山関係の随筆コーナーです | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
■目次(クリックすると詳細へジャンプいたします) ■読書メモ:小谷部全一郎とアイヌ教育とフレデリック・スタールと富士山 −2014年3〜7月− 蛭川 隆夫(昭和39年卒) ■南アルプス国立公園指定五十周年記念事業で出番を得た、山の歌『山恋しくて鳳凰三山』 上原 利夫(昭和33年卒) ■634Mの山たち 遠藤 晶土(昭和37年卒) ■芦安関連-奈良田を訪ねて 上原 利夫(昭和33年卒) ●芦安(山梨県南アルプス市)との縁 上原 利夫(昭和33年卒) ●雪山賛歌(雪山再会) 金子 晴彦(昭和46年卒) ●山と茶 佐藤 力(昭和40年卒) |
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■読書メモ:小谷部全一郎とアイヌ教育とフレデリック・スタールと富士山 −2014年3〜7月− 蛭川 隆夫(昭和39年年卒) ****** 2014年7月18日 山崎孝寿さん宛てメール添付資料 (編集前書き) 1.出典のメールから本文前書きとして以下を抜粋します。
2.山崎さんの『ジャパニーズロビンソンクルーソー』の紹介は 当HPの『記録・資料』−『小谷部家・家系図』の【家系図ご提供の経緯】の ●2014年3月26日 小谷部全助、全一郎 に収録されています。 2014年の3月、HUHAC(HP)で小谷部全一郎のことが記事になった。小谷部全一郎が一橋山岳部の大先輩である小谷部全助の父親で「ジンギスカン=義経」説を唱えたことは現役時代に聞かされていたが、HPにはその全一郎が「在米中、人類学、考古学を学んだ」、そして「北海道アイヌ虻田学園創始者」だとあった。 北海道に移住して、自分は北海道先住民族(縄文人〜続縄文人〜擦文人、オホーツク人、アイヌ人)とその系統や文化に興味を抱くようになった(在米中の全一郎と関心範囲が重なる)。また、虻田には伊達考古学研究会に入会した関係で何度も訪問している。そんなことから全一郎に引きつけられたのだが、考えてみると、全一郎の「ジンギスカン=義経」説では、義経は衣川から北海道に逃げ、北海道から大陸に渡ってジンギスカンになるのだ。なにかと北海道に縁のある全一郎は見過ごせない人物だと思った。 HPでは、小谷部全一郎が自伝(今の流行の言葉では自分史)、
さっそくこの両書を図書館から借りてきて、一気に読んだ。全一郎の生い立ちから始まって、アメリカ渡航の痛快冒険譚、アメリカ入国後の苦労話、そして学位と聖職位を取得して帰国するまでが綴られている。それはそれでとても面白いが、今は省略する。自分の関心事、アイヌ教育を志した動機や背景はごくわずかしか述べられていないし、帰国後のアイヌ教育の活動にいたっては何も書かれていない。 そこで、ネットであれこれ検索したら、北海道キリスト教史の研究者である福島恒雄氏による
吉田巌は、福島県出身。虻田時代を含めたアイヌ教育の功労者であり、またすぐれたアイヌ文化研究家でもあった。その辺を図書館で調べているうちに、吉田が残した大量の資料が全31巻の
それから候文の手紙との格闘が始まった。 手紙の内容は多岐にわたるが、全助のことにふれたものとして全助の兄・重久が亡くなったときの手紙があった(1934年)。以下、候文を現代風にくずし、仮名遣いもあらためて一部を転載する。
この3年後、二伸で家族消息を述べた手紙では、「老妻」「長女」に続けて全助に言及している。
全一郎は、夫人に先立たれる。1938年の手紙では、
と述べ、続けて再婚することを伝えている。 全一郎の最後の手紙は、なんと自分自身の死亡通知(1941年)。「…生前家族の者に命じ わざと喪を秘せしめそうろう段 悪しからず御海容くだされたく そうろう」と記し、「…義経公の叔父 土岐出羽守光行の中興にて静御前終焉の遺構」である光了寺を自分の菩提寺と定めたと書いている。最後は「…略儀ながら 本書を遺族より拝送せしめ申し そうろう」と結び、「夜昼に 守りたまえる 大神に この身を任せ われは往くなり」の辞世を添えている。 さて、本稿に関係あるものとして、シカゴ大学の人類学者フレデリック・スタール(Fredric Starl)来日時の手紙がある(1912年)。注:資料によってはスターと表記されるがここではスタールに統一。
フレデリック・スタールという学者は初めて知ったのだが、この時点ではどういう人物か調べることはしなかった。ところが、全一郎から離れてしばし『北方を旅する』というオムニバス式の論考集を見つけて読んでいたら、その中で、宮武公夫(北海道大学)が
スタールは、富士山の山岳信仰に興味を抱き5回も富士登山をした。富士山を愛し『Fujiyama: The Sacred Mount of Japan』という本まで書いたが、これは翻訳されていない。 第1回登山は、“富士博士”と言われたジャーナリストの曽我部一紅が案内役をつとめた。曽我部一紅。どこかで聞いた名前だが、思い出せなかった。そこでインターネットで検索したら、なんと5年前に自分が編集した『針葉樹文庫解題』がヒットした。えっと思い『解題』を開いたら、先輩の増山清太郎の一文に「富士山に関する文献の数と量は、実に夥しいものでしょう。従来も故曽我部一紅を始として、蒐集に努めた人も何人かあるようですが、…」とあった。これは、富士山の資料を収集していた増山が戦前の『針葉樹会報』第6年第4号(1935 年発行)に投稿したもので、それを『針葉樹文庫解題』に再録したのだった。 こうなったらスタールの富士登山記を読まねばなるまいと思い、図書館で
702ページの大著だが、そのうち「富士登山」「解説」「解説対談」だけを読んだ。 宮武公夫の「七日目 お札博士の東アジア行脚」に戻る。 晩年のスタールは体調が芳しくなく、日本からそれを案ずる手紙が送られていた。その1つになんと小谷部全一郎のお見舞い状がある(1928年)。
どういうわけか、小谷部でなく小矢部となっている。 この手紙の5年後(1933年)、最後の来日中にスタールは築地の聖路加病院で亡くなった。日本で火葬にされ、遺骨は「富士山の見える所に眠りたい」という遺言にしたがって富士山麓(須走口登山口近く)に埋葬された。その地に徳富蘇峰の碑文を刻んだ墓碑「寿多有(スタール)博士之碑」があるとのこと。機会があれば一度訪問したいと思った。 というわけで、小谷部全一郎のアイヌ教育について知ろうとして、全一郎の盟友吉田巌に遭遇し、その吉田巌を調べていたら全一郎の書簡の存在に気づき、その書簡を読んでいたらフレデリック・スタールにめぐり会い、そしてとうとうスタールの富士登山にまで来てしまった。かくして「小谷部全一郎→アイヌ教育(吉田巌)→フレデリック・スタール→富士山」という三題噺ならぬ四題噺になった次第。 出発点の小谷部全一郎の生涯を追求する旅は、このあと必然的に「ジンギスカン=義経」説に向かった。こちらもきわめて興味深い調査旅行となったが、その内容はあまりに膨大であり、別の読書メモとして纏めよう。 追:小谷部全一郎は、子どものときは父親から中国の典籍を講じられ、ついでアメリカに渡ってキリスト者になり、帰国後はアイヌ教育に心をくだき、その後は東京で日本神道界の興隆に力を捧げた。この精神の転変をどう理解したらいいのであろうか。 |
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■南アルプス国立公園指定五十周年記念事業で出番を得た、山の歌『山恋しくて鳳凰三山』 上原 利夫(昭和33年卒) ****** 2014年7月15日投稿 (編集注)2014年7月14日に開催された「針葉樹会総会」で筆者によって本篇が紹介され ・山恋しくて鳳凰三山(原曲)、(まっちゃん編曲)の録音が披露されました。 日本で国立公園が生まれたのは八十年前(昭和九年)、奇しくも、わたしの生まれた年であるが、南アルプスが国立公園に指定されたのは、その三十年後の昭和三十九年であった。今年は五十周年記念事業が行われるが、南アルプスが跨る三県(長野、静岡、山梨)にある伊那市(5月24日)、静岡市(7月19、20日)、南アルプス市(10月4日、5日)において順次式典が行われる。 この記念行事のことは知らなかったが、この式典に二十五年前に会社山岳部の女性部員が作詞作曲し、仲間で歌った『山恋しくて鳳凰三山』が取り上げられることになった。この一年半、わたしが願っていたこの歌を世に広める機会がやってきたのである。その歌詞は、夜叉神峠から鳳凰三山のオベリスクまで縦走する情景を追っている。
この歌を知ったのは、一昨年の十一月末、二十五年ぶりに会社の山岳部長時代の部員から声がかかり、五十代の男女十六名と一緒に新宿で一夜を過ごしたときだった。わたしは直感的に、この歌が尾瀬の『夏の思い出』のように広く歌われたら、と夢が湧いてきた。その可能性を探るため、わたしは声楽の先生から歌い方を習い、作詞・作曲・編曲をした二人の女性に歌ってもらい、録音をした。昨年四月だった。この録音を何人かに聴いてもらったら、評判は良かった。夜叉神峠や鳳凰三山の山小屋で曲を流し、登山者に口ずさんでもらおうと考えた。 その過程で、わたしが入会している「企業OBペンクラブ」において、わたしの考えを随筆にして発表したら、鳳凰三山の地元韮崎出身の志村さんから、音楽好きのお兄さんが韮崎におられるので、その筋から市の観光協会へ働きかけるのはどうかと提案された。韮崎市から鳳凰三山は目の前に見えるので、市の商工観光課へ楽譜を回してもらった。しばらく音沙汰はなかったが、一年ほど経って反応があった。南アルプス国立公園指定五十周年記念行事で、この歌を使いたいという。記念式典でこの歌を流すのだ。山岳団体にも紹介し、市のホームページから聴けるようにすると。韮崎市が主催または協賛するイベントに使うときの著作権使用料は無償とし、宣伝等に要する諸経費は市が負担するという。有り難い話である。 南アルプス国立公園は、山梨、長野、静岡の三県にまたがっており、環境省の下で三県に属する十市町村が五十周年記念事業実行委員会を結成し、記念事業を企画運営する。加えて、南アルプスは本年ユネスコの「エコパーク」に登録されたので、こちらにも関係する。さらに、今年は韮崎市の市制実施六十周年に当たるという。 NHKテレビの朝ドラ『花子とアン』が好評なので、山梨県にはお目出とうが重なっている。 「山恋しくて鳳凰三山」を韮崎市が世に出すとき、甲府在住のシンガーソングライターまっちゃん(五十八歳)が起用され、曲はまっちゃん風にアレンジされた。まっちゃんはギター伴奏を付けて、きれいな高い声で軽快に歌う。原曲と異なる歌のようである。 七月二日に韮崎市役所市長応接室で、作詞作曲者(楠冨士子さん)、編曲者(岸本妙子さん)、歌手が集い、市長や山岳団体をはじめ、新聞やテレビに歌を披露した。翌日には山梨日日新聞(読売系)の記者との会見要旨がインターネットで流れた。まっちゃんの歌はCDに録音され関係者に配られた。お披露目では、楠さん、岸本さんもまっちゃんの伴奏で歌った。 今後は、韮崎市の小学校や中学校にもCDは配布されるらしい。楽譜は配布されていないが、歌詞はCDのケースに納まっている。 予想もしなかった国家イベントに載ったので、著作権者はじめ夢を描いたわたしら山の仲間も、志村泰元さん志村良知さんご兄弟のお力添えを得て船出した。ご準備いただいた、韮崎市商工観光課の皆さんに厚く御礼申し上げます。(2014.07.07) ●2014.07.03 読売オンライン 韮崎市役所(2014.07.02)でお披露目 「山恋しくて鳳凰三山」の歌 作詞・作曲 楠 富士子、 編曲 岸本妙子都内の主婦が30ほど前に南アルプスの鳳凰三山(※)に登山した思い出をもとに作った歌のCDが出来上がり、2日、山梨県韮崎市の同市役所でお披露目会が開かれた。 ●韮崎市、PRに活用へ 仲間で歌うために昔作られた曲で、埋もれていた楽譜が2年前に発見された。売り込みを受けた韮崎市は、今年が南アルプス国立公園の指定50周年、市制60周年にあたることから、PRに役立てようと制作した。 CDは、「山恋しくて鳳凰三山」。1986年、当時勤めていた会社の山岳部に所属していた東京都国分寺市の楠冨士子さん(51)が作詞・作曲し、同じ山岳部で同所の岸本妙子さん(52)が編曲した。歌好きな2人はよく歌を作り、仲間と全国の山々を歩いていた際に歌っていたという。 「都会の冷たさを 逃れてくれば 木々がさざめく 夜叉神峠」 「前へ進むと 心決めたら 高く空にそびえる オベリスク」
歌詞について、楠さんは「何度も登った鳳凰三山では、晩秋の紅葉や満天の星空といった自然の美しさに触れることができた。おかげで仕事などの迷いを乗り越えられた体験をつづった」と振り返る。 楠さんらは歌についてすっかり忘れていたが、2年前、岸本さんが偶然、自宅で楽譜を見つけ、当時の山岳部の仲間が集まる会合で話したところ、「このまま埋もれさせてはもったいない」という話に。そこで、山岳部仲間の知り合いのつてをたどり、昨年、韮崎市に歌を売り込んだところ、話はとんとん拍子に進んだ。 韮崎市では広くPRできるよう、甲府市在住のシンガー・ソングライターまっちゃん(58)に元々の合唱曲をフォークソング調にアレンジして歌ってもらい、今年6月、CDを制作した。 2日は、まっちゃんがギターを弾き、2人が息のあったハーモニーで歌を披露。歌を聴いた横内公明市長は「素晴らしい歌を作ってくださった。市や鳳凰三山の周知に活用したい」と話した。 韮崎市ではCDを市内の小中学校に配布するほか、今年10月に南アルプス市で開催される国立公園指定50周年記念のフェスタで披露することなどを計画している。 楠さんは、「自分の歌がCDになるなんて想像もしなかった。山を愛する人に聞いてもらい、共感してもらえれば」と話していた。
2014年07月03日 13時20分 Copyright c The Yomiuri Shimbun YOMIURI ONLINEホームへ |
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■634Mの山たち 遠藤 晶土(昭和37年卒) ***** 2012年2月29日投稿 東京を昔は武蔵と呼んだ。カタカナで書けばムサシ。数字で書けば634。新たな東京のシンボルとなったスカイツリーの高さ634Mがここから決まったことは良く知られている事実です。技術万能の現代に、このようなゴロアワセの遊び心に技術が付き合ったこともスカイツリーが人気を集める一つの理由になったのではないでしょうか。 この史実を踏まえた「遊び心」のせいか、標高634Mの山を全国に探してみると、これまた史実に富んだ錚々たる山々が集まっているので紹介をしてみます。
●Re:[HUHAC]1月度 三月会記録 蛭川隆夫(昭和39年卒) ***** 『三月会報告』2012年1月16日開催 三月会記録 から抜粋 (前略) > 日本国内の標高634メートルの山は? 大鉢森山(岩手県水沢市) 男鹿山(広島県、オジカ) なども634mのようです。他にもあるかもしれません。 > …信州には「いいづな山」が「飯縄山」を含めると五つもあるそうで、「いいづな」と >は何か?と問題提起をされました。 信州五岳のこと?もっとも斑尾山、妙高山、黒姫山、戸隠山、飯縄山ですから、五つのうちの一つですが。 また飯縄山は連山で全体を飯縄山ということもあるので、支峰をも数えると五つピークがあるのか…。 観光地名は飯「綱」高原、山岳名は飯「縄」山と表記を使い分けているようです。 「いいづな」は、飯砂(「飯」のように食べられる「砂」=テングノムギメシという茸) が起源とか。八天狗のひとつ「飯縄の八郎」が凶作の時、飯縄山の頂上の飯砂を配って人々を救済した故事にちなむ。 (後略) |
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■芦安関連-奈良田を訪ねて 上原 利夫(昭和33年卒) ***** 2011年8月7日のHUHACメールより転載 先月(7/23-24)に奈良田へ調査旅行をしました。 以下、その報告記です。 <女帝孝謙天皇を祀る秘境奈良田を訪ねて> 身延で富士川に合流する早川を遡ると、日本で標高二番目の北岳に至る。途中で野呂川となる手前に奈良田湖と奈良田温泉がある。身延からバスで1時間40分の秘境である。奈良時代の西暦758年に、第46代孝謙天皇が湯治のために奈良田へ来られたという。70-80人の従者を伴い芦安からドノコヤ峠を越えて来られた。居心地がよいので、そのまま八年も遷居されたという。 峠近辺には、金鉱山の跡があり、奈良田の木工品を生活物資と交換する場所もあった。奈良田には孝謙天皇を祀る奈良法王神社が宮殿跡に西暦784年(延歴3年)に建てられ、1789年(寛政元年)に再建された。大正11年朝香宮、昭和62年浩宮殿下が参拝されている。今はなくなったドノコヤ峠の道を復興し、観光資源に加えてはどうか。 奈良田には七不思議がある。@御符水、A二羽からす、B七段、C片葉の葦、D染物池、 E塩の池、F洗濯池である。いずれも孝謙天皇にまつわる伝承である。早川町歴史民俗資料館はあるが、古い文献がないので、地元の深沢正志氏の著作『秘境奈良田』(山梨ふるさと本1989年刊)に頼ることになる。絶版なので、奈良田温泉白根館の主人深沢守氏から一晩借りた(2011.7.23)。ちなみに、奈良田の人はすべて深沢姓とか。 古い文献は、1959年にできた奈良田ダムの湖底に沈んだ集落といっしょに消えたのだろうか。しかし奈良田の温泉は、源泉かけ流しで40度ぐらい、ぬるぬるして肌触りがよく、長湯が楽しい。これは昔ながらのものであろう。 奈良田を訪ねた目的のドノコヤ峠道については、猟師でもある深沢守氏に頼めば、奈良田側からドノコヤ沢をつめ、ガレ場の中を案内してもらえる。 (2011年8月6日記) |
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●芦安(山梨県南アルプス市)との縁 上原 利夫(昭和33年卒) ****** 2011年6月24日投稿 南アルプス芦安山岳館に、山岳図書約五百冊の針葉樹文庫が一昨年寄贈された。寄贈者は針葉樹会(一橋大学山岳部OB会)である。この文庫の『針葉樹第九号』(昭和十二年刊)は洛陽の紙価を高めた。芦安を基地にした、小谷部全助ら一橋山岳部員による、北岳バットレス積雪期初登攀が記録されているからだ。 この功績にあやかって、私ら後輩は昭和三十一年十二月、同じ壁の登攀を目指したが、天候に恵まれず退却した。それだけに、思いもよらず五十年後に、山岳館の塩沢館長が小谷部らの功績をよくご存知だったのが幸いして、芦安との縁が復活したのは嬉しい。 来年、一橋山岳部は創部九十周年を迎える。針葉樹会は、芦安周辺の登山路と針葉樹文庫の知名度を高めるため、記念事業を思い付いた。芦安には温泉が湧き、ペンションもあるが、交通が発達したので多くの登山客は通過し、芦安近辺の旧登山道は廃れた。これを十年がかりで復旧するのである。 今年一月、夜叉神峠を起点に針葉樹会員が踏査をしたところ、地元に「芦安ファンクラブ」なるボランティア組織があり、北岳や鳳凰三山などの山歩きの行事を手掛けていることが分かった。塩沢館長とペンション経営の大滝氏がクラブの副会長であるので、我々も賛助会員になった。五月に事務局長清水氏らとも面談し、針葉樹会の意向を説明、具体的なプランについて話合った。一橋大学の人的資源を活用して、地元の活性化を図ることも目指す。 芦安と今後お付き合いするには、地誌を知ることも欠かせない。驚いたのは、千三百年も前に第四十六代孝謙天皇(独身女帝)が七、八十人のお供を連れて、芦安から御勅使(みだい)川を遡り、ドノコヤ峠を越えて、西山温泉(日本最古の旅館)や奈良田温泉で八年も湯治された。この山道は廃れたが、峠への途中に金鉱の跡がある。奈良田には京言葉が残り、昔が偲ばれる。いまは、身延(日蓮宗本山がある)からバスに乗り、早川を二時間遡れば奈良田へ着く。 (2011年6月9日記) |
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●雪山賛歌(雪山再会) 金子 晴彦(昭和46年卒) 『針葉樹会報』第114号に掲載予定 画像をクリックしてください |
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●山と茶 佐藤 力(昭和40年卒) 『針葉樹会報』第109号から転載 画像をクリックしてください |
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