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蛭川隆夫さんを偲んでー北海道カヌー行の思い出  中村 雅明(1968年卒)こちら

 
 

 
 
 

針葉樹会地方会員のお便り紹介

HP幹事 加藤 博行(昭 51年卒)

 
 針葉樹会のホームページ(HP)担当を中村(雅)さんから引き継いで、2年近くになります。時折思わぬ方よりHPに関連したお便りをいただくことがあり、これもHPを開設・運営させていただいているご縁かと思います。
 今回は、223日夜のことでした。翌日から23日の予定で、1972(昭和47)年に山岳部に同期入部した仲間と熊野古道を歩き、那智勝浦で同窓会を行う前日に関西在住の中西巌会員(昭和35年卒)より頂戴しました。同時代を過ごされた会員の皆様には懐かしい内容が含まれていると思われ、ご本人の了解をいただき、ここに主なやりとりを紹介させていただきます。
 

2020年2月23日 受信

 針葉樹会 加藤博行様

中西 巌(昭 35年卒)

 会務にご精進ご苦労に存じます。いつも会報お送り頂き感謝申し上げます。
 第145号ゆっくり拝見しております。冒頭の市川さんの一文拝見して、懐かしむと同時に、はるかに遠い昔(筆者注:1956年)、市川さんと一緒した、涸沢での2週間の夏山合宿、それに続く10日程の縦走山行、中尾峠を越え錫杖,笠,抜戸、双六、蓮華、鷲羽、野口、烏帽子、針ノ木、そして長い長いくだり経て葛温泉で汗を流したのを思いだします。山本リーダー、サブリーダー岡垣さん、甘利さん、T中さんも一緒でした。
 合宿中は、前穂高、滝谷のほとんどの岩壁にとりつき、また一日、涸沢から北穂高、キレットをへて稜線を槍までの往復など市川さんとご一緒したことを思い出します。
 今の皆さんの夏山合宿はどのようになつていますか。
 ところで、メールしたのは、会員の皆さんの様子を知りたいと思いホームページを見たところ、それには、「ユーザー名」、「パスワード」が必要とのこと、ご通知頂いていたかもしれませんが、いまは分かりませんので教えてください。
 小生、夏の6月末から9月始めまでの2ヶ月強、このところ夏の酷暑をさけ、ニセコに滞在することにしています。昨年は、オープンしたばかりのホテルスカイニセコに滞在、毎日羊蹄山をながめてくらしました。今年も同様の予定でホテルの予約も済ませています。その間、大雪山や富良野岳、芦別山などのできれば訪問してみたいと考えています。
 
 

2月23日 返信

                                   加藤 博行

 
 中西様
 ホームページ担当幹事の加藤(昭51年卒)です。
 お便り頂戴し有難うございます。
 またホームページ拝見していただき感謝いたします。
 針葉樹会員資料のユーザー名、パスワードは以下の通りです。
(以下省略)
 
 ユーザー名、パスワードではご不便をおかけしておりますが、ご理解ください。
私の方からは、ホームページ新規記事掲載時にメールで、記事のご案内と、ユーザー名・パスワードをお知らせしております。最近のメール2通を中西様宛別途再送しますので、もし受領されていないようでしたら、お知らせください。
 

2月24日 受信

 
加藤様

中西 巌

 早速のご返信ありがとうございます。
 久しぶりにホームページを拝読させていただきました。皆さんのご努力に感銘をしております。その中の、上原さんの「針葉樹文庫我が会の伝統の証」を興味深く読ませていただきました。そこで上原さん触れていたこと。
 昭和3112月山本チーフリーダーのもと、北岳バットレス中央稜を目指した冬山合宿の用意の秋の荷揚げで、無人の荒川小屋と稜線にデポした後夜叉峠に戻り鳳凰三山を縦走、山中で一泊、一部積雪一部結氷の山稜をアイゼンを利かせながら楽しく上り下りしたのを思い出します。地蔵からの燕頭山を経ての長大のくだり。お座石鉱泉での、打ち上げなど、遠い記憶が蘇ります。
 山本さんの別荘に家内とお邪魔してバーンスタインのベートーヴェンを聞かせていただいたことなども思い出がつながります。渡辺さんも一緒でした。両氏ともすでにこの世におられないことは残念です。
(後略)
 

2月24日 発信

 中西 巌 様

加藤 博行

 今旅先で、26日まで出かけております。戻りましたら、アドレス登録変更や、最新名簿をご案内いたしますので、少しお待ちください。また、この機会に、何か他にお尋ねの件があればお知らせください。
 今回中西様と連絡がとれて良かったと思っております。くれぐれも、新型ウイルスに気をつけてお過ごしください。取り急ぎ返信まで。
 

2月24日 受信

 加藤様

中西 巌

 ご旅行中、大変な労をお煩わせし申し訳ありませんでした。いろいろとご教示くださり厚く御礼申し上げます。
 熊野は,昨春、数日かけて通り過ぎたばかりです。本宮大社、速玉大社は別として,新宮には、新宮城、神倉神社、佐藤春夫記念館そして徐福の墓など必見のところがあります。神倉神社の危険な階段は、女坂に避けて下りました。生まれ故郷の新宮をこよなく愛した春夫の「望郷五月歌」
 
「塵まみれなる街路樹に哀れなる五月来にけり、石だたみ都大路を歩みつつ、恋しきや我が故郷、あさもよし紀のくにの牟婁の海山、、、」
 
いい詩です。
 
 史記によると、前3世紀、徐福は3000人以上の若い男女、5穀の種、百工を携えて日本に来ています。当時の最新の技術を日本にもたらしその後の日本の発展に貢献したはずで、どうなっているのでしょうか。日本各地に徐福伝説がありますので、何艘かに別れた船が各地に流れ着いたのでしょうか。
 足をのばすと、熊野には花の窟、鬼が城、神武天皇熊野上陸の地「楯が崎」など伝説の地が一杯です。
 つまらぬことを書きましたが、ご旅行の安全を祈ります。
 
 

2月27日 発信

 中西様

                                加藤博行


 昨日熊野古道より戻りました。
 今回は、新宮から熊野川をバスでさかのぼり、翌日小口から那智大社まで約8時間の歩きでした。道中、人は少なく、苔むした石段を敷き詰めた杉落ち葉を踏みながら、越前峠を登る静かな古道歩きを楽しめました。
 舟見峠あたりは勝浦の浜が見渡せ、絶景でしたね。
 関西在住の皆さんは近くてうらやましいです。

(後略)
以上が、中西会員とのメールのやりとりの要旨です。
 
 中西会員が触れられた当時の夏山合宿の様子は、針葉樹12号(P162~)に詳しく記録されています。30数名の現役部員にOB会員も参加され、今読んでもあの時代の熱気と高揚感が感じられます。
 
 このメールのやり取りから、その後新型肺炎騒ぎで世の中が様変わりし、ずいぶん時間がたった様な気がします。我々の熊野古道の旅は、今から思えば一連のウイルス禍走りの時期で、海外からの団体旅行者が大きく減り始めたさ中でした。24日朝東京を発ち、名古屋より新宮を経て熊野交通のバスで人気の少ない小口自然の家で田辺から中辺路を歩いてきた仲間と合流し、一泊しました。
 翌25日、大雲取登り口から古道に入り、道中、越前峠、石倉峠を経て、舟見峠に着けば、樹林の合間から静かな勝浦の入り江が望めました。舟見茶屋跡から古道は緩やかに高度を落とし、那智高原を経て、熊野那智大社神舎裏にひょっこり降り立ちました。うす曇りの天候の中、驚くほど静かな熊野古道歩きとなり、平安の昔の人々の往来に思いをはせ、またこの間、携帯で中西会員とのお便りのやりとりもあり、思い出深い旅となりました。
 
 冬の熊野古道の旅参加者:兵藤(昭52年卒)藤田(昭52年卒)元井(昭51年卒*元山岳部)佐藤(活)(昭53年卒)加藤(元井は、那智勝浦で合流)
 熊野古道旅程 224日 夕方、小口自然の家に集合
        225日 6:55 小口自然の家発 10:00 越前峠
             11:30 石倉峠     13:00 舟見茶屋跡
             14:30 那智高原    15:00 熊野那智大社着 
                          (勝浦 万清楼泊)
 
 

大雲取越 小口からの歩き始め
越前峠にて(左より、佐藤(活)、藤田、兵藤)
石倉峠手前の下り坂
舟見茶屋跡の道標

蛭川隆夫さんを偲んでー北海道カヌー行の思い出

中村 雅明(1968年卒)

 
 昨年11月21日に如水会館で「蛭川隆夫さんを「語る会(偲ぶ会)」が同期トーチン会の主催で開催されました。その世話人の竹中さんに送った出席メールに書いた文章を以下に転記致します。

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 蛭川さんには東京在住の時から北海道に移住された後も大変お世話になりました。主なものを以下に記します。
<東京在住時>
1.懇親山行 長年山行幹事として楽しい山行を企画されました。その多くに参加しました。
2.2008年8月に開設したHPのHP編集委員の1人として編集のイロハから教えていただきました。また、開設後も「山讃賦の歌詞」(『記録・資料』―『山讃賦』資料)『山の花』の初稿(北海道の花)等、蛭川さんならではの論考、記事を投稿していただきました。
3.2009年5月の芦安山岳館の針葉樹文庫開設後に新設された図書幹事の副幹事として図書関係の課題の手ほどきを受けました。
<北海道移住後>
1.夏の北海道山行時に、事前アドバイス、終了後の札幌での懇親会でいつもお世話になりました。
2.山行以外では、釧路川カヌー下り(3日間)(2017年7月)、天塩川カヌー下り(4日間)(2018年7月)をご案内し、少し御恩返ししました。

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 私が大学に入学した1964年の3月に蛭川さんは卒業されていますので学生時代には山行を共にしていません。従って通常は深いお付き合いをする間柄になりませんが、蛭川さんとは以上の通り、針葉樹会の諸活動を通じて密度の濃いお付き合いをさせていただきました。
 ご一緒した二つのカヌー川下りは①蛭川さんが最後に取り組まれたアウトドア②漕行記を二人とも書かなかったので蛭川さんがカヌーをされていたことが知られていないことから蛭川さんを偲ぶよすがとして以下にその概要・蛭川さんの思い出を綴ります。
【 釧路川 】 2017年7月
 釧路川は屈斜路湖から河口まで全流を下ることができます。河川長105km、夏季には全国からカヌーの愛好家が川下りに訪れます。カヌーを始めた1995年からいつか釧路川に行こうと相棒N氏(二人艇の共同購入者)と念願していた釧路川の計画を固めた2017年春に蛭川さんに話したところ、ぜひ一緒に懇願されました。
 蛭川さんは
①前年初めて釧路川ガイド付きカヌーツアーに参加しカヌーに魅了された
②2009年7月に釧路湿原のガイド・ツアーに参加したこともある(注1)のでカヌーで湿原を見たいとのことでした。ところが障害が三つありました。
①二人艇なので3人一緒に行動できないこと
②コースには何箇所かカヌーが沈(転覆)する危険がある
③蛭川さんは初心者なので3日間の川下りが大丈夫かです。
 そこで私と相棒が屈斜路湖~細岡(展望台近く:94km)まで2泊3日で下り(前半)飯岡で蛭川さんと合流し、蛭川さんと私が危険な箇所がない摩周・釧路川橋から細岡まで2泊3日で下る(後半:前半の3/5)ことにしました。
 前半は7月13~15日(沈2回)、後半は7月16~18日、前半の経験を生かして沈0で無事漕行しました。二人艇の後部に私が座り舵取りと主推進漕ぎ、蛭川さんは前部に座り真面目に?漕がれました。普段は饒舌な蛭川さんが口数少なかったですが、「川の上にいる時の自由の感覚、開放感を陸にいる人間に説明するのは難しい。この目前にある自然や時間はすべて我々だけのものであった。―野田知佑―(注2)」を実感してカヌー川下りを楽しまれたと思います。 
 飯岡の宿で霧多布観光を終えた家内が合流し、翌日、電車と蛭川さん自家用車で野中温泉に向かい、そこで2泊し、蛭川さんは温泉でカヌーの疲れを癒しました。私と家内は雌阿寒岳、阿寒富士、雄阿寒岳に登りました。
 (注1)『針葉樹会報第116号』
   「北海道紀行―シマフクロウと釧路湿原ガイド・ツアー」 蛭川隆夫
 (注2)『日本の川を旅する』講談社「いざ原野の光の中へ ――釧路川」
    野田氏はエッセイスト。カヌーイストの第一人者、カヌー関係の著書多数

7月17日 11:38
瀬文平橋手前の河原(蛭川)
7月18日 13:50
二股先(エゾシカ)
7月18日 13:03~
釧路川を漕ぐ蛭川
 ※▶をクリックすると動画をご覧になれます

【 天塩川 】 2018年7月
 天塩川は河川長256km、そのうち160kmは堰堤などはなく川下りコースとしては日本一長いです。1992年に始まった国内最大級のカヌーツーリング大会「ダウン・ザ・テッシ」には、全国から多くのカヌーファンが集まります。前年の釧路川の後、私とN氏は老朽化した二人艇を買い替えました、私は軽量のバックラフト一人艇、N氏は前と同タイプのインフレータブル・カヌー二人艇を新規購入しました。
 3月に蛭川さん、中村、N氏の3人で天塩川カヌーの検討を開始しました。7月に固まった計画は
①時期は7月23~27日。中村は針葉樹OBの暑寒別山行の延長(注3)で参加
②カヌーは蛭川・中村がレンタル・カヌー3人艇、N氏と友人はN氏が購入した二人艇カヌー
③コースは『ダウン・ザ・テッシ・オ・ペ スペシャル 2018」の最長コース(名寄市~天塩町河口まで151km3泊4日)
④宿泊は蛭川&中村組は宿屋orぺンション、N 氏&友人組がテントです。蛭川さんは昨年の釧路川行の時はこちらにお任せでしたが、今回は事前調査、コース、宿の選定の相談に乗っていただき助かりました。最長コースにしたのは蛭川さんの強い希望によるものでした。
 7月24~27日。2パーティーは天候に恵まれ、無事予定したカヌー行を行いました。
 以下、蛭川&中村組の特記事項です。
①カヌーは初日はガイド同乗3人乗り、その後は同じ艇を2人乗りしました。料金はヘルメット、ライフジャケット、パドル、補助ロープ等の装備代、終了後の艇の引き取りも含めて3万円でした。
③天塩川は勾配が全体的に緩やかでゆっくりと流れています。瀬と呼ばれる場所はほ殆どなく安全でした。天塩川の名の由来になった「テッシ(岩盤の浸食によってできた自然の堰)」が川の随所にありましたが、通過するのに苦労しませんでした。
③初日の夕方と翌朝の2回、天塩川温泉の先の音威子府にある幕末の探検家松浦武四郎の「北海道命名之地」碑を訪れました。蛭川さんは松浦武四郎の大ファンでこの碑を訪れるのを楽しみにしていました。
④興味を持ったことはとことん調べまくる蛭川さんならではの切っ掛けとなることがありました。最終日、あと4km で終点の河口の砂浜で前夜の宿のお弁当の箸袋に印刷してある「天塩川」という歌の歌詞を読んで、作詞者・作曲者・歌手を気にされました。翌日、弁当の宿、観光案内所を訪ね、帰宅してネット検索して作詞:時雨音羽、作曲;八州秀章、歌手;都はるみに辿りつきました(注4)。
  (注3)『針葉樹会報第142号』「暑寒別岳」 岡田健志
  (注4)調査は、時雨音羽のこと、幌延町の「名山台展望公園」の詩碑「天塩川」に及びます。
     以下のエッセイの末尾に「カヌーの縁で「はるみ」や「音羽」に再会し、
     青春時代を懐旧できた 天塩川よ、ありがとう!」と綴られています。
 
蛭川さんは最後に”カヌーの縁で「はるみ」や「音羽」に再会し、青春時代を懐旧できた。天塩川よ、ありがとう!”と結んでいます。

「天塩川と都はるみ」の参考としたブログ(クリック)
  ※上のボタンをクリックするとエッセイがご覧になれます。
7月25日 8:50
音威子府 「北海道命名之地」
(碑を眺める蛭川)
7月26日 9:14
ポンピラ・カヌーポ-トから漕出し
(蛭川)
7月26日 11:51
天塩川河口手前で休憩
(蛭川)

 釧路川、天塩川を蛭川さんと二人で3日間下り、二人きりの空間と濃密な時間を共有したのは貴重な思い出です。登山とは違った感慨がありました。長年お世話になったこと改めてお礼申し上げます。
 ご冥福をお祈りいたします。 合掌