたが、今回は三股ベースの蝶、常念と縦走、周回の企画を立てました(初めてYAMAPの1ヶ月880円の山岳保険も利用)。
 8月10日の夜に東村山の先輩をピックアップし中央道を走り、24時を過ぎ夜間割引適用を狙い安曇野ICを下車。
 ここでまず第1の誤算です。登山口の三股駐車場がさすがのお盆で満車、少し戻り第2駐車場に車を停めます。ここで仮眠をとりましたが、明るくなる頃には第2駐車場も満車で、道路などの違法駐車もかなり見かけました。
 8月11日、7時前に第2駐車場を出発し蝶を目指します。登山届はすでに長野県のポータルサイトから提出済みですが、三股の登山口では登山者名簿への記載が求められました。ペースは当初は順調というより標準タイムをやや上回る登行でしたが、大滝山の分岐点まであと小1時間といったところでまずは片脚がつり、しばらくして両脚痙攣の第2の誤算に見舞われました。
 しかし6月初めの針の木で中村(雅)さんのアドバイスに基づき、ツムラの68番を持参してきたのが幸いしました。効果的面、嘘のよに痙攣が引き蝶まで無事登り切ることが出来ました。
 蝶の近くで下山してくる人からはご褒美の絶景が待ってますよ、との通り、蝶からの眺め(槍穂はもちろん眼下の安曇野も)は最高でした。持ってきたビールは温くても乾杯には最高でした(因みに蝶ヶ岳ヒュッテでは普通缶が600円、ロング缶が800円で売られています、水はリッター200円)。
 なお、テント場もほぼ満杯で午後から夕方にかけ到着したパーティーは平なテン場にはありつけない様子でした。それにしても一人2000円も払ってよくこれだけのテントがという状況に驚きです(30年前は100円、缶ビールが500円だったと思いますから缶ビールの相場の変遷に比べ、テント場の相場急騰には驚愕です)。
 第3の誤算は天気ですね。蝶に着いた頃から風が強くなり11日の夜は暴風状態、12日の朝はガスもかかり想定以上の台風の影響が現れていました。
 本来は常念で2泊目を目論み食料も十分持参してきていましたが、ホワイトアウト状態では計画を断念。台風接近で4時頃からテント撤収のパーティーも見られ、我々もやむなく来た道を戻る形になりました。
 最後の誤算は下山して昼飯にと目論んでいた贔屓のそば処「しげやなぎ」(プラザ安曇野、田淵行男記念館近く)がいつの間にか閉店(看板が「手打ちそば」から「手打ちピザ」に変わっていました)。残念と落ち込む前に新たなアイデアが浮かび、前から行ってみたかった山形村(長野にどうして山形村という地名があるのでしょうね?)の唐沢そば集落を安曇野から目指しました。ここは石川県から東京へ向かう道すがらいつも注目していた場所です。

 ここでまたもや誤算。お目当ての唐沢そば集落ですが、恐るべし人気ぶりで県外ナンバーの車が駐車場から溢れていました。同行の先輩は何せ行列して待つのが嫌いな先輩でしたので、ここも退散。最後の希望の星はここも前々からマーキングしていた山形村の隣の波田町の味工房「はた」。ここのざるそばが絶品(波田町名産の西瓜もデザートに)でした。
 いろいろありましたが終わりよければ全てよし。帰宅して4日ほど階段の上り下りがきつい日々が続きましたが、遠藤さんがレッドキックという今は販売されていない軟膏を授けてくださりましたので、次回はツムラの68番に加えこちらも携行してみたいと思います。

日連アルプス・ハイキング記
竹 中  彰(1964年卒)、投稿日2022年7月10日

 
 日連アルプスと聞いてすぐ合点のいく会員は多くないと思われる。小生もその口で、ニチレン?と全くイメージが湧かなかった。暫くネットで検索等の後に、その読みが「ヒヅレ」であることが分かった。しからば日連とは何処にあるのか、位置は身近な相模湖の南西側に連なり、中央線藤野駅と石老山を結ぶ直線の中間、丘陵に少し毛の生えた標高で300~400mの山並みであることが理解された。恐らく上野原にお住いの小西顧問はあんな所かと、思われるのではないかと・・・。
 小生が所属する日本山岳会東京多摩支部の同好会『低山を楽しむ会』の月例山行に参加した記録です。
日 時:2022年6月17日(金)
場 所:藤野駅集合 9:10
参加者:1932年12月30日生まれの最高齢者以下18名(男12,女6名)、平均年齢約79歳
 
 昨年来コロナ禍で、定例山行は中止になることが多かったが、ここに来てコロナ感染の勢いも低下し、天候も安定して来たので久し振りに中央沿線の山に向かうこととなった。
冒頭に記したように、全く馴染みのない山域であり、しかもアルプスとある。ネットで検索すると、地元相模原市の藤野観光協会が簡単なルート案内図を作成し、ヤマレコ等にも若干の記録が出ていることが分かった。要は藤野駅を南に出て、相模川が相模湖に流入する直前で橋を渡って南側の山並みに分け入り、標高300~400mの主稜線を辿って周回して駅に戻ることになる。
 中央線で藤野駅に着くとホームからは向かい合う山の中腹にハート形の赤いシールを貼った大きなラブレターを象徴する作品が望める。定刻前にほぼ全員揃い、9:15に駅前をスタートし、暫らく旧甲州街道に沿って歩き、信号で県道山北藤野線(76号)に分岐して進むと程なく相模川を渡る立派な日連大橋に出る。橋の袂には芸術作品の彫像などが置かれて、芸術の里・藤野らしさを象徴している。
 藤野小学校の所で左折し、地元の生活道路を三々五々歓談しながら進み、途中の日連神社でこの日の行程の無事をお参りし(9:53-58)、ピザ店前を通過して、大きなルート案内看板の立つ登山口に着く。ここまで駅をスタートして約50分(10:05-10、240m)。ここから森に覆われた小さな沢沿いのコースに入るが、18名と多人数の参加者を2パーティーに分けて進むこととする。
 暫らく稍湿った登山道をユックリ登り、途中から中腹を巻く様な感じのトラバースが続く。途中で左に青田(おおだ)方面に下る散策路を分けるが、道なりに進んだ先に潅木と岩の急登にしっかりしたロープを張った箇所が現れる。この20m前後の登りをこなした先で道は平坦となり、日連アルプスの稜線歩きが始まる。この間にはイチヤクソウの可憐な白い花がそこここで目に止まる。稜線に出て軽いアップダウンを進むと程なく最初のピーク宝山(374m)に至る(11:05-17)。このコースの山頂等の標識には本日の最後のピークとなる金剛山を①とするナンバーが割り振られ、宝山の標識には⑧とある。このルート唯一の三等三角点は頂上のテーブル・ベンチの下に隠れている。
 一息入れて次の⑦日連山(373m)を目指す。20mほどの登下降で小広い山頂に着き、早めの昼食とする(11:35-12:00)。食事、歓談の後に次のポイントとなる⑥杉峠(338m)を目指す。
 全体的には緩い下りの広葉樹に覆われたコースを30分ほど進んで杉峠に到着する。道はここで南に鉢岡山(460m)に分岐するが、往復小一時間を要する割に展望も乏しく、魅力もないので直進して峰山(423m)に向かうこととした。鉢岡山へのコースと暫らく並行した右手のなだらかな登り道を進む。30分弱の歩行で西から北西方向に開け展望の利く峰山に到着する。ベンチに座って山座同定を行う、中央線北側の陣馬、生藤山、扇山、滝子山等だが、全体に霞勝ちであり、富士山方面も手前の丹沢山塊などに阻まれて視界に入ってこない。ここから北側に5分ほどの位置に④八坂山(420m)があるが、灌木に覆われて展望もない。
 峰山で山の唄なども歌って十分休んだ後に最後の金剛山に向かうが、10分強で到着する。山頂には火之迦具土(ホノカグツチ)の神を祭神とする金剛山神社が鎮座し、看板には明治30年4月11日の地元杉集落の大火を戒めとして4月11日の祭礼には奉納演芸大会を実施とある。少憩中に、メンバー中の嘗ての昆虫少年が近くの潅木の葉にモンキアゲハが止まっているのに気づき、優雅に飛ぶのを全員で観察する。最後のピークであり、先も見えたので20分ほど休んだ後に下山を始める。粘土質の下りは潅木類の手がかりも少なく、慎重に下る。最初の登りのロープと言い、この下りの急坂と言い里山ハイキングとしてはなかなか手強いルートではあった。緊張の20分ほどを経過し、次第に通常の傾斜の山道になり、開けた所にベンチが設置され給水など小休止する(14:25)。少し進むと下の県道からの車の音が大きく、姿が見えるようになった。下りきって県道に出た近くに金剛山バス停があったが、
 待ち時間があったので小生は未だ足が生きていたので若手メンバーと徒歩で駅を目指すこととした。炎天下の舗装道路ではあったが、30分弱で藤野駅前に到着した。ここで直帰するメンバーと別れ、予約してあった駅前の打上会場「風里」に上がった(15:05)。その10分後にバス組が到着し、生ビールで乾杯、暫し歓談して16:30に解散した。
 藤野駅にはタイミング良く東京行の普通が来たので、全員乗り込み、夫々の帰宅経路に従って、高尾(京王線乗換え)、八王子、立川等で下車して行った。

藤野のloveletter
日連登山口へのアプローチ
イチヤクソウ1
イチヤクソウ2
日連山1
日連山2
モンキアゲハ ズーム

針ノ木大雪渓

報告文は後日
▲上記写真撮影は集合写真右(撮影・山崎会員)を除き全て小西先生
(写真をクリックすると大きく表示されます)

天狗岳で春山を楽しむ
小西 大(1987年卒、山岳部顧問)、投稿日2022年3月30日

 
日程】2022年3月24日~25日
【参加者】前神直樹(1976年卒)、佐藤周一(1979年卒)、小西大(1987年卒、山岳部顧問)
【行程】(タイム)
 1日目:茅野駅~渋御殿湯(前泊)
 2日目:渋御殿湯発(6:20)~黒百合ヒュッテ(9:00~9:30)~中山峠~東天狗岳(10:40)~中山峠~黒百合ヒュッテ~渋御殿湯着(13:45)~茅野駅
【山行記録】
山行当日は6時半前に出発。渋御殿湯から黒百合ヒュッテまでは、北八ヶ岳らしいコメツガやシラビソの樹林帯が続く2時間強の行程だ。この辺りは大きな岩がゴロゴロ転がっていてやや歩きにくかったと記憶しているが、十分積雪したルートはしっかり踏み固められており歩きやすい。黒百合ヒュッテでアイゼンを装着、5分ほどで中山峠、さらに南に進むとほどなく樹林帯を抜けて真っ白な稜線に出る。ここからは眼前にそびえる天狗岳(実は山頂手前の偽ピーク)を目指して先行者のトレースを辿る。前日、前々日に降った雪の稜線歩きは快適だ。ただ雪山経験の浅い自分(小西)には、急斜面を登るたびに復路の心配が頭をよぎる。下山してきた先行者から山頂手前で撤退してきたと聞くたびに緊張感が高まる。前を歩く前神さんに「ここなら落ちても止まる」と言われても、「ここは落ちるかも知れない」と翻訳してしまい恐怖が増幅されるだけだった。しかし、一旦覚悟を決めると冷静にスタスタ歩けるのには我ながら驚いた。
急斜面をひょいひょい登っていく前神さんの背中をなんとか追っていくと、黒百合平から1時間強で天狗岳山頂(東天狗岳2640m)に到着。南側には爆裂火口の硫黄岳、最高峰の赤岳に阿弥陀岳、その背後には南アルプス。振り返ると蓼科山をはじめとするたおやかな北八ヶ岳の山々。中央アルプス、北アルプス、上信越方面の山々まで見渡すことができた。
山頂には30分ほど滞在。美しい眺望にすっかり弛緩してしまったが、気を引き締めて下山。往路よりも下山の方が緊張するはずだが、慣れてきたせいか、アイゼンで雪面をしっかり捉えながら意識的に歩くのが気持ちよかった。
晴天率の高い八ヶ岳だが、今年の3月は天気が不安定だった。しかし山行当日は好天に恵まれ穏やかな絶好の山日和だった。このような日に登ることができたのは佐藤(周)さんのおかげである。荒天の間隙を縫って絶妙な日程調整をして下さった佐藤さんには感謝の言葉もない。平日のため登山者も少なく静かで気持ちよかった。(ちなみに、収容人数100人の渋御殿湯に宿泊したのは我々だけだった。)
一面の青空と白銀の世界。雪山の閑寂で抑制的な魅力を満喫した登山だった。同行していただいた前神さんと佐藤さんに、改めて感謝申し上げます。
 
【自己紹介】
 2022年1月開催の針葉樹会臨時総会で特別会員に加えていただいた山岳部顧問の小西です。この場をお借りして簡単に自己紹介をさせていただきます。
 まずは、針葉樹会会員に加えて下さったことに感謝申し上げます。「サバイバル登山」で知られる服部文祥氏は「二足歩行できるところは散歩」と言いますが、その意味では自分は全く散歩の域を出ない山登り初心者であり恐縮しております。
 私は1987年商学部卒、その後大学院商学研究科に進学、1989年にウェスタン・オンタリオ大学(カナダ)に留学しました。1994年の学位(経済学)取得後は東京経済大学、2000年からは一橋大学に勤め、金融制度・コーポレートファイナンスに関する研究・教育に携わっています。現在は山梨県上野原市在住で、休みの日には犬(最近は家内も)と一緒に八重山、権現山、扇山など近隣の低山を歩いています。カヤックも好きで、日の出前に西湖や本栖湖に出かけて山を眺めながら湖上で朝食をとり、気が向くとカヤック撤収後に雪頭ヶ岳や竜ヶ岳など周辺の山に登ります。全くの素人ですが写真を撮るのも好きで、昨年は紅葉の涸沢に行き、ついでに北穂高に登ってきました。遊ぶのは結構得意です。
 2020年に山岳部生からの依頼で顧問になりました。大学のガイドラインにより顧問不在ではコロナ禍で部活動ができないため、急遽引き受けることになった次第です。役不足ではありますが、現役の山岳部生、OBのみなさんと大学の橋渡しができればと思っておりますので、よろしくお願いいたします。

▼写真撮影はすべて小西先生
3月25日9時26分 黒百合ヒュッテより、
東天狗岳(左)と西天狗岳(右)
3月25日10時46分 山頂直下の稜線
月25日10時37分 
山頂付近より赤岳、阿弥陀岳方面を望む
3月25日10時41分 東天狗岳頂上にて
(左から佐藤(周)小西、前神)

スノウシュートレッキング
岡田 健志(1967年卒)、投稿日2022年2月14日

 
 折角の冬なので雪を踏みしめたい、こんな思いを実現させてくれる企画が兵藤さん(1977年卒)から発表され、すぐさま参加!と挙手した。
行先は美ヶ原、深田百名山の数多くが望めるという絶好のビューポイントのひとつ。結果は写真をみてください。
【日 程】;2022年2月9~10日
【参加者】;佐藤久尚(1966卒)、中村雅明(1968卒)、前神直樹(1976卒)、兵藤元史(1977卒)、佐藤周一(1979卒)、岡田健志(1967卒)
 

2022.2.9
下諏訪駅前で御柱をバックに。
左から中村(雅)、前神、
佐藤(周)、佐藤(久)
2022.2.9
後立山連峰をバックに
2022.2.9
後立山連峰をバックに
2022.2.9
一休み
左から兵藤、佐藤(久)、
中村(雅)、前神、佐藤(周)
2022.2.9
王が頭にて
左から前神、佐藤(周)、
中村(雅)、兵藤、佐藤(久)
2022.2.9
槍穂の稜線に向かって
スノウシューウォーキング
2022.2.9
槍が岳~穂高岳の稜線
2022.2.9
白馬三山~爺ヶ岳の稜線
(王が頭から)
2022.2.9
南アルプス
2022.2.9
八ヶ岳
2022.2.9
なんと自転車で雪山登山(京大自転車部)

80歳会員2名の秋の火打・妙高山行
竹中 彰(昭和39年卒)、投稿日2021年10月13日

 
 予て同期の本間さんと秋の火打・妙高山行を計画していたが、実施1週間ほど前から日本の南の台風16号が急速に発達して関東方面直撃の懸念の出て、実施日程が二転三転した。結局天気予報と小屋の空き状況を睨み合わせて、9/28-30に実行することに決定した。
 80歳老爺2名の足並みを考慮して、通常一泊2山の行程を山中二泊のユッタリ計画とした。台風の影響を大きく受ける直前に下山し帰京できたことは幸いであった。

【行程記録】
9/28 
 東京発6:28(はくたか551)、長野経由妙高高原駅着8:57、頚南バス笹ヶ峰(1300m)着10:25
 登山口出発10:36、2ピッチ‐黒沢橋(1600m)11:45、6ピッチ‐富士見平(2050m)15:05、2ピッチ‐高谷池ヒュッテ(2100m)着16:30
9/29 
 高谷池H発6:40、天狗の庭(2110m)通過7:05、2ピッチ‐雷鳥平(2300m)8:10、火打山頂上9:28-10:28、3ピッチ‐高谷池H(昼食12:06‐40)、2ピッチ‐黒沢池ヒュッテ(2050m)着14:05
9/30 
 黒沢池H発5:45、1ピッチ‐大倉乗越(2150m)6:16、2ピッチ・長助池分岐7:26、4ピッチ‐妙高山北峰(2446m)(昼食10:05‐46)、南峰(妙高大神2454m)11:00‐11:10、クサリ場等を経て3ピッチ
 ・天狗堂(1930m)13:05、(大谷ヒュッテ(1780m)前通過13:35)3ピッチ・スカイケーブル頂上駅(1260m)
 15:15妙高高原駅発16:36 新幹線経由21時前に帰宅
 
【記録】
9/28(火)晴れ時々曇り :東京‐妙高高原‐笹ヶ峰‐高谷池ヒュッテ
 当初は、つくし野駅発一番の田園都市線を捉まえても計画通り東京駅6:28発「はくたか551号」に乗車するのは少し難しいと考え、場合によっては大宮(北与野)に住む長女のマンションに前泊して大宮で乗車することも検討したが、成瀬駅ルートに変更して長津田駅始発に乗車すれば表参道、赤坂見附乗換えで十分間に合うことが判明し、4時半過ぎに自宅を後にする。東京駅コンコースの駅弁屋で朝昼2食を調達して予定の車両に向かう。
 東京駅から、新幹線で山登りに行くなどは何年振りか、かなり以前の大朝日連峰縦走で山形に向かって以来か・・・、などと思いつつ4号車自由席を確保して、ホームに戻って本間さんを探す。見慣れた白髪頭の人物をすぐ見つけ、声をかけて席を移動して貰う。発車後朝食を摂り、久し振りの信越線(北陸新幹線)車窓の景色を眺めるうちに1時間半余で長野駅に到着し、しなの鉄道北信濃線に乗り換える。車内は途中まで通学生で混んでいたが、2,3駅で空き、長野から30分余りで終点妙高高原駅に到着(8:57)。下車して駅周辺をぶらぶらし、笹ヶ峰行きバス乗り場を確認する。暫く観光案内所で周辺観光案内パンフレット等を確認し、下山時に利用予定のスカイケーブルの割引券をゲットする。
 バスは定刻9:35に発車、途中いもり池、杉野沢などで観光客を乗せて進み50分で標高差800m稼ぎ標高1300m余の笹ヶ峰の駐車場に到着した。高谷池Hに向かうべく、火打山登山道に向かうと入口ゲート(28-1)に登山届提出箱の反対側に「妙高山・火打山地域入域料*」と書かれた大きな木のボックスが設置されていた。本間さんはスルーして行ったが、登山道整備・雷鳥保護等に活用される趣旨に賛同して500円を投函して、小さな木のタグ(28-2)1つをゲットして進む。なお、ここで計画書を投函する予定だったが、入域料支払いに注意が向いた為、結局投函しないまま高谷池H受付時に届けることに。
 *現地到着まで全く知らなかったが、帰宅後HPで確認すると試行期間を経て昨年から本格運用されているとのこと。なお、ヤマレコとの提携で事前決済制度もある由。昨年実績は7-10月で370万円収受。
 暫くはブナや灌木の明るい林の中のササ道を辿るが、途中で道を外れた所でガサガサと音がするのでヒョットしてと身構えるが、現れたのは地元のキノコ狩り夫婦であった。10分程で遊歩道分岐を過ぎ、久し振りなのでピッチ30分で刻んで2ピッチで黒沢橋に着くが、本間さんの行動予定表に対して10分遅れ程度とまずまず。ここまでは緩い傾斜路を1時間20分で標高300m稼いだことに。橋を渡って1ピッチ余で急登を交えた十二曲がりの難所にかかる。
 久し振りの山行で、自宅蟄居中のトレーニングも殆どできておらず、脚力と心肺機能の低下に不安を抱えつつの今回の計画参加で、ここが本日の正念場と思いつつ進み、角ごとにナンバー標示が目安になるが (ex.10/12)なかなか捗らない(28-3)。気息奄々3ピッチ半、オオシラビソの間の木の階段をこなし次第に傾斜も緩み疎らになった樹間を進む様になると、漸く富士見平分岐に達する2063m)。条件が良ければ黒姫山の上に富士山も望める場所の様だが、曇りがちの天気では望むべくもない。導標には直進(右側)は黒沢池H、左に折れて高谷池Hを経て火打山とある。但し、アルファベット表記にはHutteとあり「ü」の上のumlautが落ちている。ここで本間さんが高谷池H到着遅延の連絡を試みるが、スマホが繋がらず断念。本間さんがもう暫く休むとのことだったので、一人先行する。
 黒沢岳の左裾をトラバース気味にネマガリダケの中を進むが、道はぬかるんで歩きにくい。30分ほど進み高谷池方面が望める開けた地点で、残念ながら火打山は雲に隠れていたが、初めてヒュッテの大きな三角屋根が遠望できた(28-4)。岩と粘土のミックスで歩き難い大きな段差の登山路を進む。長時間の歩行で余力も乏しくなっていたが目的地が確認できたことで、気持ちを奮い立たせる。結局富士見平分岐から1時間を超えて、16時30分に高谷池Hに到着した。
 受付を済ませて寝床のある2階に案内されるが、コロナ対策で客数を半分程度に絞り、更に一人ずつ厚めのビニールシートを三方に巡らせて完全個室の趣であった。暫くして本間さんも到着したが、恒例のビールでの乾杯は少し時間を置いてからとのことで、夕食まで横になって待機する。18時頃に食事準備の声がかかり食堂に向かうと、食堂前のテーブルにご飯のジャー、ハヤシライス、カレーの鍋、ラッキョ等が置かれ、ビニール手袋を支給されて各自で皿に好きなだけ盛り込む。前の客に倣ってご飯を真ん中に置き、両側にハヤシとカレーを入れて2色にする。各自テーブルに運ぶが、時節柄やはりアルコールを嗜みながらの雰囲気ではなく、食事に専念する。食後2階の寝床に座って、本間さん持参の菊水辛口カップを2本ずつ開ける。途中でこの日のアルバイトの厳しさから眠気が勝って来る。トイレ*の後に20時前には早々に眠りにつく。 (歩数9.4千歩)
 *この山小屋でトイレは暖房便座のウオッシュレットであることに驚く。快適ではあるがやり過ぎ感も。
 なお、トイレ水洗化を進めた妙高市に対しては高谷池の景観保護の為に以前のバイオトイレに戻すこと等の意見が提出されている様だ。CNNの「日本のもっとも美しい場所36選」に選ばれた景観が失われようとしている。利便性向上による誘客動機と自然保護のコンフリクトがここにも。

9月28日-1
火打山・妙高山登山
笹ヶ峰ゲート
9月28日-2
妙高・火打山入域料タグ
(笹ヶ峰ゲート)
9月28日-3 
十二曲がりを抜けた本間さん
9月28日-4
高谷池ヒュッテ

9/29(水)晴れ時々曇り :火打山往復後黒沢池ヒュッテへ
 4時半過ぎに目が覚め、5時半過ぎに食事の声がかかり、ビニール手袋をはめてセルフでご飯をよそい鍋から中華丼の具をかける。外は次第に明るくなり、高曇りの天気であるが問題なさそう(29-1)。6時40分に火打山を目指して出発し、高谷池の右側に沿って敷設されている緩い登りの木道を進む。(29-2) 15分程度の小高い地点から池(池塘)周辺から天狗の庭にかけて、ツツジ科の低木類の紅葉(黄葉)も進みつつあり、散在するナナカマドの赤は目に鮮やかであった。少し登って奇妙な造形の火山性の岩が点在する辺りから下ると「天狗の庭」の大きな看板が設置され(29-4)、広々とした池塘の点在する庭の奥に火打山、影火打の稜線が連なり、風もない時間帯だったので池塘には「逆さ火打」(29-3)の姿がくっきりと写り込んでいた。木道が終り、ダケカンバ、シラビソなどが点在する岩の登路を進み(29-5)、出発から2ピッチでベンチのある雷鳥平に至った。(29-6)この手前で笹ケ峰から頂上への道標は〈7/9㎞〉を示していた。この辺りはライチョウ生息地の北限とのことで、運が良ければ遭遇することもあるとのこと。この先は所々で傾斜の急な木製階段を交えて灌木帯を進み、最後はハイマツ帯の急登を乗り切ると雷鳥平から50分弱で頂上に達した。
 妙高火山群の一角を占め2462mと標高的には最も高いが、噴火で形成された山ではなく基盤岩の隆起で生まれた山で、南面は全体に嫋やかな印象である。頂上には三等三角点や岩屑がこんもりと盛られ、残念ながら到着時にはガスがかかってきて期待した眺望には恵まれなかった。頂上には5∸6名が先着していた。少し遅れて上がって来た本間さん(29-7)と、ガスが晴れるのを期待して40分以上ネバルが一向に取れない。少し北側の糸魚川方面は薄く見えたがそれまでで日本海までは見通せず、已む無く下山にかかる。この時期花のシーズンは外れており、ある意味火打山の売りである花に出会うことは少なかった。偶にアザミ、ヤマハハコ(キク科)、リンドウを見かける程度で、この時期はやはり草木の紅葉がメインとなっている。
 火打山を背に黄色や赤に染まった灌木が迫る道を快適に進む。雷鳥平、天狗の庭のベンチでユックリ秋の草原を愛でて一息入れながら3ピッチ2時間で高谷池Hに戻った。ヒュッテ前のテーブルで昼食を摂り30分以上のんびりしてから12:40に腰を上げ、少し火打側に進んだ所が火打・笹ヶ峰・黒沢池の三叉路となっており、本間プランで1時間行程の黒沢池Hを目指した。火打山方面とは異なり濡れた土と火山岩がミックスする急な坂が現れ、暫く消耗しながらの登りが続いた。地図上では高谷池2100mから途中茶臼山2171mを越えて2000mの黒沢池Hに至る、造作もないコースの筈だったが、火打往復で少し疲労も感ずる身には簡単ではなかった。茶臼山を越えて下りにかかると眼下の草原に富士見平からヒュッテに延びる一筋の登山道が見渡せ、目的のヒュッテのユニークな形の屋根が見えた。また、その先には明日の妙高へのコースとなる大倉乗越を含む尾根に多くの立派なダケカンバが見えた。その上には妙高山が頭だけ覗かせていた。
 木道横のリンドウに慰められながら進んで14:05に六角形の球体の様な屋根を持つヒュッテ(29-7)に到着した。早速受付で宿泊手続き(9500円)をとり、ビールを購入(@500円)。ここで小生にとっては残念な事態が出来。この小屋は日本山岳会との提携で、会員カードを提示することによって10%引きになる筈だが、受付の従業員は「うちはやっていない」とけんもほろろの応対。従業員にきちんと趣旨が伝わっていない所為かとも思うが、もめても解決策は出てこないと思い、帰京後に山岳会本部に改めて問合せ*することにした。
 *帰宅後本部事務局宛にメールで上記の趣旨を伝え「会員優待サービス一覧」内容の確認を行ったが、担当の節田さん(明大OB、会報山編集人)から現地確認等行って正式に回答する旨のメール返信あり。
 その後、10/4付で黒沢池ヒュッテ・植木毅氏からお詫びの手紙と共に1千円のJCBギフトカードが送られてきた。節田さんにもその旨連絡して一件落着。
 小屋前のテーブルで黒沢池の草原を眺めながら無事の到着をビールで祝杯。その後小屋に入って3階の寝床に上がる、なおこの小屋はインナーシーツ等は不要とのことであった。3階の上の天井中央の天窓から外光が入る構造であり、寝床は吹き抜け風スペースに対して円形に展開され、コロナ対策で本来のスペース3人分を本間さんとシェアする形。全体がオープンスペースだが、この日の宿泊客は総勢8人程度で十分余裕がある状態。ペットボトルで持参の「甘露」500㎖を開けて本間さんと歓談するうちに、夕食の合図があり、一階食堂に降りる。メニューはポタージュスープ、皿に缶詰イワシ2匹、沢庵他とワカメ味噌汁。ご飯とポタージュはお代りありとのこと。なお、トイレは別棟に4-5個の個室が並んでおり、水洗式だがウォシュレットではない。   (15.8千歩)

9月29日-1
高谷池Hからの火打山
9月29日-2
来し方の先に妙高山
9月29日-3
天狗庭の逆さ火打
9月29日-4
火打山と本間さん
9月29日-5
秋色の火打山と本間さん
9月29日-6
天狗の庭と妙高山
9月29日-7
秋色の火打山と本間さん
9月29日-8
天狗の庭と妙高山

9/30(木)晴れ時々曇り :大倉乗越から妙高山を越えて妙高高原スカイケーブル駅へ
 5時前に目覚め、15分頃に朝食の声がかかる。テーブルには直径20㎝位のクレープ3枚が皿に盛られ、コンソメスープ、缶詰果物、ジャム、コーヒーがセットされていた。
 小生は寝起きでもあり、クレープ2枚を消化するのが精一杯だった。余り食の進まなかった本間さんは残ったクレープを行動食として携行していた。他パーティではクレープを食べられない(?)客が持参のご飯をレンチンして貰い、持参の卵をかけていたが、醬油を小屋番に依頼したところ、食卓用の容器でなく業務用の大きなボトルごと供されていた。小屋のメニューには醤油を使う料理はないので準備がないとの説明。
 30分で日当たりの良い大ながら倉乗越(2150m)に出る。200m位下には長助池が望めるが、そこに直接下る道はない。ここからは本日の目的地妙高山が大きく見えるが(30-1)、暫くは外輪山三田原山の腹を巻いて長助池分岐まで下り気味にトラバースしていく。途中には昨日は見かけなかったトリカブト(妙高トリカブト?)が数株咲いていた。本間プランでは乗越から分岐(2050m)まで30分とあるが、所々急な斜面を下る箇所6-7カ所にロープが張られ、ルートが崩れた部分などもあり、加えて加齢によるバランスの悪化等もあって意外に時間がかかり長助池分岐に着いたのは7:26と2倍の1時間近く要した。
 ここで本間さんは下に見える長助池経由で下山すると言うが、手持ちの地図に2019年台風被害の崩落個所あり✖マークがあると説明して思い止まる。ここで5-6パーティーをやり過ごし、中央火口丘の妙高山の登りにかかる(7:33)。本間プランでは1時間半のアルバイトの筈だが、火山岩と潅木混じりのキツイ急登に刻みを小さくして4ピッチかけ、10時過ぎに何とか頂上の一角北峰(2446m)、一等三角点にタッチする。分岐から2時間半要したことになる。頂上手前の岩屋には太い注連縄が張られていた。(最高点は南峰2454m)
 幸い遠望が利く状況で、白馬、五竜、鹿島槍などの後立山の峰々の連なり(30-2)、特に途中の鹿島槍が立派に見える。次第に雲が上がってきて視界が遮られるが、北側には日本海、佐渡島と思われる影を見る。暫くで本間さんも合流し、40分ほど写真を撮り(30-3,30-4)、また、若い女性の2人連れにスマホカメラのシャッターを頼まれるなどして、ユックリ昼食を摂り大休止。南峰へは比較的平坦な溶岩の道を辿り、途中に日本岩と称される大岩があり、岩に「日本岩、北峰へ100m、南峰へ400m」と表示されたプレートが張ってあるが日本岩の由来は不明(30-5)。
 南峰(妙高大神*9)に着くが、滞在10分ほどで下山にかかる。ルートは溶岩の固まった皴の多い岩場の急下降で始まり、先ほどの女性に続いて進むが程なく先行する姿が見えなくなり、彼我のスピードの違いに愕然とする。この差は岩場などを渡る際のバランス力の差から生じているのは自明の理。100m位下がった辺りから潅木も出てくるが、急な下りにはロープが設置され、さらに2270m前後にはロープ、クサリと連続する場所もあり、偶々下から上がってくる団体と出会うとその行き違いに時間を要する。我々は4-5人のパーティーに遭遇し、暫く岩場の途中のトラバース箇所で待機することになった。その下の岩場は太いクサリと岩にステップが自然に刻まれ下りの不安がなかった。その後は基本的に土の道が多く、ネマガリタケや濡れた粘土で滑りやすい所もあった。
 クサリ場から510mで風穴(8合目・2120m)、風穴から210mで光善寺池(2070m)、更に天狗堂(6合目‣1930m)と進み、燕温泉と赤倉の分岐となっており、南峰からほぼ3ピッチで天狗堂に達した。本間プランの行程1時間20分に1時間55分要した。その後は30分で林道に出て、大谷ヒュッテ(避難小屋)前を通過し、440m先に林道から登山道への入口があり、標識にはスカイケーブル駅まで1570m、1時間20分と記載されていた。林間のネマガリダケとスリッピーな土の道で、延々と下って行くが、途中で濡れて不安定な土に滑って大転倒し、道脇の潅木の中に倒れ込んだのは大いなる反省事項。それでも略1時間半でケーブル頂上駅に到着した。
 ゴンドラに乗車して山麓駅で精算(初日に観光案内所で貰ったパンフレットの割引券利用で1100円)し、そのままタクシーを呼んで貰って(二人共スマホの電池がゼロで役立たず)、妙高高原駅に帰着した。駅前の土産物店でビールを購入し、店内のイートインコーナーで乾杯。その後は長野経由で北陸新幹線を掴まえて19:50に東京駅到着。
 今回は昨年の針葉樹会有志による蓼科山山行以来の2000mを超す本格的な山行で、奥多摩周辺で低山歩きしかして来なかった身にはtoo muchかなとヘジテイトする気持ちもあったが、コロナ禍での緊急事態宣言も明ける直前だったので稍フライングではあるが妙高登山の魅力が勝った。プランニング、現地小屋予約、バス便、ケーブル運行確認等全て本間さんが骨を折ってくれたので、小生としては新幹線切符の手配とアルコール調達してザックに詰め、東京駅に出向き本間さんと合流するのみだった。計画通り遂行して無事に下山できたのは綿密な本間プランのお陰であり、感謝、感謝である。
 コロナ明け前、ウイークデイの山行、しかも台風襲来を控えての計画だったので、小屋、ルートとも登山客は少なめであり、快適に秋の火打・妙高山を楽しむことが出来た。やはり、今どきの山は若い女性軍が非常に元気に活躍しているのを再確認した。また、以前から感じていたことだが、加齢に伴う体力低下、バランス回復力の低下を改めて実感させられ、我が身の安全を守るためにはそろそろ岳界からの引退を真剣に検討する時が来たかと寂しく感じたことです。小生としては2006年8月越後駒ケ岳∸中ノ岳縦走でスタートした越後の山シリーズを今回で閉じることになる。この間佐薙、三井、川名、高橋信、西牟田、遠藤、上原、蛭川、佐藤力、三森、中村雅、齋藤正さんなど多くの会員にお世話になった。改めて感謝申し上げたい。
 以 上

9月30日-1
大倉乗越からの妙高山
9月30日-2
妙高頂上より白馬方面
9月30日-3
妙高北峰標柱と本間さん
9月30日-4
妙高北峰標柱と竹中
9月30日-5
妙高山南峰大岩の上

毛勝谷より毛勝山登頂
中村 雅明(昭和43年卒),投稿日 令和3年9月6日

 
 本山行は2018年6月半ばの「鹿島槍ヶ岳慰霊登山」(注1)と同様に藤原さんが企画し、中村が同行しました。
 藤原さんの山行の狙いは「1)北アルプスで唯一残った200名山、 2)最近尾根道も切り開かれたが、11時間もかかるので、昔風に谷の雪渓を詰める9時間が良い。長い雪渓の登下降は体力的にキツいがこれが最後のチャンスだろう」ということでした。私は恥ずかしながら毛勝山のことは「剱岳北方稜線にある毛勝三山の一つ」くらいしか知りませんでしたので、
①分県登山ガイド「富山県の山」山と渓谷社 
②日本登山体系『剣岳・黒部・立山』白水社を読んでにわか勉強をしました。
 ”昔風に谷の雪渓を詰めるコース”とは「片貝川東又谷-片貝山荘-阿部木谷-毛勝谷本谷-ボウサマ谷-北方稜線-毛勝山」です。文献②によると、田部重治が明治43年8月にこのコースから毛勝山へ登頂(注2)、冠松次郎が昭和3年10月のこのコースから毛勝山に登り、さらの中ノ谷から小黒部谷へぬけ鐘釣温泉へ下山している(注3)ことを知りました。
 近代登山黎明期のクラシックルートなので単に長い雪渓登り以上の意味があるコースでした。片貝山荘は片貝東又谷発電所の橋のそばの宿舎が魚津市に寄贈されたもので、登山者に開放されています。利用に当たっては魚津市の教育委員会に事前に申し込みます。ネットで所定の書式「利用申請書」、「登山計画書」を取得し、郵送すると「利用許可書」が届き宿泊が可能です。西北尾根コースを登る場合もここが拠点となります。
 雪渓登下降用装備としてピッケル、軽アイゼンを持参しました。文献②に「雪渓は登につれて急になるが、最も急な部分で30度ほどでアイゼンはなくともよいがつけたほうが楽という程度」と書かれているので6本爪の軽アイゼンとしました。  
(注1)『針葉樹会報』第142号「鹿島槍ヶ岳慰霊登山」中村雅明  
(注2)『山岳第五年四号(明治43年11月)』「越中毛勝山」     
 なお、この5年後の大正4年に南又谷支流の釜谷を登り、剣、黒部東沢、赤牛岳を経て大町へ出るという長駆を敢行しています。
(注3)冠松次郎『山渓記 第三巻』春秋社 「毛勝山・中ノ谷・小黒部谷」 

図1 片貝川東又谷 「文献②所収」

■ メンバー  
 藤原 朋信(昭和44年卒) 、中村 雅明
■ 行程(タイム)
 5月29日 魚津駅(14:50) =(魚津交通タクシー)= 片貝山荘(15:30)
 5月30日 片貝山荘(3:40) - (阿部木谷)― 2pで大明神沢出合(5:47~5:58) - (毛勝谷)- 4pで北方稜線(9:50~10:10)- 毛勝山(10:25~30)- 2pで大明神沢出合(11:45~12:00) - 2pで片貝山荘(14:20~15: 20)=(魚津交通タクシー)= 魚津駅前アパホテル(16:10)
 5月31日 アパホテル(6:30 )- 魚津駅(6:35~45)== 市振(7:22~30)– 登山口(7:50)- 展望広場(10:00~20)― 登山口(11:10~35)- 市振(11:51) == 糸魚川(12:10~47)== 東京(14:52)
 
■ 行動概要
●5月29日(土) 曇
 今日は片貝山荘入りなので東京駅を11:24発の北陸新幹線で出発しました。コロナ禍中なので土曜日ですが自由席はガラガラです。2時間で糸魚川、そこから第三セクター鉄道の「えちごトキめき鉄道」、「あいの風とやま鉄道」と乗り継いで魚津駅に14:45着。
 魚津駅で予約してあった魚津交通タクシーに乗り片貝山荘へ向かいました。翌日の足慣らしの為に、片貝第3か第4発電所で下車、1時間前後徒歩で片貝山荘入りの予定でしたが、運転者が話好きで下車地点を通過してしまい片貝山荘に40分、15:30に着きました。
 山荘は2回建て、宿舎であったので1階に4室、2階に4室と広々としています。すべて板床ですが2階の9畳の部屋が1番小綺麗で畳が2枚壁際に立てかけであったので、一人1畳敷いて寝ることにしました。翌朝が早いので、各自持参のささやかな夕食を済ませ19時前に就寝しました。
●5月30日(日) 晴れ  
 今日は毛勝山を往復した後、魚津駅前のホテルへ移動する予定なので3:00起床、朝食は摂らずに3:40に出発しました。天気は曇りですが、雨の心配はなさそうです。まだ暗いので1p目はライトを付けて歩きました。少し登った先の橋で東又谷本流と別れ、阿部木谷添いの林道を登りました。
 毛勝山西北尾根コースの登山口を確認しながら林道を歩くと林道が残雪でふさがれた処にきたので軽アイゼンを着けました。林道は次第に狭くなり最後の堰堤(1030m)で終点となり河原歩きとなりました。出発から1時間20分歩いた処で朝食を兼ねた小憩。正面奥に大明神山(2083m)が望めました。
 少し前から広がった青空をバックに残雪が残るどっしりとした山容は迫力があります。この先の大明神沢出合の先まで、沢の中は大明神沢で発生した大崩落の土石流が運んだ土砂と石、木が凍った雪渓の上に積み重なっています。
 これは昨日、タクシーの運転者から「山抜け」と聞いていました。かろうじて人の歩いた痕跡を辿って進みました。その歩行は2012年にホワートセールのバラシグリ氷河を歩いた時の悪戦苦闘を思い出させるものでした(注4)。
 出発から2時間、大明神沢出合(1234m)着。ここから左に折れて毛勝谷に入ります。毛勝谷は稜線近くまで雪渓が続いています。最初は緩い傾斜で快適な登りでしたが、徐々にきつくなり軽アイゼンでも時折滑りながら三の又(1480m)に7:17に着きました。三の又で3本の谷が合流しています。右手の谷(ナワタケ谷)か真ん中の谷か迷いましたが、右手の谷は上部が急なので、真ん中の谷を登りましたがこれが毛勝谷で正解でした。
 傾斜はさらに急になり、青空も消え稜線はガスの中で見えなくなりました。幸い雪渓は視界が悪くならなかったので、落石が気づきにくいことはありませんでした。2箇所クレバスを避けながら登りました。ボウサマ谷に入ると急傾斜で軽アイゼンでは足が流れてしまうので、1歩1歩2~3度靴先を蹴り込んで足場を作りながら登るので捗りません。次第に後続の藤原さんと離れましたが、ザックを下して休憩することができないのでそのまま先行しました。
 先ほどはるか下の雪渓に見えた山スキーヤーが追いつきました。下で藤原さんと会い、私が77歳であることを聞き「すごいですね」とほめてくれました。「もう少しで稜線ですよ」と言ってくれたので少し安心しましたが、その後も急傾斜が続きます。帰路の下りが心配になりました。藤原さんが近くにいれば相談して登りを打ち切り下山したかも知れません。右に折れて傾斜が緩くなり雪渓が切れたところからマイマツをこいで毛勝山と毛勝山南峰(2400m)の間のコルにバテバテになって9:50に着きました。
 3時間50分の雪渓登りでした。先行し休憩していた山スキーヤーが「晴れていれば後立山が素晴らしいですよ」と声をかけてくれましたが、残念ながら一面のガスで何も見えません。藤原さんを待って休んでいると後続の山スキーヤー1人が到着し、山スキーで毛勝山に向かいました。さらに地元山岳会の女性2人が到着しました。2人とも10本爪アイゼンです。やはり軽アイゼンは失敗でした。
 10本爪であればもう少し楽に登れたのにと悔やみました。20分程で藤原さんが到着し、北東300m先の毛勝山に向かいました。緩い登りの雪稜歩きなので晴れていれば周囲の山を眺めながらの楽しい登りだったでしょう。15分程で毛勝山(2415m)着。頂上近くの雪の台地で地元山岳会のパイティーが雪洞設営訓練をしていました。地元の人にとって毛勝山は足繁く通う山なのでしょう。
 頂上台地は雪が消え2等三角点、石仏、毛勝山頂上標識が露出していました。熟達者が少数訪れる北方稜線の落ち着いた名山にふさわしい雰囲気が気に入りました。晴れていれば360度の大展望、「目の前に毛勝三山の釜谷山、猫又山・その向こうには赤谷山・池の平山、そして劔岳、黒部川をはさんで後立山の山々・・・富山労山の山行報告(毛勝山山スキーより」を眺望することが出来なかったのは残念です。
 頂上で写真を撮った後、コルに戻りガスが晴れそうにないので下りにかかりました。 急斜面(40°位?)を登りのトレースを辿って下り始めましたが、雪があまり溶けてなく靴の踵が雪渓に蹴りこめません。下り始めて直ぐに中村が滑落しました。仰向けから腹這いになってピッケルストップの体勢を取りましたがピックが浅くて流されました。10m位滑るとスピードが増して「やばい」と思いました。懸命にピックを突き刺してかろうじてストップしました、そのまま滑落していたら途中に穴をあけているクレバスの隙間に激突して骨折かもしくは死亡していました。
 今でも「あのまま滑っていたら・・・・」と怖くなります。10本爪アイゼンであれば滑落が防げたかも知れません。軽アイゼンなので後ろ向きに足場を確保しながら慎重に下るべきでした。その後は臆病な位慎重に下りました。クレバス箇所を過ぎ、三の又まで降りて傾斜が緩みホッとしました。傾斜が緩くなっても雪渓が固いので2人とも何度も転びました。
 骨折はしなかったものの体中を打ったので帰宅後1週間ほど節々が痛みました。コルから1時間15分、11:45に大明神沢出合に着き大休止しました。この頃になってガスが晴れて青空が広がり陽もさして濡れた衣服も乾きました。往路を順調に戻り、片貝山荘に14:20着き、登山を終了しました。行動時間が11時間20分、当初想定した9時間を大幅に超過しました。
 70代半ばの高齢2人にとっては厳しい山行でした。山荘でコーヒーを飲み、掃除、荷物整理をしながら前日予約しておいたタクシーを待ち、魚津駅前のホテルに16時過ぎに入りました。  
(注4)『針葉樹会報』第126号「インド ヒマチャルプラデッシュ・ヒマヤラの旅」 佐藤久尚
 

▼写真クリックで大きく表示されます
写真1 5月30日 5:35
阿部木谷から大明神山を望む
写真2 5月30日 5:55
大明神沢出合から毛勝谷を望む
写真3 5月30日 6:35
三の又から毛勝谷(左)、ナワタケ谷(右)
写真4 5月30日 7:46
毛勝谷途中から雪渓を見下ろす(藤原)
写真5 5月30日 10:28
毛勝山頂(藤原、山頂標識)
写真6 5月30日 10:29
毛勝山頂(二等三角点、石仏)

●5月31日(月) 晴
 昨日のハードな雪渓登下降の疲れが残っていましたが、折角富山まで来たので帰りがけの一山として大鷲山(871m)を糸魚川手前の市振駅から往復することにしました。 大鷲山はからガイドブックには「ヒスイ海岸から登り、山の標高そのものを自分の足で上がる。・・・海を見下ろし、栂海新道の山々を眺めながら、気持ちのよい尾根を歩く、なかなかの山である」と書かれているのがこの山を選んだ理由です。
 但し、25000分の1の地図「親不知」には山名はなく、861.8地点の三角点の点名「大鷲谷」から名づけられています。市振駅から約1kmの境川河口の登山口から登り3時間、下り2時間。市振駅発7:30で13時前に余裕を持って戻れる目算でした。
 ところがかなり急な尾根道を真面目?に登っている積もりでしたが中間地点の展望広場まで2時間以上かかってしまいました。「どうもガイドブックの時間が過少だ、この先、頂上までの往復時間もかかりそう、 電車の時刻に間に合わない。」と意見一致し、この広場で大休止した後下山しました。 登山口まで50分。そこで小憩後、市振駅に向かいましたが駅に着いたら1分後の電車に乗れたので、糸魚川では予定より1本早い新幹線に乗れました。
 
■ 藤原さんのコメント(中村宛メール:5月31日より抜粋)
 中村さん 明るいうちに帰ると楽ですね! 後片付けを終えて風呂に入りゆっくりくつろげました。中村さんに引っ張って頂いたおかげで10年来計画倒れに終わっていた毛勝山に登れることが出来ました。70代半ばでの標高差1700ḿの雪渓上り下りは大変きつかったのですが、劔岳北方の山に初めて足を踏み入れて満足です。次は秋の紅葉時分に僧ヶ岳か、馬場島から赤谷山も良いかもしれませんね! 当面はコロナに打ち勝って先の計画に繋げたいものです。
 
■ 中村の感想(藤原宛返信:5月31日)
 藤原さん お疲れ様でした。私は16時前に帰宅できました。同じく夕方まで山の荷物をかたずけゆっくりビデオを見てくつろぎました。 今回、劔岳北方の山へ誘っていただき感謝します。この山域は全く未踏エリアだったので新鮮でした。遠いイメージでしたが新幹線が利用できるので楽ですね。大分理解度も上がりましたのでこの山域今後もお誘い下さい。  
 足腰に加えて、腕、上半身も痛みます。いつもは翌日以降に遅れて痛むのですが今回はすぐ痛みが出ています。毛勝山の雪渓登下降が並みではなかったのですね。頑張れて登れてよかった!!!

  

羊蹄に登る
中西 巌(昭和35年卒),投稿日 令和3年2月28日

 
 国道230号を、札幌から西へ、中山峠を越えて南に進むと、羊蹄山と尻別岳が親子のように浮かんでくる。初めて見た時の感激は大きかった。
 
 羊蹄山を以前は、後方羊蹄山と言っていたが、倶知安町の要望で国土地理院が名称を変更した。後方羊蹄は、日本書紀に斉明天皇5年5月17日阿倍比羅夫が郡領を置いた地として記載され、その地名はアイヌ語の後方羊蹄(山)シリベシと尻別川の呼び名から松浦武四郎が後志(シリベシ)と名づけた。今は小樽市から積丹、羊蹄山麓、黒松内に至るこの一帯後志(しりべし)地方と称する。
 
 国道230号は、明治の北海道開拓期の本願寺街道に沿って造られている。230号を、洞爺湖から中山峠に向かい留寿都あたりに差し掛かると、北西に、尻別岳(1107メートル)、その後方に羊蹄山(1898メートル)が聳えている。尻別岳は前方羊蹄の別称があり、前方、後方が山のたたずまいを表し良い。また、尻別岳を雄山、後方羊蹄山を雌山とも呼ぶ。
 
 羊蹄山への登り口は、真狩、倶知安(比羅夫)、喜茂別、京極の4口あり、その中で、真狩口の登山者が最も多い。どの口も、山麓の駐車場から、多少の右左のトラバース、ジグザグはあるが、ほとんど直行で1,600メートルの登りである。しかも、避難小屋はあるが、宿泊は原則できないので、それなりの覚悟と装備がいる。また、山中には水場は全くない。
 
真狩口
 
 真狩口には、「羊蹄山自然公園」があり、自然の家、設備の整ったキャンプサイトが用意されていて、水道、綺麗なトイレもある。芝生の美しい広場もある。
 
 公園の中央、真っ直ぐに延びた舗装道路を幾つかの池を右手に眺めながら登っていくと、登山口にたどり着く。登山口から更にまっすぐに伸びた道を進み右に回ったあたりから急な登りになり、ロープが用意してある。急登を登りきるとなだらかな登りとなる。トド松と広葉樹の混合林を進み,2合目半あたりから、左に回り込む道があり、南コブ展望台へ。この道はまったく整備されていなくて厳しい藪こぎとなる。沢のアップダウンを経て、トラバースを進むと展望台にたどり着く。展望台にはベンチもあり、素晴らしい展望が楽しめる。洞爺湖、有珠山、昭和新山そして、噴火湾もはるかに見える。
 振り返ると羊蹄山が目の前に大きく存在する。元の道にもどり、トドマツ林を進むと、傾斜が徐々に急となり、いつしか、ダケカンバ、ナナカマドなどの疎林にかわり、ジグザクを繰り返し更に上ると、ハイマツ、高山植物のお花畑に変わる。避難小屋への分岐を過ぎると、噴火口の縁につく。噴火口は直径700メートル、深さ200メートル、これは父釜、その北側、北西斜面に、側火山の母釜、子釜が連なる。
 
 避難小屋は近年立て替えられ、綺麗になった。管理は、東京から移住してきた、倶知安口に住む山好きの近藤さんが、町の依頼で行っている。火口を時計回りに回り、高山植物のお花畑をたどると、倶知安口からの登山道に、さらに進むと、京極口からの登山道に会う。この辺りから、岩道に変わりいつしか岩登りとなる。喜茂別口からの登山道に会うあたりの岩の上が最高峰である。
 
倶知安口
 
 倶知安口の登り口は、国道5号線沿いの人気のうどん店「宝月』のある角から入る。舗装道路を真っ直ぐ山に向かうと、やがて道は左に右に回り「半月湖」の駐車場につく。それを横目にさらに進むと、トイレのある駐車場に着く。駐車場から山道を登るとキャンプサイトがあり、その先に登山道がある。
 カラマツ林を抜けるとエゾ松、広葉樹の巨木の林に変わり、風穴を通り過ぎ、ごろごろ石の道は、いつしかジグザグとなり、シラカバ、ダケカンバまじりの山道へ、さらに急坂のジグザグを繰り返し、だんだん疎林となり、ハイマツ帯に変わり、高山植物帯となりお花畑が美しい。7合目辺りから展望が利くようになり、大石のあるのが8合目、避難小屋への分岐を過ぎ更に登るとお鉢に着く。このコースの、火山礫まじりの砂道の急な下りは、石車に乗りやすいので下りはご用心。
 
 いずれも、登り5時間、下り4時間、コースタイムより時間をかけての、ゆっくり登高を楽しんだ。登ったのは、7月~8月、近くの、ニセコに滞在中、快晴の天気予報を確かめて、展望を楽しみながらの山登りであった。
 
羊蹄山の周りを行く
 
 羊蹄山は蝦夷富士の名にふさわしく優雅なスタイル、周囲どこから見ても同じスタイル、各地に「何とか富士」が沢山あるが、この山が秀逸、日本一である。基底の直径は12キロ富士山の三分の一、高さは半分強、その体積を計算してみると十八分の一となる。羊蹄山は、活火山である。3000年前、1000年に噴火した。
 気象庁はこの山を、今も、活火山に分類している。この山の300メートル台に寄生火山がたくさんある。北側の富士見山はその一つ、山の大きさに比べ、火口が大きい。火山礫や火山灰が臼状に堆積している。倶知安口の「半月湖」も寄生火山の火口に雨水がたまったもの、流入する川、流出する川はない。溶岩が噴き出したこぶ状の小山もいくつかある。
 
 スキーの父、テオドール・フォン・レルヒは、スキーで、登山を試み、数回の試行の後、アイゼンで成功、これを記念して、レルヒ記念公園が、国道5号線の尻別川、倶知安橋北詰にある。
 
 周囲を国道、道道が取り巻いており、ドライブするのも楽しい、留寿都の道の駅のピザは逸品である。この駅には、運が良ければ、「ゲイシャコーヒー」に出会える。「ゲイシャ」は、エチオピアのある地方の地名、ここのコーヒーの木をパナマに移植し、生産に成功したもので、稀少で、香り高く美味なことから、高価である。東京では一杯、7000円ほど、それを、700円で飲ませてくれる。両者がまったく同じかどうかは不明だが、華やかな香りは味わえる。
 
 東京、大阪にも鳴り響くレストラン・マッカリーナが真狩にある。真狩の百合公園には世界各国の百合が集めてあり、長い間楽しめる。道道66号沿いには、フラワーパークがあり、ここにも百合の公園が、展望台もあり、百合の花畑の向こうに羊蹄山がすっくと、絵になり、写真になる、沢山の人がスマホを手にして写真を楽しんでいる。
 道沿いにも百合が連なり、ドライブしていても楽しい。真狩は、百合の園、「細川たかし」、「ジャガイモ」だけではない。湧水を集めて流れる清流真狩川には、絵のように美しい公園があり、人々はますやいわな釣りを楽しんでいる。広い道には、花々がいっぱい、いい村である。
 
羊蹄の名水
 
 周りには湧水口が沢山ある。羊蹄山に降った雨は、山中に浸み込み30数年を経て、山麓に盛大に噴き出している。京極町の吹き出し公園は特に有名、一日8万トン、30万人の生活用水に匹敵する水量である。ここには、道の駅「名水の里」がある。売店、レストランも揃っていて、ツアーバスがひっきりなしにやって来る。
 
 真狩口の自然公園の入り口の「羊蹄青少年の森PA」にも、大量の水が噴き出している。多くの人が、ポリタンクを用意して水汲みに来る。一日数百人とか、水栓を幾つも設けてあるので汲みやすい。車も止められるので、運びやすい。その横に、人気の豆腐店「真狩豆腐工房湧水の里」があり、賑わっている。羊蹄に登り、帰りにここで豆腐買うのが定番コースのよう。
 

尻別岳の登行
 
 尻別岳に登るには、国道230号線を、留寿都の道の駅から洞爺湖方面へ、次の信号を右折、道道66号へ、そして又すぐ右折、道道257号を5キロほど走り更に右折、数キロ走ると、山麓の駐車場につく。この辺りは、農林省種苗管理センター場内で、タイヤの消毒が必要、何か所か設けてある消毒プールを、徐行しながら通り抜けていく。
 山頂へは、疎林を、さらにダケカンバの尾根道を真っ直ぐ登っていく。頂上からの展望は、素晴らしい。北西側には、羊蹄山の雄姿が、西南側には、洞爺湖、有珠山、その向こうに噴火湾、北に転ずると、喜茂別、無意根の山々が、東には漁岳とその連山、その先に少し頭を出しているのは恵庭岳か。
 
大リゾート留寿都、とその開拓期、野口雨情の赤い靴の女の子・母と子
 
 尻別岳山麓の留寿都は今、リゾートとして大発展、大ホテル、遊園地、スキー場、ゴルフ場が幾つもあり通年大賑わい。気貫別山(994メートル)の北面大斜面には長大なスキーリフトが2本、橇負山には、頂上へのゴンドラ、短めのスキーリフトが数本ある。
 このホテル、遊園地、スキー場、ゴルフ場のある一帯「泉川」の地は、100年前の1904年(明治37年)より2年間ほど、「平民社農場」開拓団が原生林の開発を目指して失敗に終わったところである。
 
 「平民社農場」は、幸徳秋水らの掲げる社会主義団体「平民社」のメンバーが「北海道国有未開拓地処分法」の適用を受けて、原生林12ヘクタールの払い下げを受け、地主のいない自主的農場の開発を目指した。しかし、未開の地開拓の苦しさに、内部分裂もあり、脱落者が出て、さらに火災もあり、1906年解散した。法では、5年以内に開発を成功しなければ返還することとなっていた。
 
 そのメンバーに、「赤い靴の女の子」の母親「岩崎かよ」がいた。「岩崎かよ」は、静岡の生まれ、未婚の母となり、「娘きみ」を連れて、故郷を出て、函館へ。そこで鈴木志郎と知り合い結婚、二人で平民社農場に参加することにしたが、3歳児を連れての開拓団参加は無理なことから、宣教師にこの子を託した。宣教師に帰国命令が出た時、この子は結核を患っていたので連れて行くのは無理なことから、麻布の鳥居坂教会の『永坂孤女院』に託し、彼女はここで9歳で亡くなっている。
 「かよ夫婦」は、札幌に出て、志郎は札幌の新聞社に就職、そこで野口雨情と知り合い、夫婦は子供が宣教師に連れられてアメリカに渡り、そこで暮らしているものと思い込み、一聯の話をした。その話をもとに、雨情は「赤い靴はいてた女の子」の詩をつくり、本居長世が作曲した。志郎は、小樽新聞時代、石川啄木と机を並べていたようである。
 
村岡花子と赤い靴の女の子、日本各地の像
 
 NHK の連続ドラマ「花子とアン」のワンシーンに、東洋英和女学院の寄宿舎で村岡花子と同室の上級生が、イギリスの母親からの手紙を抱きしめる場面がある。父親は外交官との設定であるので、片山広子をイメージしているようである。片山広子は同学院の出身、アイルランド文学者として、又歌人として著名である。多くのアイルランド文学を翻訳紹介した。
 村岡花子は、「東洋と西洋の文化が混然と融合した内面を持つ人明治ならでは生まれない人」と評し、菊池寛、上田敏は、その学識、翻訳に感服している。芥川龍之介は、「才力の上にも格闘のできる女性」とし、憧れの女性であった。歌人としては、佐々木信綱に師事、歌集翡翠は評価が高い。同年生まれの与謝野晶子と比較されるが、山手(麻生)の生まれと,堺の商家の生まれが作風に出ている。
 
 村岡花子は、特待生として入学していて、その義務の一つとして、同じ系列の鳥居坂教会の永坂弧女院での子供たちへの読み聞かせがあった。その中に「きみ」もいた。不幸な人生を、キリスト教の博愛が少しはカバーしたかもしれない。花子が帝大生と近在の子供たちを集めて読書会を開いている場面がある。
 そして二人のロマンスとその破局を挿話として飾っていた。これは、弧女院での花子の読み聞かせ会、をモディファイしてストリーに仕上げ花を添えていたのだろう。
 
 留寿都村役場の横、赤い靴公園には、「きみちゃんの像」、道の駅のある「ルスツふるさと公園」には、開拓の母として「岩崎かよ」の像がある(1991年)。「かよちゃん」とは それ程深い縁とは思えないが。
 
 そして少しの縁をもとに全国各地に「赤い靴の女の子」の像が造立されている。
 
 麻布10番パテオ1番(1989年)
 横浜山下公園(1979)横浜駅(1989年)
 函館港の見える場所、末広町(2009年)
 小樽(2009年)義父鈴木志郎の勤務先
 静岡日本平(母子像)(1986年)
 青森鰺ヶ沢(2010年) 義父鈴木志郎の出身地
 
 人気の「赤い靴」童謡にあやかり、観光客を増やそうとのことであるが、義父の出身地までとは。函館は、到着の地、麻布は終焉の地、横浜は歌の中の地までなら納得。
 
羊蹄山を眺める
 
 秀麗な羊蹄山を眺める、ビユーポイントから、美術館から、記念館から、ニセコの中腹から羊諦山は独立峰で、何処から眺めても素晴らしいが、方々にビユーポイントが設けてある。国道5号線沿いに数か所、道道66号線沿いに数か所、国道276線沿いに数か所。ニセコ町内数か所、周囲各町にもあるので、無数にある。
 
 倶知安の小川原脩記念美術館のロビーからの羊蹄山の眺めは素晴らしい。高台の広い芝生の敷地、その向こうの隣地との間は、土手を築き、その上に羊蹄山が浮かんで見えるように工夫してある。このロビーから館長心意気のコーヒーを楽しむのは至福の一時である。また、ニセコの有島記念館の、広い図書室、その窓越しの羊蹄山と有島作品に出てくる風景を、名店、高野珈琲のコーヒーをゆっくり楽しむのもまたいい。旧有島農場、宮山千本桜など。
 
 ニセコサマーゴンドラの終点、アンヌプリの中腹820メートルには広い台地があり大自然を満喫できる。そこに置いてある籐椅子に座り、目の前に展開する大風景の羊蹄山、そして中山峠、喜茂別山、無為根山、ホロホロ山、有珠山、昆布岳と視野を広げれば枚挙にいとまない。遠く有珠山、洞爺湖の中島とおぼしき尖った山も見える。ここには冬季スキーシーズン用の大きな建物がある。
 その一角に、近辺の山々の博物の展示があり、学芸員が常駐、山のこと、動物のこと、植物のこと、花のこと、キノコのことなど、なんでも教えてくれる。ここから、アンヌプリ頂上への登山道がある、2時間ほど。風光明媚な鏡沼へも通じている。
 
 ニセコ町の道の駅は、「ニセコビユープラザ」、ここには、周辺各町の農産物が集まってくる。広大な駐車場はいつ行っても車でいっぱい、ガードマン数人が整理に大わらわ、レストラン、パン屋、うどん屋、ラーメン屋など食べ物屋が軒を連ねる。羊蹄山の圧倒的風景の中での買い物、食事である。その周辺にも、羊蹄をご馳走の一部にした自然の中のレストランがある。
 
尻別川とニセコ(ニセコアンヌプリの麓全体)の発展その1
 
 羊蹄山を、尻別川とその支流真狩川がぐるりと取り巻いている。尻別川は、札幌、千歳、伊達の三市の境、フレ岳(1046m)に発し、延長126キロの北海道第4位の一級河川、清流で知られ、平成11年から18年まで7回清流日本一に選ばれた。
 
 尻別川は、ラフティングで有名で、初めて目を付けたのは、オーストラリア人、20年以上前のこと。NACニセコとして知られ、今では、毎日トラックが十数台のゴムボートを積んで川の出発点へ向かっている。
 
 ニセコ、特に比羅夫付近の今日の発展は、オーストラリア人がこの川に目を付け、NAC(NISEKO ADVENTURE CENTRE)を起こしてから、多くのオーストラリア人が来るようになり、ニセコのパウダースノウ、羊蹄山の大展望に目を付け、世界でも唯一無二の地とみて、昭和60年頃のスキーブームの去った後、日本人が持て余していた旅館、ペンション、ロッジを買収したことから始まった。
 噂では、相場の10倍近い値付けがあり借金返済しても余りあると人々は応じたよう。今は、コンドミニアム(レジデンツ)、ホテルが林立、地価はさらに高騰した。これらのオーナーは、殆ど外国人。オーストラリア人が多いが、最近は、香港系、マレーシア系、台湾系も増えてきた。コンドミニアム(レジデンツ)の各部屋にはそれぞれ、オーナーがいて、キッチン、リビング、2~4のバスタブ、シャワー付きのベッドルームがあり、家具、レンジなどの調理器具等一切が備えてある。
 ニセコでは、ホテルとしての機能を備えたコンドミニアム(レジデンツ)を事業者が建設、それを投資家(オーナー)に売却して資金を回収、オーナーは、自らが使わないときは、管理会社に委託して収益を得ると言う世界で数少ないビジネスモデルが成立している。管理会社のホテル運営は、充実したサービスを宿泊者(利用者)に提供している。管理会社には、大手として、HTM、Vacation Nisekoなどがあり、オーナーは、オーストラリア人である。
 
 HTMの管理する、コンドミニアムホテルの「スカイニセコ」は、127の部屋(35平方のスタジオルームから250平方のペントハウスまで、1ベッドルーム付き、2ベッドルーム付き、3ベッドルーム付きと揃っている)、レストラン、バー、コーヒーショップ、温泉、フィットネスセンター、ショップなどの商業施設も有し、ラグジュアリーな仕様、長期滞在してもなに一つ不自由しない。比羅夫坂の最上部にあり、このホテルの羊蹄ビユーの部屋からの展望は素晴らしい。
 
ニセコの発展その2
 
 グランヒラフは、世界有数のスキーリゾートとなった。長、短交えて、十数基のゴンドラ、リフトが、スキーヤーを、粉雪の世界へ運んでくれる。世界のスキー場の中でニセコの粉雪は、世界有数、この粉雪を求めて世界中からスキーヤーがやってくる。
 通年居住の外国人も多い。ホテルもレストランもショップも外国仕様、日本の中の外国、それが今のニセコである。冬のニセコは、外国人ばかり。ニセコで人気の高い居酒屋「ばんばん」のオーナー曰く、「冬のニセコは、完全にアウエー、日本人は見かけない。」
 
 私は、昭和30年代の後半であったか何度も行ったことがある。その頃は、スキーリフトが1基開通したばかり、820メートルの中腹まで、そこから頂上までスキーで登った思い出がある。今よりもっとサラサラの雪、膝まで埋まり、雪煙を上げながら滑り降りた。痛快だった。その頃の宿は今の比羅夫坂の突き当りにあった山田温泉であった。
 倶知安への最初の入植者山田邦吉が、アンヌプリの東麓に温泉の湧出を発見、温泉旅館を始めた。今の比羅夫一帯は、山田邦吉の所有であったのか、地名は「山田」である。山田温泉は、火災に遭って改築、昭和50年代の後半訪れた時は、元の場所より下方に移り、大きなこげ茶色の3階建ての建物となっていた。
 真っ黄色の石膏硫黄泉で如何にも効能がありそうであった。高台の旅館の部屋の窓からは、尻別川の谷を隔てて蝦夷富士後方羊蹄山が雄大に聳えて、目の下には、旅館、ペンション、ロッジが沢山立ち並んでいた。
 その山田温泉は、比羅夫温泉と名を変え、火災に見舞われ、今は取り壊されてない。比羅夫坂の最上部突き当りの、そのあった所は、空地になっている。その一角から、硫黄の匂いの温泉が流れ出ていた。
 
ニセコの発展その3
 
 比羅夫地区では、一昨年「スカイニセコ」、その前年「綾ニセコ」がオープン、さらに一昨年から昨年にかけて、「ザ・メープル・ニセコ」、「山翠ニセコ」が完工。ゴンドラ坂を下ったところには、シンガポール系のコンドミニアム、ホテル、レストラン、ショップの複合施設「雪ニセコ」がことしの末にオープンする。
 190戸のコンドミニアム、そのペントハウスは8億円で海外富裕層に売れたとの事、コロナ下でもここニセコでは、不動産は活況のよう。
 
 樺山地区に、新日本海フェリーが、戸別レジデンツ方式のラグジュアリーホテル「ニセコ樺山の里楽水山」を昨年12月9日オープンさせた。それぞれの部屋から羊蹄山の雄姿が望める。各部屋にはかけ流しの温泉がついている。樺山地区の森は、切られて、開発の進んでいるところが、所々ある。
 
 ゴンドラ坂が道道343号と交わるあたりには、2軒の大地主がいて、土地の取り扱いが対照的、片方は土地を売り、自らもホテル経営をしている。白雲荘がそれで、昨年大きなホテル第2白雲荘を竣工させた。ゴンドラ坂下のシンガポール系の複合施設「雪ニセコ」の土地は、この人の所有地であった。
 他方の人は、土地の売却はしないとのことで、トヨタレンタカー、ローソン、建設会社などに貸し出している。この両家は犬猿の仲、われわれの耳にも聞こえてくる。
 
ニセコの東と西、東山地区、花園地区、モイワ地区の発展
 
 ニセコアンヌプリの南面、東山地区は、西武プリンスの開発地であった。大スキー場、大ホテル、ゴルフ場2コースと大レジャー施設であったが、それらはいつの間にか、マレーシア系の所有に変わり、ホテルはプリンスからヒルトンになった。マレーシア系に変わってから、飲食店街、アクティビティなどが付け加えられ充実、賑わっている。
 
 この東山に昨年末の12月5日に、リッツカールトン・リザーブがオープンした。世界に三つ目の高級版とか。ここでは、三井不動産が、コンドミニアム「ヒノデヒルズホテルレジデンツ」を売り出し中。こちらは日本人の買い手が多いよう。売れ行きも好調のよう。
 
 ニセコアンヌプリの北東面は花園地区で、東急リゾートがこの辺り一帯を開発、スキー場、ゴルフ場、別荘地がある。この辺り一帯も香港系に変わったよう、1昨年パークハイアットニセコがこの花園地区にオープンした。これも高級版。ホテル棟、レジデンス棟のある巨大施設で、部屋からの、羊蹄の眺めは秀逸、プール、温泉もいい、札幌の、予約の取れないレストラン・モリエール・モンターニュはこのホテルに入店していて、ここなら直ぐに予約が取れると、わざわざ、札幌から来る人もいるとか。
 一昨年10月のG20観光サミットはこのホテルで開催された。このホテルの近くに、香港系、シンガポール系が夫々、リゾート開発を始めている。香港系は既に説明会を済ませていて、数年たてば、大リゾートが加わる。ここの別荘は、一棟5億円以上とか、ここを買える人は、そうはいない。海外の富裕層か。
 
 ニセコアンヌプリの西側、モイワ地区に、ホテル・アマンニセコが2023年にオープンする。国内4つ目の施設で、約200万平方メートルの広大な敷地にホテル、レジデンツ、ウエルネス施設が設けられるよう。レジデンツは戸建方式で売り出されるとか。
 噂では、一戸30億円とか、日本人に買える人がいるのだろうか。こちらも海外の富裕層か。高速道路が間も倶知安まで延伸される。新幹線の工事も着々と進んでいる。交通の便が一層進む。ここはまだまだ発展しそうである。
 
 近年、羊蹄山周辺には、環境配慮型の企業の進出が始まった。世界の紅茶を扱う「ルピシア」が、その本社、工場共にニセコ羊蹄地区に移転してきた。比羅夫の樺山地区に「ルピシア」のレストランがあり、盛況である。羊蹄山麓は広大で、他にも計画があるとの事。
 
 羊蹄山・尻別岳を中心として、山登り、その周辺の風景と風物、ニセコの発展への道のりと現状とそれぞれのささやかな歴史を書いてみた。ニセコ滞在中の見聞も付け加えてみた。
記憶をもとに書いた部分もあるので、間違いがあればご容赦を。ニセコとは長い付き合い、最近の変わりように驚くとともに、開発が進み、滞在の楽しみが一層加わってきた。
 

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ジャガイモの花と羊蹄山(倶知安町寒別)8月1日

真狩村 世界の百合公園 8月1日

甜菜とトウモロコシ畑の向こうに見える羊蹄と尻別岳(倶知安町琴平)8月19日

真狩村 フラワーパークの黄色い百合の花壇 8月21日

 天狗池・槍ヶ岳 ―紅葉と追悼山行 ―
中村 雅明(昭和43年卒),投稿日 令和3年1月17日

 
 Withコロナの山、第3弾として紅葉の天狗池を訪れ、槍ヶ岳を登りました。この山行の原点は2018年9月30日~10月3日に予定した「穂高・紅葉と追悼山行」です。長年温めてきた涸沢の紅葉見物、山岳部1年の涸沢合宿で始めて岩稜歩きをした北穂東稜、ダイヤモンドコース縦走前に1泊した思い出深い北穂池の再訪、村尾・柿原両大先輩と1年後輩の宮武君と4人で幕営した天狗池の再訪(注1)と欲張った山行計画でした。
 メンバーは藤原さんと二人です。しかし山行直前に襲来した台風の為、翌年に延期しました。翌年、同じ計画で準備を進めましたが、藤原さんが眼の手術後のリハビリの為に岩稜歩きを控えることになり、今年に延期しました。
 今年はコロナ禍の渦中なので、バリエーション・コースの北穂東稜&北穂池はやめて、(1)涸沢ヒュッテ~奥穂高~前穂高経由で上高地へ下山、(2)槍沢ロッジ~槍ヶ岳~南岳~天狗池~上高地へ下山の2案のどちらかとしました。
 1案は涸沢小屋、涸沢ヒュッテとも予約できなかったので、槍沢ロッジが予約できた(2)としました。また、槍ヶ岳の帰路立ち寄る積もりだった天狗池は時間的に厳しいので槍沢ロッジに連泊し、上高地に早朝着く中村はその日に天狗池を往復し、午後槍沢ロッジに着く藤原さんは翌日の槍ヶ岳の帰路立ち寄ることにしました。
 槍ヶ岳は55年振り、天狗池は52年振りです。さらに二人の同行山行100回目記念として槍ヶ岳に登る楽しみが増えました。
 9月末からずっと好天が続き、そろそろ崩れるのではと心配しましたが、下山日まで好天が続く天気予報に意を強くし山に向かいました。
 (注1)『針葉樹会報』第24号「村尾さんの杖と天狗平」柿原謙一
        『針葉樹会報』第143号【私の思い出の一葉】中村雅明
■ メンバー
 藤原 朋信(昭和44年卒) 、中村 雅明

■ 行程(タイム)

10月5日 新宿バスタ(22:25) アルピコ交通 さわやか信州号
10月6日 上高地(5:15~45) - 明神(6:25~30) - 徳沢(7:10~15)- 横尾(8:10~30) - 二の俣(9:26~30) - 槍沢ロッジ(9:55~10:35)― ババ平(11:05~20)- 大曲(11:40~45)-天狗原分岐(12:35~40)― 天狗池(13:15~45)- 槍沢ロッジ(15:22)
10月7日 槍沢ロッジ(5:40) - 水俣乗越分岐(6:35~45)― 2pで水俣乗越(7:45~55) – 第一展望台(8:04~10)- 第二展望台(8:45~55)― 第三展望台(9:32~45)- ヒュッテ大槍手前(10:10~15)-槍の肩(10:40~45)- 槍ヶ岳(11:05~30)- 槍の肩(11:55~12:15)- 2pで天狗原分岐(13:40~50)- 水俣乗越分岐先(14:25~30)- 槍沢ロッジ(15:03)
10月8日 槍沢ロッジ(6:00)- 横尾(7:06~09)- 徳沢(7:55~8:05)- 明神(8:35kara~38)上高地バス停(9:20~30)= 松本(11:30)

■ 行動概要
●10月6日(火) 晴れ
 前夜22:25バスタ新宿を出発した夜行バス(さわやか信州号:アルピコ交通)が5:15上高地バスターミナルに着きました。4列シートのバスは満席でした。密を避ける3列シートのバスは早く売り切れて予約できませんでした。勿論、全員マスクは着用していますが、座席を間引かないのは如何なものかと思いました。
 バスターミナルには紅葉を求める登山者が溢れています。軽い朝食後、5:45出発。明神、徳沢で休憩、3pで横尾に8:10に着きました。後続パーティーからかなり抜かれましたがコースタームより45分早いペースで歩きました。追加の朝食後、槍沢ロッジに向かいました。殆どの登山者は横尾から涸沢に向かうので1人でした。二の俣で小憩、2pで槍沢ロッジ(1820m)に9:55に着きました。前夜松本の娘さんの処に泊まり、新島々からのバスで上高地に10:35着、槍沢ロッジに13:30頃に着く予定の藤原さんと2人分受付を済ました。1泊2食で10500円です。槍沢ロッジはコロナ禍のため完全予約制、150人の定員を約半数程度の営業です。本日は満員でした。寝床は4人スペースに2人で同宿者との距離も十分に離れます。
 荷物を寝床に収納し、身の回り品のみ持って10:35天狗池に向かいました。この頃から雲がはれて絶好の秋晴れになりました。ババ平(槍沢キャンプ地)、水俣乗越分岐と登っていくにつれて紅葉が見頃でした。ウラジロナナカマドの真赤、ダケカンバの黄色が青空をバックに映えます。大曲りを過ぎると視界が開け傾斜がきつくなり息を切らしました。夜行の疲れ、槍沢ロッジまでのハイペースが堪えました。12:35天狗原分岐(2348m)着。槍沢ロッジから2時間半、ほぼコースタイムです。分岐から大きく左に回り込み、谷の岩屑の斜面を横切り高度を上げていきます。分岐から40分で氷河公園の中心の天狗池(2524m)に着きました。
 池の周りには5~6人の登山者が写真を撮っています。真っ青な空をバックにした槍ヶ岳、風もなく静かな池面にくっきり映る逆さ槍、池周辺の紅葉を入れた良い写真が撮れました。52年振りの再訪がこれ以上ない天気に恵まれたことを喜び、当時ご一緒した村尾、柿原両先輩、1年後輩の宮武君を偲びました。柿原先輩はその時の紀行文で「秋まさにたけなわの天狗平に着く。槍ヶ岳が目の前にそそりたっていた。常念の姿にみとれる。若い御夫婦が二組、池の向うに天幕を張った」と書かれています。景色は当時のままですが、現在、天狗平は幕営禁止です。あの山行の思い出が天狗池畔での幕営と深く結びついています。旧き良き時代でした。30分天狗池に滞在し心ゆくまで写真を撮り、暖かい日を浴びながらのんびり昼食を摂り至福の一時を過ごしました。
 予定では、横尾尾根の天狗のコルまで足を延ばし北穂池への下降道を偵察する積もりでしたが、時間的に厳しいので天狗池を後にしました。水俣乗越分岐の少し下で明日の偵察&私の出迎えに登ってきた藤原さんと会いました。一緒に下り、槍沢ロッジに15:22に着きました。槍沢ロッジは快適でした。食堂は広くテーブル間隔も空き、利用人数を制限している(受付時に時間割り振り)ので、同席者との距離も十分ありました。食事のお代わりもスタッフが運びます。前述の寝床スペースも含め、コロナ感染防止の対策を十分に行っていました。        

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10月6日  13:25
天狗池からの槍ヶ岳・逆さ槍
 10月6日  13:54
天狗原からの槍ヶ岳

●10月7日(水) 晴れ
 今日は槍ヶ岳を往復です。4:30起床、5:00朝食、5:40槍沢ロッジ出発。昨日下見をした水俣乗越分岐(2094m)に約1時間で到着しました。ここから先は二人共初めてです。
 小憩後前日訪れた天狗平への道を眺めながら急な登りを1時間10分、7:45水俣乗越(2480m)着。ここから槍ヶ岳山荘まで東鎌尾根を登ります。第三展望台(2690m)までは梯子、鎖、階段が連続します。高度差200mの気が抜けない急登に二人とも息が切れました。
 8:45着、2時間で登りましたが、二人共異口同音に”心肺機能衰えたね”。第三展望台で東鎌尾根の核心部は終わりましたが、槍ヶ岳山荘まではさらに1時間、槍の穂先の裾の岩稜の道をゆっくり登って10:40槍ヶ岳山荘に着きました。夏の最盛期には順番待ちになる頂上への道もスムースに登って11:05槍の頂上に着きました。
 1965年8月に黒四~横尾の夏山合宿縦走で登って以来、55年振りの再訪です。また、藤原さんとの同行100回記念山行を槍の頂上で祝えて感慨深いものがありました。秋晴れに恵まれて360度の大展望です。穂高連峰、劔岳までのダイヤモンドコース、後立山連峰の山々と稜線を目で辿り、殆どの山に登った幸せを噛みしめ、一緒に登った先輩・岳友に思いを馳せました。約30分ゆっくり滞在し思い残すことなく11:30頂上を後にしました。
 槍沢ロッジまでは槍沢を下りました。途中の天狗原分岐で天狗池を往復する藤原さんと別れ、15:00槍沢ロッジに戻りました。本日も二人分の受付を済ませました。連泊なので500円割引がありました。良かったのは風呂に入ったことです。
 山小屋としては広い浴室に大きな湯舟が二つあり、15:00~17:00まで四人入れ替えで入れます。手足が全部伸ばせる湯舟で疲れがとれました。風呂に浸かっている時に本日入山した登山者が明日は雨予想だと話しているのを聞きました。来る前の予報では3日間好天予想でしたが天気の崩れが早かったようです。2日間好天に恵まれたこと感謝しました。夕食後まもなく雨が降り始めました。

10月7日  8:07
第一展望台からの
東鎌尾根・槍ヶ岳
10月7日  8:33
第一展望台先の
三段梯子下り(藤原)
10月7日  11:08
槍ヶ岳山頂

●10月8日(木) 雨
 昨夕から振り始めた雨が明け方も強く降っているので、横尾から本谷橋経由で横尾本谷左俣を遡り北穂池までのルートを偵察することはあきらめ、9時30分のバスで下山することにしました。5時から朝食、6時に槍沢ロッジを出発しました。1p約1時間で横尾着。雨が止む気配はありません。徳沢、明神まで2p1時間半、次々に先行者を抜かしてひたすら急ぎました。槍沢ロッジから明神までコースタイム4時間半のところを2時間半のハイペースでした。
 ここから上高地バスターミナルまで1時間、バス時刻までギリギリです。藤原さんが先行し、中村が後に続きました。中村がバスターミナルに着いたのは発車10分前、藤原さんが切符を買って待っていました。天気が悪い為か早く下山する人が多く満席でした。先行した藤原さんのお陰で予定したバスに乗れました。新島々で電車に乗り換え松本着11時30分。直ぐの特急に乗ったので帰宅したのが15時。極めて順調に下山出来ました。
 今山行は最終日は雨でしたが、2日間絶好の好天に恵まれて、天狗池、槍ヶ岳を再訪し紅葉を楽しみ先輩・後輩の追悼をすることができました。これにて槍ヶ岳周辺は思い残すことはありませんが、穂高周辺では我が青春の思い出の北穂池再訪が残っています。コロナ禍が終息したら、横尾本谷・左俣~北穂池~北穂高小屋(泊)~奥穂高~前穂高~上高地を歩きたいと思います。
 
■藤原さんのコメント(中村宛メールより抜粋)
 中村さん コロナの感染爆発でステイホームをよぎなくされている冴えない朝に槍ヶ岳記録と写真のプレゼントで気も晴れます! 
 今思えば、沈静期とはいえコロナの渦中で良くぞ北アルプスまで出かけられたものです。これも中村さんが100回記念で北アルプスに拘ってくれたおかげです。
 わが山行の中でも会心の山の一つになりました、下山日に雨も、良いアクセントになりました。次は穂高ですね、今年の秋には登山環境も好転していることでしょう。

 塔ノ岳からのダイヤモンド富士観察山行 
竹中 彰(昭和39年卒),投稿日 令和2年10月26日

 
 6月に本間さんと丹沢・天神尾根経由塔ノ岳に向かい尊仏山荘に宿泊した際に、主人の花立さんからダイヤモンド富士について説明があり、本年秋は10月18日がその日に当たるとのことで、昼から会としての企画書を本間さんが練り、岡田さんを含めて3名で実施することとなった。
 例によって留守連絡先は佐藤(久)氏に依頼した。登路は菩提峠から「日本武尊の足跡」から二の塔、表尾根経由で塔ノ岳、下山は鍋割山稜経由栗ノ木洞から寄バス停と、丹沢では少し変化のあるあまり人気のないコースを取ることとした。(以下敬称略)
 
10月18日(日)曇りのち晴れ
 7:30前に渋沢駅に集合した3名は、県警宛ての登山計画書をバス停横のポストに投函後タクシーに乗車し、葛葉川上流の葛葉の泉に向かった。15分弱で到着し荷物の配分(本間調達の夕食のウナギを各自収める)後、身支度を整えてスタートする(7:57)。ここには湧き出す水を求めて数台の車が駐車し、夫々大きなポリタンク等への水汲みに余念がない。
 出発直後にゲートがありこれをすり抜けて舗装された(桜沢)林道を進むが、途中で表丹沢林道と交差した地点で斜め左に直進する。スタートから約2ピッチ9:10に菩提峠駐車場に着き、すぐ左手の「日本武尊の足跡」の朽ちかけた標柱から脇道に入る。予想外に急な細い道を辿り、箱根方面が望める支尾根に上がった所で一休み(9:24‐30)。
 その後も息を切らせながら灌木帯の道を40分ほど進んだ地点(1050m)に、「日本武尊の足跡」の標柱があり、そこから右手やや上に数分進んだ先に疎らな木立の中、注連縄が張られた土と岩がこんもりした場所があった。縄の一番高い所の石の前の窪みが「足跡」として保存されている様であったが、特にどう言うこともない史跡?辺りを10分程度探って道に戻り二の塔を目指すが、10:33頃に1100m地点で二の塔尾根に合流した辺りからリンドウやヤマトリカブトの紫系の花が目に付く。
 傾斜も緩んだ中を10分ほど進んで二の塔頂上に着く(10:45‐11:04、1140m)。頂上ベンチに座り、行動食、水分補給をしながら曇り空の下で上部に少し積雪をまとった富士山始めゴールの塔ノ岳や周囲の景色を観望する。  
 さすがに表尾根では数パーティーに会うが、一人の登山者に地図を見せて欲しいと請われ、我々が脚攣りの話をしていると、攣る原因のカリウム不足対策には煮干し等を含むダシを直接食べるのが有効とアドバイスされた。次の三の塔までは少し下って登り返し、建て替えられた休憩舎に着く(11:28‐55、1204m)。風が少し出ていたため内部に入ると7-8名の登山者が休憩しており、我々も昼食を摂った。
 この頃には富士山は雲に隠れることが多くなり、夕方に期待するダイヤモンド富士観察に若干の不安を抱かせたが、今更引き返すことも叶わず前進した。総じて表尾根全体に以前よりも新しい木製の桟道、階段、土留めの階段等の整備が進み、この後で階段上りにウンザリすることになった。
 三の塔からは、上部にゴールの尊仏山荘、かなり下に特徴のある三角屋根の烏尾の避難小屋が望まれ、ザレた下りにはクサリを張ったところもあるが、問題なく通過する。最低鞍部まで130mほどの下降、烏尾山には60mを登り返して40分弱で頂上に着く(12:33‐43、1136m)。
 烏尾からは大きなギャップもなく30分弱の緩い登下降で、役行者像の立つ行者岳頂上に達した(13:11‐21、1190m)。この先政次郎の頭には一旦クサリ場を下って少し先で達するが、朝からの行程に疲れが出て久し振りに脚攣り症状が出たため、休憩して必携薬の68番を2包服用する(13:55‐14:00、1209m)。この辺りの潅木は少し黄色に色づき始めていた。
 この先書策小屋跡を左手に新大日茶屋に向けては赤土の斜面に木製階段が多く、130mの一気登りにしごかれた。休業中の茶屋前のベンチで休憩中に何人かの登山者とすれ違うがコロナ影響下で明らかに数は少ない(14:35‐45、1340m)。コースタイム表示で残り50分を頼りに暫く起伏の少ない尾根筋を進むが、塔ノ岳直下の短い急登100mに気息奄々、この頃にはトップを行く岡田、続く小生、しんがりの本間のオーダーが固定していた。
 何とか気力を振り絞って塔ノ岳頂上台地に到着し、即山荘に入る(15:50、1491m)。小屋主の花立氏は上がって来てなく、小屋番の深松、金谷氏に迎えられた。山荘の入口土間(休憩室)には数名の先客がいたが、5分ほど前に先着の岡田は既に2階の寝室にザックを上げていた。15分後に本間が到着して無事に全員揃う。
 頂上標柱、ベンチの周囲には20人程度 (後日小屋のブログを確認した所、例年より少ない30名弱とのこと)の登山客がダイヤモンド富士の待機中であったが、未だ時間があったので、到着を祝して乾杯(ビール:本間、コーヒー:小生、岡田)。
 16:40頃からはダイヤモンド開始に備えて頂上ベンチ付近にカメラを準備して待機。富士山頂付近から高層に広がっていた雲が次第に薄れて頂上の上に隙間が出て、次第に太陽が落ちてくるのに良い条件が整ってきた。南アも稜線に雪を付けて甲斐駒から北岳、塩見岳が視認できる状態になった。岡田は担いできた三脚をセットして狙い、小生と本間は手持ちで構える。小生のカメラはバッテリーとの相性が悪くなり、騙し騙しの撮影となったが何とか肝心の場面は収められた。
 16:48には富士山頂に太陽が懸り始め16:53には太陽が完全に富士山の背後に回り込むまで正にダイヤモンド富士ショーが続いた。その後17:00過ぎには山頂の上の雲も完全に消え去り、山の背後遠くの雲の茜色が次第に濃くなっていった。適当な所で切り上げて小屋に戻り、この日の同宿者はダイヤモンド富士での混雑を予想したが、カップルと女性単独行1名を含めて計6名とガラガラ状態でやや拍子抜け感があった。
 今回持参のアルコール量は、小生は例によって500㏄ペットに「甘露」を持参したが、意外に本間はザック軽量化のため「菊水」ワンカップ1本に絞り、不足分は小屋での調達(ワンカップ@500円)を予定したとのことで、一部で言われる様な大酒飲みパーティーではない。
 何時もの二方窓のコーナーに陣取り、寄託中の卓上コンロを利用してお湯を沸かす。メニューのウナギを湯煎し、甘露を割り、ツマミ(乾きもの、漬物、昨夜の総菜残り等)で久し振りの尊仏宴会が進み、準備したα米にウナギを載せた夕食が終る頃、窓からの富士山も暮れていった。小屋番氏も含めて懇談するうちに消灯時間が近づき2階の寝床に引き上げる。
引き上げ前に翌日の下山ルートを鍋割山-寄コースに確定した。横になるとこの日のアルバイトの疲れから即睡魔に襲われ、朝迄ぐっすりと寝れた。                (総歩数17.1千歩)
 
10月19日(月)曇り一時雨
 5時半頃に起床すると、全天雲に覆われ、9月の蓼科山の様なご来光は望むべくもなかった。お茶漬けの素等で味付けた雑炊風朝食を済ませて、頂上の標識と共に富士山をバックに記念撮影後7:00に出発した。
 暫らく金冷しに向かって下る途中で目の前の木道上を大きなシカが逃げる様子もなく歩いていたが、右手の斜面の中にはかなり育った小鹿がガサガサ動いていた。金冷し、小丸尾根分岐等を通過して相模湾、富士山が目の前に広がる階段で小休止(7:55‐8:05、1207m)。
 ここから1ピッチで鍋割小屋前のベンチに着く。小屋は人気がなく静まり返っていた。暫くベンチ周辺から最後の富士山の写真撮影、丹沢や周辺の山座同定等で休息(8:36‐45、1272m)。この先後沢乗越まで足場の悪い急下降が続き、途中で背負子に大きな荷物を担いだ鍋割山荘の草野氏が登ってくるのとすれ違う。
 「ご苦労様」と声掛けをして、我々はひたすら乗越を目指すが意外に長く、手前で一息入れる(9:20-27、930m)。そこから15分で乗越を通過したが、周辺にはホトトギス、ヤマトリカブトが数輪咲いていた。そのまま直進して栗ノ木洞手前の疎林の中の小ピークで一服(9:47‐57、830m)。この先栗ノ木洞にかけては、緩く下ったコルから予想外の急登が待っていた。
 標高差は100m未満だが直登の多い険しい道にシゴカレた。樹間で薄暗い栗ノ木洞頂上には鍋割、寄の方向と左に大倉方面-上秦野林道を示す古ぼけた標識が立っているが、栗ノ木洞の標示はこの標識柱の上部に誰かがサインペン等で書いたものが薄く見える程度であった。ここにも林床にはヤマトリカブトが見られた(10:24‐30、908m)。
 栗ノ木洞から次の櫟山(クヌギヤマ)までは緩い下り基調の道で、周辺はカヤト、ススキの群落の明るく開けた小広い頂上で、表丹沢県民の森の遊歩道が縦横に通じている(10:43‐50、840m)。これからは目的の寄バス停(標高約250m前後)まではほぼ600mの下りとなるが、植林帯を主とする樹間の道が続く。  
 少し先で雨が降り始めザックカバー、雨具の上着を着けたが、この後は降ったり止んだりだった。部分的に足元の悪い所もあるが、途中で舗装された三廻部林道を横切り、宇津茂集落を目指して進んだ。ほぼ1時間10分歩き続けて漸く集落や畑が視界に入って来た。12:15に寄バス停に到着し、12:40発の新松田行きバスを待った。
 13:05に着いた新松田では何時もの若松食堂に向かったが、この日は貸し切りとのことで断られた。已む無く駅周辺探し歩き、昼食を兼ねてラーメン屋に入って喉を潤す。
 この店の売りであるワンタン、枝豆等をツマミにビール、焼酎と杯を重ね、最後は特徴あるラーメンで締めた。心地よい疲れにアルコールが入って小田急でうとうとしながら帰宅した。(総歩数15.8千歩)
 
 今回の山行でもコロナ肥り、加齢によるバランスの悪さを前回の蓼科山以上に痛感したが、予定通り計画を遂行出来たのは天気に恵まれたことと、ダイヤモンド富士を機に塔ノ岳往復を人の少ないコースを提案し、諸事準備してくれた本間さんと何時も昼から会に付き合ってくれる岡田さんの協力の賜物で、ご両人には感謝する以外にない。
 次回は尊仏山荘での鍋パーティーと共に丹沢精通者の本間さんには再び一味違った塔ノ岳への登路、下山路を案出して頂き年明けに実現したいもの。頼むよ・・・。                 

2020.10.18-19 (1)同日本武尊足跡

2020.10.18-19 (2)日本武尊足跡

2020.10.18-19 (3)二ノ塔頂上で、富士が姿を

2020.10.18-19 (4)ダイヤの輝き

2020.10.18-19 (7)
ダイヤモンド富士後の夕暮れ
2020.10.18-19 (8)
塔ノ岳山頂(本間,岡田)
2020.10.19 子鹿
(岡田撮影)

 ダイアモンド富士@搭ノ岳
岡田健志(昭42年卒),投稿日 令和2年11月3日


「1年に2度だけ、塔ノ岳の山頂からダイアモンド富士を見ることが出来る」と尊仏山荘の花立さんから教えてもらった。この日(2020年10月18日)を逃すと、次のチャンスは来年の2月だという。

この日を逃すと、次は2月。雪の塔ノ岳は結構きびしい、となるとこのチャンスは逃せない。
バスの行かない、林道の一番奥までタクシーで、というのがこのグループの合理的なスタイル。ところが、菩提峠に行く林道は、山道の入り口にほど遠いところでゲートに遭遇。簡易舗装の林道をかなりの距離歩く破目となった。

せっかくきたのだから、日本武尊の足跡の遺跡を拝んでから、表尾根には二の塔からとりつこう、となった。
丹沢にこんな遺跡があることを知っているひとは、多くはないのではなかろうか。

とはいえ、仏足のような足型があるわけでもなく、ただ、雨が降ったら水が貯まるであろう、窪みがあるだけだった。

 表尾根に取り付く。秋の柔らかな日差しの中を登る。リンドウやトリカブトのムラサキが疲れを癒やしてくれる。


こんな雲の状況でも、本当にダイアモンドは見ることができるのだろうか?と心配になる。

15:45 尊仏山荘に入る。コロナ自粛下のうえ日曜日ということもあり、宿泊者はわれわれ3名を含んでも6名とのこと。日没に備えて早速カメラをセットする。
甲斐駒(右端)や白根三山が夕方の弱い光の中、シルエットで迎えてくれた。

「秋の陽はつるべ落とし」というけれど、富士山の上に長く長く横たわる雲の向うから射す太陽が富士山のむこうににストンと落ちてしまうのでは?と心配でしようがない。

最後には、富士山頂上と雲の間のすき間から太陽が顔を出し、そして富士山の向うに消えていく。

富士山の右に目を向けるとそこに南アルプスの山々が遠くに霞んで見える。

ダイアモンド富士に見入る人たち
この間、約30分の「ダイアモンド富士ショー」だった。

 2020年3~4月千葉の山歩き

藤原 朋信(昭44年卒),投稿日 令和2年7月23日

 令和2年はオリンピック変じてコロナの年として後世まで語り継がれるに違いない。思いかけず我が人生の終盤にパンデミックと出会うことになり、それがこんなに大変な事態だとは想像もできなかった。世の中が山登りどころではないのに未だ山の話で恐縮だが、針葉樹会内部の話としてお許し願おう。皆さん生活が一変されたわけだが、私の場合もグランドシニア期の「山の終活プラン」が大いに狂い、山歩きでの健康管理・体力維持がままならない状況はお手上げである。 
 とはいえ、あくまで前向きに考え、県内移動という許された範囲で悪あがきをすることとして、3月から4月は毎週末に房総の未踏地を歩きまわった。学生が乗らないと乗客がいない外房線のボックス席を独り占めで終点の安房鴨川へ行き、房総の二大山地(丘陵)を目指した。
 
1、千葉の山
 
 針葉樹会諸兄は別にして、山仲間からよく千葉には山がないと言われる。確かに高山がないのは47都道府県の県別最高峰でダントツ最下位(408mの嶺岡愛宕山が千葉県最高峰で沖縄の於茂登岳より100m以上低い)だからその通りだが、山地は東京湾から太平洋に東西30キロにわたり2本平行に走っている。
 先ず鋸山から清澄山を経て勝浦のおせんころがしまでの分水嶺で、かっての上総と安房を分ける郡界尾根である。その南に長狭街道(保田川・加茂川)をはさんで嶺岡山地があり、西側はハイキングで知られる冨山、伊予ガ岳、御殿山等関東百名山の山々が鎮座する。また房総分水嶺から流れる養老川・小櫃川等4本の川は北西に東京湾にそそぐが、川の両岸は分水嶺から枝分かれした尾根が北に延びている。中でも一番西側の尾根の北端は千葉第2位の標高、鹿野山で、ここから南方面を眺めれば千葉の山が全て俯瞰できる。 
 私が勤務会社の分譲地を購入してそれまで縁もゆかりもなかった千葉の四街道に家を建てたのは、はや40年も前だが、住み始めた翌年に千葉探索の一貫でマザー牧場、神野寺に出かけた。そこから少し足を延ばし、鹿野山の九十九谷公園に着いて眼下を見下ろして驚いた。見渡す限り山また山である、全く予期せぬ山が幾重にも続く展望に千葉は山国だと認識させられた瞬間だった。
 東山魁夷の出世作「残照」がここ鹿野山からの風景を描いているので、もしご存じない方はネットで検索されたい。まさに百聞は1見にしかずで、千葉が水墨画に見られる日本的山岳美の代表県だと実感されるであろう!
 
2、嶺岡山系、嶺岡浅間335m
 
 これまで、千葉の山には交通の便が良い内房線からの東京湾側が先行した為、中央、東部に未踏地点が残る。嶺岡山系では中央部の愛宕山、東部の嶺岡浅間である。内、愛宕山は千葉最高峰がゆえに自衛隊のレーダー基地が建てられ頂上に立つには許可が必要である。また基地から山頂まで歩いても10分でとても登る対象にならない(登るなら愛宕山北隣の大塚山だろう、長狭盆地からみるとその円錐形の山容が目立つ山である)。
 従い今回は嶺岡浅間を対象に南の太平洋海岸からひたすら北に上がることにして、和田浦駅-烏場山-高鶴山-嶺岡浅間-安房鴨川駅の計画を考えた。和田浦駅から烏場山は岩崎新百名山効果で平常ならハイカーが多い山だが、案内書は周回コースのみである。北の曽呂利谷に下りる道が今もあるかどうか分からないので、まずは下見(2月29日実施)で確かめる。
 江見駅から烏場山の東を通る県道で直接曽呂利谷に入る。車も人も少ないので春のウオーキングは気持ちよい。冬から早春の房総を彩る水仙が途切れることなく広がる。曽呂利谷は隠里の趣があり、棚田が緩やかに峠まで続く。地元の人に聞いても今は使われてないのか、曖昧な返事で登り口を見つけるのに時間を要したが、何とか烏場山に至る山道は確認できた。
 次は独立峰の高鶴山に向かう。267mの烏場山より高い326mで曽呂利谷から端正な姿で聳え立つ。昨年の台風で荒れた藪道をかき分けて頂上に立つ。高鶴山は長年の積み残しリストに入っている山なので一つ片付いたとの安堵感が湧く。
 元の県道に下り、近くの山口の滝、落差30mを見学してから更に県道を北に辿る。やがて前方に目指す嶺岡浅間が大きく横たわり、左前方には愛宕山がまろやかな山容で一際大きい。愛宕山も富士山と同じく登る山ではなく眺める山らしい。
 この辺りまで来ると周囲全て牧場である。日本最古の牧場という話であるが真偽のほどはわからない。大和朝廷の支配領域が香取神社や鹿島神宮までと考えれば、東北平定の軍馬供給地として最適かもしれないと想像しながら、右へカーブしてあがると稜線の嶺岡スカイラインに飛び出した。
 飛び出した地点は広場になっていて、前方が180度開けている。不意打ちの衝撃であった。前方長狭街道の向こうに房総分水嶺が絶壁として拡がっている。一瞬銚子の屏風ヶ浦のイメージが頭をよぎった。九十九谷からの展望と嶺岡山系から北方への眺めは同じ房総の山とは思えない。
 房総分水嶺の鋸山と清澄山の間の稜線には地形図で山名が何も載っていないので、何故かと疑問に思っていたが、今分かった。稜線の全部がいわば「屏風ガ岳」とでもいうべき大きな山であった。
 広場から西に10分ほどで嶺岡浅間であるが「屏風ガ岳」の余韻に浸るために、次回本番に廻し東へ方向を転じてスカイラインを太海・鴨川へ向かった。4月4日の本番では烏場山に花婿コースで登り、頂上直下から五十蔵へ下り曽呂利谷へ出た。嶺岡浅間からは長狭街道に下り、車の多い道を鴨川駅まで戻った。
 
3、房総分水嶺、安房高山365m
 
 嶺岡浅間から房総分水嶺を見た後の課題は、その分水嶺に登るという当然の流れになる。地図に名前が載っていなくても、地元山愛好家では安房高山が房総の山の中心として知られた存在らしい。4月10日に鴨川駅から安房高山を目指した。
 昔の安房と上総久留里を結ぶ峠道である香木原峠で稜線に出て西に分水嶺を辿るプランである。車の多い長狭街道を避け、少々遠回りでも脇道を選んで歩いた。何とか香木原峠に向かう林道に出て一安心である。最近はアプローチに失敗というケースが増えているがこれも脳の衰えの反映であろう。
 クリーンセンターを過ぎると舗装が切れて昔風の林道に代わる。昨年の風水害のせいか、ただの荒廃化かわからぬがそのうち道がますます怪しくなり、気力も減退、引き返すこととした。あとで家に帰ってから良く調べたらそのまま突っ切れば30分程度で峠に着いたみたいである。
 かくて房総中心地からの展望は12月以降にお預けとなった。コロナより山蛭のせいで4月10日~11月が蛭の活動期のためである。時間が余ったので帰りに鴨川富士に立ち寄ったが、やはり登山口が分かり難く教えてもらったおばさんが、通年は今日(4月10日)から蛭が出ますと自信たっぷりに言われるので、その言葉を信じて4月中の再トライは断念した。
  以上
 
ps.
① 故戸川会員が言っていた木更津(馬来田)の裏山も月山に繋がるというのは精神的繋がりはあっても、北方が関東平野・利根川に阻まれ地形学的には繋がらない。裏山は養老川と小櫃川の分水界なので南方へ徐々に標高を高め清澄山に至る。
➁房総については私より、地縁が深い石和田・斎藤・川名会員に語るべき想いがあろうかと思います。願わくば諸兄の房総素描を寄せて頂き、千葉の山の魅力を広く知らしめたいものです。
 
(参考)  千葉の山              標高              
    1.愛宕山    408m  
    2.鹿野山    379m
    3.清澄山    377m
    4.二ツ山    376m
    5.安房高山   365m
    6.御殿山    364m    
    7.嶺岡大塚山  360m
    8、富山     350m
    9.石尊山    348m
   10.伊予が岳   337m

 懇親山行―高松山
佐藤 久尚(昭41年卒),投稿日 令和2年2月6日

佐藤 久尚(昭41年卒)
日程   :2020年12月15日(日)
メンバー :佐薙(昭31)、本間(昭40)、佐藤久(昭41)、岡田(昭42)、中村雅(昭43)、前神(昭51)、加藤(昭51)、川名(昭63)
 
 毎年12月に初冬の富士山を見るため、恒例のように行っている「富士ビュー山行」、今年は高松山(801m)にした。高松山は昨年登った大野山と尾根続きの隣の山で、富士山の眺望が良い山としては、知る人ぞ知る山である。ただ針葉樹会員の間では、あまり知られていないようではある。
 「富士ビュー山行」に相応しい山としては、
(1)まず富士山の眺望が良いこと、
(2)懇親山行で最近取り上げていないこと、
(3)高齢者でも登れること、
(4)東京近郊いずれの地域に住んでいても、アプローチに苦労しないこと、
(5)下山口近くに打ち上げ会に適した飲み処があること、
 等々いろいろな要件がある。これら要件を考えると、山の選定は結構難しい。山行幹事としては昨年、候補として当初高松山を考えていたが、オーション会(昭31年卒)の長老3人が大野山なら参加するという意向を示されたため、見送られた経緯がある。(大野山の記録は、会報143号を参照)
 9:00、小田急新松田駅に全員集合。タクシー2台に分乗して「高松山入口バス停」まで行き歩き出す。暫くはミカン畑の中の舗装された道を行く。舗装道路が途絶えて尾根道となり、ようやく登山道らしくなったと思ったら、少し登ると開けた台地に出た。そこには鉄パイプで組まれた櫓があり、それに登ると富士山の眺望が楽しめるようになっていた。
 山行幹事としては、「富士ビュウー山行」で富士山が見えなかったらどうしようと、いつも心配するところであるが、この日は少しモヤってはいたが、富士山の全貌が見えてまず安堵する。今年の富士山は少し雪が少ないようだが、それでも5合目以上が白銀で、その姿はやはり期待を裏切らないものであった。
 そこから先、登山道は雑木の尾根道が続き、林道を横切るとヒノキの植林帯に入る。ビリ堂という石仏を過ぎてひたすら登ると、左の谷からイヌの鳴き声が聞こえて来た。どうやら猟師がいて、猟犬が何か獲物を追い出しているようであった。そのうちイヌの鳴き声が途絶えたと思ったら、突然イヌが現れて、我々の後を付いてくるようになった。
 子供の頃、狩猟が趣味の父親に連れられてエル(イヌの名前)と一緒に相模原の山を歩き回ったことがあるが、その時父親が、「猟はイヌが6,腕が3,鉄砲が1だ。」と言っていたのを思い出し、「このイヌ猟犬失格。一体何処まで付いてくる気か。」と興味深く見守っていると、稜線の少し手前で再び谷の方に戻って行った。イヌと別れて稜線に出ると、10分ほどで頂上に着いた(12:13)。
 頂上は広々とした気持ちの良い草原で、富士山や箱根連山の眺めがいい。また小田原の海も見える。草原の中にたまたま富士山に向き合うように太い丸太が置いてあったので、それをベンチ代わりにして富士を見ながら昼食を取った。
 頂上では前神さん持参のココアを飲んだり、佐薙さんの富士山に関する講義を聴いたりしてゆっくり休んだ後、記念写真を撮り下りにかかる。(12:55)下山は、頂上→尺里峠→高松集落→最明寺跡→松田山入口バス停、というルートを取った。このルートは他のルートに比べて距離は長いが、尾根道から集落内の車道を通って、再び山道に入り、小さな峠を越えて、整備された公園を抜け、最後はミカン畑の中の農道を下るという変化に富んだコースで、皆、退屈することなく歩けたのではないかと思う。
 なお、下山途中では、高松集落の外れで、道端に自動車が何台も捨てられ、怪獣の死骸のような異様な姿をさらしている、まさに人間のエゴを表象する光景に出会い、不快な思いをしたこともあったが、ミカン畑の道では、親切なミカン農家のおばさんが、「売り物にならないから持っていけ。」とミカンを沢山くれ、皆でミカンを頬張りながら下るという楽しいハプニングもあった。
 15:38、松田山入り口バス亭着。時刻表を見ると2分後に到着するバスがあるではないか。打ち上げ会のため新松田駅前の居酒屋を、17時開店と言うところを無理に頼んで16時に開けてもらうことにした手前、あまり遅れる訳にはいかない。幹事としては下りで遅れ気味なペースに内心不安を感じていたが、これで救われた。バスは10分程遅れて来たが、新松田駅までの乗車時間は10分足らず。163分前に新松田駅に到着し、居酒屋には滑り込みでセーフ。
 打ち上げの酒宴では、例によって山の話、食い物の話、針葉樹会員の話などがいろいろと出て、盛り上がったが、何と言ってもこの日の掉尾を飾ったのは、佐薙さんの日頃のトレーニングの話であった。それも「登山の運動生理学とトレーニング学」(山本正嘉著)という専門書に基づいた本格的なトレーニングの話で、87歳になられても皆に遅れることなく、今日1日歩き通された佐薙さんの健脚ぶりと重ね合わせて、一同、感心しながら神妙に拝聴するばかりであった。

① 2019年12月15日、展望台にて
② 2019年12月15日、高松山にて
 ③ 2019年12月15日、高松山にて集合写真

 雲の平と黒部五郎岳
岡田健志(昭42年卒),投稿日 令和元年9月16日

 
岡田 健志(昭42年卒)
日程   :201985日~10
メンバー :高橋 康夫(昼から会)、岡田健志
 
85日(月)晴れ
東京 - 富山(泊)
 
 今年の夏の暑さは大変なものだ。そんな中、重いリュックを背負って、汗をかきかき出かけるのはどうかとおもうが、富山駅前のホテル、列車の切符も予約しているので、そして何よりも念願の雲ノ平と黒部五郎岳。出かけざるを得ない。
同行は昼から会の高橋さん。ほかのメンバーが「ヤメタッ」と弱気な対応を示す中、80歳の高橋さんは3度目の黒部五郎岳挑戦というお元気さ。奥様が富山ご出身で、剱・立山や薬師岳などへは、複数回登っておられる。
 明日のために、富山駅前でおにぎりやバナナ、トマト、キュウリなどを買い込む。
富山駅前の東横インに投宿。夕食は「鯛家」で富山湾産の新鮮な魚料理を高橋さんからご馳走になった。人口34万人と言われる富山を市電の窓から少しだけ見学した。ホテルの多い町と感じた。
 
86日(火)晴れ昼頃から雷雨
東横イン(500)-駅前バス停発(530)-折立(73050)-アラレちゃんの休憩所(925)-1,870m(三角点、103255)-雨降りだす(1155)-太郎平小屋(1445
 
駅前の東横インからシルエットの剱岳が見える。(写真・下左)シルエットだからか、眠そうな剱だ。
富山駅前から出る、折立行きのバスに乗る(@3500円)。猛暑のなか、13kgの荷物を担ぐことになり、なぜもっと軽く出来なかったのか、と反省しきり。ただし、水2kgカメラ1kgは減らしようがない。1870m地点(三角点)を過ぎた辺りから、北方に剱岳が見える。キンコウカが群生する草原の向うに剱岳が見える風景はなかなかのものだった。(写真・下右)

2019.8.6 剱岳(富山駅前の東横インから)

2019.8.6 キンコウカのお花畑の向うに剱岳

 
 薬師岳山荘までは折立から高度差約1350m。当初計画では、今日中にここまで入り、明朝一番で薬師岳を登ってから雲の平まで、というものだった。ところが11:55に薬師岳方向からしきりと雷が鳴りはじめ、雹まじりの大粒の雨が強い風とともに吹き付け、登山道は川と化して靴はもちろん、なにもかもびしょ濡れ。落雷の恐怖におびえながら太郎平小屋へたどり着くのが精いっぱいの一日となってしまった。

 
87日(水)晴れ夕方雨
太郎平小屋(600)-カベッケが原入り口(750)-薬師沢小屋(9301000)-木道末端(13151330)-アラスカ庭園(1400)-雲の平山荘(1500
 
 今日の行程は、太郎平小屋を出発し、薬師沢小屋まで450mの下降、薬師沢小屋から雲ノ平山荘まで540mの登り。モッタイナイ。雨と朝露に濡れ、滑りやすい木道を注意深く歩く。昨日の雨は相当強かったので、薬師沢出会いまでの下りや雲ノ平までの急登の状態が心配だったので、小屋の方に聴いて出てきたが、その情報どおり、支障は全く感じなかった。
  良く晴れていて、薬師岳の稜線も樹林帯の木々も青空をバックに大変美しい。カベッケが原は広大な笹原で、所々にベンチが置かれていて、休めるようになっている。多くの登山者に追い抜かれ、また多くの下山者(この場合は登りだが)とすれちがう。(写真・下左)
 高橋さんとは同じ住宅地に住んでいる。その住宅地の小学生たちが登校する際に「見守り隊」として交通安全旗をもって見守りをしている。そのお礼ということで、子供たちが公園で採った梅の実で作った梅ジュースをもらった。これを持参した高橋さんが薬師沢小屋の冷たい水で割ってご馳走してくれた。喉にしみる美味しさだった。(写真・下右)

2019.8.7 カベッケが原

2019.8.7 薬師沢小屋

 
 薬師沢小屋(海抜1920m)から雲の平山荘(同2464m)への登りはツライものだった。夏の強烈な日差しこそ樹林帯にさえぎられたが、ちょっと雨が降れば水が流れるであろう溝状の急登を、あえぎあえぎ登る。景色が見えるわけでもない急登のコースタイム2時間10分、これを3時間15分かけて木道末端に達した。深い笹原のなかに続く木道を行く。笹原はいつのまにか這松帯にかわり、向うに雲ノ平山荘が見えてきた。

 山小屋の人に言わせれば「毎日のこと」らしいが、この頃から、雷が鳴りだし、山荘に着く頃には本降りになっていた。
 
 山荘の混み具合は、それほどでもなく、乾燥室も十分なスペースが確保できた。寝るスペースもゆったりしていて、夕食までの間に横になっていると、泊り客がザワザワしてきた。何事かと見ると、雨も上がり山荘のすぐそばに低く虹が出ていた。虹はちょうど山荘の二階の高さくらいで、その一方の根元はキャンプ場の辺りであった。さらに、空高くにも、もう一本の虹があり、泊り客が驚きの声をあげるのも無理ないことだった。(写真・下)

2019.8.7 雲ノ平山荘のすぐそばに虹が出た

 夕日に映える水晶岳、夕焼けに染まった西側の空、また天の川が横たわる星空も美しく、雲の平山荘周辺の景色は大変印象深い。
 夕食には、鮭のかす汁が8人の登山客に対して鍋一杯提供され、味もよかった。

8月8日(木)快晴夕方雨

雲の平山荘発(545)-祖父岳(815840)-岩苔乗越(955)-水場(1000)-祖父岳・三俣山荘分岐(12:00)-三俣山荘(13:1530)-三俣蓮華岳との分岐(15:3045)-黒部五郎小舎(17:10

 新しい小屋で、宿泊する人の数もそれほど多いということもなく、居心地の良いものだっただけに、雲ノ平の滞在が一晩だけというのは少し残念。黒部川源流に位置するこの場所は、里からはほど遠く、私達の脚力から計算しても下山するにはあと山中2泊が必要。となれば、残念ながら雲の平に連泊というわけにはいかない。今日は、私の76回目の誕生日、頑張って歩かなければ。(写真・①)

 歩き初めてすぐに雲ノ平全体に朝日が当たり始めた。夜露に濡れたチングルマの実がキラキラ光る。木道以外を歩けないここでは、カメラの位置決めが難しい。(写真・②)
スイス庭園まで行って、雄大な薬師岳、あくまでも険峻な剱岳を眺めることが出来た。祖父岳は背中に朝日を浴びながらの登りだった。2800m近辺までくると、雲ノ平にくらべると、雪解けが遅いせいか、チングルマもちょうど満開であった。(写真・③)その他にも、コバイケイ草、ハクサンフウロ、イワギキョウ、ミヤマリンドウ、ハクサンイチゲなどまさに百花繚乱状態。(写真・④⑤)
 祖父岳の頂上からは360度の眺望を楽しむことが出来た。西穂高岳から奥穂高、北穂高を経て槍が岳に続く稜線の鋭さは、やはり日本一だ、と感じた。(写真・⑥)
 これに引き換え、三俣蓮華岳から黒部五郎岳、北ノ俣岳に至る山容は、対象的になだらかだ。

① 2019.8.8 高橋さん(雲の平山荘をバックに)
② 2019.8.7 チングルマ(実)
 ③ 2019.8.8 チングルマ(バラ科」)
④ 2019.8.8 イワギキョウ(キキョウ科)
⑤ 2019.8.8 ミヤマリンドウ(リンドウ科)
 ⑥ 2019.8.8 槍・穂(祖父岳頂上から)

 祖父岳の下りは頂上直下にハシゴがかけられた急な下りがあったが、ほとんどがなだらかな稜線漫歩。岩苔乗越では、鷲羽岳越えをあきらめ、黒部川源流を経て三俣山荘へ行くことにする。
 乗越のすぐ下に水場がある。ここで、残りの梅ジュースをいただく。かなりの数の登山者が我々と同じルートをとり、私たちを追い越していった。
流れに沿って下るこのルートには、ミヤマキンポウゲ・モミジカラマツ・ハカサンフウロ・クルマユリ・トリカブト等々たくさんの高山植物が咲いていた。振り返ると、岩苔乗越から緑の傾斜が続き、その上に雲一つない青空が広がっていた。(写真・下左)
  この浅い谷を下って雲ノ平と三俣山荘との分岐から三俣山荘を目指す。三俣山荘は傾斜がグッと緩やかになった場所にあり、そこからは槍が岳と北鎌尾根が真正面に見えた。(写真・下右)

2019.8.8 黒部川源流の谷

2019.8.8 槍が岳と北鎌尾根(三俣山荘にて)

 

 19643月一橋大山岳部は湯俣尾根から鷲羽岳・三俣蓮華岳を越えて、西鎌尾根を槍が岳まで縦走した。その時にみた同じ景色が、無雪期ではあるが、そこにあった。雪のついた槍・穂の稜線も素晴らしいが、雪のない時もまた素晴らしい。何枚も何枚もシャッターを切った。(写真・下)
予定通り黒部五郎岳に行くか、それとも双六岳経由で新穂高温泉に下るか迷い、二人で相談したが、やはりここは当初予定した通り黒部五郎岳へ行かねば、ということで意見一致をみた。

1964.3 湯俣尾根?

 

 三俣蓮華岳は頂上を通らず、捲いた。三俣側から黒部五郎へ向かう登山者は僅かしかいなかったが、反対側からくる登山者は数パーティーいた。捲き道が終わり稜線上の径にでる。チングルマの群落がある辺りから黒部五郎小舎へは最初は笹原をそして小舎の赤い屋根が見えだしてからは、急で長い樹林帯の中の道となった。小舎(「小屋」と書かず「小舎」と書く、その意味は聴きそびれてしまった)へ着く頃にはこの日も雨となった。雷こそ鳴らなかったけれど。
 
89日(金)快晴
黒部五郎小舎(515)-黒部五郎岳肩(910)-黒部五郎岳頂上(93040)-黒部五郎岳肩(955)-赤木岳(1400?)-北ノ俣岳(154050)-太郎平小屋(1800
 
 この日のコースタイム(昭文社地図による)は7時間、我々の足では10時間以上かかるだろう、と考えて早朝出発。ところがなんと、13時間の行動となってしまった。雪渓で水の補給をして時間を費消したこともあるが、もう少し早く歩く訓練を加える必要がある。
 小舎を出発してしばらくは、樹林帯を行く。なかなかカールらしい景色に出合わない。小一時間歩いてようやく黒部五郎岳の北面が見えてきた。朝日を浴びて切り立った岸壁だ。(写真・下左)
 残雪から溶け出した水がいくつかの細い流れをつくっている。明るいカールを登るのだが、大きな石がゴロゴロしていて歩きにくい。岸壁にはなかなか近づかない。
最後は、岸壁に向かって右側の急な傾斜地を登る。振り返ると槍が岳の穂先が少し覗いている。さらにその右に奥穂高岳の稜線も見える。北ノ俣岳へ続く稜線は、なだらかな起伏が続き、今日の目的地である太郎平小屋もはっきりと確認できる。頂上からの眺望に期待が高まる。
 
 「肩」の標識傍に荷物をおき、黒部五郎岳頂上を往復する。頂上は360度の展望台。東側、槍・穂稜線は手前の谷筋から湧き上がる雲のため、上部しか見えないが、槍が岳がより鋭く天空に突きあげている。剱岳に至る稜線は、空に雲が多いながら稜線がはっきり見え、剱が大変格好良い。(写真・下右)
 私個人的には、雲の平と黒部五郎岳頂上を踏み、大変満足であった。

2019.8.9 黒部五郎岳の北面(カールから)

2019.8.9 稜線から剱岳

 

 今日のゴールの太郎平小屋は見えてはいるものの、まだまだ先は長い。「肩」に置いた荷物を背負い、急な下りを降りはじめる。薬師岳方面から来た縦走者、あるいはピストンで黒部五郎まで来た登山者が結構大勢いて、この急な下り(これら登山者にとっては、登り)に苦労している、何組もの登山者に出合った。
一部狭い稜線もあったが、多くは広い稜線を緩やかなアップダウンを繰り替えしながら歩く。右側に平らな箇所が見えるのが赤木平だろうか?
 
 赤木岳の下りは大きな岩が堆積したような道でルートを失わないように慎重に下る。下った所に小さな残雪があり、残り少なくなった水を補充する。ただ、溶ける量が僅かで、水筒に貯まるのにはかなりの時間を要した。冷たくて美味しかった。
このころには、南側から雲が沸き上がってきて、先がわかりにくい。北ノ俣岳も見え隠れしていて、判然としない。道ははっきりしているので、我慢強く歩いていくと1540に北ノ俣岳頂上に着いた。
 雲が湧いてきたが、今日は雨も降らないし雷もならない。ただこの山旅中、午後になると雨に降られるケースが続いたので、先を急ぐ必要があった。幸いにもこの日は雨に降られないですんだ。
 太郎平小屋手前でメスのライチョウが子どもも連れず、ただ一羽でエサを探していた。ここでも少子化が一般的になっているのか?(写真・下)
 到着が遅かったためか、この日の寝床は、明かりも無い屋根裏部屋だった。持参したインスタント食品が殆ど残ってしまったので、この日は素泊まりとし、自炊した。
 同宿の方が持ち込んだ「イブリガッコ」と「チーズ」をいただき、そこそこの夕食となった。

2019.8.9 ライチョウ

 8月10日(土)晴れ
太郎平小屋発(515)-1870m(三角点、73555)-あられちゃん(830)-折立(920
 
 下山日。折立発富山行のバス発車が1110だということで、この日も早出。お盆休みの最所の土曜日ということで、登り客が団体でどんどん登ってくる。やり過ごしていると、待ち時間が大変なので、グループの先頭の方が「下る人がいまーす」と声をかけてくれたのを機に、遠慮なく下らせてもらう。
 ヘロヘロに疲れたが、山中45日の計画を完遂した充実した夏山だった。
東京駅についたら、ここも帰省客でホームに人があふれかえっていた。
 
 最後に、私の場合、登山中に足が攣ることがしばしばである。ところが、今回それがなかった。スクワットなどを毎日欠かさないでやっていることの効果が出たことがその一番の理由だと思う。それに加えて考えられるのが、「ツムラの68」の朝晩二回服用と「ポカリスエット」の効用。「ポカリスエット」は粉末を持参し、毎日2リットル作って行動中に飲んだ。今後の山行に実行して効用を確認したい。

 九州の久住山 ミヤマキリシマを見に (6月20日~21日)
藤田 一成(昭和52年卒),投稿日 令和元年7月2日

 坊がつる賛歌の歌詞に「ミヤマキリシマ咲き誇り  山くれないに大船の 」とある。
これは元歌が広島高等師範学校山岳部の歌なので、広島での酒飲み時代の昔、酔っぱらっては高歌放吟していたので、いつのまにか「ミヤマキリシマの山くれない♪」のセリフは刷り込まれていた。が思い立って、久住山(クジュウサン 1787m)にミヤマキリシマをこの 620日~ 21日と見に行った。 2人ほど誘うも断られ残念ながら単独行。
 問い合わせに、「もう咲き終わりですよ」と言われたが、まあ行ってみようと、阿蘇方面から便数の少ない九州横断バス(熊本~大分)でやまなみハイウェーの最高地点 牧ノ戸峠で午前 11時過ぎ下車。

ミヤマキリシマ
撮影日時:6月20日13時19分
撮影者:藤田

 時期が若干外れとあって久住山へ向かう人は見かけない。天候は晴れ。久住山への最短の一般ルートだが、すこし登ると高い木はなくなり、気持ちの良い稜線がつづく。
 ミヤマキリシマが現れるが、大半は咲き終えて茶色くなっている。登山口から 2時間半で久住山の頂上だ。頂上からは久住山の他の山塊が一通り見渡せる。南には阿蘇のカルデラ平原が広がっている。
 登山ルートからは見えにくかったが、久住山の南斜面には、目的のミヤマキリシマの群生がまさに咲き誇って、久住山の名残りの群生があった。
 この花の色の広がりがミヤマキリシマの 山くれない だと教えてくれる。
 資料写真では山全面がくれない色に燃えているような久住山が紹介されているが、今年は 6月の第 1週くらいだったらしい。
 しかし、昔の人も言ったが、花はピークよりも散る間際
 群生が支配的に 咲き誇っている よりも、おおかたは枯れて散ってしまっていくなかで最後にひと花咲かせるすがたこそが いとおかし ’…と強がりの感想を巡らせて、全盛を見損ねた残念さをごまかした。 

大船山と大戸越の分岐標識
撮影日時:6月21日9:16 撮影者:藤田

 余談だが、この日は、2時間半ほど下山して、ぼうがつる湿原の際にある古い温泉山宿・法華院山荘で一泊し、翌朝、坊がつる讃歌の歌詞に出てくる大船山(1787m)に登った。久住山と同じ標高で、久住の山塊を見渡せる。
 この大船山、タイセンと読む。 長い間 山くれないに大山の♪(ダイセン)と覚えていた。考えてみれば大山(ダイセン)は伯耆の国の山。確かに標識にはTAISENとの記述があった。
 大船山の帰りまた山荘で、一人っきりの湯舟にゆっくりつかって、バス停まで 2時間の下山路に向かった。

 
『南会津の温泉と山を訪ねて』

加藤 博行(昭和51年卒),投稿日 令和元年7月2日

「南会津」と聞くと、広い東北でも他の土地とは少し違う優しい響きを感じると共に、懐かしいような気分になり、行ってみたくなるのは不思議だ。
3月初めに福島の斎藤さん(昭和63年卒)から、「南会津の湯ノ花温泉に泊まって、田代山・帝釈山はどうですか」と懇親山行候補地として提案があった時は、思わずこれに決めた。
針葉樹会報132号(20152月)掲載の、斎藤さん執筆による「会津の山」は、故郷愛に溢れたエッセイだが、そこにも東武浅草駅から南会津の玄関である会津高原尾瀬口駅へのアプローチと湯ノ花温泉の紹介があり、いつかは行ってみたいと思っていた。
東武鉄道、野岩(やがん)鉄道、会津鉄道を直通する特急リバティで会津高原尾瀬口駅に集合し、レンタカーを手配し、温泉で一泊、翌朝田代山登山、その延長として希望者は帝釈山を往復、下山後初日の駅まで戻り、特急で日曜日夕方には東京へ戻る案で、斎藤さんに現地の段取りをお願いした。
会員の参加を募ったところ、最終的に12名となり、年代も70代以上5名、605名、502名と、多少薹(とう)がたってはいるものの、一応「老・壮・青」と幅広く揃ったのは嬉しかった。
 
◆参加者 佐薙、小島、佐藤(久)、吉沢、中村(雅)、前神、藤田、加藤、佐藤(活)、佐藤(周)、川名、斎藤(誠)=現地参加
 
◆日程及びコースタイム
6月15日 
 浅草 9時発
 会津高原尾瀬口着 1205
 昼食、及び前沢集落立ち寄り後、民宿「山楽」着 15時半
 
6月16日 
 民宿発 620分 猿倉登山口 7時 (天候様子見)745分発
 8時15分に、〔帝釈山組〕前神、藤田、佐藤(活)と〔田代山組〕に別れ、帝釈山組が先発する。
〔田代山組〕
 田代山頂上 955分 避難小屋 1005分 避難小屋発 1115分 登山口 1245
〔帝釈山組〕
 田代山頂上 九時半 帝釈山頂上 1110分 避難小屋 12時 
 登山口合流 1320分 
 会津高原尾瀬口発 1518分 浅草着 1815
 
 初日、会津高原到着後、斎藤さんの黄色いアクアに、レンタカー・ヴィッツ2台を仕立てて、昼食に寄った古民家調の蕎麦屋「おり田」の天ざる蕎麦はなかなか美味かった。朝晩の寒暖差が大きい南会津は蕎麦の栽培に適し、全域で蕎麦が作られているようだ。天ぷらを揚げたて、他の客を入れず、待っていてくれたお店の心使いも嬉しかった。
 その後、ひっそりと山合いにたたずむ茅葺きの「前沢曲家(まがりや)集落」に立ち寄る。15軒の茅葺き屋根集落は、小雨に煙るなか、日本の原風景を彷彿とさせてくれた。薪のくべられた囲炉裏端で暖を取りながら、厩(うまや)と人の住居が一体化した造りに、冬の厳しさと家畜に対する愛情を感じた。
 そしてこの日向かった、湯ノ花温泉の民宿「山楽」は、我々を茅葺き屋根で迎えてくれた。部屋で一息入れ、舘岩川沿い4か所に点在する外湯の温泉に各々浸かりに行く。お湯が源泉かけ流しだが、熱すぎて、とても入れないという人もいる一方、温湯(あつゆ)好きにはたまらない、しっかりした温泉だ。
 夜は、川魚と山菜中心の夕食である。お酒がガンガン進み、小ぶりすぎるお銚子がどんどん横に並ぶ中で、明日の天候が気になった。夜中に強い雨が降るが、朝方には雨が上がって小康状態になるとの予想にかすかに期待して、部屋に引き上げ、眠りにつく。
初日は、南会津のおもてなし一色だった。
 
 明け方は、川の流れの音と雨音の区別がつかない中で目が覚める。各自それぞれ朝湯を楽しんだりした後、早い朝食をとり、おにぎりを持って出発。
 その頃から早くも雨足が強くなる。40分のドライブで登山口に着くと、雨は更に強くなり、幹事を泣かせる。やはり、六月中旬からは、梅雨入りリスクがあるなあと思っていたが、兎に角少しおさまるのを祈るしかない。
 小止みになったところで出発、しっかり太い木でステップを作った急坂を進む。時に太い白樺の生木で補修しているのは、少しやりすぎに思えたが、急登の割には歩きやすく、水はけも悪くないので、雨の日は助かる。先日芦安の高谷山登山道整備に参加した時に斜面を「がじった道」と比べると、別世界だ。
 最初の30分で休憩したところで、帝釈山希望者を募ると3名手があがる。前神さんは、そもそも会社の仲間と行く予定であった北東北の焼石岳が雨で中止になって、急きょ転戦したもの。ピーク(300名山)を狙う執着は流石である。佐藤(活)さんは、田代山を既に登っていて、もともと帝釈山がメイン。そして今回初参加で会員に成りたての藤田さんがこれに続く。雨模様で天候回復が微妙な中、モチベーションの高い3人は元気よく急坂を登って、我々の視界から消えた。
 残った9人は、その後ゆっくりと進む。新緑が雨空に鮮やかに映え、やがてシャクナゲやイワカガミ、リンドウの一種が点在し始める。雨もあがり、ガスが少し切れて、遠くの山々が眺望に入ってくる。
 しかし、その後また小雨がぶり返し、頂上に近づくと風も出てきて、今日はこんな天気が続くのかと少々がっかり。そのうち傾斜が少し弱まり、木道が現れ、導かれるように思い切り広い頂上の湿原の端に到着した。
 何という広さだ。風情のある木道が続き、チングルマやヒメシャクナゲをはじめとする小さな花々に彩られた様は、天上の楽園としか言いようがない、見たことのない景色だ。  
ガスで遠くの山々が見えないのが惜しいところ。2列の木道を風に煽られながらしばらく行くと立派な避難小屋が現れ、しばしそこで昼食休憩とする。小屋の中には氏神と弘法大師が祀られ、他のパーティーが所狭しと雨を凌いでいた。
 昼食後は低気圧の通過のせいか、気温が下がり、少し寒い程だ。兎に角小屋を出て、早めに登山口を降ることとする。帝釈山組が、脱兎のごとくすぐそばに迫るとシニア世代は気にし始めたのだ。
 その後少しして、雨もほぼ上がり、時折淡い日差しが新緑に光をかざし、一層緑が鮮やかな色を放つ。高度を下げると寒さは漸く落ち着き、この季節らしい爽やかな風が舞う。
 田代山往復組が下山して程なく、帝釈山組も下山。さすが、9月にホワイトセールへ行く会員は、意欲と強靭さが違うと思った。そんな中、当会に入ったばかりで、会員諸氏と初めての藤田さんが、思わぬ力を発揮してくれたのには驚いた。週末等に続けている小登山の積み重ねの賜物か。
 こうして、今回の会津シリーズも無事終わった。現地幹事を見事に果たしてくれた斎藤さんと別れて、南会津を離れた。帰りの電車で、反省会と称して酒を飲み、何とか大雨だけは避けて全員で登れた僥倖に感謝した。
 
追記
「越後・会津シリーズ」という呼び名で、看板をリニューアルして、この何年か継続されている本シリーズも回を重ねること13回目。私も、20159月の妙高山、201610月の博士山・志津倉山、20176月の守門岳、20185月の粟が岳と、ここ4年参加づいている。
今回初めて、出発地側の山行幹事を仰せつったが、参加の皆さんのご協力のおかげで、季節の慈雨に少し惑わされながらも、何とか両山を無事登れたことに、感謝致します。
 
 

撮影日時:6月16日8時15分 撮影者:佐藤(周)
(左から、佐藤(活)、中村(雅)、藤田、吉沢、斎藤(誠)、佐藤(久)、川名、小島、加藤、佐薙、前神)

撮影日時:6月16日10時7分 撮影者:加藤

 

ショウジョウバカマ
撮影者:川名

イワカガミ
撮影者:川名

チングルマ
撮影者:川名

ヒメシャクナゲ
撮影者:川名

ラショウモンカズラ
撮影者:川名

 

 南会津山旅報告補足

「帝釈山 往復 そこには前神さんの尻だけが・・。」

藤田 一成(昭52年卒),投稿日 令和元年7月2日

 針葉樹会の山行に初参加、昨年12月に針葉樹会の会員に加えていただいた藤田です。
 下記に若干の山がらみ経歴を記します。
 今回南会津の山行に加えていただき、久々の旧知の人たちとの山旅となりました。自己紹介を兼ねて簡単に報告をさせていただきます。
 雨がしょぼしょぼと降るなか 田代山の登りから少し行ったところで、本体と離れて 前神さん、佐藤(活)さんが帝釈山に行くというので、迷いながらも勢いで参加挙手。(実は内心挙手した瞬間後悔がー)田代山の頂上はどうしてこんなところに湿原が・・、というような場所が広がっていたが、折から雨がひどくなる。避難小屋で若干休憩し、往復2時間では、本隊との登山口での待ち合わせに遅れるのでは、との懸念があったが、前神さん、佐藤さんが「まあ行ってみよう」ということで、出発。
 雨は相変わらずしょぼしょぼ降って、またガスは一向に晴れない。前に歩く前神さんがにわかにピッチを上げたためひたすら安定した歩きの尻に、追いついていくのが精いっぱい。帝釈山の頂上はひょいと現れる、どうということのないピークだった。風もあって寒いので、すぐに引き返す。登山口での待ち合わせ時間の約30分前には本隊と合流できた。思わぬ力もなにもーただただ尻と雨の日だった!
※ 広島出身 山岳部の同期は、兵藤さん、加藤さんら
  1977年卒  5年生 広島の中国放送勤務  報道 番組制作畑を歩く
  1991年     四川省の四姑娘山登頂(広島山の会)ドキュメント番組制作
  1992年     アジアキャラバンで、パキスタンのフンザ・ギルギットからフンジラブ峠を超えて新疆を縦断する紀行番組制作
  2006年   広告代理店を東京で始める
  2016年   針葉樹会同期の人らに誘われて、奥多摩の山歩き再スタート 
  20187月  上高地の兵藤さんキャンプに参加
  201812月  針葉樹会参加
 

 
令和 最初の山日記
藤原 朋信(昭44年卒),投稿日 令和元年6月18日

 
 72歳猪年の5月に令和の時代に入りました。何事も最初の滑り出しが肝心と昭和・平成に登りえなかった山々を主体に5月、6月と2か月の計画を立てました。以下がその記録です。
 
 37番はこれまで計画倒れで終っていた案件でしたが、56月は一年で一番日が長く、また雨でも比較的温度が高めなので長時間行動できた為、長年の懸案を済ませることができました。
 ほぼ目ぼしいピークを登り終えた山域もあり、あとどれぐらい残りの課題が片付くかはグランドシニアまでの2年半が頑張りどころでしょうか。
 
 
154日  奥秩父 北奥千丈岳(大弛峠まで) 単独行 7:3014:00
 
長野県川上村山荘から往復しました。今年の山荘開きは例年より遅く5月になりました。山荘も建築後13年になりますので北奥千丈岳も十数回登ったでしょうか、私のお気に入りの山です。令和最初の山は奥秩父最高峰の北奥千丈岳と定め歩き始めましたが、標高2000m地点から4050㎝の積雪があり、また思ったより時間を食い、大弛峠で引き返す羽目になりました。一方塩山側は全く雪がありません。改めて北面と南面の違いを認識しました。
来年は同じコースをスノーシューで楽しもうと考えながら下りました。
 
2512日  仙人ヶ岳・赤雪山  同行:中村(雅)さん 10351455
 
関東の山の中で栃木の山はブナ、雑木が多く新緑・紅葉の時期は歩いて楽しい地域です、人に知られていませんが好ましい山が多いのも特徴で、平成最後の山も42829日に塩原温泉近辺の新湯富士と安戸山に出かけ、GWの人出を避けた大変静かな山登りが出来ました。関東百名山、山梨百名山もあと少しで終わりますので、これからは栃木、群馬の山が多くなりそうです。
 
351820日  大峰南奥駆道 笠捨山・玉置山  同行:中村(雅)さん、田形さ
     18日:麓のバンガロー泊
     19日:行仙小屋登り口~笠捨山~玉置山展望台 テント泊 9時間行動 雨
     20日:展望台~五大尊岳~熊野大社  8時間行動 雨(中村さんは9時間行動)
 
昨年秋に、中断した南奥駆道の残りを2泊3日で完了しました。連日、小雨のなかの荒れた道で、まさに修験道の一端を味わうことができました。中村(雅)さんは吉野から熊野まで4回に分けての奥駆け達成です。中村さんは小辺路等の熊野詣でも全て終えておられるので間違いなく極楽浄土が約束されています。
(本山行の詳細記録は追って中村さんから報告予定です)
 
4525日  丹沢世付権現山 丹沢湖~二本杉峠 単独行 10251425
 
昨年空白区間のプッチェ平を歩いてグルリ丹沢が終りました。あと丹沢のバリエイションルートとして気になっていた権現山を今回登れば丹沢は完了ということにしました。欲を言えば遡行できなかった沢は数えきれないほどありますが、高齢クライマーのクライミングも高齢ドライバーの運転以上に危険なのでここらが潮時でしょう。
 
563日  大峰山上ヶ岳 前夜洞川泊 単独行 5301120 
 
南奥駆道が終ったので、大峰山脈で登り残していた山上ヶ岳に岡山からの帰途立ち寄りました。
現役時代関西に通算20年はいたのに登っていないのが不思議なのですが、会社山岳部での計画が北アルプス主体であったことと、女人禁制で会の計画としては立て難かったためでしょう。雨上がりの山上ヶ岳山頂は広くたおやかな気持ち良い場所で意外でした。帰途は吉野からの稜線を五番関結界まで繋げ大峰山脈は完了とみなしました。
 
669日   鉢盛山  前夜松本泊 単独行 7051820
 
 新島々から黒川林道を延々歩いて往復しました。梅雨入りで天気が悪い中、そこまで鉢盛山に
こだわったのは、昨年登った大滝山~鍋割山から連なる北アルプス支脈が島々宿で一旦高度を落とすも鉢盛山で再び2446mと盛り上がり(上高地から奥穂と同じ1700mの標高差です)、鳥居峠を経て中央アルプスの前衛峰、経ヶ岳まで繋がるからです。北と中央を結ぶジャンクションピークはいかなる景観を見せてくれるのだろうか興味は尽きません。しかし生憎天気は小雨、展望はえられませんでした。
 
 
7.61617日   奥秩父 和名倉山 単独行
      16日:鴨沢西~三条の湯~北天のタル~将監小屋  10:10~17:35
      17日:和名倉山往復後、三番瀬~丹波  4:45~15:10
 
 秩父の三峰から西は清里の飯盛山に至る奥秩父山塊の登り残し、和名倉山を目指します。
今回辿るコースは全て初めてで梅雨の晴れ間を狙って決行です。歳のせいか計画はいくらでも立てるのですがいざ実行となると踏ん切りがつかず、ずるずると10年来延ばしていた案件です。
 三条の湯を過ぎると登山者は誰もいません。雨上がりの緑が目に沁みます。奥秩父連峰、南アルプス、富士山と山の展望に欠かせない役者が勢ぞろいです。時代が変わろうと山は変わりませんね!!
 

大峯奥駈道縦走(吉野から熊野へ)
中村 雅明(昭和43年卒)、投稿日 2019年8月1日

1.はじめに
 2019年5月に南奥駈道・笠捨山~玉置山~熊野本宮まで縦走し、5年越し4回目にして奥駈道の縦走を完了しました。1回目は2015年4月14~17日、吉野山~山上ヶ岳~奥駈道出合を単独で縦走しました。この山行の詳しい模様をHPの『国内山行』に「大峯奥駈道縦走(その1)」と題して投稿しました。当初の計画では縦走の終点を八経ヶ岳と設定していましたが、弥山小屋からの下山路の残雪を懸念して、弥山小屋に2時間手前の奥駈道出合からトンネル西口に下山しました。
 2回目は2016年10月14~17日、奥駈道出合~弥山~八経ヶ岳~釈迦ヶ岳~太古ノ辻を縦走しました。この山行の詳しい模様をHPの『国内山行』に「大峯奥駈道縦走(その2)」と題して投稿しました。当初は太古ノ辻からさらに南奥駈道を熊野本宮まで縦走し、大峯奥駈道縦走を完遂させる目論見でした。また、伊勢の弁護士田形祐樹さん(平6)が八経ヶ岳まで同行、藤原朋信さん(昭44)が吉野から長躯縦走して持経ノ宿で中村と合流する予定でした。ところが同じ時期に奥会津(志津倉山、博士山)懇親山行案内があり、藤原、中村はそれに参加することにしたので太古ノ辻で縦走を切り上げることにしました。さらに藤原さんが8月に体調を崩したので参加を取り止めました。この山行は天気に恵まれ、予定した縦走路をトレースしました。
2.大峯奥駈道縦走(その3:南奥駈道(前半))
 3回目は2017年10月14~18日 太古ノ辻~平治ノ宿~笠捨山~玉置山~熊野本宮と縦走完了を目指しました。中村、藤原さん、佐藤周一さん(昭54卒)の3名が全コースを、田形さんが太古ノ辻から釈迦ヶ岳往復後、下山の予定でした。なお、玉置山は玉置神社宿坊でなくテント泊としました。宿坊の申込誓約書に同行者全員の記名・捺印が必要で書類のやり取りすると提出期限に間に合わないこと、食事なしにしては料金も高いことがその理由でした。
ところが出発前の天気予報が思わしくありません。秋雨前線が南下・中部日本に停滞し、13日からずっと曇り雨予報でした。皆で協議した結果、11日に来年に延期することにしました。
 翌2018年10月13~15日 中村、藤原は太古ノ辻~地蔵岳~行仙岳~行仙宿まで縦走しました。当初は出発前の天気を勘案して昨年延期した計画を1日短縮して行仙宿から笠捨山~玉置山まで縦走し、折立に下山する計画でした。途中下山したのは初日の中村のアクシデントによる体調不良と天候不良によるものでした。同行の田形さんは予定通り太古ノ辻から釈迦ヶ岳を往復後、前鬼に下山しました。

<メンバー>
  中村 雅明(1416日)、藤原 朋信(1416日)、田形 祐樹(1314日)
<行程・タイム>
1013  東京(7:339:17) = 名古屋(9:3711:15) =伊勢市=【田形車)= 前鬼小仲坊
1014  前鬼小仲坊 - 2pで太古ノ辻(8:0008) - 2pで拝み返しの宿跡(12:1017) 2pで持経ノ宿(14:1530) - 平治ノ宿(16:00)
1015日 平治ノ宿(5:45)- 3pで行仙岳(8:23)- 行仙宿(8:3045)- 行仙宿登山口(9:15~30) - 森林植物公園(14:22~15:05) =(村営バス)= 十津川温泉村役場(15:31~16:15) =(奈良交通)= 五條(18:45~21:10)==
1016  新宿(6:10

▼『大峯奥駈道全図』 赤線は南奥駈道

●10月13日(土) 曇り
 7:33の新幹線ひかりで東京を出発。名古屋で紀勢本線に乗り換え、伊勢市に11:07着。
伊勢の弁護士田形さんの出迎えを受け、駅近くの事務所前から田形車で11:30頃前鬼に向けて出発。前鬼小仲坊まで139km、3時間(休憩入れて4時間)の行程です。尾鷲で昼食、下北山のコンビニで買い物した後、前鬼口から小仲坊に向かいました。このルートは一昨年、強い雨の中、1日一本のバス時刻に間に合わせるため必死に歩いた林道です。途中で「前鬼・不動七重の滝」見物&写真撮影をしました。この滝は総落差およそ160m、「日本の滝百選」に選ばれています。
15:30頃、宿坊小仲坊に到着。一昨年、中村が釈迦ヶ岳から下山して単独で泊まったのは宿泊棟でしたが、今回は本坊の広い部屋に泊まりました。宿泊棟には後から10数人の団体が泊まりました。夕食は本坊にて全員でいただきました。テーブルでなく畳に車座で座って、重箱に詰めた料理を食べるのは山小屋とは違った宿坊の趣きがありました。
夕食後はすることがないので早々と就寝しました。夜半から雨が降り始めました。
●10月14日(日) 雨のち曇り
 5:00から全員で朝食。5:30に出発しました。夜半からの雨が止まないので、上下雨具の完全武装です。まだ薄暗くライトで足元を照らします。部落を離れ、沢沿いの道を登りましたが歩き始めて直ぐに道を見失いました。沢を渡った対岸の道が正解だったのですが、手分けして道を探している時に中村にアクシデントがありました。対岸まで横たわっていた大きな丸木を渡り戻ってくる途中で濡れた木肌に靴が滑り墜落。2m近くある川底に臀部から激しく落ちました。幸い石の無い砂地だったので打撲せず事なきを得ました。正に不注意の極み、慎重に足を運ぶべきでした。と言うより最初から歩いてはいけない雨で濡れた丸木でした。実は丸木橋から転落したのは奥駈道では2回目です(前掲「大峯奥駈道縦走(その1)参照」。反省しないサルそのものですね(サル年だからの言い訳は通じません)。何とか歩行できましたが尻を強く打った痛みが残り、不安を抱えながら先に進みました。沢筋を離れると、両童子岩(二つ岩)まで木の階段が連なる厳しい登りです。そこから傾斜は緩みましたが、太古ノ辻まで延々と登りが続きました。それでもほぼコースタイムで8:00に太古ノ辻に着きました。これで後は何とか行けると思いましたが、これは出だしで迷惑をかけた後ろめたさから必要以上に頑張ったからでした。太古ノ辻は開けた笹原で晴れていれば気持ちの良い峠で大休止ポイントですが小雨まじりで寒いので、田形さんとここで別れ、藤原さんと中村は南奥駈道縦走を開始しました。田形さんは単独で釈迦ヶ岳往復後、往路を前鬼まで下り無事下山しました。
 小雨が続き展望のない縦走路を黙々と進みます。持経ノ宿までは石楠花岳~天狗山~地蔵岳~般若岳~涅槃岳~証誠無漏岳~阿須迦利岳とアップダウンの繰り返しです。出だしで打った臀部の痛みが増し、足の運びが不自然になり次第にペースが落ちてきました。持経ノ宿に着いたのが14:15。コースタームより1時間遅れなので本日予定した行仙宿はあきらめ、次の平治ノ宿泊まりとしました。平治ノ宿着16:00。小仲坊からの行動時間11時間でかなり疲れました。平治ノ宿は「新宮山彦ぐるーぷ」が管理する小屋です。収容人数10人。無人ですが、宿泊費(維持管理費用)を2000円以上/人を屋内据付納入箱に納入します。管理費を払って十分報われるのは大きなポリタンクに水の汲み置きがあり、ガスコンロまでありました。宿泊者は我々2人だけで、毛布も十分有り快適に眠れました。
【田形さんの単独行動(タイムと感想)】
10月14日 太古ノ辻08:10~08:40釈迦ヶ岳09:10~09:50太古ノ辻10:00~11:10前鬼
 釈迦ヶ岳頂上には立派な像があり、目を見張った。

10月14日 6:35(撮影:田形)
1p目の林間にて(左から中村、藤原)
10月14日 8:05(撮影:田形)
 太古ノ辻にて(左から藤原、中村)
 10月14日 10:53(撮影:中村)
天狗の稽古場 

●10月15日(月) 雨のち曇り
 朝小雨。今日も完全雨武装で5:45出発しました。転法輪岳を越え倶利伽羅岳までは調子良く歩きましたが行仙岳の登りからは思うように足が進みません。行仙岳から少し下って佐田辻の行仙宿山小屋に8:30着。収容人数40人。奥駈けのコースの中で一番大きな小屋です。平成2年に「新宮山彦ぐるーぷ」によって新築されたこの小屋によって南奥駈道が復活し、奥駈けを歩くほとんどの修験者がここを利用しています。「新宮山彦ぐるーぷ」は千日刈峰行として、今なお道の切り払いや小屋の維持管理、修験者のサポートを行っています。予定では小憩後、笠捨山を越え玉置山を目指すことになっていましたが、中村が不調なこと、雨中に地蔵岳の岩場を歩く危険を避けることを勘案した藤原さんが「縦走をここで打ち切り、林道経由で十津川温泉に下りましょう。来年ここから本宮まで縦走しましょう」と提案。ここまでかなり疲れていたので先へ進むのは気が重かった中村にとっては渡りに舟の有難い提案でした。行仙宿から急ですが良く整備された道を30分下って行仙宿補給路登山口に降り立ちました。そこから未舗装の林道を1.2kmあるいて国道425号に合流しました。少し登ると日谷トンネル東口に着きました。暗くて長くて何となく不気味な全長1kmのトンネルを抜けると十津川村です。この国道425号は山肌を張り付くように道路が走り、殆ど水平に歩いた先で登り道になることもありなかなか高度が下がりません。途中から携帯電話をかけて車を呼びましたが圏外で通じません。結局、21世紀の森という森林植物公園バス停まで14:22に着くまで約13kmを途中昼食で1回休んだきりで歩き通す羽目になりました。約5時間の林道・国道歩きは今まで経験したことがない“酷道”歩きでした。この為、両足裏いっぱいに底豆が出来て帰宅してから治るのに1週間かかりました。バス停でゆっくり着替えして待つこと40分、15:05の十津川村営バスで十津川村役場へ。そこからは新宮から大和八木を結ぶ日本最長(166.9キロ)路線バスに乗って五條に向かいました。面白かったのは上野地停留所での休憩時間で“谷瀬の吊り橋(長さ290m)”を半分往復することが出来たことです。五條着18:45。21:10の夜行バスで翌朝帰京しました。

10月15日 8:23(撮影:中村)行仙岳山頂

3.大峯奥駈道縦走(その4:南奥駈道(後半))
 4回目は201951821日 行仙宿~笠捨山~玉置山~熊野本宮を縦走しました。時期は日が長い梅雨入り前の5月後半としました。田形さんは南奥駈けの代表格の笠捨山まで中村・藤原に同行し、地蔵山を往復後、往路を下山することにしました。初日に宿泊を予定した行仙宿山小屋がそこを管理している『新宮山彦ぐるーぷ」』に確認したところ、修験者団体他が大勢宿泊するので宿泊できないとのことで麓の部落・池原の下北山スポーツ公園のバンガロー泊まりとしました。3人用バンガロー1棟7500円(近くの温泉きなりの湯入浴券付き)で、当日の天気予報・予約情報の確認がネットで可能でした。
<メンバー>
  中村 雅明(1821日)、藤原 朋信(1821日)、田形 祐樹(1819日)
<行程・タイム>
518  東京(7:339:17) = 名古屋(9:3711:15) =伊勢市=【田形車)= 池原下北山スポーツ公園
519  下北山スポーツ園(6:00) - 行仙宿補給路登山口(6:4050) - 行仙宿(7:20~35) - 2pで笠捨山(9:00~05) - 2pで東屋岳(10:35~40) - 2pで貝吹金剛(12:15~39)- 如意宝珠岳(13:20~30)- 3pで玉置山展望台(15:25)
520  玉置山展望台(6:00) - 玉置山頂(6:2025) - 3pで大森山(9:3340)- 五大尊岳(10:08~18) - 2pで大黒天神岳(11:50~12:00) - 吹越山(12:55~13:00)- 2pで本宮大社(15:30~16:10)==新宮(17:41~20:25)
==(夜行バス)==
521  新宿(5:55
 
●5月18日(土) 曇り後雨
昨年と同じ時刻に伊勢市で中村・藤原は田形さんと合流し、本日の宿泊地の池原下北山スポーツ公園に向かいました。途中、熊野灘に面して迫力満点の奇岩が連なる鬼ヶ城に立ち寄りました。熊野古道歩きで「松本峠」、「七里御浜」コースを歩いた時にここは訪れなかったので「千畳敷」、「鬼の見晴場」などの見どころを楽しみました。下北山スポーツ公園の一番奥、池原ダムの近くの平成の森キャンプ場のバンガローが今日の宿です。このキャンプ場は2017年から2年連続で予約件数西日本一になったとの事で、連休後で天気もあまり良くないのにバンガローは殆ど埋まっていました。キャンプ場内の「きなりの湯」まで車で往復、さっぱりした後夕食を済ませあとは寝るだけですが、田形さんがスマホで調べた天気予報によると明日は朝から終日小雨との不安を抱えて就寝しました。
●5月19日(日) 曇り後雨
 5:00起床。今にも雨が落ちて来そうな天気です。完全雨装備でバンガローを6:00に出発。国道425号を白谷トンネル東口手前まで登り、そこから未舗装に林道を走って行仙宿補給路登山口に6:40到着。この補給路は行仙宿補修荷揚げ用に新宮山彦グループが整備したルートで急登ですが歩きやすい道でした。コースタイムより若干早く40分で行仙宿着。宿には昨晩泊まった新宮山彦グループの人達が5~6人出発準備をしていました。昨晩は天気が悪いので予定より小人数だった様です。地蔵岳の様子など聞き、7:20昨年中断した縦走を再開しました。小雨模様です。老杉の巨木の根元に祀られた大峰八大金剛童子を過ぎると傾斜がきつくなり、笠捨山まで4つの前衛鋒を越えて行きます。ほぼコースタームで9:00笠捨山着。ガスで展望なし、南奥駈の主峰格で晴れていれば八人山方面の眺めが良いので展望なしは残念。田形さんは天気が悪く岩場歩きは危険なので予定していた地蔵岳往復を断念しました。昨年同様に展望ないピークハントはお気の毒でした。車での入山サポートに感謝して別れました。
 葛川辻まで急坂を下り、地蔵岳の登りにかかりましたが、南奥駈けで最大の難所と言われるだけあって、鎖や木の根を掴みながらの急な登りが続きました。槍ヶ岳を越えて2pで地蔵岳着。
コースタームより余分にかかりました。地蔵岳からの下りも鎖場が連続し油断できません。
最難関は6~7mの垂直の岩場の鎖場で雨の為、鎖が滑り緊張しました。香精山から塔ノ岳峠までの下りも“激下り(逆落とし)”と言われる急傾斜に階段が延々と続き疲れました。約500m下り岩ノ口。ここから玉置山まで登り返します。緩やかな登り、道も整備されているので快調に歩いて15:25玉置山展望台に着きました。小雨が止みません。ここでがっかりしたのは幕営を予定した東屋には先着者がいたことです。しかもマイカー登山者です。車で眠れるのに東屋を使用するのは贅沢だろうと気分を害しましたが、気が弱い我々はクレームをつける勇気はありません。玉置神社下の駐車場まで歩くことも考えましたが、かなり疲れていたので展望台の下に幕営することにしました。ところが、テントを張り始めて直ぐ藤原さんから「あれ、ポールを忘れた!」の声。雨足が強くなり焦りましたが、展望台の柱に何とか2箇所縛り付けて不完全ながら設営終わりました。テント内部に入ると頭は天井に付きますが足は延ばせます。不自由な体勢で夕食を済ませ早々と就寝しました。
 
【田形さんの単独行動(タイムと感想)】
519日 09:00笠捨山09:10~(不明)行仙宿(不明)~10:15行仙宿補給路登山口
天気は悪かったが、奥駆道の雰囲気を味わえ、よかった。
●5月20日(月) 雨のち曇り
 夜半2時頃から雨が強まり、横殴りの雨がテントを濡らし、上からポタリ、ポタリと顔に落ちてきました。どうすることも出来ないのでシュラフを被ってしばらく不貞寝しましたが、テントの床も雨が溜まり始めたので、夜が白んだ4:30にテントから出ました。朝食は近くのトイレで済ませ、6:00に出発しました。出発時の失敗は水を切らしてしまったので天水タンクの水を煮沸しないで2人共ペットボトルに入れてしまったことです。
 昨夜の寝不足と小雨降り止まぬ天気に足取りは重いものの20分で玉置山頂(1,076.8m)着。晴れていれば熊野連山の向こうに太平洋が見えた(別名「沖見岳」)でしょうが展望ゼロ。でも山頂付近はシャクナゲの群生が見事でした。急坂を下ると熊野三山奥の院・玉置神社。早朝なので誰もいません。本殿に参拝し本宮までの無事を祈りました。本殿の裏手に聳えたつ巨杉群が見事で山岳修行の聖地の雰囲気十分です。神社からゆるやかな林道を30分下り玉置辻。ここで玉置山域から離れ本宮に向かいました。次の目標は大森山ですがこれが難物でした。玉置山より若干高いのです。前衛峰の大平多山への分岐までの激登り、切畑辻への激下りは疲れました。次の五大尊岳の登り下りも急で南奥駈道の厳しさを実感しました。その先の平坦なコル・六道ノ辻でホッとしました。後は本宮までは緩やかです。最後の大きなピーク大黒天神岳で大休止した後、本宮に向かいました。山在峠の先で藤原さんは林道を下って本宮を、中村は縦走を続け終点の備崎を目指しました。ところが中村は最後の詰めを誤りました。吹越山を越え吹越宿跡の先の道路を渡った先の登山道を見逃し、1度本宮小津荷に向かう車道を下ってしまいました(ミスその1)。30分程下っておかしいと気が付き峠に登り返し、道路を渡った先の山道に入りました。ところが15分程登ってもまだ山の頂に向かっているので道を間違えたと勘違い(ミスその2)して引き返してしまいました。そのまま進んでいれば吹越峠~展望台~七越峰~備崎~大斎原~熊野本宮まで行き藤原さんと合流した筈です。事前の調査不足、読図お粗末を帰宅後反省しました。当日は迷った末、最初に間違えた反対の林道を下りました。ことろがどんどん本宮に下ると思いきや山腹を少しずつ下りばかりで熊野川沿いの道に出ません。ようやく林道を離れた箇所は本宮から30分上流にかかる下向橋の2km先の右岸でした。生憎ずっと止んでいた雨が降り始めた為、かなり濡れながら約1時間歩いて15:30藤原さんが待つ本宮大社前バス停に着きました。本日の行動時間9時間半。奥駈道の終点備崎に辿り着く有終の美は飾れませんでしたが本宮に到達し、吉野からスタートした奥駈道縦走が完了し感慨深いものがありました。着替えが済んだ頃合いの16:10のバスで新宮に向かい17:41着。駅前の小料理屋で無事登山を祝って乾杯・夕食。20:25の夜行バスで帰京(新宿着21日5;55着)しました。

5月20日  6:38(撮影:中村)
玉置山頂
5月20日 11:50(撮影:中村)
大黒天神岳山頂

4.おわりに
(1)当初2回で完遂すると思って始めた奥駈道縦走は各局4回かかりました。その原因は古希を過ぎてからの長時間の行動に耐えられない体力的な衰えと多雨の紀伊半島の山系故に雨天が多く、縦走路が険しい事を考慮して縦走を打ち切ったことがあったことです。また、この長い縦走路には有人山小屋が1件(弥山小屋)、宿坊が2件(山上ヶ岳、玉置神社)しか無く、日数が長くなると年配者には装備・食料の重さがつらいことでした。
(2)1回目は単独行でしたが、田形さんには2回目から3回、藤原さんには3回目から2回ご一緒していただき、縦走完遂は2人のお陰と感謝します。特に南奥駈道は田形さんの伊勢市から登山口までの車走行、藤原さんの先達としてのガイドなしでは達成できませんでした。
(3)2004年から始めた熊野古道歩きが今回の大峯奥駈道縦走を持って一段落しました。
 その行動記録を前掲の大峯奥駈道縦走(その1)の末尾に【熊野古道遍歴】として掲載しましたが、一部誤り・追加がありますので、大峯奥駈道も追加し再録します。
  【熊野古道遍歴】
1.伊勢路(新町~馬越峠~尾鷲)
    ・2004年10月(日は不明:土日の2日間)
    ・中村夫妻
2.伊勢路(尾鷲~八鬼山越え~曽根次郎坂・太郎坂~逢神坂越え~新鹿)
    ・2005年12月23~26日
    ・中村夫妻
3.伊勢路(新鹿~大吹峠・松本峠越え~七里御浜~熊野速玉大社~熊野那智大社)
    ・2007年11月28~12月1日
    ・中村夫妻、他2名(中村友人、中村妻妹)
4.小辺路
    ・2008年11月17~22日
    ・中村夫妻、他1名(家内友人)
5.中辺路・小雲取越え・大雲取越え(下鮎川~熊野本宮~那智大社~那智)
    ・2009年11月24~29日
    ・中村夫妻
6.伊勢路本宮道(花の窟~風伝峠越え~丸山千枚田~楊枝の渡し跡~万才峠~大日越え)
    ・2010年5月11~14日
    ・中村夫妻
7.大辺路(紀伊田辺から那智)
    ・2015年11月11~16日
    ・中村夫妻、他1名(中村妻妹)
 8.大峯奥駈道(吉野~熊野本宮)
    ・その1:2015年4月14~17日、その2:2016年10月14~17日 
     その3:2018年10月13~15日、その4:2019年5月18~21日
    ・中村、藤原、田形

 東北湯治・山スキー
齋藤 誠(昭和63年卒),投稿日 令和元年7月3日

 
日程 ;2019427日~29日(斎藤、川名が参加した日)
  岡部(27日〜28日朝)、中西(27日〜29日朝)は、山は不参加。
  前神、兵藤、佐藤、神野は26日出発。29日下山後は別行動
参加者;前神直樹(昭51)、兵藤元史(昭52)、佐藤活朗(昭53)、神野 隆(昭54)、
    岡部寛史(昭55)、中西 茂(昭56)、川名真理(昭63)、斎藤 誠(昭63
 
 10連休の前半、兵藤さんに誘ってもらい、東北湯治山スキーに出かけた。
 現地(銭川温泉)集合で、私、齋藤は福島から車。盛岡を過ぎると吹雪となり、季節が逆戻りしたよう。タイヤを交換しないでおいて正解だった。
 山スキー2名、ショートスキー1名、スキーなし3名、湯治のみ2名。
 銭川温泉はオンドル(温泉を循環させた床下暖房)の付いた快適な自炊湯治宿。乳頭温泉、玉川温泉など、そうそうたる有名温泉がひしめく中、落ち着いたお手頃の宿。
 湯治組の岡部さん、中西さんが食当になって、おいしいきりたんぽ鍋、すき焼きをごちそうになった。ありがとうございました。中西さんは釣りを試みたようですが、釣果はなかったよう。
 
 翌朝、温泉、宴会気分でアスピーテライン入口ゲートに達するが、ゲートは降雪のため閉鎖されており、八幡平の山頂まで道路を歩くか、積雪の登山道に入り込むか、意見が分かれた。
 なんとか登山道でまとまり、歩き始める。
 程なく広い尾根筋のルートに出て、快適に上ることができた。快晴。ガスっていればルートに迷うような特徴のない広い大地が広がっていた。ところどころ、ツアー用の番号が付いた看板が設置されていた。山頂には展望台。
 帰途、クロスカントリースキーの練習に行くらしいスポーツ少年団の一行らしき集団とすれ違う。
 
 田沢湖は、絶世の美女、黄金のたつこ像が印象的。インバウンドか、地元で研修生として働いている人々なのか判然としないが、アジア系の観光客が多数であった。
 
 翌日の森吉山は阿仁またぎの本拠地のような奥深い土地。銭川温泉からは尾根をはさみ、長距離ドライブ。
 かつて前神さんご夫妻がバスツアーで訪問した縁もあり、頂上を目指す。
 神社の傍らにりっぱな避難小屋があるらしいのを遠望し、次回はその小屋をベースに宿泊合宿は?という提案がなされる。歩行距離も短く、安全性を確保できる、手頃でありながら奥深い山。マタギの勉強をしてから一帯を訪れれば、一層、趣深そう。
 頂上からは360度の展望。鳥海山、岩手山、岩木山、早池峰……北東北の名山を眼中に収める。
 
 齋藤、川名両名は北上ルートで帰途につく。大きな町はないが、家々が途切れることなく街道に連なる様子で、山の幸で食っていたのだろうと想定される街並みが延々と続いた。
 軽い山行ではあったが、湯治ツアーと捉えればこれはこれで中々のものだった。年相応に無茶をせず、旧交を温める山行もまた乙なもの。温泉なりバーべキューなり、山+αの山旅の比重が、今後ますます高まりそう。

銭川温泉台所できりたんぽ鍋を調理する中西(左)、岡部 
4月27日16時 撮影者:川名

八幡平頂上展望台 4月28日 
撮影者:川名 (前列 斎藤(誠)、後列左から、佐藤(活)、神野、前神、兵藤)

.銭川温泉玄関にて集合写真
4月29日 撮影者:宿のご主人
(左より、斎藤(誠)、佐藤(活)、川名、前神、兵藤、神野、中西)

 

 
坪山リハビリ山行
竹中 彰(昭39年卒), 令和元年4月21日

 
 昨年中苦しめられた脊柱管狭窄からの坐骨神経痛のリハビリを兼ねて一昨年12月に宮武さん他の滑落事故が発生した坪山に出かけました。
 
 事故発生時には、小生の動きが取れず現地参加は叶いませんでしたが、どんな山かの確認とミツバツツジ、ヒカゲツツジ、イワウチワ、イワカガミなどの花の観察を兼ねて出かけました。4月に入ってからの低温・降雪等でイワウチワ、イワカガミには早かったようですが、ツツジ類は盛りでした。また山麓ではサクラやハナモモも素晴らしく、バスはさながら桃源郷を行く心地(少しオーバーか?)だった。上野原の駅も嘗てのイメージとは様変わりで、5階建ての立派なものに建て替わり、駅南側のバスターミナルも良く整備されていました。
 
 8:06の鶴峠行に乗車すること50分余で登山道入口(トイレあり)の八ツ田停留所に着き、鶴川の橋を渡ったトイレ手前には警官が立って登山届提出と宮武さん達のケースにも触れながら、東尾根ルートは危険性高いことを呼びかけていた。910分に届を提出して西尾根ルートに向かった。
 
 暫く畑等の間を進み針葉樹林に入ると急な登りが続く。その前の木橋(川床は白い平滑な秩父チャート?)を直進すれば恐らく3人が発見された現場近くに行きつくと思われたが、単独行であり登山道に沿って急登を進み尾根に取付く。トイレにも寄らずに進んで来たので満員で運ばれたバス客のトップで進むが、リハビリなので無理をせずにユックリペースで進む。
 
 尾根は予想以上に急傾斜で、部分的に痩せており、要所に張られたトラロープや木の根、岩角などをホールドにする。最初はピンクのミツバツツジが姿を見せるが、次第に道の両側に薄黄色のヒカゲツツジ(印象としては黄花石楠花に近い)の群落が優勢となり、地表にはイワウチワ、イワカガミの葉が現れる。頂上直下まで急登が続くが、頂上にはジグザグを切って飛び出す。ユックリペースで時間的には登山口を出て1時間45分を要した。
 
 頂上は名前の通り狭く、頂上標識と三等三角点の標石が埋設されていた。標識に向かって手を合わせ心の中で3名の冥福を祈り、頂上の一角に腰を据えて昼食とした。食事をしながら周囲の山座同定を試みる。北側の奥多摩方面は直ぐ近くに三頭山、槙寄山など笹尾根に繋がる山並み、三頭と奈良倉山の間、遠景に雲取山、七ツ石山、南西遥か彼方には最近の降雪で一段と白さを増した富士山などの絶景が広がる。
 
 絶好の好天の下で久し振りに山の空気を吸い、足腰の故障も認められなかった嬉しさから脚に少し疲れが出ていたが、気持ちは軽やかだった。1時間近く滞在し、1140分に頂上を後にする。下山路の東尾根入口には2枚の大きな看板に「東ルートは急坂・岩場の多い未整備・事故多発ルートのため「びりゅう館」への下山ルートをご利用ください。上野原市」と記されていた。指示に従ってびりゅう館を目指して緩やかな尾根道を進むが、最初は急下降が続き、灌木やトラロープを利用しながら暫らく緊張を強いられた。その後は自然林の中、アセビの間のアップダウンを繰り返しながら、概ね赤松などの自然林の間を進むがここでも所々でピンクのミツバツツジ゙が目を楽しませてくれた。
 
 頂上からノンストップ50分余で、枯れた赤松の大木が立つ阿寺沢分岐(850m)で道は左折して降下する。直進は阿寺沢バス停方面に下るが、地元コース案内では道が荒れているとのことでバツ印がある。この辺りまで来ると久し振りの山道歩きに足に疲労感が出てくる。少憩後にびりゅう館を目指して下るが、ヒノキの植林が多く、単調な道で偶に現れるミツバツツジ以外に見るべきものは少ない。いい加減飽きた頃に下にゴールのびりゅう館の青い屋根が見える。
 
 頂上から1時間半余り、1315分にトイレや地元産野菜、お土産売店、食堂などがあるびりゅう館に到着する(540m)。予定ではスグそばの学校前バス停1443分まで待機の筈だったが、今日は客が多く増便(臨時)が出るとのことで、待つうちに構内駐車場に乗り入れて来たバスに乗車する。座席定員40名になったところで予定より1時間以上早く1345分に出発して上野原に向かう。駅には1436分に着き、遅れて来た中央線高尾行にタイミング良く間に合い、八王子経由で16時前には自宅に帰り着いた。
 
 久し振りの登山で、長い下りの所為もあって、翌日からかなり酷い大腿四頭筋痛に悩まされ、自宅の階段昇降に難儀をしているが、昨年までの坐骨神経痛で屋内もストック頼みで歩いていたことからすれば、ある意味贅沢な悩みと割り切って、新しい令和に時代を迎えようとしている。徐々に皆さんの山行のお供も出来ればと考えている。宜しく。
 
 
 

焼岳登れずの記(懇親山行報告)
兵藤 元史(昭52年卒)

 
 冬の穂高連峰を久方ぶりに眺めて、焼岳もついでに登りませんかとの呼びかけに、老登山家達9人で出かけた懇親山行の報告です。
 
行程 : 
2019年29日 松本駅集合 1435  中ノ湯温泉 1610
     2月10日 中ノ湯発 640  到達点(2020m)1100  中ノ湯着1320
 
参加者(敬称略):
佐藤(久)、岡田、吉沢、中村(雅)、前神、佐藤(周)、兵藤(焼岳組)小島、藤原(上高地組) 計9
 
2月9日 小雪
 関東地方は大雪のおそれとの予報で、電車の遅延が心配されたが、降ったのは千葉方面が中心で、中央線は順調に動いていた。茅野辺りから小雪が舞い始めた。手配してあった中ノ湯温泉からの迎えのバス(無料)は、三連休の初日とあって満員だった。
 
 今回は中の湯温泉旅館の「スノーシュープラン」にて予約(12食付き12,800円、スノーシューやストック無料貸出付き)したため、本来は眺めのない部屋だったはずが、満員に依る部屋繰りのため、吊り尾根が眺められる部屋となった。天気が悪いので、当然眺望はなかったが、翌朝ゆっくり出発した上高地組はその恩恵にあずかったとのこと(別記報告書参照されたし)。
 
2月10日 薄曇りガス&雪晴れ
 焼岳組は浴衣、丹前姿の上高地組の見送りを受けて640に出発。朝食は7時からとのことで前夜おにぎり弁当受け取った。出発前に全部食べた人、一部食べた人、山に持ち上げた人、それぞれであった。
 
 さて、スノーシューであるが、持参したのは中村さん、前神さん、それにワカンの周さん。残り4人は初めて履いたのであった。昨夜靴の合わせ方を教わって、十分理解したつもりだったのだが、少々酔った状態だったこと故か、レンタル品の故か、歩き始めてすぐに外れる人が続出・・・・どうなりますやら。
 
 ともあれ、スノーシューを付けて温泉横の登山口を出発。昨夜の雪は1015cm程度。数日前の雨でその下はクラストしていた。40分ほど車道を歩くと、焼岳登山口に到着。
傾斜の無いところではスノーシューは快調だったが、傾斜がきつくなると下のクラスト面で滑って、結構な苦労となった。久さんは早々にスノーシューを諦めてデポし、アイゼンに履き替えた。
 2時間ほど歩いた時点で吉沢さんもアイゼンに替えた。ワカンの周さんは結構潜ると言っていた。但し、ワカンとスノーシューの違いなのか、体重の差なのか、そこら辺は不明!!
 
 樹林帯を抜け出して、「広場」と呼ばれる場所に近づく頃には、雪が降り始め、本来見えるはずの穂高や焼岳も隠れてしまった。ラッセルもこの辺りで深くなり、疲れから遅れ始める人もでたため、11時に登高を止めて下山することに。疲れた人の原因は、間違いなくシャリバテでしょう。下り始めてから朝食のおにぎりを食べていましたから・・・。
 
 連休というのに他の登山者は、単独BC(バックカントリー)スキーヤー(前日広場にてテント泊とのこと。スキーも上手げであった)と下山時に登って来た2人組とのたった3人だった。満員の中ノ湯の宿泊客は、皆上高地に向かったようだ。
 
 登頂はできなかったけれど、久しぶりに冬山の雰囲気を味わえて楽しかった、などと語らう内に下山終了1320。チェックアウトは朝済ませていたが、宿泊客は下山後も温泉に入れるとのことで、汗を流した。この頃から穂高の稜線が見られるようになり、吊り尾根、明神を眺めつつ露天風呂を堪能した(岡田さん撮影の穂高をご覧下さい。素晴らしい写真です。)
 
 その後、久さん他3人は15時の定期バス(松本高山)にて松本へ出、「あずさ」にて帰京した。中村さん、岡田さん、吉沢さん、周さんは中ノ湯に連泊した。
 皆さんご苦労様でした。

焼岳登頂を諦めた地点で
2月10日(撮影・岡田)
穂高吊尾根-中の湯玄関にて
2月10日(撮影・岡田)
前穂高岳と明神岳
2月10日(撮影・岡田)
穂高吊尾根-中の湯温泉旅館から
2月10日(撮影・岡田)
 

冬の上高地散策
小島和人(昭40年卒)、藤原朋信(昭44年卒)

 
1.2019年210日(日) 
  釜トンネル入口(845)~大正池(945)ここから二人別行動
  小島: 河童橋まで散策し、13時過ぎにトンネルに戻り。
  藤原: ~河童橋(1015)~明神(徳本峠分岐)(1100)  
      近辺でスノーシュー練習し12時に往路を戻る  釜トンネル着 (1430
2.メンバー 小島和人(昭40年卒)、藤原朋信(昭44年卒)
3.記録
 
 早朝6時半に出発する7人のシニアアルピニストを見送る。玄関にいたご婦人が皆さんどこに行くのかと聞くので、焼岳に登頂ですと答えると、尊敬のまなざしで頑張ってと応援して頂いた。
 全くレスペクトされなかった我々二人は朝風呂に入り小原庄助さん気分である。部屋に戻ると陽が出て窓からのぞくと、なんと明神、前穂、吊尾根、奥穂が一望できた、神様は焼岳に向けて寒風とラッセルにあえぐ者にも、エアコン付き部屋から遠望する者にも等しく恵を与えてくださる。これも日ごろの行いが良いせいだと納得した。今回の目的は、50年来傍を素通りするだけであった中の湯に初めて泊まることと、冬の穂高を眺めることで、後者は先ず天候面で無理だろうと思っていたのに、早くも実現し信じられない思いであった。
 8時に朝食をすませ、釜トンネル入り口に着いたのは845分である。中国からの子供連れを含む数パーティーが同時に釜トンネルに入る。腰と太腿に強い痛みを抱える小島兄を先頭に自分のペースで歩いてもらうことにしたが、予想に反しペースが早い。朝風呂で体も心も弛緩している私にはついていくのがやっとである。
 釜トンネルを抜けた上高地トンネルの前で小休止し、朝焼けの焼岳を見上げる。7人の士は慣れぬスノーシューに苦労しているのではと思いやるが、こちらは冬晴れで何の苦労もない。歩き始めて1時間弱で大正池に着いた。ここから先は小島兄より各人好きなペースで上高地を楽しむ為に別行動の提案があり、私が河童橋に先行する。道は先行者の足跡が入り乱れラッセルは不要、かつ凍結もないのでアイゼンもいらない。夏タイムとそれほど違わず河童橋に出た。冬景色の河童橋はまた別の趣であるが、新緑と雪解け水で命萌える6月が懐かしい。ここで軽く昼食を取り、スノーシューをつけた、小梨平より先は人も踏み跡も少なくなり、スノーシューが快適である。
 踏み跡がない横道をえらんで進むと明神まで良い練習になった、踏み跡はなおも徳澤方面に続くが徳本峠への分れで全くラッセルがない峠道へ入る。処女雪を500mほど蹴散らして至極満足したのと時間切れが迫ってきたので帰途についた。冬に再訪することはないと思い、帰りは明神を眺めながらゆっくり歩いた。天気はまだ持っている。それでも最後の釜トンネルで中を吹き抜ける風の冷たさにやはり冬の北アルプスの片りんを感じさせられた。
 
 バス停で松本行のバスを待っていると焼岳組の三人が現れ、互いの無事を確認できました。冬には滅多にない好天に恵まれた良い山行でした。幹事さんに感謝!感謝!です。(藤原記)
 
追記
 
 藤原さん今回の懇親山行では大変お世話になりました。太腿の痛みから、今回の山行では湯治と宴会だけと決めて参加しましたが、夜と朝の風呂の効果か痛みも和らぎ、藤原さんの後押しで釜トンだけは歩いて見ようと思い出かけました。広くゆるい傾斜で、電灯も付いた新しいトンネルに感心して歩くうちに、雪崩の怖かった釜トンの先に出て、きれいに治水工事のできた沢筋にまたまた感服、足腰の痛みなど忘れ新しい上高地トンネルを抜け、踏み固められた雪道を辿り、歩き始めて一時間で大正池でした。
 大正池で藤原さんには先に行ってい頂いた後、ゆっくり歩きを楽しみながら河童橋に10時半過ぎに着きました。信じられない気持ちでしたが、橋のたもとの建物の軒先で陽光を浴びながら小一時間ぼーっと過ごしました。
 
 帰りは大正池のほとりで、暫く、雲の上に顔を出した明神と前穂の雄姿に見とれました。13時過ぎに釜トンの下につきました。
 
 こんなに楽しめたのも藤原さんの柔らかなプッシュのお陰です。本当にありがとうございました。
 藤原さんは徳澤からの帰り道かなと思いながらタクシーで沢渡に行って村の様子など見てからバスに乗りました。
 
焼岳に行った皆さん
 上高地への往復の間、焼岳はずーっと厳しい姿を見せていました。強い風と雪と戦った皆さん。ご苦労様でした。今度の三月会でお話を聞くのが楽しみです。
 
 最後になりましたが、兵藤さん素晴らしい懇親山行を企画、行き届いた配慮をいただき有難うございました。ご苦労様でした。(小島記)

花の山されど魔物のいる山「坪山」- 故宮武幸久氏の追悼登山 -
佐藤久尚(昭和41年卒)

 
 宮武さんが昨年12月23日、中学時代の友人二人と共に坪山(1102.7m)で亡くなってから10ヶ月が経った。「去る者は日々に疎し」と言うが、宮武さんに関しては全くそんな気がしない。毎月の三月会の場などで、山岳部への支援について熱く語る宮武さんの姿が目に焼き付いている。また三月会の後の二次会(神保町の居酒屋)でも、同じ話を繰り返し、挙げ句の果てには「原さんや久さんなんかは、現役時代、自分達の好きな山にばっかり行っていて、我々1年生の面倒を全くみてくれなかった。」と、からんで来る、その酔った口調と声が、耳の奥に張り付いている。兎に角、宮武さんは学生への支援には熱心で、寝言でまでその必要性について蕩々と述べる程であった。そんな宮武さんだったから、追悼登山をなるべく早く行いたいと思って、8月の三月会で「追悼登山を1013日(土)に行いたい」と提案したところ賛同を得たので、HUHACメールで案内を出した。        
 その結果、上は御年86歳の佐薙先輩から下は大学2年生の川原の乃さんまで、幅広い層の針葉樹会員並びに山岳部員から参加の返事が寄せられた。また、ホームページで追悼山行のことを知った宮武さんの中学時代の友人の中村健さんからも参加の意向が寄せられ、参加者は総勢18名となった。(当初22名から参加の申し出があったが、4名が途中でキャンセル)
 
 当日は、一週間前から秋雨前線が日本列島の上に停滞していて天気が心配されたが、宮武さんの人徳のお陰か、曇りながら熱くもなく寒くも無い絶好の登山日和となった。全員が830分に上野原駅に集合しバスで登山口(八ツ田バス停)まで行く。バスを降りると、坪山は紅葉前の青々しい姿のままで我々を待っていた。歩き出す前に坪山の地図を配布し、コースと宮武さんの遺体が発見された場所について説明、バス停近くに設置された公衆トイレでトイレを済ませて歩き出す。(地図は1月15日にお礼方々遺体発見状況について聴取するため、小島会長ほかと上野原警察署を訪れた際に入手したものである。)
 
 坪山には西原側からのルートが三つある。このうち宮武さん一行は、西尾根ルートから登って東尾根ルートを下ったと考えられるので、我々も忠実に彼らのルートを辿ることにした。登路の西尾根ルートは、ヒカゲツツジやミツバツツジの群生のほかイワカガミやイワウチワなどが密生しており、4,5月頃には花を楽しむハイカーで賑わう、近年人気のコースである。しかし傾斜はかなり急で、ロープが張られた所もある。佐薙先輩のお年を考えて、トップの佐藤(周)さんには、ゆっくり、ゆっくり歩くよう頼んだが、それも無用の心配、全員ほぼコースタイム通りで登りきった。坪山は頂上が一坪程度の広さであるところから坪山という名前が付けられたという説もあるが、実際の頂上はそれ程狭くはない。18人が休むには十分な広さがあり、穏やかな頂上で三頭山や権現山などの眺めも良い。またこの日は見えなかったが、富士山もよく見えるという。12月末に登った宮武さん達は、ここから白銀の富士山の眺望を楽しんだに違いない。頂上到着が丁度ランチタイムであったので昼食を取った後、山讃賦を歌って遭難した3名のご冥福を祈った。なお、お線香も持参したが、山火事の心配もあるので焼香は控えた。
 
 下降路の東尾根ルートは西尾根ルートよりも更に急で、地図にも「岩場が多く危険」と注意書きがある。追悼登山で事故を起したのではシャレにもならないので、ザイルを持参した斉藤さんと佐藤(周)さんの二人に先行してもらい、必要に応じてザイルやトラロープを張るよう依頼、残り16人はその後を慎重に下ることにした。実際に下ってみると、西尾根ルートは確かに急坂や痩せた岩尾根があり、落ちたら致命傷を負いかねないような場所があったが、ただ一カ所()を除いては、ロープが張られたり樹木が適度に密生していたりして、それらにつかまって下ることができるので、私自身はそれ程危険は感じなかった。またルート工作のため先行した斉藤、佐藤両氏も頂上直下の急斜面で20mのトラロープを張ったが(そこにもロープがフィックスされていたが、既存のロープが古いので念のために張った由)、他の場所ではザイルやロープを使うまでには至らなかった。
 
(注) 地図で「急坂」と記してある所に何故かロープが固定されていなかった。そこは樹木もまばらでホールドも無いので、冬の落ち葉が積もった時などは滑落の危険があると判断、また宮武さん達が滑落したとすればこの辺りかも、と思われたので、岡田さんと私でトラロープ20mを張って残してきた。
 
 山行幹事としては、下りはコースタイムの2倍かかると見込んで、15:51発のバスに乗るものと予定していたが、皆さんあまり難儀した様子も無く順調に下って、ほぼコースタイム通りで麓の御岳神社登山口に着くことができた。このため予定していたよりも一本前のバスに乗ることができて、上野原駅前の「一福食堂」で明るいうちからの打ち上げの酒宴となった。打ち上げでは、まず小島会長のご発声により、遭難した3人のご冥福を祈って献杯、その後、友人の中村さんから、「宮武さんは中学2年生の時に転校してき来て、いきなり一番の成績を取った。」など、我々の知らない逸話が披露された。また他の参加者からも、宮武さんの楽しい思い出話しがいろいろ出され、さらには学生時代、宮武さんに面倒をみてもらい、今年の春卒業したばかりの内海君と大矢君からも、宮武さんの思い出話しと共に新社会人としての近況報告がなされ、座は大いに盛り上がった。お酒がほど良く回ったところでお開き、各自それぞれ帰路についた。
 
 こうして追悼山行は終えたが、今回坪山に登ってみても、遭難当初から抱いていた疑問、「何故あんな山で宮武さんともあろう者が遭難したのか。しかも3人で。」という疑問は消えない。グーグルのブログにも「岩登りでロープに繋がっていての滑落なら分かるが、坪山のルートでは可能性なかろう。普通の山歩きで3人が同時に滑落なんてありえない。不可解極まる。」という、遭難の新聞記事を見た読者からの投稿もある。警察も我々の質問に対して滑落とは言うもののそれ以上の事は答えてくれない。東尾根ルートを踏査し改めてあれこれ考えてみたが、やはり疑問は消えない。私には「坪山には魔物がいる。」という思いが募るばかりである。
(当日の参加者―敬称略)
佐薙、本間、小島、佐藤力、佐藤久、岡田、斉藤正、吉沢、藤本、加藤博、松田、佐藤周、内海、大矢、(以上OB
安藤、吉田、川原、(以上学生)
中村健(宮武さんの友人)
        
以上

坪山頂上にて撮影(加藤)
前列左から、佐藤(力)、本間、佐藤(久)
中列左から、斎藤(正)、川原、岡田
後列左から、松田、小島、佐薙、中村健氏、吉沢、藤本、安藤、吉田大矢、内海、佐藤(周)