一橋山岳会のホームページへようこそ。当ホームページは2008年8月1日に開設しました。
会   報 会   報

現役・OBの皆さんの海外の山行報告コーナーです。*******************************
■目次(クリックすると詳細へジャンプいたします)                          
●香港山事情「カントリーパークとジオパーク」 金子 晴彦(昭和46年卒)
●アンナプルナサーキット・半周トレッキング 兵藤 元史(昭和52年卒)
●キリマンジャロ紀行付記 ダイアモックスと高山病について 佐藤 久尚(昭和41年卒)
●キリマンジャロ最高峰ウフル・ピーク登頂 中村 雅明(昭和43年卒)
●キリマンジャロ登山 岡田 健志(昭和42年卒)
●黄山の山行記録 西山 祥紀(一橋大学山岳部:経済学部4年)
●スイスアルプス ハイキング三昧 佐藤 久尚(昭和41年卒)
●アンナプルナ街道トレッキング(トレッキングシリーズその2) 小野 肇(昭和40年卒)
●キリマンジャロ山行記録 高橋 直道(一橋大学山岳部:法学部3年)
●カラコルムのトレッキングと天山南路バスの旅(その4) 佐藤 久尚(昭和41年卒)
●カラコルムのトレッキングと天山南路バスの旅(その3) 佐藤 久尚(昭和41年卒)
●カラコルムのトレッキングと天山南路バスの旅(その2) 佐藤 久尚(昭和41年卒)
●カラコルムのトレッキングと天山南路バスの旅(その1) 佐藤 久尚(昭和41年卒)
●ツール・デュ・モンブラン・トレッキング 小野 肇(昭和40年卒)
●2013香港トレイル報告 金子 晴彦(昭和46年卒)
●インドヒマラヤ・トレッキング(速報) 佐藤 久尚(昭和41年卒)
●キナバル山紀行   蛭川 隆夫(昭和39年卒) 
●キナバル山紀行 後日談
●インド ヒマチャルプラデシュ・ヒマラヤの旅(その1) 佐藤 久尚(昭和41年卒)
●インド ヒマチャルプラデシュ・ヒマラヤの旅(その2)
●インド ヒマチャルプラデシュ・ヒマラヤの旅(その3)
●インドヒマラヤの旅(速報)   佐藤 久尚(昭和41年卒)
●香港・山海徑ハイキング報告  金子 晴彦(昭和46年卒)
●アンナプルナ一周トレッキング(速報) 佐藤 久尚(昭和41年卒) 
●クーンブ・ヒマールトレッキングあれこれ 佐藤久尚・岡田 健志・中村雅明
●ネパール・ヒマラヤトレッキング(速報) 佐藤 久尚(昭和41年卒)
●ランタン谷のトレック 原 博貞(昭和41年卒)
台湾玉山登頂記 三井 博(昭和37年卒) 
●キリマンジャロ登山とナイロビ支部訪問 小島 和人(昭和40年卒)
●キリマンジャロ報告(速報) 蛭川 隆夫(昭和39年卒)
ダンプスピーク(6035M)登頂 覚書 金子 晴彦(昭和46年卒)
ヒマラヤ報告     ******************************** 遠藤 晶土(昭和37年卒)


■香港山事情「カントリーパークとジオパーク」    金子 晴彦(昭和46年卒)
          *********** 2019年1月19日投稿(PDF版)
                         
 ↓ 下の画像をクリックして下さい(全文PDFでご覧になれます)


会   報
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■2017年10月20日〜11月2日 アンナプルナサーキット・半周トレッキング
  兵藤 元史(昭和52年卒) 
          ********* 2018年1月24日投稿

 アンナプルナ連峰を眺めながらのアンナプルナサーキットは、クラシカルなトレッキングルートとして有名なコースです。針葉樹会でも、中島さんが1992年2月に時計回りで、佐藤(久)さん、岡田さん、中村(雅)さんの三人が2010年秋に反時計回りで歩かれています。それぞれの紀行は針葉樹会報78号、123号に掲載されています。途中で超えるトロンパス5416mが最高所となります。



 今回のトレッキングは私の出た松本深志高校山岳部100周年記念事業の一環として計画されたものです。本当の100周年は今年(2018年)でして、夏にはモンゴル山行などの事業が予定されています。ちなみに旧制中学(高校)山岳部の嚆矢は今西錦司氏など著名岳人を多数輩出した京都一中(1915年創部)で、我が深志は2番目か3番目とのこと。

 2016年に会社生活をsemi-retireして、さてどこに行こうかなと考え始めた矢先にこの計画がでてきて、飛びついた次第です。もともとは6-7名で6000m級の山を登るはずでしたが、参加者が段々減って結局3人となり、入山料の負担を勘案し単純なトレッキングに落ち着きました。

以下簡単に行程を記します。(→が歩行を、<>内数字はその日の最高所を示す)
 10月20日 羽田集合
    21日 羽田⇒バンコク⇒カトマンズ
    22日 カトマンズ(車)⇒ベシサハール
    23日 ベシサハール(車)⇒ピサン(3130m)
    24日 ピサン→ナワール→マナン(3540m)   <3650m>
    25日 マナン滞在、プラケンゴンパ往復    <3900m>
    26日 マナン→ヤクカルカ (4050m)    <4170m>
    27日 ヤクカルカ→トロンフェディ (4450m)   <4580m>
    28日 トロンフェディ→トロンパス→ムクチナート (3760m)  <5416m>
    29日 ムクチナート(車)⇒ジョムソン⇔ナウリコット往復 (2720m)
    30日 ジョムソン(飛行機)⇒ポカラ
    31日 ポカラ(飛行機)⇒カトマンズ
 11月 1日 カトマンズ⇒バンコク⇒ 2日羽田着

 アンナプルナサーキットは、以前はベシサハールから歩き始め、ポカラ周辺まで2-4週間かけて歩くものでした。佐藤さん達(以下Q隊)はほぼその通りに歩いています。一昨年にマルシャンディ渓谷上流の大きな町マナン(3540m)まで車が行くようになったとのこと。高度順化のこともあるので、マナンまではともかく、その下のピサン(3130m)まで車で行こうと決めました。車が走る道を歩くのは気乗りしないし、この高度なら穂高と同程度だし、というわけです。ただし、トレッカーの多くは相変わらずベシサハール辺りから歩いていました。
 
 見えた山や風景などはQ隊報告に詳しいので、針葉樹会報123号をお読み頂くことにして、Q隊とは違った点や印象に残ったことなどを、写真を多めにして報告します。

【ベシサハールからの車道】
 車道とは名ばかりの大変なシロモノです。断崖をへつったり、橋とも呼べないような丸太の橋を渡ったり。ベシサハールからピサンまで9時間弱、ヒヤヒヤ、ドキドキの一日でした。行く前に考えていた最大のリスクは高度障害でしたが、今振り返ってみると、この道の車走行が一番大きなリスクだったかもしれません。 

【ピサンからマナンへ】
 車道は川の右岸沿いにマナンに通じており、Q隊もそこを歩いたはず。我々はガイドのお勧めで、左岸(北側)の山腹をいくコースを取る。一気に500mほど高度をあげ、その後マナンまでトラバースしていくので、長い(8時間半)が車道を行くより眺めが良いとの事。歩行初日の行程としては些かしんどかったですが渓谷を挟んでのアンナプルナの眺めは労苦に報いて余りありでした。
この写真程度の道路状況なら
上等とお考えください。
こんな場所で大型トラックと
すれ違ったりします。
ピサンの街はずれからのアンナII峰(7937m) ナワール村手前からのアンナIII峰(7555m)
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【マナンからプラケンゴンパ(3900m)往復】
 Q隊と同様マナンに一日滞在し、高度順化を兼ねて北側の岩山の中腹にあるゴンパ(お寺)を往復しました。ともかく正面に対峙するガンガプルナの眺めが素晴らしい。

ゴンパへの途中にある仏塔とガンガプルナ(7454m) お守り紐を受けるポーター
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 Q隊の方が祈祷を受けた(と思われる)老師は一昨年100歳で亡くなり、今はその娘さん(69歳)が一人でお寺を守っていて、彼女に安全祈願をしてもらいました。お守り紐(スンティと言うらしい)を首に結んでもらって、Q隊と同様、これで無事にトロンパスを越えられると思った次第。

 ちなみに頂いたお守り紐は、後日カトマンズの有名なお寺ボダナート・ストゥパを観光で訪れた際に、無事下山できたお礼とともにお寺の祭壇に残してきました。

【天候について】
ネパールでは10月下旬から晴天が続いて、山を眺めるトレッキングには良いとされていますが、多分本当は11月に入ってからがBestと思われます。Q隊報告では悪天の記載が一切ありません。我々の場合、マナン滞在の日の朝とトロンパス越えの前日の夕方から翌朝にかけて小雪が舞いました。特にトロンパスを超えた日は、峠周辺では陽が差したものの、午後には本格的な雪になって翌朝のムクチナートの町は雪化粧でした。峠越えが一日ずれていたら、雪で難儀したかもしれません、ラッキーでした。

【ジョムソンからナウリコット村往復】
 翌朝のポカラ行きの飛行機まで半日以上時間があいたので、ダウラギリ(8167m)が間近に見られるという触れ込みのナウリコット村を車で往復しました。カリガンダキ川沿いの道、通称ジョムソン街道を下り、トゥクチェからの狭く急な車道を時にスイッチバックをしながら上がります。

 どことなくヨーロッパアルプスを思わせるような落ち着いたナウリコット村には近頃評判のタサンヴィレッジというリゾートホテルがあって、雰囲気はすこぶる良い。ホテルオーナーの奥さんは日本人とのこと、不在で会えませんでしたが・・・。ホテルでビールを飲んだり、食事をしたりして、雲間のダウラギリの登場を待ちましたが、ついに全容をあらわしてくれませんでした。しかし、開けたカリガンダキ川とその対岸に屹立するニルギリの風景も捨てたものではありませんでした。

 ホテルには炬燵もあって寒い日はそこで食事可能とのこと。老人夫婦でいつか再訪して、のんびりと2-3日滞在できたらいいなぁと思いました。食事も美味しかったし・・・。

【食べ物のことなど】
 有名なトレッキングルートのこととて、ロッジやバッティ(茶店)が適当な間隔にあって、食事やお茶は全てそこで摂りました。欧米のトレッカーが多いため、カレーやネパールうどん(トゥクパ)などのローカルフードは勿論、パスタやピザなどメニューは多彩。しかし、味はそれほど感心しませんでした(タサンヴィレッジを除いて)。

 ガスコンロを持参し(ガスカートリッジはカトマンズで購入)、時にお汁粉や味噌汁あるいはカップ麺などで変化をつけました。ガスコンロは朝晩寒い部屋を暖めたり、おきがけの日本茶を飲んだりと、とても重宝しましたが、下山後聞いたら室内は火器厳禁だった由。

【高度障害について】
 最大のリスクは高山病と考えていましたが、5416mの峠越えの際に行動中息切れを感じた他は頭痛などの顕著な症状はでませんでした。血中酸素濃度をはかるパルスオキシメーターを持参し、朝晩計測しました。結果は、トロンフェディ(4450m)で泊まった翌朝の数値が最低で82、それまでは90台の前半。峠越えをした晩の数値は91に戻りました。同行した二人の数値は、最低は同じ朝の81で、その前後は80台後半でほぼ終始。彼らは時に、めまいや軽い頭痛を感じていたとのこと。ちなみに、平地での正常値は96〜99と言われており、70台で危険領域、60台になると危篤状態とのことです。尚、高山病予防薬のダイアモックスを持参しましたが使いませんでした。

 ガイドさん(及びトレッキングの経験豊かなYリーダー)からは、マナンに着いた日から高山病対策で禁酒が言い渡され、ムクチナートに着いた晩の5日ぶりの酒がとても美味かったです。実は禁煙も 指示されていたのですが、そのガイドさんがちょこちょこ吸っていたので、私も時におつきあいしたこと、告白しておきます。

ゴンパからのティリチョピーク(7134m)


雪化粧のムクチナートとダウラギリ(8167m)


ホテルから見るカリガンダキ川と
ニルギリ(7061m)


トロンパスに向かうトレッカーとサイクリスト
【その他印象に残ったことなど】
・ トレッキングシーズンの故にルートにはトレッカーが列をなしていたが、日本人には一人も会いませんでした。日本人にはエベレスト方面やランタンヒマール方面が人気のようです。

・ 欧米系の人は3-4週かけてトレッキングしている人が大半で、気に行った場所で連泊するなど、計画にとらわれずのんびりと旅を楽しんでいるようでした。

・ トレッカーの他にマウンテンバイクで旅をしているサイクリストが多かったことに驚きました。聞けばトロンパスを越えるレースもあるとのこと。急な登りでは押したり、担いだり、他人の事は言えないけれど、ご苦労さまです。

・ ポカラの町には、中国人観光客があふれていました。街の看板も中国語が多く、ハングルがたまに。残念ながら日本語のそれはごく僅か。Y氏によれば、10年前はもっと日本語の看板が多かった由。
【最後に】
 我々の旅は、サーキットの前半は車で、後半のジョムソンからポカラは飛行機を使った、言わば駆け足トレッキングでした。Q隊の場合は、10月28日から歩き始め、11月9日に歩き終えているので歩行日は13日間なのに対し、我々のそれは僅か5日でした。

 欠航が多いジョムソン−ポカラ間の飛行機が順調に飛んでくれたことや、トロンパスを超える際の天候待機や高度障害なども無く、予定通りに帰国便に乗れたことは、今振り返って本当にラッキーだったと感じています。実際、ジョムソンからの便は、我々が乗った日の翌日と翌々日の2日間は欠航だったとのこと。12日間のネパール滞在予定に対し、visaは最短の14日分しか取得していなくて、もし何らかの理由で行程に齟齬が生じたら、帰国便の手配の前に、visaの延長手続きをしなければいけないところでした。

 初めてのネパール、初めてのトレッキングはそれらの幸運に助けられて予定通り無事終えることが出来ました。 尚、Q隊報告(紀行)はとても参考になりました。ここに厚くお礼申し上げます。

 いよいよ今年の7月からはRetired Lifeが始まります。今回の経験から、もっと安く旅を楽しめることも分かりましたし、時間はたっぷりあるはずですし、次やその次を考えています。同行にご興味のある方、お待ちしています!!!


会   報
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■2016年9月キリマンジャロ紀行付記 ダイアモックスと高山病について
 佐藤 久尚(昭和41年卒)
          **********2016年12月20日投稿

 今回、岡田、佐藤に5000メートルを超えた辺りで視力障害―かすみ目―の症状が出た。具体的には、あたかも濃い霧の中にいるようで、周りの景色がぼんやりとしか見えない。それと同時に目の焦点が定まらず近くのもの、例えばデジタル時計の文字が読めないという症状である。そしてこの症状は、ホロンボハット(3720m)まで下って一晩寝た翌日には約8割方回復したが、完全に回復するのには、さらに1日程度の時間がかかった。
 いろいろな登攀記などで、高所では視力障害を起すという記録を読んだことがあるので、最初は単純にこれは高度の影響だとばかり思っていた。しかし下山後、症状が出なかった中村氏がダイアモックスを岡田、佐藤の半分の量しか飲まなかったということを知るに及んで、これは高度の影響だけではない、ダイアモックスの影響もあるのではないか、と思うようになった。岡田、佐藤の二人は、登頂の二日前から朝晩2回ダイアモックスを1錠(250mg)飲んだのに対して、中村は半錠(125mg)しか飲まなかったからである。そして帰国後、確認のためインターネットでダイアモックスについていろいろ調べてみると、次のことが分かった。

(1) ダイアモックスは眼圧を下げる効果があるので、緑内障の治療薬として使われる。
(2) 副作用として、「手指のチリチリ感」などのほかに「目のかすみ」の症状が出ることがある。
(3) 1回に飲む量は、体重により異なる。体格の良い外国人は1錠(250mg)だが、日本人は半錠(125mg)が適量。

 これを見て確信が深まった。岡田、佐藤は明らかにダイアモックスの飲み過ぎであった。高度が上がり気圧が下がると眼圧が下がるのが普通であるが、岡田、佐藤はダイアモックスを適量以上に飲んだ。そのため眼圧が下がっているところに、気圧の低下によりさらに眼圧が下がったものと考えられる。これまで5000mを越える高度は数回経験しているが、一度も「目のかすみ」を経験したことはない。またダイアモックスを本格的に飲んだのは今回が初めてであった。従って、今回、「目のかすみ」症状が出たということは、ダイアモックスの過剰摂取と高度のダブルの影響と考えるのが合理的であろう。素人考えかもしれないがそう信じている。
 なお、今回ネットで、ダイアモックスについていろいろ調べてみたが、「何故高山病の予防に効くのか。」、「本当に効くのか。」、良く分からなかった。このことも併せて記しておきたい。
(記 佐藤久)
会   報
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■2016年9月26日 キリマンジャロ最高峰ウフル・ピーク登頂  中村 雅明(昭和43年卒)
          **********2016年11月17日投稿

1.ギルマンズ・ポイントまで 
 26日キボ・ハットを23時10分前に出発し、30分歩き5分休憩ペースでヘッドランプの明かりを頼りに先行者の足並みに合わせて黙々と登りました。サブガイドのJHON、岡田、佐藤、中村、メインガイドのAGREYの順です。
 ハンス・メイヤーズ・ケイブ(5,150m、ギルマンズ・ポイントまでの中間点)を過ぎて少し傾斜の緩くなった地点で、佐藤さん、岡田さんに高山病と思われる下痢、視覚障害(視野が狭くなりしかもかすむ)が出て前進ストップしました(3:20)。そこで佐藤さんの指示でサブガイドと中村が先行することになりました。それまでの登りで私もかなりへばっていたので「これは困った。一緒に休みたい。」と思いましたが、行けるところまで頑張るしかないと観念し歩き始めました(3:30)。それからが大変。それまでより早いペースのサブガイドに必死について行きますが、息がはずみ5分歩くと立ち止まって呼吸を整えます。6時頃に東の空が白んできました。6:15マウエンジ峰の左手から日の出。サブガイトが写真を撮ってくれました[写真1]。ギルマンズ・ポイントの近くになると傾斜がきつくなり岩場まじりの登りでさらに苦しくなりました。立ち止まる間隔が短くなり、サブガイドが辛抱強く待ってくれました。息も絶え絶えで6:40噴火口縁のギルマンズ・ポイント(5,685m)に到着。小屋から7時間40分。8年前の蛭川さん達より40分多くかかりました。何はともあれここまで登れば登頂が認定されるのでホッとしました。
 サブガイドにギルマンズ・ポイントの看板の前で写真を撮ってもらった後[写真2]、ウフル・ピーク[写真3]、直径2.4kmの火口(富士山の火口面積の約16倍)、その先の北氷河の写真を撮りました[写真4]。初めて目にする「キリマンジャロの雪」に感激です。写真を撮り終わってもまだ息をはずせていると、サブガイドのGOがかかりました。8年前の針葉樹会パーティーはガイドの指示で前進断念。ここが最高到達点となったので、内心ここでSTOPではと甘い期待をしていましたが前進を余儀なくされました。


▼画像をクリックすると大きく表示されます。
写真1  9月26日  6:17
マウエンジ峰の左手から日の出(中村)
写真2  9月26日  6:45
ギルマンズ・ポイントにて(中村)
写真3  9月26日  6:47
ギルマンズ・ポイントからウフル・ピークを望む

         写真4  9月26日  6:47
ギルマンズ・ポイントから火口とその先に北氷河を望む

2.ウフル・ピークまで
 幸い、風もなく陽が高くなって気温が上昇し始めたので暖かくなりました。ギルマンズ・ポイントからウフル・ピークの中間点であるステラ・ポイントまで岩峰を回り込む巻き道がありましたが、サブガイドは無情にも岩峰稜線沿いの登り道を進みました。「なぜ苦しい方を登るの」とサブガイドを恨みましたが、登り切った所でサブガイドが下を差して「マチャメ・ルートのテント場」と言ったので、この為だったのかと納得しました。テントが数張見えました。バラフ・キャンプでしょう。ステラ・ポイント(5,756m)には、ウフル・ピークから戻ってきたと思われるグループが休んでいました。その先で腰を下ろして休憩。そこからは南氷河が良く見えました[写真5]。お湯を飲み、チョコレートを食べて一息付きました。
 ここからウフル・ピークまでは緩やかな登りですが、これまでの長時間の登りで疲れた身にはつらい登りでした。でも苦しいながらも左手にずっと見える南氷河の氷壁に目を奪われます。何度も立ち止まり息を整える繰り返しは今までの登山の中で一番の苦しさでした。頭痛、吐き気、眠気などの高山病の症状は出ませんが、息切れの激しさは30m全力疾走した後の様でした。最後の緩やかな登りを終えて8;30ウフル・ピーク(5,895m)到着。ギルマンズ・ポイントから約2時間。登頂の喜びの前に腰を下ろして休める嬉しさの方が先です。幸い頂上には誰もいません。微風快晴で心地良い頂上です。反対側から単独行の外人が登って来ました。サブガイドが「Climbing?」と声を掛けたので「Western Breach Route」から登って来たのでしょう。何故か頂上に立ち寄らなかったので、写真をゆっくり撮ることができました。頂上の看板を背にした写真[写真6]、テーブル氷河を背にした写真[写真7]をサブガイドが沢山撮ってくれました。帰国してから見るとニコニコ笑っている写真が多いので人生最高地点到達が嬉しかったのでしょう。サブガイドの写真[写真8]、2人の写真も撮って8:50下山開始。

写真5  9月26日  7:19
ステラ・ポイント先から南氷河を望む
写真6  9月26日  8:32
ウフル・ピーク(5,895m)にて(中村)
写真7  9月26日  8:34
ウフル・ピークにてテーブル氷河を背にして
(中村)
写真8  9月26日  8:45
ウフル・ピークにて(JHON)

3.下山
 下りでは時折足を止めて、火口内部、ギルマンズ・ポイント[写真9]、南氷河を撮りました[写真10]。と言うとのんびり下った様ですが、下りとは言え息がはずみました。20分の頂上の休憩ではとても足の疲れは回復しませんでした。若干の登りでも苦しくなり、都度立ち止まりました。ギルマンズ・ポントに戻ったのが9:30、頂上から40分。小憩し一息つきました。そこからはサブガイドがサブザックを背負ってくれたので助かりました。こんな急なところを登ったのかと驚く岩混じりの急なザラザラした道なので慎重に下りました。傾斜が緩くなると富士山の須走りに似た砂走りをサブガイドがすごいスピードで下り始めました。私も必死について走り下りますが、疲れている足では辛くてしゃがみ込みたくなりました。途中一回腰を下ろして休憩した後の下りで一気に高度を下げ、10時少し前に佐藤さん達3人に追いつきました。メインガイドのAGREYが「congraturation!」と言って握手してくれました。佐藤さんから「随分早かったね」と言われました。佐藤さん、岡田さんもギルマンズ・ポイントまで登ったと聞き、安堵しました。
 キボ・ハットに戻ったのが11:30。最後は敗残兵みたいにヘトヘトになった3人でした。出発してから12時間30分の行動。平均年齢73歳の3人にとっては過酷でした。
 さらにつらかったのは1時間半休憩した後、ホロンボ・ハットまで4時間下ったことです。疲れが胃に出て胃もたれする胃をさすりながら、時折岩に腰かけて休み休み下りました。ホロンボ・ハットに17:15着。この日の通算行動時間は18時間15分。今までの最長行動時間です。その晩は私1人、一切食べられず寝込みました。それから帰国した翌日まで胃の不調が続きました。10月2日にようやく胃の不調が治り、通常に食べられる様になり普段の生活に戻りました。

写真9  9月26日  8:57
ウフル・ピークからの下山途中で
ギルマンズ・ポイントを望む
写真10  9月26日  9:02
ウフル・ピークからの下山途中で
南氷河を背にして(中村)

4.付記
** 1) ヘミングウエイの小説「キリマンジャロの雪」で有名な頂上部の氷河は今から100年前には山頂に全てを覆っていたそうです。1970年代に比べて現在の氷河分布は半減して、20年後には消滅してしまう、と言われています。今回見た氷河が消えゆく運命にあると帰国後に知りました。山行前に知っていたらもっと感慨深く眺めたことでしょう。
2) 帰国後まで続いた胃の不調をもたらした激しい疲労は、5000m以上の高度のしかも1000m以上の高度差の登りで息が切れ、ウフル・ピークからのかなりのハイスピードの下りが72歳にとっては体力の限界を超えたことによるものでした。
しかし、帰国後に反省したのは行く前のトレーニング不足です。8月5日に南アから帰った後に山に行かず、また毎朝続けていた朝の散歩+ラジオ体操をサボッてしまってキリマンジャロに向かったのです。年齢を考えると8年前の針葉樹会パーティーに比べて甘い姿勢でした。
3) ウフル・ピーク登頂は今春卒業された高橋直道さん、安藤桂吾さんが大学在学中の2015年2月に成功されています。ルートは我々が採ったマラングルートでなく、全てテント泊のマチャメ・ルートです。登頂日は防寒装備が不十分で、低体温症で意識が朦朧とする中での厳しい登頂でした(一橋山岳会HP 『山行報告』−『海外山行報告』−「キリマンジャロ山行記録」参照)。マチャメ・ルートは自然を堪能するテント泊、絶景の連続と言っても良いほど素晴らしい景色が続くルートですから学生向きです。就職も決まった大学4年の秋に山岳部の活動の総決算として行くことを薦めます。
 なお、マチャメ・ルートはバラフ・キャンプでムウェカ・ルートに合流し、そこからステラ・ポイント経由でウフル・ピークを目指します。前述のサブガイドの「マチャメ・ルートのテント場」は「ムウェカ・ルートのテント場」が正確な表現です。
4) 幸い高山病の症状は出ませんでした。その対策としてダイアモックスを入山2日目(マラング・ハット)から朝夕半錠(125mg)服用しました。これが効いたのか不明です。ネパールのトレッキングでカラ・パタール(5,545m)、ゴーキョ・ピーク(5,360m)登頂、トロン・パス(5,416m)越えで何とも無かったので高山病になりにくい体質のようです。
登頂前、キボ・ハットでは22時までの4時間位、3人とも仮眠しました。眠らない方が良いというアドバイスがありましたが、疲れによる眠気が勝ちました。
良かったのは、普段足が攣ってから治療薬として飲んでいた「芍薬甘草湯」を登頂前に予防薬として飲んでおいたことです。これを飲んでいなかったら、おそらく途中で足が攣りウフル・ピークに到達できなかつたでしょう。

会   報
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■2016年9月20〜30日  キリマンジャロ登山  岡田 健志(昭和42年卒)
          **********2016年11月19日投稿

期間;2016年9月20日〜30日
同行;佐藤 久尚(昭和41年卒)、岡田 健志(昭和42年卒)、中村 雅明(昭和43年卒)

 今回も佐藤(久)さんの計画立案・手配によった。行く先はアフリカ大陸最高峰のキリマンジャロ(最高点はウフル峰 5,895m)。
 故中川滋夫さんをリーダーとする我が針葉樹会メンバーの6氏が、周到に計画し実行されたのが2008年10月。計算すると、その時のメンバーの、お一人を除いた年齢を、今回の3名は上回っている。そんな高齢者登山の結果は、一体どうなったのか?(2008年の「キリマンジャロ行き」は針葉樹会報第114号、115号に掲載)

●9月20日(火) 雨
 今日のフライトは羽田発21日早朝(0:30)のカタール航空813便。3時間前からチェックインしてくれるということなので、夕ご飯もそこそこに家を出る。
 折から、台風16号が日本列島を直撃しており、この時刻には中心部は太平洋岸を北上している。東京では夜中の12時、ちょうど813便が離陸するころに雨風が最も強くなるとの予報である。
 離陸の遅れが心配されたが、むしろ予定時刻より少し早めに無事離陸した。

●9月21日(水) 晴れ
 羽田(0:30 カタール航空813便)−DOHA(5:45〜8:35 カタール航空1355便)−キリマンジャロ国際空港(14:25〜15:00)
 −ARUSHA(16:30)

 これからキリマンジャロ国際空港へ着陸態勢に入るという機内放送が流れた頃、機の右側に独立峰の山影が目に入った。山の名前を訪ねると、乗務員が「キリマンジャロだ」、と言う。頂上の万年雪が見えないので「おかしいな」とは思ったが。(帰りの飛行機から、キリマンジャロは機の右側に見えたとのこと。反対側を見ていたわけだ)
 頂上に雪の無いキリマ・ンジャロ(「キリマ」(山を意味するスワヒリ語)、「ンジャロ」(「白い」という意味)なんて考えられない。
キリマンジャロ国際空港に着陸すると、乗客はタラップを使って地上に降り、そこから歩いて空港建物に入る。殆ど赤道直下にある空港は、アフリカの太陽に照らされて、眩しい。瞳孔を細めて空港建物に入ると、そこは薄暗く感じるほどで、入国審査の用紙に記入するのに今度は瞳孔を目いっぱい広げなければならなかった。
 空港で、持参した米ドルをタンザニア・シリング(TNS)に交換する。レートは1$=2,020TNSだった。
 キリマンジャロ登山に必要な諸事を世話する現地のツーリスト、BOBBY TOURS社が差し向けてくれた車に乗ってARUSHAに向かう(15:00)。
 道中の印象は、「やたら、平らで、ほこりっぽい土地だな」ということ。信号のない、巾ひろの道路を走ること1時間半、ARUSHAの中心に事務所を構えるBOBBY社に着き、ツアー代金の残金を支払う。(16:30)夕方だったせいもあるかもしれないが、極めてビジネスライクな対応をする経営者だった。
 今夜の宿、HOTEL VENUSに投宿。夕食時刻まで少し間があったので、ARUSHAの町を歩く。畑で獲れた野菜を歩道に並べて販売している無数の露店が、通りかかる人々に声をかけていた。その露店の背後にはトタン屋根が形ばかりに張られ、その下でも無数の店が野菜や果物を販売している。生産者が直接販売しているようだった。あまり売れているとは見えなかったが…[写真1]
初めての土地で、食堂ないしレストランを捜すのも億劫なので、ホテルのレストランで夕食を摂る。
 背の高いジャカランダの木に、薄紫色の花が一杯に咲いている、そんなARUSHAの町での最初の夜を迎えた。

 *以下、高度は「Trail Guide and Maps」によった。ただし、Gilman’s Pointだけは現地の標識によった。

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  写真1 9月21日  17:55  (撮影:岡田)青空青果市場

●9月22日(木) 快晴
 ホテル(8:55)−MOSHI(町の名前)のスーパー(10:30〜45)−MARANGU GATE(1,860m 12:15〜13:50)
 −KISAMBONI(昼食 15:30〜15:50)−MANDARA HUT(2,705m 17:55)

 ホテルのロビーでガイドのAGREY KIMAROと会う。まじめそうな男だ。安心してガイドを任せられそう。40才で子供が5人もいるとのこと。
 BOBBY社の車がMARANGU GATE(1,860m)まで送ってくれる。途中「2日分の飲料水を準備すべし」とのことで、MOSHIのスーパーに寄って1.5L入りペットボトルを9本購入する。MARANGU GATEでわかったことだが、キリマンジャロ国立公園内にはペットボトルの持ち込み禁止で、そのため、各自、飲料水は詰め替え用の水筒(レンタル料5$)に詰め替えなければならない。公園内が放置ペットボトルで汚れることを防ぐための策だ。
 ここは、MARANGU ROUTEの入り口で、入山申請して許可を受けたり、レンタル登山ギアを受け取ったり、ポーターへの荷物分けが行われる。我々もここで名前を登録し、出発の準備が整うのを待った[写真2]
 今回、レンタル登山ギアとして、3人共通して3シーズン用のスリーピングバッグ(5$/人・日)、岡田のみストック2本(20$)とスリーピング・マット(30$、これは使用することなく、完全に無駄金だった)、佐藤・中村は詰め替え用の水筒(上記)をレンタルした。
 荷物については、登山中使用しないものはHOTEL VENUSに保管してもらうことになった。登山中必要なものだけをサブザックに詰めて自分が背負い、あとは(約8kg位か?)はポーターに持ってもらう。
 こちらのポーターは、ネパールのように竹で編んだ大きな籠ではなく、縦長の円筒形の袋状の中に食材や我々の荷物を入れ、頭に乗せたり、背中の上部の首の付け根辺りに乗せて運ぶ。最終の宿泊地(小屋泊まりだが)のKIBO HUT(4,713m)までは、高度の点はともかく、道そのものは、殆ど何の危険もない。
 ポーターへの荷物分けに手間取ったのか、MARANGU GATEをスタートしたのは13:50になった[写真3]
 道は巾3mほどで、周囲は熱帯樹林。この日の天気のせいか、ジャングルの木陰のせいかアフリカのジリジリした陽ざしはなく、快適なトレッキングである。陽ざしが届かないので、日陰の花が目立つ。インパチェンスのピンクが可憐だ。日本の園芸種のインパチェンス(和名;アフリカホウセンカ)の原種にあたるのだろう[写真4]
 先導するサブガイドのJHONは目がとても良い。木をわたるサルを見つけると、「サルがいるぞ!」と教えてくれる。言われても、「どこ?どこ?」と言う感じで、すぐには確認できないが、そのうち木の枝が揺れているのでようやくあの辺にいるのだという目星がつき、サルが確認できる。
 KISANBONI Lunch Spot で遅い昼食をとる。ここには、ゴミ箱やトイレがあるが、男性が一人この場所を清掃している。ゴミや食べ残しを動物に食い散らされないように、ということだったが、さすがに国立公園だけあるな、と感じた。
 夕方、MANDARA HUTに到着。急こう配の三角屋根の棟が幾つも建っている。棟の両端が入り口になっていて、中央で2室に仕切られている。1室には入り口から見て両側に2ベッド、正面に2段ベッドがあり、4人の宿泊が可能である。つまり、1棟に8人まで宿泊できるようになっていて、これは、HOROMBO HUTでも同じだった[写真5]
 食前にキュウリのスープとポップコーンが出る。登山中ポップコーンを食べるのは初めてなので、面白かった。が毎夕では飽きが来て、3日目からはストップしてもらった。
 屋根には小さなソーラーパネルがついていて、各棟とも夜には電気が灯る。
 食堂・トイレは別棟で夜なかに何度も小便に起きることを余儀なくされる身には、辛かった。
写真2
9月22日  13:18  (撮影:岡田)
公園の管理建物
 写真3
9月22日  13:43  (撮影:岡田)
トレッキングのスタート地点
(左から中村、佐藤)
写真4
9月22日  14:35  (撮影:中村)
インパチェンス

●9月23日(金) 快晴
 MANDARA HUT(8:05)−MAUNDI CRATER分岐(8:25)−キリマンジャロ初お目見え(9:07)−樹林限界(9:45)
 −ランチ(12:55〜13:30)−HOROMBO HUT(3,719m 15:55)

 どのhutからも登山者が起きだしてきて、MANDARA HUTはにぎやかになる。今日の天気を保証するかのように、夜空の星の数はすごかった。食堂棟で朝食を摂り、出発する。20分ほど熱帯樹林を歩くとMAUNDI CRATERへの分岐に出る。帰りに寄ることにし、先へ進む。
 MANDARA HUTを出発して1時間、昼なお暗い熱帯樹林は途絶え、樹木は低く疎となる頃、前方にキリマンジャロとMt.MAWENZI(4,149m)が見えてきた。一足ごとに砂ぼこりが舞い上がる、乾燥した地点から雪のある山頂を仰ぐとホッとする。一方、きれいな雪解け水の豊富な日本の山々のことが、この上なく素晴らしいものとして思い出された[写真6]
 ルートは広大なキリマンジャロの斜面を緩やかに登っていく。道路わきには、プロティアやエバーラスティングといった、白系の花が咲いている。赤系青系の花は数少ないのは季節のせいか?それとも地域のせいか?[写真8,11]
 行く先に高いアンテナが見えてきた。HOROMBO HUT(3,719m)だ。ここは、hutの数が非常に多い。ガイドに尋ねると、高度順化のために連泊する人、KIBO HUTに登る人、キリマンジャロに登頂してHOROMBO HUTまで降りてくる人という3種の人(グループ)が集結するので、多数のhutが必要だという。すでに富士山頂上の高度に近く、われわれもここで高度順化のため連泊する。
 この日の夕方から朝夕にダイアモックス1錠(250mg)を服用する。
写真5  9月23日  7:34  (撮影:岡田)
朝のMANDARA HUT
写真6  9月23日  9:08  (撮影:岡田)
Mt.Kilimanjaro
 写真7  9月23日  9:21  (撮影:中村)
キリマンジャロの斜面を緩やかに登る。
 (前からJHON、佐藤、岡田)
写真8  9月23日  11:07  (撮影:中村)
プロティア

●9月24日(土)晴れのち曇り
 HOROMBO HUT(9:00)−ZEBRA ROCKS(4,200m 11:10〜30)−HOROMBO HUT(13:15)

 高度順化の日。今朝は、青空を背景にhutの屋根越しにキリマンジャロの頂上の雪が眩しい[写真9]。高度順化といえば、ガイドは、“ポレポレ”と“水を飲め”をしきりに言う。彼らの経験から言うのだろうが、“ポレポレ”(ゆっくりゆっくり)は言わずもがな・モッケの幸いだが、水はそんなに沢山飲めるものではない。
 高度順化のカリキュラムだが、富士山頂上と同じくらいの高度のHOROMBO HUTを出発し、4,200mのZEBRA ROCKSまで往復するというもの。ルートはMt.MAWENZIの登山ルートを行く。4,000mの高度には、低木のエリカが沢山生えており、ところどころに、ジャイアントロベリアやジャイアントセネシオが独特の姿で生えている。土地は乾燥していて、植物の生存にとっては、厳しい環境に違いない[写真10、12]
 ZEBRA ROCKSは、シマウマのようにタテに縞模様が入った大岩で、すぐそばまで近づいたが、大変迫力のあるものだった。帰りは低い稜を乗越し、KIBO HUTからの道に入ってHOROMBO HUTに戻った。この道は、まるで砂漠の中の1本道で、乾燥しきってほこりっぽいものだった。
 2008年の中川隊の報告にもあったが、キリマンジャロ登山中に高山病で亡くなる人もいる。
 緊急を要する場合、この道を病院や救急車に備えてあるようなストレッチャーを使ってHOROMBO HUTまで下ろし、HOROMBO HUTからは、救護車やヘリコプターで下界へおろすようになっているらしい。救護に要する費用は、ヘリ代以外は入山時に支払う保険料でカバーするとのこと。

 ともあれ、この日は雲も低く、寒いくらいの1日だった。
 夕食時には食欲もなく、出された食事も殆ど食べられなかった。加えて下痢も始まり、この先が思いやられた。

写真9  9月24日  7:35  (撮影:岡田)
Mt.Kilimanjaro(Horonbo Hutsから)
写真10  9月24日  9:32  (撮影:岡田)
ジャイアントロベリア
 写真11  9月24日  9:32  (撮影:岡田)
エバーラスティング
写真12  9月24日  9:38  (撮影:岡田)
ジャイアントセネシオ

●9月25日(日)快晴
 HOROMBO HUT(7:40)−MAUA RIVER(3,940m 8:45〜55)−南頂上周回路分岐(9:23)
 −最後の水飲み場(10:10)−MAWENZI HUT分岐(13:06)−KIBO HUT(4,713m 14:30)

 hutの三角屋根の向うに青空を背景にそびえるキリマンジャロ頂上の白い雪。ここHOROMBO HUTからはまだまだ遠い[写真13]
 今日のルートは砂漠の中の緩やかな登りの一本道。同じ日程で歩いているスペイン人やイラン人のパーティーが追い抜いていく。彼らはとても元気で、食事時にも大きな声で喋り、食欲も羨ましいくらい旺盛だ。彼我の基礎体力の違いを目の当たりにしたと思った(後日、三月会でこの話を出したら、年齢差の影響が大きいのではという意見が強かったが)[写真14、15]
 キリマンジャロの頂上は雲がかかったり現われたりであったが、KIBO HUTの上、爆裂口のフチまでのルートははっきり確認でき、これが大変急に見えた。
 現地で韓国人の男性とペアーになって登山中だった日本女性が道端に座り込んでいた。今朝早くから頂上を目指したものの高山病になり、これから下山するところだが疲労困憊の様子だった。
 ようやくたどり着いたKIBO HUTは乾燥しきった砂漠のような場所に何棟かのhutが建っていた。富士山頂上より1,000mほど高所に位置し、寒かった。
 頂上に向けての真夜中の出発に備えて、夕食もそこそこに、シュラフに潜り込む。「仮眠したのが高山病の原因」という2008年中川隊の経験を知ってはいたが、ここまで来た疲労とシュラフのなかの心地よさに抗しきれずにすぐ寝てしまった。

写真13
9月25日  7:38  (撮影:岡田)
Mt.Kilimanjaro
(Horonbo Hutsから)
写真14
9月25日  10:37  (撮影:中村)
KIBO HUTへの道
 (前から岡田、佐藤)
写真15
9月25日  13:36  (撮影:中村)
KIBO HUTへの道
(前から岡田、佐藤)

●9月26日(月)晴れ
 KIBO HUT(25日22:55)−ハンス・メイヤーズ・ケイブ(5,151m 3:20〜30)−Gilman’s Point(5,685m 8:20〜8:40)
 −砂走り終了地点(UHURU PEAKまで行った中村とサブガイドと合流 9:50〜10:00)−KIBO HUT(11:20〜13:06)
 −HOROMBO HUT(17:10)

 (中村とサブガイドの行動)
 ハンス・メイヤーズ・ケイブ(3:30)−Gilman’s Point(6:40〜50)−UHURU PEAK(5,895m 8:30〜50)
 −Gilman’s Point(9:30〜40)−砂走り終了地点(9:50〜10:00)

 起こされて目が覚めたのは、22時頃か?トイレに起きることもなくグッスリと寝たようだ。いよいよキリマンジャロ登頂を目指しての一日が始まったのだ。
 寒さ対策としては、下は綿入れのオーバーズボンを含めて4枚、上は着古したダウンジャケット含めて4枚、首には毛糸のネックウォーマー、毛糸の耳あてつき帽子、靴下は厚手のものを1枚、そして冬期用の手袋。
 満点の星空のもと22:55にKIBO HUTを出発。出発は我々が一番早い。ヘッドライトの光だけではどこをどう歩いているかまったくわからない。ただ、先頭を歩くサブガイドの足元だけみつめて登る。「30分歩いて休憩して」とピッチを指示する。呼吸が上手くできない、したがって苦しい。もう30分は歩いたか?と時計ばかりみる。なんと歩きだしてまだ10分も経っていない。こんな調子で、悪戦苦闘してきたが、多分5,000mを越えたあたりからだったと思う。目が見えなくなったのだ。正確に表現すると、視界が濃い霧におおわれたようになり、サブガイドの足元が見えない。こちらがサブガイドのスピードについていけず、間隔が開いてしまったため足元が見えないということもあるが、立ち止まって待ってくれているその場所も見えないのだ。
 サブガイドのヘッドライトの場所が見えるので、なんとかそこまでは行く。
 登山路は、小石が敷き詰められたようなザラザラ道で、一歩一歩確実に足を運ばないとずり落ちそうな感じがした。
ハンス・メイヤーズ・ケイブのあたりで、余力のある中村はサブガイドと2人でウフル峰まで行くべく先行した(実は、こういう事態になったことは、この時は知らなかった)。小生同様に、久さんも目が見えなくなったが、「Gilman’s Pointまではなんとしてでも行くぞ」と執念を燃やしていた。
 6時頃だろうか?まわりが明るくなってきたが、目は相変わらず見えない。時計が見えないので、記録もできない。ルートは大きな岩も混じった急登となり、「こんなルートを使って下山できるのだろうか?」と思いながらもガイドについてカタツムリの歩みを続けた。ガイドに向かって「どこにいる?」と何度か尋ねながら。
 悪戦苦闘すること9時間半、ようやくにしてGilman’s Pointまで登ることが出来た。大きな標識に「おめでとう」と書いてあった。正面に雪の頂上が見える。カメラを出してシャッターを2度押すが、自分の目と同じで、2枚ともピンボケになってしまった[写真16]
ガイドは我々2人に、「ウフル峰まで行くか?」とは言わなかった。多分、彼としては視覚に支障をきたしている2人を無事に下山させることに頭が一杯だったのだろう。
 太陽は輝き、風もなく素晴らしい登山日和の下、岩混じりの道をゆっくりゆっくりと下り始める。富士山の大沢のような砂利と砂の混じった下りになったころ、ウフル峰まで登頂した中村[写真17]とサブガイドが追いついてきた。ものすごいスピードだ。
 また、下からブルーの上下を着た屈強な若者が上がってきて、私の両脇から腕をとり、下山介助してくれた。両脇をかかえられているので、彼らのスピードで下らざるを得なかった。視覚は相変わらず不良だったので、本当に2人に頼り切りの下山となった。KIBO HUTで着ていたものを脱ぎ、ポーターに預けるために荷造りをし、HOROMBO HUT目指しての今日最後のアルバイトにとりかかる。視覚の不良はなかなか戻らなかった。
 HOROMBO HUTが近づいた頃、ガイドが「旦那の視覚不良が戻らなければ、明日は救護車を呼ぼうか?」と聞いてきた。国立公園の救護車がHOROMBO HUTまで上がってきてくれるとのこと。私の歩みがそれほどよろよろしていたのか?
 結局、明朝の目の状況をみて、それからSOSを発するかどうか決めようという結論になった。ちなみに、コストは保険の範囲内で無料ということだった。

写真16  9月26日  8:28  (撮影:中村)
Gilman’s Point(5,685m)にて
(左ら佐藤、岡田)
写真17 9月26日  8:32  (撮影:JOHN)
UHURU PEAK(5,895m )にて
(中村)

●9月27日(火)快晴
 HOROMBO HUT(8:40)−MANDARA HUT(14:13〜14:30)−救護車に乗車(15:25)−MARANGU GATE(15:40)
 −HOTEL VENUS(19:10)

 下山の日。一昨日の朝と同様、快晴の空をバックにキリマンジャロが雪をいただいて聳えていた。
 ガイドやポーターにチップをわたす。チップの額は下記。

** ガイド 20$/人・日 サブガイドにも同額
コック 10$/人・日 1人
ポーター(兼ウェイター) 10$/人・日 1人 朝夕に食事の世話をした
ポーター 8$/人・日 5人

 全員にチップを渡したその時、サブガイドが音頭をとって歌と踊りの披露をしてくれた。登頂おめでとうという気持ちの表現と、キリマンジャロ賛歌とでもいう内容か?彼らはとても陽気だ[写真18][動画]
 キリマンジャロをバックに全員で写真を撮って[写真19」、名残惜しいが下山開始する。救護車はMANDARA HUTまで来てくれるらしい。視覚は殆どもとに戻っていた。
 これから登る幾つものグループとすれ違いながら、ホコリッぽい道を下る。Gilman’s Pointまで良くも行けたもんだ、そして高山病でフラフラになりながらも、良く戻ってこれたものだ、と感無量だった。
 MARANGU GATEでは下山届けを提出し、ガイドが翌日ホテルに届けてくれたが、登頂証明書を発行してもらった。(私の分は当然のことながらGilman’s Pointまでの証明書)


写真18  9月27日  8:35  (撮影:岡田)
登頂祝いのダンス
(左ら佐藤、主ガイド、副ガイド)
写真19 9月27日  8:36  (撮影:中村)
HOROMBO HUT にて
(前列左から岡田、コック、佐藤、主ガイド、
副ガイド、中村)

をクリックすると動画がスタートします。




9月27日 8:39  (撮影:中村) 
キリマンジャロ・ソング(左から岡田、佐藤、主ガイド、中央が副ガイド)


●9月28日(水)快晴
 HOTEL VENUS(8:40)−TARANGIRE NATIONAL PARK(11:20〜16:00)−HOTEL VENUS(18:35)

 今日も朝方は雨だったらしい。ホテルの窓から見える道路が濡れている。
 TARANGIRE NATIONAL PARKへサファリに行く。途中街道沿いにある大きな土産物屋へ立ち寄った。木彫りのマサイ族の人物や動物、キリマンジャロ・コーヒーなどが売られている。
 街道沿いにはコーヒーやバナナのプランテーションが散在しているが、農業だけでは日本の半分近くの人口を養っていくのは困難だろう。
 公園内のロッジに宿泊するサファリもあるらしいが、我々のは「日帰りサファリ」。シマウマやヌーやインパラなどの草食動物が乾期のせいか枯れた草原に群れている。枯れた草は美味しいのだろうか?ライオンも木陰にデレーッと寝転んでいてピリッとしない。腹が減ったら狩りをするのだろうが…。
 夕方、ガイドのAGREYがBBQに案内してくれる。牛肉を焼いて塩をつけて食する。味は良いけれど硬くてなかなか呑み込めなかった。

●9月29日(木)晴れ
 夕方のフライトまで時間があるので、AGREYがARUSHAの町を案内してくれる。博物館や本屋を案内してくれた。ジャカランダの花が真っ盛りだった。
 バスターミナルにも連れて行ってくれたが、各方面に行くマイクロバスが満ち溢れており、これぞカオスという印象。AGREYは「持物に気をつけるように」と注意してくれたが、何事も起きなかった。
 この日はキリマンジャロ国際空港発17:40のカタール航空で、往路と同じドーハ経由で羽田に帰着した。
 私自身、アフリカ大陸は初めてだったが、接した人々の陽気さや土地の広さが印象に残った。
 今回も航空券の手配、ツアー会社の手配となにかと佐藤(久)さんのお世話になった。本当に有難うございました。

■会計報告
 今回の山行に費消した経費は下表のとおりです。一人当たりの経費は約335,000円でした。





会   報
***


■2016年5月14〜15日 黄山の山行記録  西山 祥紀(一橋大学山岳部:経済学部4年)
     ****** 2016年5月17日投稿 ******

●山行日 2016年5月14日〜15日

●メンバー 西山祥紀(現役部員・経済学部4年生)

●コース 
  5/14(土)後山ルート
     3:05 黄山風景区バスターミナルでバスに乗る
   13:30  雲谷寺
   14:00  雲谷寺から登山開始
   17:00  白鵜峰
   17:30  光明頂
   18:30  日没を見届ける
   19:00  ホテル、獅林大酒店に到着

  5/15(日)前山ルート
   10:30 獅林大酒店出発
   12:30 玉屏駅到着、ロープウェーに乗る
   12:45 慈光閣に到着

●天気 
  5/14(土) 快晴
  5/15(日) 大雨

●概況と感想 ⇒こちらをクリックするとpdfでご覧になれます。


▼画像をクリックすると大きく表示されます。


5月14日  15:30頃
雲谷寺側にあった中国らしい看板


5月14日  16:45頃
道中でキュウリを食べる中国人


5月14日  17:30頃
白鵜峰の側の絶景


5月14日  19:30頃
光明での日没の様子


●2016年5月17日 Re:【一橋大学山岳部】黄山への登攀にともなう山行記録【1】
                        中村 雅明(昭和43年卒)

西山さん
お元気そうで何よりです。
 黄山紀行&写真4枚拝受しました。ことの外嬉しいことでした。
実は小生は家内と観光ツアーで3/17〜22「山水画の絶景・黄山の旅」に行ってきたばかりなので、大変面白く拝読しました。
雲谷寺から雲谷ロープウエイに乗って頂上へ。北海賓館、西海賓館に各1泊。丸1日間たっぷり散策し黄山を堪能しました。
帰りは太平ロープウエイで松谷庵に下山しました。正に大名旅行でした。
 貴兄は登りは流石、山岳部員、6.5キロ3時間で登りあげた由、ご立派です。2日目は大雨で残念でしたね。
 私達は入山の日は小雨でしたが、翌日から2日好天に恵まれ幸いでした。
 HPに掲載させていただきます。
 なお、その時の写真2枚添付します。

3月19日  6:21
始信峰から見た岩峰の頭から出た日の出
3月19日  11:56
光明峰手前で見た鋭鋒


●2016年5月17日  Re:【一橋大学山岳部】黄山への登攀にともなう山行記録【1】
                        西山 祥紀

中村 雅明 様
早速のご確認をいただき、誠にありがとうございます。
中村様がつい最近おなじく黄山に足を運ばれたとは思いもよりませんでした。
黄山を同じく堪能されたとお聞きし、嬉しく思います。
また、大変美しい写真をいただき、ありがとうございます。
ついこの間、異国の地にもかかわらず中村様と同じ風景を見たと考えると、非常に感慨深いです。(略)

 
   ■黄山に関して以下の2篇が針葉樹会報に掲載されています。
    1)第93号  「中国の名山 黄山の旅」 長澤 道彦 ⇒こちらをクリックするとpdfでご覧になれます。
    2)第101号 「泰山と貴山」 高橋 信成 ⇒こちらをクリックするとpdfでご覧になれます。


会   報
***


■2015年8月27日〜9月12日 スイスアルプス ハイキング三昧  佐藤 久尚(昭和41年卒) 
          *********** 『針葉樹会報』第134号より転載

 去年の秋、岡田健志(昭42年)、中村雅明(昭43年)両氏とカラコルムに行って、退職後毎年続けて来たヒマラヤのトレッキングも、あらかたの所は行き尽くし一段落と言ったところ。あと興味ある所として残っているのは、ヒンズークシュぐらいだが、今は治安が悪いので無理をすることはない。それに歳(73歳)も歳だし、ハードなトレキングは避けたい。しかし年に一度は海外の見知らぬ山を見てみたい。そんな思いから、今年は気楽に行けそうなスイスアルプスに行くことにした。
 スイスアルプスは、17年前、仕事でジュネーブに行った際、モンブランを一目見ようと日帰りでシャモニーまで足を伸ばしたが、その時は天気が悪く全く山は見られず、残念な思いをしたことがある。それだけに、一度は行ってみたい気持ちも強かった。近くの図書館からガイドブック「地球の歩き方、スイス」を借りてきて、必要な情報を仕入れて大まかな計画を建てた。
 時期としては、スイスは6?8月がハイシーズンなのでそれを外し、且つ、あまり寒くならない9月初旬、コースとしては、ジュネーブから入って、ハイキング拠点をシャモニー→ツェルマット→ポントレジーナ→グリンデルワルト→ジュネーブと、時計とは反対回りにスイスをほぼ一周するコース、そして各所で最低3日はハイキングを楽しむというのが、計画の概要。
 当初、一人で行く心算でいたところ、女房が「ハイキングはしないがツェルマットまでは一緒に行きたい」と言い出したので、現地ではお互いの行動を制約しないという条件で、最初の8日間だけ女房が同行することとなった。



スイス地図
(地図をクリックすると地図をダウンロード出来ます)
●8月27日
 羽田から北京経由ジュネーブに入った。飛行機は例によってインターネットの格安航空券サイトで探して中国国際航空にしたが、これにした理由は、ただ価格が安いから、というだけではない(安いのはエミレーッやカタール航空などの中東系の便の方がもっと安い)。中国国際航空は、羽田8:30発でジュネーブにその日の夕方の丁度いい時間(18:25)に着くこと、および、空いているだろうと予想したことからである。事実同便は予想した通り空いていて、帰りのジュネーブ・北京間などは一人で3席独占でき横になってゆったり寝られた。何と言っても飛行機は空いているのがいい。

(モンブラン山群)
●8月28日 曇り
 午前中ジュネーブの街中を観光して、11:30発のバスで最初のハイキング拠点のシャモニーに入った。ジュネーブからシャモニーに入るには鉄道とバスがあるが、鉄道だと約3時間半かかるところをバスだと約1時間半でシャモニーに入れてバスの方が圧倒的に便利。但しバスは一日2便しかないので、事前に切符を買っておかないと乗れない恐れがある。今回は、ジュネーブに着いた晩、バスターミナルに直行して窓口の閉まる直前に切符を買う事ができたので、午前中ジュネーブで観光する時間が取れた。
 シャモニーはモンブラン山群の登山基地として有名な街であるが、この時はちょうど「ウルトラ トレイル・デュ・モンブラン」(モンブラン一周のトレイルランの大会。他にも短いコースもいろいろある由)の開催中で、大会参加者らしきアスリート風の男女やその応援団と思われる人々であふれかえっていた。
●8月29日 曇り後晴れ
 女房と一緒にロープウエイでエギュ・デュ・ミディ(3842m)に上がって、頂上の展望台からモンブラン(4810m)やグランド・ジョラス(4208m)等の迫力ある展望を楽しむ。その後、ロープウエイの中間駅、プラン・ドゥ・レギーユ(2317m)までケーブルで下って、そこで女房と別れてハイキング開始(11:10)。ルートはシャモニー針峰群の山腹をトラバースするように延びている。左側にシャモニーの街を見下ろし、右側にグレポンやペイニュ峰など特徴のある針峰群を仰ぎ見ながら緩やかなアップダウンの道を進み、最後の尾根を回り込むとメール・ド・グラス氷河を見下ろす展望台に出た。そこからメール・ド・グラス氷河に向って下ると、モンタンベール(1913m) の登山電車の駅に着いた(14:35)。駅横のレストランで、グランド・ジョラス北壁やドリュー西壁の眺めを肴にビールで喉をうるおした後、登山電車でシャモニー(1035m) に帰る。
●8月30日 晴れ
 昨日登ったエギュウ・デュ・ミデイとはシャモニーの谷を挟んだ反対側からモンブランが見られるコースを歩いてみることにした。ブレバン(2525m)という展望台までは女房と一緒にロープウエイで登り、そこで別かれてハイキング開始(11:00)。砂礫の急な道を一旦、ロープウエイの中間駅のプランプラッツ(2000m) まで下り、そこからコルヌという陵線上のコルを目指して登る。この登りが予想以上に長くハードに感じられた。コルからは陵線上の道を進んだが、途中で道を間違えた。左下にコバルトブルーの大きな綺麗な池が見えたので、コースはその池の畔を通っているものとばかり思い込んで陵線から下ってしまった。池まで降りて池に沿ってしばらく行くと、道が消えてしまって間違いに気付いた。再び陵線まで登りなおしたが、約1時間半ロスをする羽目となった。その後は陵線上を忠実に歩きアギュール・ポーリェというコルからロープウエイ駅のフラジェール(1894m) に降る。そこからはロープウエイとバスを乗り継いでシャモニーに戻ったが、ホテルに着いたのは19時過ぎとなってしまった。
●8月31日 晴れ
 シャモニー谷には、モンブラン山群を眺める展望台として主要なものが三つある。エギュウ・ドゥ・ミデイとブレバンとグラン・モンテである。既に前の二つの展望台には行ったので、この日は残ったグラン・モンテの展望台に登って、そこからアルジャンチエール氷河を下ってみることにした。
 女房と一緒にバスでアルジャンチエールまで行き、ロープウエイでグラン・モンテ(3275m) に上がる。そこでまた昨日までとは違った角度からモンブランの展望を楽しんだ後、展望台から急な階段を下って岩場に下りアルジャンチエ―ル氷河に下りようとした。が、降り口の岩場が急で危険を感じる。後からヘルメットをかぶりザイルを持ったパーティが来たので見ていると、ザイルを取り出し始めるではないか。これを見て氷河に下りるのは無理と諦める。階段を上り返して展望台に戻ると、まだ女房がレストランでお茶を飲んでいたので、一緒にロープウエイで中間駅のロニアン(1972m) まで下り、そこから歩いてバス停まで下ることにした。道は、ジープが通れるくらいの広い砂利道で展望もそれ程無いので、人気がないと見えて、下まで誰にも会うことはなかった。予定していた氷河歩きはできなかったが、静かなハイキングが楽しめたので、ある意味では良かったと自ら慰める。

(ヴァリス山群)
●9月1日 曇りのち雨
 シャモニーから電車でツェルマットに移動する。事前に時刻表で調べてみると、途中3回も乗り換えがあるのでちょっと心配したが、スイスの鉄道は正確で、ほぼ予定通りの時間でツェルマットに着くことができた。ツェルマットは、ヴァリス山群の中心の観光地で、街中からマッターホルンが見えることで有名なせいか、雨にもかかわらず駅前のメインストリートは、欧米の観光客の他に中国人、韓国人、日本人の観光客などで賑わっていた。
●9月2日 雨のち曇り
 朝のうち雨が降っていたのでしばらくホテルで待機、雨の止むのを待って、女房と一緒に登山電車で有名な展望台のゴルナーグラート(3089m)へ行く。ゴルナーグラートまで登ると雲の上に出て、モンテローザ(4634m) やマッターホルン(4478m)が姿を現した。天気も回復して来たので歩いてツェルマット(1620m) まで下ろうかと思ったが、この日は風邪気味で体調も悪かったので止めて、ゴルナーグラートの周辺を散歩した後、女房と一緒に電車でツェルマットに戻った。
●9月3日 曇り後雨
 ロープウエイを乗り継いでマッターホルン・グレィシャー・パラダイス(3883m)まで上がって雪と氷の展望を楽しんだ後、中間駅のシュヴァルツゼー(2583m)まで戻り女房と別れてハイキング開始(12:30)。牧草地の中の道を犬を連れた中年のスイス人女性ハイカーと相前後しながらシュタッフェルに下る。ここの山小屋でビールを補給した後、フーリ(小さな村)を経由してツェルマットを目指す。フーリを過ぎた頃から雨が降り出したが、道は緩い森林の中の道なので、傘をさし雨を楽しみながらゆっくり歩いて、16:30ツェルマット(1620m)に着いた。
●9月4日 晴れ
 地下ケーブルカーとロープウエィを乗り継いでロートホルン(3103m)まで行き、そこからハイキング開始(10:35)。まずオーバーロートホルン(3415m、頂上には雪があった)に登る。その後はひたすら下るのみ。フルーエ、スネガー、フィンデルンを経由して、ツェルマットまで下る(17:35着)。
 女房はこの日ツェルマットからベルンへ行きベルンンで1泊した後、ジュネーブから帰国。

(ベルニナ山群)
●9月5日 曇り時々雨
 ツェルマット―サンモリッツ間には、車窓からスイスの雄大な景色が眺められることで有名なグレィシャー・エクスプレス(氷河特急)というパノラマ列車が走っている。これに乗りサメダンまで行き(乗車時間約8時間)ベルニナ線に乗り換えてポントレジーナという駅で降りる。ポントレジーナはサンモリッツから2駅イタリア方向に行った小さな町であるが、サンモリッツよりもホテル代が安いうえ、ベルニナ山群のハイキングを楽しむには、交通の便もサンモリッツよりも良いので、ここに宿を取る。
●9月6日 晴れ
 バスとケーブルカーを乗り継いで、ムオタス・ムラーユ(2453m)まで行ってハイキング開始(11:10)。途中のセガンティーニ ヒュッテ(2731m)でビールと昼食を取り、アルプ・ランガード(2330m)を経てポントレジーナ(1805m)へ下る(15:40着)。このルートは、ベルニナ谷の対岸からベルニナの主要な山々が眺められるコースで、終日ピッツ・ベルニナ(4049m)やピッツ・パリュウ(3900m)などを眺めながらの気持ちのいいハイキングが楽しめた。また、コースの上の方には昨日降ったと思われる雪が積もっていて、新雪を踏んで歩けるのも良かった。
9月6日
ムオタス・ムラーユからセガンティーニヒュッテへ行く途中で


●9月7日 晴れ
 展望台で有名なピッツ・コルヴァチュ(33003m)までロープウエイで行って、ベルニナ山群の大パノラマの展望を堪能した後、中間駅のムルテル(2702m)まで戻ってハイキング開始(11:00)。
 まずピッツ・ベルニナが間近に見えるスールレーユ峠(2755m)を目指す。峠には予想よりも早く着き、峠のヒュッテでビールと景色を楽しむ。峠からポントレジーナに直接下る道もあるが、時間があるのでサンモリッツまで歩いてみることにした。登って来た道を少し戻り、途中から標識に従いサンモリッツに向ったが、このルートは人気が無いせいか、誰にも会うことなくサンモリッツに着いた(15:40)。
 
9月7日
スールレーユ峠にて。背景の山はピッツベルニナ


●9月8日 晴れ
 もう一つの展望台のディアボレッツァに行くつもりでバスに乗ったら、バスが国境を越えてイタリア迄行くことが分かった。バスの中でふとイタリア側に行って南側からベルニナの山を見るのもいいかないかなと思って、ロープウエイ駅で降りるのを急遽止めて、そのまま終点まで乗り続けることにした。バスは峠を二つ越えて約1時間半かかってリヴィーニョという街に着いた。そこはスキーリゾートでかなり大きな街であった。冬はスキー客で賑わうとみえて、高級ホテルやブティック、立派な教会などもある。但し周りに雪の山は全く無い。ハイキングをしようにも適当なコースも無いので、折り返しのバスで戻ることにしたが、出発時刻まで2時間もある。街はずれの遊歩道を散策したり、街中をぶらついたりして時間をつぶして、ようやく来たバスでディアボレッツァに登るロープウエイ駅まで戻った。
 そしてロープウエイでディアボレッツァ(2978m)まで上がったが、展望台に着いた時は既に15時を過ぎていた。ここから当初予定していたベルニナ線のディアボレッツァ駅まで歩いて下るには時間がない。どこか歩くに適当なところは無いかと見回したところ、少し先に1時間位で登れそうなうっすらと雪をかぶったピークが目に入った。トレースもはっきり見えるので、そこに登ってみることにした。50分で頂上に着いたが、頂上には時間も遅いし誰もいないだろうと予想していたところ、一人のスイス人の老ハイカーがいて、頼みもしないのに周囲に見えるピークを、一つひとつ指さしながら名前を教えてくれた。見ると老ハイカーのザックの脇には、500mlのビールの空き缶がころがっていたので、すこし酔っていたのかもしれない。寒いので10分足らずで頂上を後にしたが、彼は日の傾きかけた頂上に一人残っていた。

(ベルナ―・オーバーラント山群)
●9月9日 曇り
 ポントレジーナからスイス国鉄でグリンデルワルトに向う。途中サメダン、クール、チューリッヒ、ベルン、インターラーケンと5回も乗り換えなければならなかったが、ファーストラゲッジというシステムを使って大きな荷物を事前にグリンデルワルトの駅に送っていたので、サブザック一つだけ持っての移動だったので楽であった。このファーストラゲッジというシステムは、乗り換えの多い場合や途中下車して観光する場合などに大変便利である。夕方グリンデルワルトに着いたが、グリンデルワルトもツェルマットと同じく中国人、韓国人、日本人の観光客が目立った。
●9月10日 曇り時々雨
 憧れのユングフラウヨッホ(3454m) に行ってみた。アイガーの山腹をくり抜いたトンネルを通って3000mの山の上まで鉄道が運んでくれるわけだが、乗っているだけで難工事のほどが偲ばれ、よくも鉄道を敷いたものだと感心させられる。また、途中の停車駅では、アイガー北壁のど真ん中の窓から北壁が覗けるようになっていたりして、兎に角、興奮させられる。また、車内放送(驚くことに日本語)で、このトンネル工事が1895年(明治28年)に始まったと、言うのを聞いてさらに驚く。
 山頂の展望台でユングフラウ(4156m)やメンヒ(4099m)、アイガー(3970m)等の展望を堪能した後、電車でトンネルの出口のアイガーグレッチャー駅(2320m)まで戻り、ハイキング開始(11:15)。雲の中をクライネシャイデック(2061m)まで下り、そこからアイガー北壁の真下をトラバースしてグルント(948m) に下るルートに入る。この日は雲の動きが激しく、ハイキング中、アイガー北壁が全貌を現すということは無かったが、それでも右手目の前に常に北壁が迫っているので、その迫力は十分に感じられた。途中で雨が降り出し遠くに聞こえていた雷鳴が急に近付いてきたので、危険を感じ慌ててアルピグレンの駅に避難した。雷が近くで鳴り出し“ヤバイ”と感じた時、たまたま「Alpiglen 10min」という標識が目に入ったので、雷や雨がそれ程激しくならないうちに駅に駆け込むことができたが、後から駆け込んできた人々は、ずぶ濡れで恐怖に顔を強張らせている者もいた。小さな駅舎はたちまち駆け込んできたハイカーで一杯になったが、そのうち雷鳴も遠ざかり登山電車も来たので、それに乗ってグリンデルワルトに戻った。
●9月11日 晴れ
 バスでグロッセ・シャイデック(1986m)まで上がってハイキング開始(10:30)。フィルスト(2168m)、バッハルゼー(2265m小さな湖あり)、フェルドを経由してグリンデルワルト(1034m) まで歩く(16:55着)。この日は天気も良く終日、ヴェッターホルン、シュレックホルン、アイガー、ユングフラウなどベルナー・オーバーラント山群の主要な山々を眺めながらのハイキングが楽しめた。
●9月12日 晴れ
 この日がハイキングのできる最後の日なので、山群を代表するロングコースに挑んでみることにした。泊まっているホテルのすぐ上にあるリフト乗り場からチェアーリフトで直接フィストまで上がり、歩き出す(9:15)。バッハルゼーまでは昨日と同じ道を行き、そこから分かれてファウルホルン(2686m、頂上にホテルがあるので有名)を目指して登る。約400mの登り。ホテルのテラスレストランでビールと抜群の展望を楽しんだ後、ヴェーバー小屋に向う。約1時間でヴェーバー小屋に着き、またまたビールを給油した後、ひたすら歩いてシーニゲプラッテ(2068m)の登山電車の駅へ出てハイキング終了(16:10)。このコースは、尾根道あり山腹を巻く道あり牛の遊ぶ草原の中の道ありで、変化に富んでいるほか、眺望も抜群で(ベルナー・オーバーランの主要な山々の他にインターラーケンの街やトゥ―ン湖まで見晴らせる。)、ハイキングの最後を飾るコースとしては相応しいものであった。
●9月13?14日
 グリンデルワルトからジュネーブ空港へ向かう。飛行機は夜の便(20:25発)なので、途中下車してインターラーケンで約2時間、ベルンで約4時間街中を観光する。ベルンは街全体が世界遺産に登録された街だけあって一見の価値あり。ジュネーブからはエアーチャイナで北京経由羽田に帰る。

 今回は、一人旅であったので、事前にあまり細かいスケジュールは決めず、現地に着いてから前の晩に天気と相談しながら明日どこに行くかを決めるというスタイルで旅をしたが、これが良かったと思っている。ホテルも最初のジュネーブだけ日本から予約を入れたが、後は現地に着いてから探すということで全く問題なかった。また、スイスは、どの山群にもハイキングコースが沢山あり、そのうえ鉄道やバスが発達しているので、広い地域から選り取り見取りで日帰り可能なコースが選べる。ホテルやインフォーメションセンターで簡単な地図付き案内書がもらえるし、コースには標識が整備されているので、事前に調べておく必要もほとんどない。兎に角、気楽にハイキングが楽しめるので、お勧めです。
会   報
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■2015年3月26日〜4月4日 アンナプルナ街道トレッキング(トレッキングシリーズその2)

                                   小野 肇(昭和40年卒)
               *********** 『針葉樹会報』第133号より転載

 ヒマラヤのアンナプルナ街道は3月にラリーグラスが満開だという。
ヒマラヤシャクナゲは日本のしゃくなげと違って30mもの大木で赤やピンクの花がたわわに咲いてるとのこと。
今年2015年で卒業50年。会社卒業して同じく50年なので会社同期のM君と記念山行を計画した。M君は慶応三嶺会のOB。
 昭和40年に会社にはいり彼に最初に恵庭岳に連れて行ってもらったのがつい昨日のように思える。
航空券、ホテル、ガイド、ポーターの手配をノマドという札幌の登山ガイドの会社に依頼し2人で札幌から旅立った。
以下、簡単に概略を紹介します。




●3月26日  12時に千歳空港に集合して日本酒とそばで昼食。14時15分千歳空港発。
 16時50分ソウルインチョン空港着。空港でホテル専用の車を呼び出しホテルスカイ18時着。

●3月27日  7時にホテルを出発、7時10分インチョン空港着。9時50分インチョン空港発13時55分カトマンズ空港着。時差3時間15分。荷物がなかなか出てこない。
 回転テーブルの故障らしいが聞く言葉がなくただひたすら待つ。やっと出て空港外に出てガイドを探す。ようやくガイドと対面。ホテルの車でホテルに行くのだが他のお客さんがまだきてないとか。日本語がわかるので安心。たばこを吸いながらひたすら待って16時15分ホテルガングリ着。ホテルでネパール料理とチリワイン。

●3月28日  7時15分空港へ。ポカラ空港での身体検査でライターを没収された。M君は大丈夫。航空会社によって違うのかーー。日本ではライターは1個は大丈夫なのに。
 出発前にM君トイレにーー。鍵がかからないとかでドアーの前に待ってるふりして彼を守る。9時20分発。30分でポカラに着く。ここでポーターと合流。日本語わからないので頭下げて握手する。10時30分車でナヤプルへ。入山許可をもらってさらに奥のキムチェへ。標高1600M、12時55分昼食。ぼそぼその焼きそば食べる。13時50分トレッキング開始。15時40分3ピッチでガンドルン着。標高1950M 。夕食はスープ、サラダチャーハンを食べる。部屋に戻り免税店で買ったバレンタインの12年物を寝酒とする。

●3月29日  7時45分出発、1ピッチ目でヒウンチュリ6441Mがみえる。待望のヒマラヤだ。白くてとがっている。ラリーグラスの花も登場だ。2ピッチ目でアンナプルナサウス7219Mがみえる。5ピッチ目の11時バイシカルカ着。標高2480M、昼食。小雨となる。2時15分出発。これからはラリーグラスの森を通過。1時間で今日の宿泊地タダパニ到着。標高2650Mとなっているが見晴らしのよいホテルマグニシエントに泊まる。2721Mがホテルの位置とか。到着後本降りの雨。寒い。ストーブの前でスペインワイン飲む。雷,ひょうと天気悪いが16時30分いったんあがりアンナプルナサウスとヒウンチユリが美しかった。17時30分雨の中ドイツの女性が飛び込んでくる。

●3月30日  7時50分出発。雨のため完全装備。ひたすら雨の中を歩いて標高3103Mを12時に通過して5ピッチ目の山小屋ラリーグラスでランチ12時20分。雨からみぞれになり雪となる。13時45分出発、よれよれになって16時5分ゴラパニに着く。2650M。その村の一番高い、立派なヒルトップホテル宿泊。標高2860M。外人で満杯。間違えました。我々が外人でした。 明日がメインイイベントだ。天気が気になるとこだが早く就寝する。 

●3月31日  4時起床。星空だ。天気回復した。4時35分リヒトで足元を照らしながらゆっくりブーンヒル3210Mをめざす。5時50分到着。朝やけが始まっていた。左にダウラギリ8167Mがラリーグラスの森の奥にそびえたつ。世界7位だそうだ。ツクチェ6920M、アンナプルナサウス、ヒウンチュリ、右奥にマチャプチャリ6993M。大パノラマにしばし呆然。素晴らしい景観でした。タダパニに6時30分下る。その間も何度も仰ぎ見る。7時20分にホテルで朝食。8時35分出発。これから一気に下る。6ピッチ目の12時5分でバンタンチー着。標高2300M,そこの村で昼食。13時25分出発、14時35分ウレリー通過。ここから急坂を下る。下りはきつい、休み休みで16時35分ツルケドンケ着。標高1540M。1500M以上のくだりだった。

●4月1日  50年目の記念の4月1日はかしましい中国の宿泊客で起こされる。なんで大声で話してるのだろう。討論してるのだろうかーー、普通のに日常会話なんだろうか理解に苦しむ。宿チャンドラゲストハウスは粗末な山小屋だから声がつつねけだ。でも今日がトレッキング最終日。がんばろうーー。7時45分出発。5ピッチでビレタンチー着。
 登山道から幅広い車も通れる道を歩く。10時50分早いが昼食。はじめて昼ビール飲む。のどにしみわたる。12時出発、12時55分トレッキング終了。車でポカラへ。14時20分ポカラのメーラホテル着。湯船にお湯をためて入浴。最高の至福のひととき。19時夕食。街に出てグルン族の踊りを見ながらネパール料理とワイン。ガイドのラビンさんは40歳、奥さんと7歳の女の子がいる。しかもグレン族だそうだ。踊りたいがガイド一人では踊れないので私と踊れという。
 名古屋からクララという山の会の6人がいたので踊ってみるがすぐ足腰がゆうこときかず途中でリタイアー。28日に泊まったガンドルンがグレン族の村だとかーー。ネパールは20くらいの族がいて皆仲良く共存してるという。ネパール族が一番多いとか。シェルパも族のひとつだそうだ。バレンタインの1000Cも飲みほしたので思い切ってジョニクロの黒500Cを買って宿で寝酒とする。50年を祝う。

●4月2日  ホテル8時20分出発、ポカラ空港8時30分到着、M君のライター没収。彼はマッチを持参。たばこは以降も吸えた。9時30分出発、10時5分カトマンズ着。ラビンさんは奥さんとお土産屋もやっているのでお土産をたくさん購入。紅茶が専門、Tシャツや帽子などほかの土産は近くの知り合いの店で格安にゲット。グーデンテンプルという世界遺産の寺院やボダナートというスパを見学。昼は「矢」という日本蕎麦屋へ。夜はネパール族のお店にいく。

●4月3日  7時朝食、朝喧噪のカトマンズを散歩。とにかく車が信号のない舗装されてないとこを走っている。日本人は運転できないだろう。10時20分カトマンズ空港着。13時55分空港を出発して23時20分インチョン空港着。空港で仮眠。

●4月4日  インチョン空港を離陸して12時55分無事千歳空港着。10日間の旅を無事終えた。
 4月25日に大地震発生。ただただ驚くばかり。ラビンさんにメイルしたがしばらく返信なくて心配した。5月9日に無事とのメイルがきた。娘さんが余震におびえてるとか。なにをしてやればいいか考慮中。(6月1日現在)

▼画像をクリックすると大きく表示されます。
3月30日
ラリーグラスを背にM氏と
3月31日
ブーンヒル3193mからみたダウラギリ8167m
3月31日
タダパニのホテル2860mからみた
アンナプルナサウス7219m

会   報
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■2015年2月20~25日 キリマンジャロ山行記録    高橋 直道(一橋大学山岳部:法学部3年)
     ****** 2016年5月8日投稿

(編集前書き)
   本篇は『針葉樹会報第135号』の「キリマンジャロ登頂の回想」の筆者によってメンバー、日程、行程を追記し、
   若干文面を修正されたものです。メンバーの学年は山行時のものです。両名とも今春卒業されました。

●行程
  出国日:2015年2月13日 帰国日:2015年3月3日
  山行期間 2月20日〜25日
****  2月20日  マチャメゲート〜マチャメキャンプ
21日  マチャメキャンプ〜ニューシラキャンプ
22日  ニューシラキャンプ〜バランコキャンプ
23日  バランコキャンプ〜バラフキャンプ
23日  深夜バラフキャンプ発〜24日夜明けウフルピーク着
24日  バラフキャンプ〜ムウェカキャンプ
25日  ムウェカキャンプ〜ムウェカゲート
            (詳細な行動時間は記録逸失のため不明)

●メンバー

  安藤桂吾(経4)、高橋直道(法3)
  現地のガイド2人、ポーター・コック等6人

●印象&反省点
 本稿では、少しでも多くの部員が海外での登山にも挑戦してくれるようにという願いを込めて、その参考となりそうな筆者の印象や反省点をまとめておくことにする。
 キリマンジャロでは歩みを進めると、日ごとに全く新しい景色に出会う。そして標高5865mという地点で、それまで見てきた風景のどれよりも厳しく、かつ美しいものを見せつけられることになる。肉体的な極限状態を垣間見た気がしないではないが、あれほど圧倒的で驚きに満ちた体験ができた自分はとても幸運だと思う。これを読んだ部員が、キリマンジャロに限らず、バルトロ氷河でもロッキー山脈でも、海外での登山やトレッキングに興味を持ってくれれば幸いである。

 最低限の基本的な情報については言及しておこう。筆者と安藤は5泊6日かけ、マチャメルートを選んでテント泊をしながらキリマンジャロを登った。もう一つの主要なルートとしてマラングルートというものがある。両者を比較すると、後者は小屋泊のため荷物が少なく、また短い日程となるため、費用が抑えられる。それでも前者を選んだのは、より景色がいいという評判だからということに尽きる。この選択は間違っていなかったと思っている。

 キリマンジャロ登頂に挑戦するためには、まずツアー会社を通じてガイドを雇い、パーティーを組まなくてはならない。日本でネットを通じて連絡をとることもできるが、やはり選択肢が限られてしまうので、現地でいくつかツアー会社に話を聞いたり、他の登山客の情報を比較する方が、よりよい判断が下せるだろう。
 筆者たちの場合は、モシという街のキリクライマーズという会社に決めたが、最初に提示された金額は1人1200ドル程度という高額なものだった。最終的に、他の日本人の登山客から得た他社の価格などを交渉材料にして950ドルで合意した。このように業者がふっかけてくるのは万国共通なので、厄介だが価格交渉は覚悟しなくてはならない。

 ポーターやコックを伴っての山行は実に快適である。行動時は、上着や水など最低限の荷物だけ背負えばよく、目的地に到着する頃にはテントを設営してくれている。そしてその中で待っていれば食事が運び込まれてくるのである。
 しかしながら、酸素濃度の薄さは相当のものであり、3000m以上の高度で長い時間を過ごす経験でもない限りなかなか余裕がないと思われる。高山病のかかりやすさは体質によって左右される部分が大きいようだが、体を冷やさないだとか、深い呼吸を心がけるだとか、体調管理で少なからず改善できるというのが筆者の実感である。

 そして、その過酷な状況な中で、パーティーのメンバーとの信頼関係はとても重要である。筆者たちは当日になって初めてメンバーと合流した。幸い、大きな問題のあるパーティーではなかったが、 どんなガイドと同行するのか事前に会って確認したりすることも検討の余地がある。
 信頼関係という点に関してさらに言えば、ツアー会社との交渉における決定事項は、ツアー会社側のサインつきの書面の形で残しておくべきである。不要なトラブルを避けることができる。ツアー会社での交渉の際、950ドルという値段の他に、チップを減らすため人数を指定した。それが当日になると予定より人数が多く、このことについてメインのガイドと最初にもめることになった。このことが頂上にアタックするときのガイドとの摩擦(しんどさのあまり筆者たちが度々休憩を求めても、ガイドはそれに反論してきた)に多少つながったのかもしれない。

 最後に、防寒、防風、防水のための装備は万全にして臨むべきであると改めて述べておきたい。筆者も安藤も、日の出を見るために深夜から頂上を目指すのに十全とはいえない装備で行動することになってしまった。特にゴアのズボンを2人とも持たずにきた結果、低体温症で意識が朦朧とする中での登頂となった。行き先がどのような環境か、事前に情報収集した上で必要な備えを用意するのは基本中の基本であり、命の危険を回避するために必須のことである。どの山に登るにしろ、十分注意してほしい。

 ここまで、キリマンジャロ登山の煩わしい部分を書き連ねるような形になってしまったが、氷と岩だけの風景、真っ暗い空の只中をゆらゆらと割っていく朝日の輝き、見たこともない姿の植物、現地の人々の歌声、どれもいまだに鮮やかに思い出される。せっかく山岳部に入ったのだから、旅行のついででも、ぜひ外国の山に登ってみてほしいと思う。
会   報
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■2014年9月5日〜10月3日 カラコルムのトレッキングと天山南路バスの旅(その4)
          佐藤 久尚(昭和41年卒)

          *********** 『針葉樹会報』第132号より転載
 (編集前書き)本稿は長文で、地図、写真枚数が多いので以下の4部に分けて掲載します。
         その1:序文、(1)ラシュファリ トレッキング
         その2:(2)ラカポシBC トレッキング 
         その3:(3)クンジェラブ峠越えのバスの旅 
         その4:(4)天山南路(シルクロード)のバスの旅 ・・・本篇
        写真は撮影された日に対応した本文紀行日の末尾に掲載し、該当する
        記述に[01]、[02]、・・・の様に写真No.を付記します。
 
期 間  2014年9月5日―10月3日
旅行者  佐藤久尚(昭和41年卒)、岡田健志(昭和42年卒)、中村雅明(昭和43年卒)

(4)天山南路(シルクロード)のバスの旅


『世界大地図』ユーキャン 「シルクロード」より 

●9月24日
カシュガル滞在[42]。まず郊外の国際バスターミナルに行って明日のクチャ行きバスの切符を買う。その後、エイティガール寺院(1422年に創建されたイスラム教の寺院)[43]、果物街、職人街、帽子街、スパイス街、老城(旧市街)などを歩いて回る。カシュガルは、嘗てシルクロードの交差点と言われただけあって、老城やバザールなどを回ると、迷路のように交錯した街路と軒を連ねる露店にその雰囲気が感じられ、観光していても興味が尽きない[44]。なお、ここカシュガルの属する新疆ウィグル自治区は、ウィグル人のテロなどがあり、厳重な警戒態勢が敷かれていると言われていたが、街を歩いてみた限りではそれ程緊張した雰囲気は感じられなかった。

▼画像をクリックすると大きく表示されます。
[42] 9月24日 **:**(撮影:岡田)
カシュガルのホテルにて(中村)
[43] 9月24日 11:05(撮影:岡田)
エイティガール寺院
[44] 9月24日 12:03(撮影:岡田)
カシュガルの雑踏
ザックを背負っているのが佐藤(前)、中村(後)
[45] 9月24日 13:20(撮影:中村)
カシュガルの旧市街
(前から佐藤、岡田)

●9月25日
 カシュガルからクチャまで734kmを寝台バス(昼でも横になれてラク)で移動[46]。途中、天山山脈とタリム盆地(タクラマカン砂漠)の雄大な景色が楽しめるかと期待していたが、車窓には単調な土漠の風景が続くばかりで、期待外れ[47]。予想以上に時間がかかって、クチャに着いたのは23時過ぎとなり、またまた深夜のホテル探しとなってしまった。

▼画像をクリックすると大きく表示されます。
[46] 9月25日 9:41(撮影:岡田)
クチャ行の寝台バス内部
(中村)
[47] 9月25日 10:57(撮影:中村)
単調な土獏風景
(バスの窓から)
[48] 9月25日 13:12(撮影:中村)
トイレ休憩しながらのバス運行
(佐藤)

●9月26日
 クチャ滞在。クチャは天山南路のオアシス都市で、紀元前2世紀末から10世紀頃まで栄えた亀茲国の都であったため、周辺に史跡が多く存在する。終日タクシーと歩きで市内の名所を回る。たまたまモラナ・エシディン・マザール[49]。というイスラム教の伝道師を葬った墓所の観光を終わってタクシーを待っていると、公安警察に呼ばれ事務所まで連れていかれた。警官の態度はそれ程高圧的ではなかったが、パスポートチェック、所持品検査のほか顔写真まで撮られたのには???。

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[49] 9月26日 12:35(撮影:中村)
モラナ・エシディン・マザール(墓所)
[50] 9月26日 13:57(撮影:中村)
クチャ王府(王府文物陳列館)

●9月27日
 夜行バスの発車時刻まで時間があるので、タクシーでクチャ郊外のキジル千仏洞[51]、クズルガハ千仏洞、クズルガハ烽火台[52]、スバシ故城(明治36年大谷探検隊が発掘調査を行っている)などの亀茲国時代の仏教遺跡を見学。その後、夜行寝台バスでウルムチに向う。ウルムチまで746km。途中に輪台という街があり、そこまでは24年前に出張(タリム油田ミッション)で来たことがあるので、石油開発後の街の変貌ぶりが見られるかと期待していたが、暗くてよく分からなかった。ただ、当時は、ウルムチから輪台まで車でマル二日かかったが、今回は12時間位しかかからなかったので、道路が格段に良くなっていることだけは分かった。

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[51] 9月27日 11:30(撮影:岡田)
キジル千仏洞(仏教遺跡)
[52] 9月27日 13:37(撮影:中村)
クズルガハ烽火台
(左から佐藤、岡田)

●9月28日
 10:00、ウルムチ郊外のバスターミナルに到着[53]、近くの食堂で朝飯を取った後、タクシーでウルムチ駅前の新疆飯店に行って宿を取る。午後、中国南方航空のオフィスに行って北京行きの航空券を買った後、夕方まで人民公園[54]や市街を散策。

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[53] 9月28日 8:41(撮影:中村)
ウルムチに到着したバス車内(岡田)
[54] 9月28日 8:41(撮影:中村)
ウルムチ・人民公園

●9月29日
 終日ウルムチの市内観光。ウルムチは新疆ウィグル自治区の首都だけあって、高層ビルの建ち並ぶ大都会である[55]。タクシーと歩きで紅山公園、繁華街、ニ道橋市場などを回る。途中、人民公園近くの旅行代理店を覗いたところ、「明日トルファンへのバスツアーがある。」というので申し込む。


[55] 9月29日 13:20(撮影:中村)
紅山公園内にある遠望楼からウルムチ市内を望む

●9月30日 
 トルファンへのバスツアーに参加し、30数人の中国人と一緒に、交河故城[56]、葡萄園、火炎山[57]など8ヶ所の観光スポットを回った。ガイドの説明が中国語で全く理解できなかったが、訪れた場所は見ごたえがある所が多く、また、西遊記で馴染みのある所などもあり、それなりに楽しむことができた。さらに、トルファンは標高がマイナスなので(岡田、中村両氏の高度計でもそれが確認できた)、ツアー参加により、海面下の土地を踏むという得難い経験ができたのも良かった。
しかし帰路、ウルムチ市街に入る手前で大渋滞に会い、ホテルに戻ったのは、またまた真夜中近くとなってしまった。夕食を取っていなかったので、かろうじて開いていた店でパンと缶ビールを買いホテルの部屋でわびしく食べたが、それでもトルファンツアーで、シルクロードの旅の有終の美を飾ることができたので、気持ち的には満たされた気分であった。

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[56] 9月30日 11:51(撮影:岡田)
交河故城(トルファン)
[57] 9月30日 15:46(撮影:岡田)
火炎山
[58] 9月30日 16:00(撮影:岡田)
ベゼクリク千仏洞


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[動画04] 9月30日 18:15(撮影:中村)
トルファンの葡萄園にて民族舞踊
(音声ONにして音楽をお聞き下さい)

 以上で、二つのトレッキングと、約3,300Kmのバス(一部チャーター車)の旅を終え、10月1日、ウルムチから北京に飛び、北京で1日観光した後、10月3日、無事帰国した。振り返ってみると今回の旅は、過去5回のヒマラヤの旅よりも想定外のことが多く、よりイライラ、ハラハラ、ドキドキの旅であったが、同時に見たかった景色も多く、ワクワクの旅でもあった。(記、佐藤久尚)



会   報
***


■2014年9月5日〜10月3日 カラコルムのトレッキングと天山南路バスの旅(その3)
          佐藤 久尚(昭和41年卒)

          *********** 『針葉樹会報』第132号より転載
 (編集前書き)本稿は長文で、地図、写真枚数が多いので以下の4部に分けて掲載します。
         その1:序文、(1)ラシュファリ トレッキング
         その2:(2)ラカポシBC トレッキング 
         その3:(3)クンジェラブ峠越えのバスの旅 ・・・本篇
         その4:(4)天山南路(シルクロード)のバスの旅
        写真は撮影された日に対応した本文紀行日の末尾に掲載し、該当する
        記述に[01]、[02]、・・・の様に写真No.を付記します。
 
期 間  2014年9月5日―10月3日
旅行者  佐藤久尚(昭和41年卒)、岡田健志(昭和42年卒)、中村雅明(昭和43年卒)

(3) クンジェラブ峠越えのバスの旅
旅の後半は、バスでカラコルムハイウエイを北上し、クンジェラブ峠を越えて中国のカシュガルに出て、さらに天山南路をウルムチまで行くという旅程で、車窓から中・パ国境の山岳風景を楽しんだ後、シルクロードの名所、旧跡を見学しようという、ちょっと欲張った観光旅行である。

『NORTHERN AREA PAKISTAN 』MAP−1より 

●9月19日
 カリマバードを出てアルティット城[31]を見学した後、フンザ河に沿ってカラコルムハイウエイを北上する。そしてフンザ河が土砂崩れで堰き止められてできた湖(アタバードレイク)を船で渡り[32]、再びカラコルムハイウエイを北上し、パスー村に入った[33]。
 
(備考)
 アルティット城見学時に、城のガイドが「日本のODAのお陰でアルティット村の上下水道が整備され、住民がきれいな水を飲めるようになった。」と、非常に感謝していた。また、カリマバードでも、上下水道が日本のODAで整備され、衛生面での改善がはかられた旨、記した立派な標識を見た。さらに、パスー村では、車体に「Donated by Miriko Nishikori & Family Japan」と書かれたスクールバスに大勢の子供達が乗り込むという、見ているだけでも心温まるようなシーンに出会った。山奥の村での日本の援助のプレゼンスと今回接した村人の親日感が印象的であった。

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[31] 9月19日 10:31
(撮影:中村)
アルティット城の外壁
 [32] 9月19日 12:16
(撮影:中村)
アタバードレイクを船で渡る(岡田)
[33] 9月19日 15:53
(撮影:中村)
パスー村から対岸の岩峰を望む

●9月20日
 パスーで一日滞在して軽いハイキング。フンザ河に掛かるスリル満点の吊り橋を渡り[動画33]、対岸からパスー山群(最高峰はシスパーレサール7,611m)の山やトゥポップダン(6,106m)[34]などのシムシャールの山の眺望を楽しむ。期待していたバツーラの高峰群は、パスー氷河沿いの山に遮られて見えなかったのは、残念であった。
写真34 [34] 9月20日 **:**(撮影:岡田)
パスーにてトゥポップダンをバックに (左から佐藤、中村)


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[動画03] 9月20日 10:59(撮影:中村)
フンザ河に架かるスリル満点の吊り橋(佐藤)

●9月21日
 バスを待つもなかなか来ないので、通りかかった車を捕まえてスストに入る。スストはカラコルムハイウエイ沿いに、軍や税関、イミグレーションなど官公処の建物の他に、ホテルや商店などが建ち並ぶ、いかにも国境の街という雰囲気の街である[35]。バスのオフィスに行き明日のタシュクルガン行きのバスの切符を買った後、両替店を探し、余ったルピーを中国元に換える。

[35] 9月21日 14:01(撮影:中村)
 ススト(国境の町)(左から岡田、佐藤)
●9月22日
 9時に税関と出入国審査場が開くと言うので、9時少し過ぎに税関のオフィスに行くが、入口には人が群がっていて、どういう順番で検査を受けるのか分からない。それでも建物の外で暫く待っていると、バス会社の係員が我々を呼びに来て、何とか検査を受けることができた。その後、出入国審査場に行ったが、ここも大混雑。最初、欧米人のツアーのグループが並んでいるラインがあったので、そのうしろに並んだが、なかなか進まない。イライラしながら待っていると、係員が来てこのラインではないと言う。慌てて別のラインに並び直すも、このラインも進むのが遅く、見ていると出国者一人処理するのに5,6分も掛かっている。非効率極まりない事務処理振りに、いら立ちを通りこしてただあきれる。結局、我々のバスの乗客全員の出国手続きが終わって、バスが出発できたのは、13時過ぎであった。
 スストからカラコルムハイウエイは、フンザ河に沿った険しい地形の中を抜けて行くが、道路は完全舗装の二車線なので、バスはかなりのスピードで走ることができた。車窓からフンザ河最上流の雄大な景色[36、37]を楽しんでいるうちに、バスはクンジェラブ峠(4,703m)に到着した(15:25)。峠は、想像していたよりも広くてなだらかな峠で、そこには、国境を示す石柱と大きな石造りの門が建っていた。風は冷たいがバスから降りて、長年の念願だった峠に立つことができた感激を暫し味わう[38]。
 峠から少し下った所に中国側のチェックポストがあり、ここで厳しい検査を受けた。ザックの中身を全て出させられ、荷物の一つひとつを、また書籍類はページを一枚一枚めくって調べられた。我々のバスは、荷物を満載している他の3台のバスとコンボイ(船団)を組んでいたため、検査に特に時間が掛かった。そして検査が終わってからも、どういう訳かバスの出発の許可が出ず、2時間近くも待たされた後、ようやくチェックポストを通過することができた。このためタシュクルガン(中国側の最初の街)のイミグレに着いたのは、新疆時間で21:30(北京時間では23:30)を過ぎていた。それから検疫(ここで我々日本人だけポリオワクチンを飲まされたのにはびっくり。)、入国審査、税関検査を経てようやく入国審査場の外に出たが、そこは郊外で、辺りは真っ暗でホテルらしき建物も無い。兎に角、今夜泊まる所を探さなければと、道路脇でうろうろしていると、一台のタクシーが寄って来た。ドライバーにタシュクルガンの市街図を示して、市の中心部に行くようにと言ったが、英語が全く通じない。それでも「ビングァン、ビングァン(賓館)」と叫んでいると、どうやら我々の意図を察したようで、市街地の方に向って走り出し、一軒の大きなホテルの前で停まった。タクシーを待たせフロントで「部屋はあるか」と聞くが、これまた英語が通じず苦労する。身振り手振りと筆談を交えて交渉するが、面倒な客お断りという感じで断られ、二軒目のホテルに向う。二軒目のホテルも同じ状況で断られ、三軒目のホテルを探すべくタクシーを走らせていると、入口に人だかりのした小さなホテルが目に入った。タクシーを降りフロントに行くと,パキスタン人が数人いて、その中にたまたまバスの中で一緒だった男がいた。フロントの中国人は英語が全く話せなかったが、彼が通訳してくれて、何とか部屋を確保し、チェクインすることができた。もし彼がいなかったら言葉が通じず、ここでも面倒な客だと思われ、断られていたかもしれない。偶然にバスの同乗者と出合った幸運に感謝せざるをえなかった。

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[36] 9月22日 14:49(撮影:中村)
フンザ河上流の風景
[37] 9月22日 15:12(撮影:中村)
クンジェラブ峠近くの風景
 [38] 9月22日 15:12(撮影:中村)
クンジェラブ峠(4,700m)(佐藤)
[39] 9月22日 15:24(撮影:中村)
クンジェラブ峠先の中国風景

●9月23日
 昨夜助けてくれたパキスタン人が、「カシュガル行きのバスは、8−9時の間に出発する。明朝7時にフロントに来ればバス停まで案内してやる。」と言ったので、7時に準備を整えてフロントに行くも、フロントには誰もいない。たまたまフロント脇のソファーで門番らしい男が寝ていたので、バスターミナルの場所を聴こうと声を掛けると、「うるさい、あっちに行け。」とばかりに怒鳴られてしまった。(中国人のホススピタリティの無さに閉口、この後も各所で同じ感想を持つ。)バスの時間を気にしながらしばらく待っていると、一人のパキスタン人が階段を下りて来た。藁にもすがる思いで彼にバス停の場所を聞くと、「タクシーで行くように、」と言って、親切にもタクシーを捕まえるのを手伝ってくれる。ホテルの前でタクシーが来るのを待っていると、一台の小型トラック(2列の乗用座席があり4人は乗れる)が寄って来て、「カシュガルまで一人100元で行く。」と誘ってきた。一人100元はバス代よりも安いので、俄かには信じられなかったが、運転手の顔を見ると、おとなしそうな人相をしており、念のために紙に「一人100元」と書いて確かめると、イエスとばかりに首を振るので、信用してその車に乗る。
 カシュガルまで322km。車はタシュクルガンの街を通り抜けて、土漠の中の道を猛烈なスピードでカシュガルに向う。車窓の外には荒涼とした大地が広がっていて、雄大な景色が楽しめるはずであったが、この日は黄埃が舞い、まさに長恨歌(白居易)に謳われた「黄埃散漫風?索」の状態、何もかもが、黄色く霞んでぼんやりとしか見えない。車の中にいても埃で息苦しくなる程である。しかしながら、途中で道路脇の標識に「葱嶺」という文字を見つけて気がついた。今、我々は子供の頃、「世界の屋根」と習ったパミール高原を旅しているのだと! そうなると面白いもので、黄埃にも何かロマンを感じ苦にならなくなった。しばらく行くと右手にムスターグアタ(7,546m)が、さらに進むとコングール(7,719m)が見えて来た。二つとも豊富な雪に覆われた堂々とした山で、空気が澄んでいればさぞかし絶景だろうと思われたが、この日は残念ながら黄埃と逆光でぼんやりとしか見えなかった。<写真41>
 タシュクルガンから約5時間のドライブでカシュガルに着いた。車は市の中心エリアーに入れないということで、街中の大きな交差点で降ろされが、幸いそこには多くのリヤカータクシー(オートバイでリヤカーを引いたもの)が客待ちしていたので、それに乗り換えて其尼瓦克賓館に向った。同賓館は、1940年代にエリック シプトンが総領事として駐在した英国領事館の跡地に建てられたもので、今では高層ホテルとなっている。予約していなかったが、3人部屋が思ったよりも安い値段で確保できた。

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[40] 9月22日 8:27(撮影:中村)
黄塵が舞う景色
[41] 9月22日 8:39(撮影:岡田)
ムスターグ・アタ峰(7,546m)

会   報
***

■2014年9月5日〜10月3日 カラコルムのトレッキングと天山南路バスの旅(その2)
          佐藤 久尚(昭和41年卒)

          *********** 『針葉樹会報』第132号より転載
 (編集前書き)本稿は長文で、地図、写真枚数が多いので以下の4部に分けて掲載します。
         その1:序文、(1)ラシュファリ トレッキング
         その2:(2)ラカポシBC トレッキング ・・・本篇
         その3:(3)クンジェラブ峠越えのバスの旅
         その4:(4)天山南路(シルクロード)のバスの旅
        写真は撮影された日に対応した本文紀行日の末尾に掲載し、該当する
        記述に[01]、[02]、・・・の様に写真No.を付記します。
 
期 間  2014年9月5日―10月3日
旅行者  佐藤久尚(昭和41年卒)、岡田健志(昭和42年卒)、中村雅明(昭和43年卒)

(2)ラカポシBC トレッキング
 当初の予定では、ラカポシBCへのトレッキングは考えていなかった。ラシュファリの後は、フンザやナガールとは異なる山域の山を見たいと思って、ゴジャールのパスー氷河か、バツーラ氷河でのトレッキングを考えていたが、ガイドがあまりに熱心に勧めるため、予定を変えてラカポシBCへのトレッキングを行うことにした。


『Krarakoram Maps』 「Sheet1」より

●9月15日
 ジープでホーパル村を出発し、途中のカリマバードとアリアバードで飲み物(中国製缶ビール、禁酒国のパキスタンでもカリマバードではアルコール飲料が買える。)と食料を購入した後、ミナピン村(2,012m)のディランホテルに入る。ディランホテルは、庭からラカポシ(7,788m)が望まれ、広い敷地いっぱいにリンゴやクルミ、アプリコットの木などが茂り、花壇にはバラやコスモスが咲き乱れ、庭の木陰で好きな本でも読みながら、数日間のんびりと滞在したくなるようなホテルである。
●9月16日
 ガイドに聞くと、今回はポーターではなく馬2頭(何故か馬方は4名)で荷物を運ぶとのこと。荷物を積むのに時間がかかりそうなので、我々3人とガイドは先に歩き出す。ぶどう、リンゴ、アプリコットなどの並木が続くミナピン村の村道を過ぎてしばらく行くと、水力発電用の取水口がある。道はその辺りから本格的な登りとなり、針葉樹林帯の中の道を登ること約3時間で、ハプクンドという戸数数軒の小さな村に着いた[21]。そこからさらに樹林帯の中を通って、最後の急な草付きの道を登ると、尾根の上に出た。そこにはミナピン氷河の大パノラマが待っていた。左手には、作家の北杜夫が「白きたおやかな峰」と形容したディランが優美な姿で聳え、右手には、ラカポシ(東峰)が圧倒的なボリューム感を持って佇立している。また、ディラン・ラカポシの間に連なる幾つかのピークも、豊富な雪に覆われ、一枚の白い屏風のように氷河の奥に聳えている。そしてそれらのピークから流れ出した氷河が合流し、巨大な氷河を形成している。我々が立っている所は、広大なミナピン氷河が、両側の尾根に狭められて谷に落ち込む手前の扇の要のような位置で、そこからの展望は筆舌に尽くし難いものであった[22、23]。
 絶景を堪能した後、氷河に削られた断崖の側壁の道を少し行くと、本日の幕営地、ラカポシBC(3,400m)に着いた。そこはアブレーションバレーの中に開けた草原で、目の前にラカポシが聳え立ち、キャンプ地としては絶好の場所である[24]。なお、そこには関西学院大のディランの遭難碑があった。夕方、岡田、中村両氏は、モレーンの上に登って夕映えのディランの写真を撮ろうと、寒さを堪え暗くなるまでねばっていたが、ディランは期待した程には赤く染まらなかったようであった[25]。

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 [20] 9月16日 6:09(撮影:中村)
早朝、ミナピン村のディランホテルの
庭からラカポシを望む
[21] 9月16日 11:36(撮影:中村)
ハプクンド村
[22] 9月16日 14:43(撮影:中村)
「白きたおやかな峰」ディランと
ラカポシに続く稜線とミナピン氷河 

[23] 9月16日 14:46(撮影:岡田)
ミナピン氷河とディランを背に
(左から佐藤、岡田、中村)
[24] 9月16日 15:24(撮影:中村)
ラカポシBC
テント近くで寛ぐ(左から)岡田、佐藤
[25] 9月16日 17:58(撮影:岡田)
 ディラン夕照




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[動画01]  9月16日 16:04(撮影:中村) 
ラカポシBC・モレーン上からミナピン氷河右岸の山稜から
左岸のディラン〜ラカポシを俯瞰 


●9月17日
 昨日登って来た道をミナピン村へ下るべく、テントを出て少し行くと、白い石が散乱している所に出た。ガイドが石を拾い「アクアマリーンだ。」と言う。見ると白い石の中に緑青色の結晶が星のように散らばっていて、キラキラ輝いている。落ちている石はアクアマリーンの原石としては小粒のものばかりだが、ガイドの話によると、左手の山からはかって大粒のものも見つかったとのことである。
歩き易い道を対岸の山々(ウルタルやサンゲンマルマルなど)の眺望[動画02]を楽しみつつ快調に降る。そしてハプクンド村の手前からショートカットの道に入り高度を稼ぎ、昼少し過ぎに昨日出発したミナピン村のホテルに着いた。そこからはジープでフンザの中心地カリマバード[24]まで送ってもらい、ガイド,コックと別れて、トレッキングのプログラムを終了した。

[26] 9月17日 8:38(撮影:岡田)
ラカポシBCを去る
背後の山はラカポシ
(左から佐藤、ガイド、中村)
[27] 9月17日 15:59(撮影:中村)
カリマバードのホテル屋上から
ウルタルT(左)、U峰(右)を望む

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 [動画02] 9月17日 8:56(撮影:中村)
ミナピンへの下山途中
パスー山群(サンゲンマルマルなど)の展望 

●9月18日
  カリマバード滞在 1日観光
[28] 9月18日 10:11
(撮影:中村)
レディ・フィンガーとウルタルT峰
[29] 9月18日 12:27
(撮影:中村)
バルティット・フォートとラカポシを望む
[30] 9月18日 12:59
(カメラ:中村)
バルティット・フォートにて
(左から中村、岡田、
立派な髭の警備員、佐藤)

会   報
***


■2014年9月5日〜10月3日 カラコルムのトレッキングと天山南路バスの旅(その1)
          佐藤 久尚(昭和41年卒)

          *********** 『針葉樹会報』第132号より転載
 (編集前書き)本稿は長文で、地図、写真枚数が多いので以下の4部に分けて掲載します。
         その1:序文、(1)ラシュファリ トレッキング ・・・本篇
         その2:(2)ラカポシBC トレッキング
         その3:(3)クンジェラブ峠越えのバスの旅、
         その4:(4)天山南路(シルクロード)のバスの旅
        写真は撮影された日に対応した本文紀行日の末尾に掲載し、該当する
        記述に[01]、[02]、・・・の様に写真No.を付記します。
 
期 間  2014年9月5日―10月3日
旅行者  佐藤久尚(昭和41年卒)、岡田健志(昭和42年卒)、中村雅明(昭和43年卒)

『世界大地図』ユーキャン 「シルクロード」より   

 カラコルムのフンザからクンジェラブ峠を越えて中国に抜ける旅をしてみたいと思いつつも、パキスタンの治安懸念からここ2年程、その実施を見合わせていた。今年も依然として外務省の海外安全情報サイトを見ると、パキスタンの一部地域については、渡航延期の勧告が出ている。しかしながら、いろいろ情報蒐集してみると、パキスタンの中でもギルギットやフンザ地方は比較的安全で、懸念のあるカラコルムハイウエイの一部区間(北部ハザラとコーヒスタン地区)も、昨年のナンガパルバット山麓での事件以来、警備が強化されているので、まず大丈夫だろうとの感触を得た。そこで思い切って出かけることにした。
 9月5日に成田からイスラマバードに飛び、9月7日、フライトが天候不良でキャンセルとなったため、急遽、車をチャーターし、カラコルムハイウエイを18時間(651km)のドライブでギルギットに入った。(カラコルムハイウエイの一部区間では、マシンガンを持った警官が我々の車に同乗し警備してくれた[01])。ギルギットでトレッキングエージェントと打ち合わせした後、9月10日、ガイド、コックと共に、ジープ2台でカラコルムハイウエイを北上して、トレッキングの出発点となるナガールのホーバル村[04])に入った。      
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[01]9月7日 11:10(撮影:中村)
ギルギットまで18時間乗った車
(佐藤) 
[02]9月7日 13:46(撮影:中村)
カラコルムハイウエイ名物
満艦飾のトラック(ダッソーにて)
[03]9月10日 11:59(撮影:中村)
グルミットから望むグルミット氷河奥に
聳えるラカポシ(7,788m)
[04]9月10日 15:53(撮影:中村)
ホーパル村

(1) ラシュファリ トレッキング

『ラシュファリ2010』Cannergy’sホーム 「ラシュファリのマップ」より

●9月11日
 ホーパル村(2,790m)のホテルをポーター8名とキッチンボーイ1名を加えた総勢14名で出発。まず氷河に削られた急な崖の道を5ー60m下って、ホテルの直ぐ下を流れるケパル(別名ブアルタール)氷河に下りる。同氷河はミアール(6,824m)、ケパル(6,361m)、ディラン(7,266m)の、主に三つのピークから流れ出した氷河が合流してできたもので、表面が土砂に覆われていなくて、比較的白くてきれいな氷河である[05]。源頭中央にはケパルの白銀の優美な姿が望める。トレッキングの出だしからきれいな氷河に出会えて、この先の景色の展開に期待が膨らむ。同氷河を横断した後、続いてさらに大きなバルプ氷河(これは表面が土砂に覆われあまりきれいではない)を横断する。そしてバルプ氷河右岸のアブレーションバレーの中のなだらかな道[06]を辿ってベリチョコ―ラという草原(3,300m)で幕営。

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[05]9月11日 8:27(撮影:中村)
ケパル氷河
[06]9月11日 12:34(撮影:中村)
アブレーションバレーの中の歩き易い道
(前左:佐藤、前右:ガイド、後:岡田)


●9月12日
 テント[07]を出て直ぐにスパンティーク(別名ゴールデンピーク、7,027m)から派生する尾根上に出るべく、尾根の側壁に付けられた急な道を登る。急登3時間半で尾根上の気持ちのいい草原に出て[08]、思わず、オッーと声をあげる。そこはグテンスという夏の放牧地で、北にモムヒルサール(7,343m)、トリボール(7,720m)、クンヤンキッシュ(7,852m)などのヒスパーの高峰群が、南にはケッパル、ミアール[09]、プパラシュ(6,785m)などのケパル氷河源頭の山々が、さらに西にはナガール、フンザの谷を隔てて、ウルタルT(7,388m)を主峰とするウルタル山群の山々の展望が広がる最高のビューポイント。暫し景観を楽しんだ後、尾根上の緩傾斜の道を登り、約3時間で幕営地チデンハライ(4,440m)に着いた。

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[07] 9月12日 12:34(撮影:岡田)
ベリチョコーラのテント場
[08] 9月12日 11:09(撮影:岡田)
グテンスにて
(左から中村、佐藤、ガイド、コック)
[09]9月12日 11:43(撮影:中村)
グテンスから望むミアール(6824m)


●9月13日
 当初の予定では、今日はラシュレイク(4,700m)で幕営し、我々とガイドは、そこからラシュピーク(5,098m)を往復する計画であった。しかし、朝出発時にポーターが、「ラシュレイクは雪があって寒いので、そこで泊まりたくない。今日中にファイファリ(3,500m)まで降りたい。」とゴネ出し、ガイドとコックが説得に努めたが埒が明かない。そのためやむを得ず、我々もキツイが今日中にラシュピークを往復して、ファイファリまで降りることにした。
 テントを出て歩き出すが、景色に見とれたりして、ちょっと歩調を乱すと息が切れる。ゆっくり着実に歩を進めることに専念し、尾根上の道をしばらく登るとラシュレイクに着いた。ラシュレイクは広い尾根の窪地に水が溜まってできた周囲100m位の池で、その畔は風も避けられ絶好のテントサイトのように見える。昼間はそれ程寒さを感じないが、夜になると寒いのかもしれない[10、11]。
 ラシュレイクから上は雪と岩の混在した広い斜面が続いていた。雪に隠れトレールが定かでないので、適当に雪の少なそうなところを選んで登ったが、登るにつれ雪が多くなり足が潜って消耗する[12]。
しばらく登るとラシュピークが見える所に出た。そこから見ると、ラシュピークは槍ヶ岳をさらに鋭くしたような尖峰で、雪と岩に覆われ、ピッケル、アイゼン無しでは難しそうに見える。今回はアイゼン、ピッケルを持って来なかったので、ラッシュピークの登頂は諦めざるを得ないか、、、。それでも兎に角、手前のピークまでは行こうということで、さらに雪の斜面を登ると大きなケルンのあるなだらかなピークに着いた(12:15)。 そこから改めてラッシュピークを見ると、岩と雪の急斜面が続き、ピッケル、アイゼン無しでは、やはり登れそうもない[13]。高度差にして160m。3人とも体力的にはまだ余裕はあったが、残念ながらここ(4,938m)を最高到達点として引き返すことにした。しかしながら、そこからの眺望は素晴らしかった。マルビティン(7,453m)を初めとして、スマイヤー氷河源頭の山々が驚くほどの近さで見えるほか、ヒスパー氷河の奥の方の山からフンザの山波までが、一望のもとに見える。そして遠いが、K2(8,611m)[14]やブロードピーク(8,047m)なども見える。地図を拡げて顕著なピークについては、名前と位置を確認し、それぞれの山との対面を楽しんだが、その中でもマルビティンは、1967年のヒンズークシュ遠征の際、許可が得られず断念した山だけに、地図上で三つのピークの位置を確認し、改めて馬の鞍のような形をした台形状の特徴のある山容と対面した時には、感慨は一入であった。
360度の展望を堪能し、去りがたい気持ちを抑えてピークをあとにする。ラシュレイクで遅い昼食を取った後、急斜面の道をひたすら下って、日没寸前にスマイヤー氷河右岸の幕営地ファイファリに着いた。


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[10] 9月13日 10:07(撮影:岡田)
マルビティン(7,453m)
[11] 9月13日 10:09(撮影:岡田)
ラシュレイクとマルビティン峰(佐藤)
[12] 9月13日 12:09(撮影:中村)
ラッシュピーク目指して雪の斜面を登る
(前から佐藤、岡田)
[13] 9月13日 12:27(撮影:中村)
ラッシュヒル(4,938m)にて
最高到達点(岡田)
後方はラッシュピーク(5,098m)
[14] 9月13日 12:29(撮影:岡田)
ラシュヒルからK2(8,611m)遠望



●9月14日
 テントを出てアブレーションバレーの中の道を少し下った後、モレーンを越えてスマイヤー氷河に降りる。スマイヤー氷河を横断し、続いてミアール氷河を横断する[15]。上から見てもはっきりと分かったが、スマイヤー氷河は表面が土砂に覆われ黒いのに対して、ミアール氷河は表面に土砂が無く、氷が出ていて白い。同じような地形に隣り合って出来た氷河なのに、どうしてこうもはっきりと白と黒の違いができるのだろうか。我々はちょうど二つの氷河の合流点を横断したが、歩いていても自然の創る不思議を感じ面白かった。
 氷河横断後、バルブ氷河左岸の細い崖道[16]を通って本日の幕営地、ハムダール(3,300m)に着いた。ハムダールには数軒の石造りの小屋とかなり広い草原があり、出会った村の老人に聴いたところでは、5人で約4,000頭の羊の世話をしているとのことであった。(4,000頭の羊と聞いた時には、貧しそうに見えても豊かな村なんだと思ったが、後でガイドに聞いたところでは、羊はホーパル村の共有物で、5人は夏の間だけ村から委託されて世話をしているとのことであった。)[17]

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[15] 9月14日 10:14(撮影:中村)
ミアール氷河を横断する
(前から2人目:岡田、4人目:佐藤)
[16] 9月14日 12:40(撮影:中村)
バルブ氷河左岸の崖路
(先頭:佐藤、最後:岡田)
[17] 9月14日 13:41(撮影:岡田)
ハムダールのテント場(佐藤)

●9月15日
 所々畑などが広がる歩き易い道を下って、4日前に横断したケパル氷河の入り口に到着、ここで西遊旅行社のラシュファリツアーのパキスタン人ガイドに出会った。彼は一人先行していて、後からポーターや日本人グループが来る由。氷河横断中に日本人グループに会うのではないかと期待しながら氷河を横断したが、結局、氷河横断中には彼等に会うことはなかった。氷河を横断して最後の登りを登って出発前に泊まったホーパル村のホテルに昼少し前に到着、トレッキングの一幕目を終了した。
(西遊ツアーの日本人グループとはホテルの庭で出会ったが、彼等は我々が到着すると間もなく出発して、言葉を交わす暇が無かった。)この後、待機していたジープでトレッキングの二幕目のラカポシBCトレキングの出発点となるミナピン村に向った。

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 [18] 9月15日 8:45(撮影:中村)
バルブ氷河左岸の歩き易い道
(前からガイド、佐藤、岡田)
[19] 9月15日 10:04(撮影:中村)
ケパル(ブアルタール)氷河

会   報
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■2014年8月21日〜9月1日 ツール・デュ・モンブラン・トレッキング  小野 肇(昭和40年卒)

*********** 『針葉樹会報』第132号より転載
 ツール・デュ・モンブランはヨーロッパアルプス最高峰のモンブランの周囲170kmをシャモニー(標高1035m)から回るトレッキングコースです。そのうち70kmを歩く12日間の計画が地元の山岳ガイド社からあったので参加しました。
 標高1000mから2700mまでを上り下りしてフランス、イタリア、スイスと3カ国をまわる雪山と氷河と素晴らしい山岳景観に魅了された旅でした。(モンブランの標高は4807mとなっているが4810.9mが正しいらしい)。
 以下簡単にご紹介します。


●8月21日  千歳空港19時30分で羽田空港へ。

●8月22日 0時30分羽田発ドバイへ。10時間45分。ドバイからジュネーブへ6時間50分。時差7時間。ジュネーブからバスでシャモニーへ。夕方着。

●8月23日  足慣らしのためまずロープウェイでエギーユ・デュ・ミディへ。一気に3842mまであがる。山頂駅でゆっくり歩かないとふらふら。高山病の症状出る。モンブランの雄姿がまぢかに見えて大感激。遠くグランドジョラスも見える。途中駅のプラン・ド・レギーユまでくだりここからモンタンベールまで3時間のハイキング。モンタンベールから登山電車に乗ってシャモニーの宿へ。

●8月24日  バスでノートルダムデラゴルジュへ。標高1210mの教会で安全祈願をして出発。途中、素晴らしい渓谷を左手に見て牧草地の広がるバルメの小屋で昼食。バルメの小屋が1706m、ボンノムのコルまで600mほど登る。初日だけにつらい。ここから今日の宿泊地のボンノム小屋までが長かった。8時間の行動。


●8月25日  ボンノム小屋(標高2433m)は寒かった。朝はスープとパン。パンはぼそぼそして食欲進まなかった。今日はイタリアに入る。200mほど登りフールのコルへ。その後800mの下り。グラシエ村に着きチーズ工場見学と試食。こってりした味。その後だらだら登りモッテの小屋で昼食。おいしいスープを注文してボンノム小屋で注文したお弁当を食べる。ここから720mのきつい登りでセイニュのコル。イタリアとの国境線。くもり空で寒い。谷を下りエリザベッタ小屋へ。途中、沢山の羊と羊飼いを遠望する。数の多さに圧倒された。小屋は標高2258m。素晴らしい小屋。10時間の行動。

●8月26日  夜半から雨。防寒具、雨具着用で出発。緩やかな下りで250mくだりコンパル湿原。右に曲がりシェイクのコルへ行く道をあきらめまっすぐ広い道を歩きクールマイユールへ行くバスに乗り昼前にホテルに到着。部屋が空き次第、順次部屋に入りシャワーを。濡れた衣類、雨具を乾燥室に。休養日となる。シャモニーから衣類到着。夕方雨も上がり街を散歩する。シャモニーよりこぢんまりした町。周囲は山、山、山。

●8月27日  休養日で、バスでアオスタ見学。ローマ時代の遺跡に目を奪われる。天気よくイタリアらしい陽気。夕食は前日と同じレストラン。陽気なマスターが仕切っている。イタリアらしい明るいレストラン。気持ちが和む。

●8月28日  路線バスにのりアヌーバーへ。標高1789mからトレッキング再開。740mの登り。途中エレナ小屋でランチ。大勢な人で混み合っていた。フェレのコル2531mでスイスへ。フェレの谷を900mほど下り今日の宿ラフーリへ。今日はロッジだった。山小屋より広々してレストランも完備。明日はバスで移動なので夕食前にビールを2杯飲む。夕食時にワインを飲み少し体が慣れたのか快調だった。チーズがおいしい。7時間の行動。

●8月29日  路線バスでシャンペダンパへ。標高1359m。600mの登りでボビーヌへ。その後460mほどくだりフォルクラ峠到着。フォルクラ小屋宿泊。ここもホテル並みのロッジ。6時間の行程。

●8月30日 いよいよ最後。200mほどくだり標高差870mの登り。フランス国境のバルムのコルへ。ここからはリフトで750mくだりルツールへ。路線バスでシャモニーへ。最初に泊まったホテルへ。モンブランの雄姿を眼にとどめる。

●8月31日  午前中、時間があるのでロープウェイを乗り継いでプレバン2525mからモンブラン、シャモニー針峰群をカメラに収める。午後、専用車でジュネーブ空港へ。15時15分ドバイ空港へ。

●9月1日  ドバイで乗り換え成田空港へ。羽田まで出て千歳空港へ。12日間の旅行も幕を閉じた。

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8月23日
エギーユ・デュ・ミディ(3842m)から
モンブラン
8月27日
アオスタの遺跡(イタリア)  
8月28日
フェレのコル(2531m)
イタリアとスイスの国境から
グランドジョラス(左側)4208m遠望
8月30日
スイスとフランスの国境――パルムのコル

会   報
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■2013年11月21〜25日  香港トレイル報告    
金子 晴彦(昭和46年卒)

          *********** 2013年12月30日投稿(PDF版)
                         全41頁 写真・図表80葉
 (編集前書き)
本稿は金子さんの香港駐在時代の山仲間12名による香港トレイル(ラマ島、サンセット
ピーク、八仙嶺)のPhoto reportです。
11月22日 ラマ島(2〜16頁)
11月23日 サンセットビーチ(17〜27頁)
11月24日 八仙嶺(28〜41頁)

   ↓ 下の1頁画像をクリックして下さい(全文PDFがダウンロードされます)


  「2013香港トレイル報告」 20頁より
2013年11月23日
サンセットピークからのランタオピーク(934m)  


会   報
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■2013年9月9日〜10月2日 インドヒマラヤ・トレッキング(速報)

                           佐藤 久尚(昭和41年卒)
       ***********2013年10月5日 HUHACメールより転載

水曜日に、中村(雅)氏とともに恒例のヒマラヤ・トレッキングから帰って来ましたので、概要をご報告します。
昨年は、ヒマチャルプラデッシュ・ヒマラヤのトレッキングを楽しんだので、今年は隣のザンスカールの山を楽しむことにしました。
ルートは、DarchaからShingo La(5,091m)を越えPadumまで。ヒマチャルプラデッシュ(ラホール)からザンスカールに抜けるルートの中でも、昔から大勢の人に歩かれているポピュラーなコースです。

(旅程)
9月9日 成田からエアーインデアでデリーへ
9月11日 デリーから夜行バスでマナリ―へ
9月12日 マナリの登山学校訪問。 生憎、マハビール タク―ル氏は出張中で不在、代わりにSenior InstructorのInder.DEV SHARMA 氏と面談。
同氏は1983年にダージリンの登山学校から転勤してきたので、一橋の学生3人のハワイトセールでの遭難の時は、マナリにはいなかったが、その後バタルで一橋のレリーフを見たことがあるとの由。
なお、同氏によると1968年2月、インド陸軍の飛行機が、中印国境の基地から戻る途中、行方不明となったが、(当時、中国軍に撃墜されたのではないかとの憶測も出て大騒ぎとなったが、)2003年に偶然ある登山隊によってCB山群のSouth DAKKA氷河で3人の遺体が発見されたと言う例があるので、一橋の場合もいずれ遺体が発見される可能性はあるとのこと。何か情報が入ったら連絡してくれるようくれぐれも依頼して辞す。
9月13日 ホテルにガイドとコックが迎えに来て、7:00ジープでマナリを発つ。
途中のヴアシスト村から、今回トレッキングの手配を依頼したエージェントの主人、Mr.Sampelの奥さんである甘利淳子さん(昨年、偶々ヴァシスト村で知り合った日本女性)が乗り込む。彼女は、友人の遺灰をチャンドラ河とバーガ河の合流点で流すため、キ―ロンまで同乗。Darcha で昼食とパスポートチェック。自動車道路の終点のZanskar Sumdo(3,900m)着15:10。道路脇の草原にテントを張る。
ここで我々の荷物を運ぶためにTanze村からShingo Laを越えてやって来た馬方と馬4頭と合流する。
9月14日 曇り、8:15、テント発。しばらく建設中の自動車道路を歩いて山道に入る。途中、Ramjak峰(6,294m)の眺望などを楽しみながらゆっくり登り、14:30、Chumig Nagpo着。
9月15日 曇り時々晴れ、7:35テント発。対岸の無名峰から落ちる雪崩の音に驚かせられながらひたすら登る。登り傾斜が緩み峠に近づいたと感じると間もなく大きな池が現れ、それを越えるとShinngo La(5,091m)に到着。峠には雪も無く色とりどりのタルチョーが寒風にたなびくだけで、あまり峠と言う感じがしない。
周囲の山はザンスカール特有の岩山が多く、眺望もいま一つ。やはり眺めるには頂上がしっかり雪に覆われたクルやガルワ―ルの山の方がいい。15分程休憩して下りにかかる。15:35、本日の宿泊地Lakang Sumdoに到着。夕方雪チラつく。
なお、Shingo Laで、反対側から登って来たフランス人のトレッカーと、また、下りで数人の欧米からのトレッカ―と出会う。
9月16日 晴れ、8:00、テント発。Kargyak河右岸の道をのんびりと下ってKargyakに14:00到着。ここはShingo Laを越えた最初の村であるが、表面に白い漆喰を塗った比較的大きな石造りの家が20件程度あり、広い畑もあり比較的裕福そう。
ガイドの話によると学校もあるとのこと。夜になると家々にソーラ発電による電灯がともっているのには驚いた。また、こんな所でパスポートチェックがあるのにも驚いた。
9月17日 快晴、8:08、テント発。最初はKargyak河右岸の道を進み、途中で橋を渡り左岸に出て、再度、右岸に渡り本日の宿泊地Purmne村に到着、17:05。途中、Lower Tanze村で馬方の家に寄ってお茶とヨーグルトをご馳走になる。今日も基本的には下り道であったが、距離があったことと高巻のアップダウンがあったため、かなり疲れた。なお、Zankar Sumdoを出て以来ここまで1本も樹木を見ることがなかったが、ここPurneで初めて木らしきもの(柳の一種か)を見る。
9月18日 快晴、もう1泊purneで泊まることにし、プクタルゴンパを見に行く。Tsarap河沿いの道を辿ってプクタルゴンパ着11:15。プクタルゴンパは、案内書によると15世紀に創建されたゲルク派のゴンパで、河からはるか上に聳える岸壁にへばり付くように多数の僧坊が創られており、外から見るだけでもすごい所にゴンパを
作ったものだと感心させられる。さらに中に入ると僧坊は何層にも複雑に分かれており、一番上の僧坊は巨大な天然の洞窟の中に作られていて、そこには不思議な空間が広がっていた。改めて信仰のパワーに驚きを越えた畏敬の念さえ感じさせられた。
9月19日 快晴、Padumからの道路工事が進んでTsetan村の対岸までジープが入れるようになったというので、今日の行程はTsetan村まで。9:05発Tsetan着14;15。
夕方、対岸で行われている道路工事のダイナマイト発破のため、岩の破片が飛んでくる恐れがあるということで、テントから一時避難させられた。
9月20日 晴れ、朝テントを出て見ると対岸のロードエンドには既に迎えのジープが来て待っているのが見える。朝食を済ませTsarap河に掛かる危なっかしい吊り橋を渡り対岸へ。ここでガイド、コック、馬方と別れ我々二人はジープでPadumへ。途中、バルダンゴンパに寄りPadumにお昼少し前に着いて今回のトレッキング終了。
なお、Padumはザンスカール地方の中心の町と言われているため、どんな所かと期待していたが、実際は小さな汚い店が300m位軒を並べているだけで、それもほとんどの店がシーズンオフのためシャッターを下ろしており、えらくさみしい感じのする所であった。
9月21日  Padum滞在。近くの磨崖仏やゴンパ見学
9月22日 休暇中のインドチベット国境警備隊の若い兵士とジープをシェア―してKargilへ。
約11時間の悪路のドライブであったが、途中のヌン、クン峰を初めとするザンスカールの山々の景観は感動的で、疲れを忘れさせるに十分なものであった。
9月23日 インド人5人とジープをシェア―してLehへ。KargilーLeh間は約240kmあるが、予想に反して道路はほとんどが舗装されてい快適なドライブを楽しむことができた。
9月24−28日 Leh滞在。この間、若いインド人カップルとジープをシェア―して1泊2日でヌブラ谿谷に行き、サセルカンリ等のカラコルムの山々の景観を楽しんだ。
9月29−
   10月2日
Lehからデリーに飛んでデリーで若干の観光後帰国。

(感想)
 ラダック、ザンスカールは一般にモンスーンの影響を受けない乾燥地帯と言われているが、とにかくドライ、そして雪が少ない。今回のトレッキングでもZankar Sumdoを出てからShingo Laを越えてTanze村まで下りて来るまで、緑と言えば川のほとりにわずかな草が生えているのが見られるだけで、ブッシュすら見られず、背の高い樹木を見たのはPurneという村に来て初めてであった。また、山も5,500−5,600m位以上にならないと雪が見られず、氷河もほとんど見られなかった。それだけに今回のコースは、岩だらけのモノトーンの風景が多く、景観に感動するという場面が少なかったように思う。
なお、今回はラホール側からザンスカール側に抜けると言うコースを取ったが、トレッキングとしては逆のコースを取ったほうが楽だと思う。何故ならばラホール側の出発点のZankar Sumdoは標高が3,900mあり、いきなりジープでそこまで上がってしまうと高度順化に失敗する可能性があるからであある。幸い今回、二人とも高山病の症状は現れなかったが、初日の歩き出しで息が切れ、かなりキツイ思いをした。



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9月14日 10:28
Chumng Nagpoに向かう
前から馬方、馬4頭、ガイド、佐藤

9月15日 7:24
Chumng Nagpoテント場手前の
青いテントに佐藤・中村が泊まった

9月15日 11:57
Shinngo La(5,091m)
左から佐藤、中村

9月16日 9:25
Kargyak河右岸の道を
のんびり歩く佐藤
***

9月17日 8:10
Kargyak河畔のテント場
朝の炊事テント撤収
***

9月18日 10:51
正面山腹の白い建物群が
プクタルゴンパ
前からガイド、佐藤

9月20日 8:28
Tsetan村のテント場
左から馬方、佐藤、ガイド、コック




9月20日 8:42
Tsarap河に掛かる危なっか
しい吊り橋を渡る佐藤




9月22日 12:04
Kargilへ向かうジープから
望む望むダルングダルング氷河
(ペンジラ峠の手前、氷河
の奥の白いピークは
Climmaltalia(6,270m))


会   報
***



■2013年2月18〜25日 キナバル山紀行  蛭川 隆夫(昭和39年卒)
          *********** 『針葉樹会報』第127号より転載(一部改訂)

 「キナバル、行きませんか」と山田さんから電話。その瞬間は、返答につまり、夕日岳(札幌郊外、594b)で発症した左膝の激痛をくどくど持ち出した。「なーに、ゆっくり、ゆっくり登れば大丈夫じゃないですか。登山道は整備されているようですよ」。山田さん持ち前の楽観的で明るい言い方に、思わず「Yes」と返事していた。山田さんは、私も所属している静内山岳会のベテラン。その山田さんにお世話になった2012年7月のトムラウシ隊のメンバーなどにも声をかけて、佐薙さんと小島さんの参加も決まった。総勢4名の平均年齢は72歳。
 思いきって整形外科でヒアルロンサンを5回注射してもらった。高山病対策のダイアモックスも購入した(現地では登山前日とその翌日の夕方に服用)。

●2013年2月18日 
 羽田と新千歳からそれぞれ関空に集合し、ボルネオ島の東マレーシア・サバ州にあるコタキナバル国際空港へと直行便で飛んだ。
 空港ビルを出たら、どっと熱気に包まれた(手持ちの温度計で30度)。かつて宮仕えの身で産業機械の売り込みのため東南アジアに通いつめたが、そのときと同じ、あの独特の匂いのする熱気だ。懐かしさがこみ上げてきた。
 現地旅行会社のガイドの王さんの出迎えを受け、ワンボックス車(専属の運転手付き)に乗った。王さんは、旅行のガイダンスから、ホテルのチェックインや両替まで日本語で面倒を見てくれた。山田さんは、長旅の疲れも見せずさっそくジョギングに出かけた。その時に見つけてくれた海鮮屋台村で夕食。小ぶりながらアワビも注文して一同ご満悦。

●2月19日 
 7時15分に迎えのワンボックス車に乗り込んだ。車は、最初は南シナ海に面した海抜ゼロメートル地帯を走り、徐々に高度を上げて熱帯多雨林、さらに山地林に入った。最後はサバ州の背骨であるクロッカー山脈の山腹をぐんぐん登った。天候は曇り。走行中、キナバル山は雲に隠れてほとんど拝めなかった。
 8時50分に、クロッカー山脈の北端に位置するキナバル国立公園の管理事務所、PHQ(Park Headquarters)に到着。標高は1,560b。例えると、糸魚川の海岸から走りはじめ、距離的には信濃大町を過ぎて松本の近くまで、高度的には上高地の先の横尾山荘あたりまで、来たことになる。この公園は、東京都二三区を上回る面積を有し、世界自然遺産に登録されている。
 事務所の前は国際色豊かなトレッカーで賑わっていた。ここで王さんから山岳ガイドのベンションさんとポーターが紹介された。ガイドを雇うことは、トレッカーの義務となっている(ポーターは任意)。ベンションさんの手引きで入山手続き。キナバル山の登山は、定員制かつ有料制で、厳重に管理されている。そのためか、手続きにパスポートの提示まで求められた。また、個々人にネック・ストラップ付きのIDパスが渡され、登山中いつでも提示できるようにせよと指示された。
 海外のトレッキングとしてはニュージーランドとキリマンジャロしか経験していないが、どちらもここと似たようなシステムだった。富士山や大雪山系の惨状を例としてあげるまでもなく、近年日本の山はオーバー・ユースが問題となっている。これで登山先進国と言えるのだろうか。おおげさだが日本国民として「恥ずかしい」と思った。登山の諸団体は自ら対策に乗り出してほしいものだ。
 ちょっと脱線したが、PHQから公園の専用車に乗り換えて登山口ゲートまで移動した。標高は1,870b。先の例えを続けると、横尾山荘から本谷橋の少し上までも車を使い、それから歩きはじめることになる。
 9時40分、ゲートで例のIDパスを見せてチェックを受け、山田さんをトップにシダやコケの生い茂る雲霧林の中を歩きはじめた。最後尾は、ベンションさんとポーター。ポーターは、普通はどんどん先に行ってしまうのだが、我々のポーターは最後のピッチを除いてほぼ一緒に行動した。実は、彼はベンションさんの息子なのだ。
 歩きだしてほどなく雨粒が落ちてきた。ワン・ピッチでPondok Kandisに到着(pondokは現地語でシェルター)。ベンチの付いた四阿の周りに水洗トイレや非常用の貯水タンクがある。こういうシェルターが、今晩泊まる小屋までほぼ標高差230bごとに全部で6か所あり、いずれも休憩場所として好適だ。
 山田さんは、ゆっくりした歩調で我々を先導し、ときには立ち止まって呼吸を整えさせてくれた。後続のパーティーに次々と抜かれたが、おかげで膝痛の方はちょっとした違和感を覚える程度ですんだ。
 2,700bあたりから谷川岳や至仏山と同じ蛇紋岩帯(超塩基性岩林)に入り、植生がすっかり貧弱になった。晴れていれば眼前に屹立する花崗岩の大岩壁を仰ぎ見ることができるはずだが、あいにくガスが立ちこめている。登山道は風雨をまともに受けるようになり、消耗した。
 16時50分、すっかり濡れてラバン・ラタ小屋に着いた。ここは標高が3,272bなので、先の例えを再度使うと、本谷橋から奥穂高岳の頂上まで登ったことになる。例のIDパスを見せてチェックイン。3階建てで1階はロビーと食堂。あてがわれた2階の部屋に入り、登山靴から備え付けのスリッパに履きかえ、濡れた衣服を脱ぎ、汗だくの下着を着替えて、ほっとした。部屋には壁の両側に2段ベッド。シーツはきれいだし、暖房もある。トイレは共用だが、東南アジア式(?)ウォシュレットだ。風邪引きが心配で使わなかったが、温水シャワーもある。
 一息ついて、食堂へ下りた。ビュッフェ方式で、スープ・サラダ・飲物・フルーツ・デザートはもとより、メーンも種類豊富だ。町の6倍という値段だが、ビールもある。佐薙さんは寝酒と称して飲まれたが、残りの3人は明日に備えて自重した。

●2月20日 
 2時起床。星空だ。「おっ。これはいいぞ!」と小島さんの歓声。気温3度。ヒートテックの下着に冬山の衣服。雨具を含めて5枚着込んだ。
 3時20分、ヘッドランプを装着して出発。すでに多くのパーティーが先行しており、見上げる大岩壁を光の列が上に向かって動いている。出だしはガリー状の樹林帯だが、3,500bの森林限界を過ぎると花崗岩の斜面となり、フィックス・ロープが始まる。驚くことに、すでに頂上を往復したパーティーとここですれちがった。
 単独行の美女(中国系マレーシア人)と抜きつ、抜かれつとなるが、他には後続者はいない。ある休憩場所で彼女がしきりに頭痛を訴えたので、山田さんがダイアモックスを分けてあげて感謝された。エベレストBCサイトを往復したことがあり、そのうち富士山にも行きたいと言っていた。
 1時間ほどで傾斜がゆるみトラバースとなる。4時50分、サヤ・サヤ小屋に到着。またもやIDパスの提示が求められた。
 ここからは、緩傾斜の台地、花崗岩の岩盤となる。同じ花崗岩の山でも、甲斐駒ヶ岳・燕岳・金峰山などは風化が進み白い砂礫と化しているが、こちらは硬い一枚岩。フリクションを利かしての登高である。
 3,800bの標識を過ぎてふと振り返ると、東の空に細い雲の切れ目ができてそこが赤く染まっている。しばし見とれて、写真を撮った。ちょうど7時ごろで、計画では頂上に到着しているべき時刻だ。
 やがて夜がすっかりあけてみると、花崗岩の広大な岩盤が遠くへ遠くへと延び、その左右に同じく花崗岩の特異な形状のピークが並んでいる。前方のスカイラインにもピークがいくつか見えるがそれらは頂上ではない。最高点は向こう側に隠れている。山田さんが「日本にはない山容だよね」と感嘆した。
 最高点が見えてからが、けっこう長い。頂上直下の急傾斜では、息が苦しかった。ときどき立ちどまっては呼吸を整えつつ歩き、8時40分、ついに頂上(Low’s Peak、4,095b)。さすがに嬉しかった。かすかに雲が湧いてきていて、はるかに見下ろす南シナ海はガイドブックの記述「エメラルド色」にはほど遠かった。頂上は狭いので岩盤まで下りてからくつろごうと衆議一決。先行していたマレーシア人の美女を追うように、9時20分に下り始めた。雨具は脱ぎ、膝痛に備えてサポーターを巻いた。
 巨大な岩盤の末端近くまで下りて、暖かい日差しを浴びながらのんびりした。ベンションさんとおしゃべりもした。彼は、山麓のカダザン・ドゥスン族(数十のエスニック・グループの総称)の42歳で3児の父親。カダザン・ドゥスン族は、その多くが今やカトリック教徒ながらも、昔からの精霊信仰を受け継いでいる。ちなみに「キナバル」の由来は、諸説あるが、ki=宿っている/nabalu=精霊、またはki=存在している/nabalu=死者の霊。公園のガイドたちは、毎年集まり、供物や生け贄をささげて山の精霊と祖先の霊を鎮めるという。彼もこのセレモニーに列席するのであろうか、それは聞きもらした。
 目の前のベンションさんは、トレッキング・シューズを買う余裕がないのかスリッポンを履いているが、しっかりと携帯電話を所持している。PHQや小屋との連絡、また仲間同士の情報交換などに、携帯はガイドにとって欠かせない道具である。
 すっかりくつろいで下山を再開。岩盤が終わり急傾斜の岩壁部分になって、膝痛が始まった。左足になるべく荷重をかけないよう、慎重に足を運んだ。樹林帯に入ってから、雲が多くなり小雨がぱらついてきた。我々が最後のはずが、ここで登ってくるパーティーとすれちがった。なんと今朝早く登山口を出てここまで登ってきたのだという。
 12時40分、小屋に落ちついて上を見あげると、登山道の左側の垂直に近い岩壁に数名のパーティー。固定されたワイヤを頼りにトラバースしている。あとで知ったが、ワイヤ・レール・鉄杭・梯子を伝って岩壁を歩くヴィア・フェラータ(イタリア語で「鉄の道」)という遊びらしい。世界で300以上のルートがあり、ここは日本人が開発した世界最高所のルート。
 食堂のオープンを待ちかねて大いに飲み、空腹を満たした。無事全員登頂の高揚感とアルコールで話しがはずんだ。山田さんは、アマゾンなど海外での探検や登山を何回もしている。佐薙さんと小島さんは、言うまでもなく長い海外駐在を経験している。私も少々だが海外を飛び歩いたことがある。そんなわけで海外事情や異文化体験の話題に盛り上がっていると、例の美女が通りかかった。これから下山して、コタキナバルへ車を飛ばし、最終便でクアラルンプールまで帰るのだそうだ。間に合うのだろうか。
2月20日 8:51
キナバル山頂にて
(左から小島、山田、佐薙、蛭川)
2月20日 10:27
Donkey Ears Peak(4,054m)
花崗岩の岩盤地帯で撮影

●2月21日
 8時15分、小屋を出発。雨だが、登頂を終えての下山とあればあまり気にならない。登りの時とは違って、ベンションさんが花を見つけては教えてくれる。その観察に気を取られている間は膝痛を忘れた。
 小屋を出たところで、嘴が黄色で、全体に茶色っぽい鳥。佐薙さんの同定、説明によると、和名でタイワンツグミ(またはシマツグミ)という鳥で、台湾・東南アジア・ニューギニアに棲息するとのこと。
 蛇紋岩帯では、Tea Plant。その名のとおり、お茶の花に似た白い花をつけている。葉はビタミンCが豊富だ(壊血病予防のためにキャプテン・クックが煎じて船員に飲ませたらしい)。
 樹林帯に入って、ベンションさんが登山道の奥を指して「Nepenthes」と言った。念願の食虫植物「ウツボカズラ」Pitcher Plantだ!その姿形は、まさに、「ピッチャー」であり「うつぼ」(矢を入れて腰に付ける武具)である。佐薙さんに「日本にもあるのか?」と聞かれたので、「あると思います。いかにも訓読みの和語のようですから」と推定答弁をしたが、これが大間違い。帰国後に訂正のメールを出すはめになった(牧野富太郎の図鑑で調べたら「日本ではしばしば温室で培養」)。
 下るにつれて、形・大きさ・色の違うさまざまなウツボカズラにお目にかかった。キナバル公園には、全世界で70種のうちの9種があるらしい。シャクナゲは26種あるが、我々が見たのはそのうち5〜6種。ランはキナバル公園になんと1,200種。このような豊かな植生が、イギリス植民地時代に本国のプラント・ハンターをボルネオに引きつけた。キナバル山の最高峰にその名をとどめているSir Hugh Lowもその一人である。
 最後に、薄いピンク色のキナバル・バルサム。それを見て、13時25分に登山口ゲートへ戻った。この間、2日半。同じルートを、驚くなかれ、2時間11分45秒で往復した人がいる(ここは国際山岳マラソンのコースになっていて、2012年の第26回大会で優勝したスペイン人の記録)。
 PHQで王さんが待っていた。「登頂証明書」をもらって、ベンションさんとガイドにありがとう、さようならを言い、コタキナバル行きのワンボックス車に乗り込んだ。
 2月21日 10:04
タイワンツグミ
ラバン・ラタ小屋直下(標高3,200m)で撮影 
2月21日 10:33
ウツボカズラ
標高2,700mの樹林帯で撮影

●2月22日〜24日 
 佐薙さんの提案で、「コタキナバル・ウエットランド」へ行った。ここは、以前「コタキナバル・バード・サンクチュアリー」と呼ばれていただけあって、バード・ハイドが設置されている。一帯は、広大なマングローブの湿地帯で、小川で海とつながっている。ちょうど上げ潮の時間帯。湿地が海水で徐々に満たされてゆくのを見ながら、約3キロの木道を歩いてバード・ウオッチング。日本でも見られるコサギ、ササゴイ、それにシギの仲間を見た(佐薙さんの判定による)。
 山田さんは、連日、朝夕のジョギングに精を出した。その山田さんの希望で、舟でサピ島に渡った。手つかずのビーチがあるが、まずは島を1周するトレッキング。この時のガイドは木や鳥や花に詳しくて、満足した。ビーチに戻って、山田さんと小島さんは珊瑚礁の海でシュノーケル遊び。私は生まれて初めてのパラセーリングを楽しんだ。
 三日三晩おいしい食べ物とお酒を堪能した。まずは、小島さんの発案でイタリアンとワイン。連日のローカル・フードに少し飽きていたので、どんどんお腹に入った。いい発案だった。次は、観光客が決して行けない中華料理のお店。私の知りあいの中国系マレーシア人が、クアラルンプールから飛んできてご馳走してくれたのだ。輸出の仕事で東南アジアを飛び歩いていた時に、売り込み先の総代理店にいた男で、実に25年ぶりでの再会。思わずハグした(生まれて初めて?)。この男、中国系で名前がロー・フー。キナバル山と同じ「ロー」であるのも因縁めく。彼も私もつながれていた会社組織との縁はとっくに切れているが、こうして利害関係なしで再会を喜びあう。彼の言を借りれば、reunionである。その第2弾として、異常に寒いゴールデン・ウイークの札幌に来てもらって、懐石料理でお返し。ご所望のタラバガニの特大を付けて。


 2月23日 12;28
サビ島でトレッキング
(左から蛭川、小島、佐薙、山田)

●2月25日
 関空に向けて離陸したマレーシア航空機は、すぐ南シナ海に出て高度を上げた。機体の右手には、雲にかなり隠れているがキナバル山。それを見ながら、ふと思い出した。最終氷河期に、海面が今より100b以上も低下して、南シナ海は陸棚であった。そしてフィリピン・ボルネオ島・ジャワ島・スマトラ島などを含めて「スンダランド」となってアジア大陸とつながっていた。そうだとすると、アフリカを出てこのあたりまで移動してきたヒト属(原人・旧人・新人)は、その後のオーストラリア・ハワイ・ニュージーランド・イースター島などへの「グレート・ジャーニー」の途中で、やはりキナバル山を仰ぎ見たのだろうか。帰国したらこの面白いテーマを調べてみようと思いながら、いつの間にか眠りに落ちた。

■2013年8月14日 「キナバル山紀行」後日談 蛭川 隆夫(昭和39年卒)
          ****** 2013年8月14日投稿

 帰国後、『針葉樹会報』第77号に、故・中島寛先輩の「熱帯の奇峰キナバル山(1991年)」を発見した。拙文では、ラバン・ラタ小屋の近くまで下山してきた時に逆に登ってくるパーティーとすれ違ったことを紹介し「なんと今朝早く登山口を出てここまで登ってきたのだという」と驚いているが、中島さんはまさにこのような登山だった。すなわち、8:50登山開始、11:50〜13:00小屋、14:45頂上、16:00小屋帰着、宿泊。しかも、15kgの荷物を自ら背負ってである。
 中島さんは当時50歳代前半、それに対して我が隊の平均年齢は72歳。このような年齢の違いはあるにしても、彼我の力の差は何であろうか。

  ※下の画像をクリックすると 中島 寛「熱帯の奇峰キナバル山(1991年)」をダウンロード出来ます。

『針葉樹会報』第77号32頁

●2013年8月15日 Re:一橋山岳会HP更新のお願い(海外山行報告) 山崎 孝寿
          ******2013年8月15日 中村、蛭川宛メールより抜粋

中村さん、蛭川さん
キナバルのアップ完了です。
懐かしく拝読させていただきました。
(後略)


●2013年8月16日 Re:一橋山岳会HP更新のお願い(海外山行報告) 蛭川 隆夫
          ******2013年8月16日 山崎宛メールより抜粋

山崎さん
蛭川です。
拙文を「懐かしく」読んでいただいた由、ありがとうございました。
山崎さんのときも、登り方は中島方式でしたのでしょうね。
(後略)

●2013年8月16日 Re:キナバル  山崎 孝寿
          ******2013年8月16日 蛭川宛メールより転載

1996年6月14日から17日にかけ当地を訪れ(メンバーは金子、山崎ほか4名)
15日の8時ちょうどPHQ到着。公園のレストランで昼食用のランチボックスを調達し、9時に登山口のPower Station(標高1829m)。9時10分登山開始。
12時ころより雨が降り出す。13時55分ラバンラタ小屋(Laban Rata Resthouse)到着。
ここで昼食(33リンギット)
14時50分ラバンラタ出発。
16時15分にサヤサヤ小屋(Sayat Sayat Hut)。無人小屋で定員は10名程度、我々は寝袋持参ながらラバンラタで寝袋は借りられる模様。
夕食は自炊でスパゲティ、フカヒレ玉子スープ。
しかし空気が薄く食欲は希薄でサヤサヤ小屋の標高は3810m。ラバンラタとの標高差は約460mながら酸素の濃さの差に驚く。問題はここはネズミの巣窟で食糧はすべて天井からつりさげたものの就寝中寝袋の上を顔までわがもの顔で走り回るネズミの集団に閉口。
このネズミで睡眠不足に陥る。

6月16日3時15分起床。前日の雨から一転し天候回復。金子さんの名前の威光か?
インスタントお粥とコーヒーで朝食を済ませ4時20分サヤサヤ小屋を出発。
スラブ状態のような岩壁を歩くがガスがかかってもルートを見失わないようにフィックスロープが貼られていて安心。
5時40分ローズピークに。
6時5分下山開始。6時50分にサヤサヤ小屋。ここで再度朝食をとり荷物を軽くして7時45分サヤサヤ小屋から下山。
8時35分ラバンラタ。20分休憩。
12時半にTimpohan gateに到着し登山終了。
公園レストランで昼食をかねた祝宴。豚肉の使われていない酢豚が美味でした。

当時のガイドは4〜6人の場合で1日28リンギット。入山料が18歳以上の場合で10リンギット。登山証明書発行料金が一人1リンギット。サヤサヤ小屋使用料は一人10リンギット。ラバンラタ小屋は定員56名で一人25リンギットとなっていました。

自炊用のガスはコタキナバルで調達。イワタニと同じカセットコンロ用ガスボンベは1本7.8リンギット。一般的な登山用のだるまのガスボンベは調達しにくいものの東南アジアではカセットコンロ用のガスが簡単に調達できるので登山用ガスストーブをこのカセットコンロ用ガスが使えるアダプターが重宝しました。

ちなみに今も開催されているのかわかりませんがキナバル登山マラソンというのがあり
1995年のトップ男子が2時間46分18秒、女子が3時間27分15秒とか。驚異的ですね。


●2013年8月16日 Re:キナバル  中村 雅明
          ******2013年8月16日 山崎宛メールより転載

山崎さん
 17年前の記録をきちんと残されていたのですね。
 素晴らしい! 敬服しました。
 HPに掲載させて下さい。
  中村

●2013年8月17日 記録をとることの大切さ  山崎 孝寿
          ******2013年8月17日 中村宛メールより転載
中村さん
当時作った報告書からの抜粋でしたが
やはり記録をとっておくことの大切さをしみじみと感じる時があります。
針葉樹の会報など、特に古いものを見るとその重要性が強く感じます。
最近は自分自身結構ルーズになったりしましたが、若い人には特にこの記録をとることの大切さも教えたいものだと思う時があります。

フェースブックやツイッターなど一時の感動を伝えることはIT技術の進歩とともに凄い時代になったと思いますがやはりペン紙、手帳がスマホに変わってもきちんと記録を残すという仕事を教えていかねばと痛感します。
写真と短いツィートだけの記録では文章を推敲し練り上げていくということが欠落しています。山歩きの技術や経験とともに伝えていかねばと思います。



▼画像をクリックすると大きく表示されます。
登山口への車窓から 登山口への車窓から Park Headquarters
けっこうあるなー ラバン・ラタ小屋で昼食 ラバン・ラタ小屋を眼下に望む
ネズミーランドのサヤサヤ小屋 サヤサヤ小屋で自炊宿泊 比較的天候には恵まれた
フィックスロープは
道しるべでもある
まもなく頂上
下界の美しさに酔いしれる。


●2013年9月6日 Re:キナバル写真  蛭川 隆夫
   ###### 2013年9月6日 山崎、中村川宛メールより転載

山崎さん
写真アップありがとうございました。このコーナーもさらによくなりました。
拙文で「走行中、キナバル山は雲に隠れてほとんど拝めなかった」と書いたキナバル遠望は、いいですね。
同じく「晴れていれば眼前に屹立する花崗岩の大岩壁を仰ぎ見ることができるはずだが、あいにくガスが立ちこめている」と書いた'けっこうあるな'の写真は、ああこうだったんだと思いながら見ました。

会   報
***


■2012年9月13日〜29日 インド ヒマチャルプラデシュ・ヒマラヤの旅
                                佐藤 久尚(昭和41年卒) 
     *********** 『針葉樹会報』第126号より転載
(編集注)本篇は長文なので以下の3稿に分割します。
** その1:前書き、(1)トレッキング ・・・・ 本稿
その2:(2)ローカルバスの旅
その3:(3)学生の遺体捜索協力要請、(備考)
********************************************************************
 サラリーマン生活を卒業して自由な時間が取れるようになってから、毎年、年中行事化したことがある。それは、秋(ポストモンスーン期)におけるヒマラヤの旅である。最初の年は、一人でインドのガンゴトリ氷河のトレッキングとガンジス河の源流を訪ねるバスの旅を楽しんだ。2年目はネパールのク‐ンブ地方のトレッキングを、3年目は同じくネパールのアンナプルナ一周のトレッキングを、岡田健志(昭42年)、中村雅明(昭43年)両氏とともに楽しんだ。毎年、春に行き先を考えて準備を進めるようにしているが、今年は当初、昨年治安の関係で見送ったカラコルムのフンザに行こうと考えた。しかし、4月にギルギットで宗派対立の暴動騒ぎが起こり、治安の改善は望めそうにない。そこで行き先をいろいろ考えたところ、頭に浮かんだのが、山岳部の90周年記念事業を検討している際に、倉知さん(昭37年)から出された、ホワイトセール峰で1981年に遭難した学生3名の遺体捜索という提案であった。  
     
 もともとホワイトセールのあるヒマチャルの山には興味もあった。遺体捜索は無理としても、トレッキングに行くとしたら、どういうルートがありうるか、地図で調べてみると、マナリからトスナラに入り、サラウンガパスを越えてチョタシグリ氷河経由バラシグリ氷河に至る、というコースがあることが分かった。そしてこのコースならば、ホワイトセールを南から北へほぼ半周するような形となるので、遭難した学生の慰霊の旅にもなりうると思われた。また、トレッキングを終えた後、マナリからデリーへ戻るとしても、来た道をそのままバスで帰るのは面白くない。他のルートは無いかと探すと、マナリからスピティに出てキナウル経由シムラに至る車道があることが分かった。インターネットで調べてみると、途中インナーライン パーミットを要する区間があるが、ローカルバスを乗り継いで最低5日間あればデリーに戻れることも分かった。このルートだと、政治的理由で立ち入りの難しい中印国境の山々や、伝説の山キナウル カイラスも見ることができ、トレッキングとはまた違った山の景観を楽しむことができるかもしれない。何となく面白そうだ。さらに、折角インドに行くのなら、インド登山財団やマナリの登山学校などに寄って、遭難した学生の遺体捜索に関して、情報蒐集や協力依頼ができるかもしれない。なにしろ遭難から30年以上も経っているので、当時の関係者も残っておらず、遭難そのものが忘れ去られている恐れもある。この機会にそれら関係先を訪ねて、将来、学生の遺体が発見された場合には、連絡してくれるように頼んでくるだけでも意味があるだろうと思った。

 というような訳で、今年は行き先をインドのヒマチャルプラデッシュ・ヒマラヤとし、ホワイトセール半周のトレッキング、ローカルバスの旅、関係先への捜索協力依頼の三つを目的として、一カ月間の旅程を組んでみた。インターネットで調べてみると、サラウンガパス越えのトレッキングをアレンジできるエージェントも数社マナリにあることが分かった。早速この中の3社から見積りを取り、費用の概算見積りを作ったうえで、同行の氏を募ると、中村雅明氏が手を挙げた。心強い同行者を得たので、格安航空券を手配し、二人で出かけることにした。

(1) トレッキング
●9月13日 
 中国東方航空で成田から上海経由デリーへ。中国東方航空は料金が他の航空会社に較べて格段に安い。ただ上海で帰りに約5時間の待ち時間があるのが難点。しかしこれも考えようで待ち時間を利用して観光が楽しめれば、むしろ好都合ともいえる。中村氏も小生も上海は久し振りなので、街の様子を見てみたいという希望が、また小生には何よりもリニアカーに乗ってみたいという気持ちがあったので、帰りに上海で、リニアカーと地下鉄を乗り継いでバンドに出て、限られた時間ながら観光を楽しんだ。
●9月15−16日
 夕方デリーを発車する夜行バスでマナリへ。14時間強のバスの旅であったが、道路が昔に比べて良くなっていることと、バスがセミスリーパーというリクライニングシートのバスであったため、それほど疲れを感ずることなく、マナリに着くことができた。午後、トレッキング エージェントのオフィスに行き、今後の予定を打ち合わせるとともに、ガイド兼コックの紹介を受ける。紹介されたガイドは、ソーハンというラホール地方出身の53歳の小柄な男で、一見頼りなさそうに見えたが、訊くと、これ迄にサラウンガパスは3回越えたことがあるし、バラシグリ氷河はコンコルディアまで2回行ったことがあるとのことなので、信用することにした。
●9月18日
 昨夜から雷鳴が鳴り響いていたため天気を心配していたが、朝起きてみると土砂降りの雨。計画では今日からトレッキングに出発する予定であったが、昼近くなっても雨が止まないので、出発を明日に延期することにした。所在なくホテルで過ごしていると、ガイドが呼びに来て「ランチを作るから一緒に来い」という。ついて行くと、3階建ての集合住宅の屋上に作られたバラック建ての小屋のような処に案内された。そこがガイドの自宅で、我々の見ている前で、奥さんと一緒に玉ねぎをみじん切りにしマトンのひき肉とこね合わせて、モモ(チベット風餃子)を作ってくれた。モモの味は悪くなかったが、作る過程を見ていると、決して清潔とは言えず食欲はわかない。明日から彼の料理を食うのかと思うと、いささか不安をおぼえる。この日は夜になっても雨が止まず、まだモンスーンが明けていないのではないか、と心配しながら床に着く。
●9月19日
 朝起きるとまだ雨が降っていたが、小雨なので出発することにした。ジープに我々二人にガイドとポ―ター5人(いずれもネパール人)が乗り込み、バルセニという村まで行く。村のバス停の先でジープを降り傘をさして歩き出すと、たちまち雨が止んだ。約2時間歩いて本日の宿泊地トス村(2450m)に着いたが、この頃になると天気はすっかり回復し、空には青空が広がるまでになった。トス村は山の斜面に100戸程度の家が点在する集落で、ロッジも数軒ある。我々二人は村の上の方にある眺めのいいロッジに部屋を取って泊まったが、宿泊客は我々以外はほとんどが欧米人のトレッカ―、それもピッピー風の身なりをした若い男女が多く、ロッジは満室。何故こんな最奥の村に若い欧米人が大勢いるのか、不思議に思ったが、その謎はあとで解けた。夕方、ロッジの庭で山でも眺めながらビールを飲もうと思って、ロッジの従業員にビールを注文すると、「ビールを買に行くが、ついでにチャラスはいらないか。」と聞いてきた。「チャラスはいらない。」と断ったが、どうやらチャラスやマリファナは、ここでは簡単に手に入るようだ。ヒッピー風の若い男女は、その為にわざわざここ迄来るのではないかと思われる。翌日、村から少し歩いたところで、ガイドが「ガンジャ」と言って指差すので、見ると大麻が群生している所があったので、さらにその思いを強くした。
●9月20日
 朝起きると雲一つ無い青空、空気も昨日までと違って爽やかに感じられ、モンスーン明けの予感がする。トレッキングのスタートとともにモンスーンが明けるとは、何とタイミングのいいことかと、インドラの神(ヒンズー教の雷神)に感謝しながら歩き出す。しばらく進んで鬱蒼とした樹林(日本のモミやシラビソに似た木)の中の急坂を登ると、クツラという戸数5,6軒の集落に出た。よくもこんな山奥に人が住んでいるものだと驚く。ここを過ぎて2時間も歩くと本日の宿泊地ブダバン(3020m)に到着した。ブダバンは大きな石の点在する広い草原で、4,5張りの放牧民のテントがあった。夕方になると山から降りて来た羊や牛や馬でテントの周りが賑やかになる。
●9月21日
 今日も朝から快晴。最初、樹林の中の急登が続くが、森林限界を過ぎると谷が開け気持ちのいい道となる。トス河右岸の山腹の道を辿ると、かなり水量のある沢にぶつかる。それを渡ってしばらく行くと今度はきれいな小川が現れ、渡ったところが本日の宿泊地サラムサッチ(3505m)であった。サラムサッチは気持ちのいい草原で、ここにも1張りの放牧民のテントがあった。
●9月22日
 今日も快晴。谷が開けて気持ちのいい山腹の道を、トスナラ上流の山々の展望を楽しみながら歩いてサムシサッチ(3850m)へ。サムシサッチはトス氷河の末端に開けた砂まじりの草原で、左手から清流が流れ込んでいてキャンプサイトとしては絶好の場所。ここには6,7張りのテントが張ってあり、我々が着くと、一人の男が話しかけてきた。聞くと対岸の無名峰(5,666m)に登っているイタリア隊(5名)のリエゾンオフィサーとのことで、テントの留守番で暇を持て余しているようであった。夕方、一時雨のち霰。
●9月23日
 右岸の道を少し登ると、それまで尾根の後ろに隠れていたパプスラやホワイトセールが姿を現す。こちらから観るホワイトセールは、左側が切れ落ちていて岩が現れ、雪がそれ程付いていないのでおよそ名前のような“白い帆”というイメージはない。ただ、そこからトス氷河に向かって流れ落ちる懸垂氷河はなかなか迫力がある。登るに従いトスナラも険しい氷河の様相を呈してきて、道も踏み跡程度になり、それも途中で分からなくなる。モレーン上の比較的歩き易そうなところを選んで歩くが、所々崩れやすいガレ場となっていて、距離の割には疲れる。13:20、本日の宿泊地パプスラBCに到着した。ここには、キャベツやナス、ウリ、インゲン豆などの大量の野菜が半生の状態で放置されていて、つい数日前まで登山隊がいたことがうかがえた。キャンプサイトのすぐ脇の斜面に小石を並べて作ったレリーフがあり、そこには「MMTA PAPSURA EXPEDTION SEPT 2012」と記してあった。この日は午前中は晴れていたが午後から霰のち雪となり、うっすらと地面が白くなるくらい積った。
●9月24日
 快晴。モレーンから氷河に下りて、サラウンガパスに向かって伸びる氷河の雪とガレ場の斜面を登る。登るにしたがって東トス氷河の奥が見えてきた。1967年ヒンズークシュ遠征のあと、倉知さんが登ったピークが見えないかと目を凝らして見たが、特定することはできなかった。どうやら角度的に見えないようである。最後は大きな石の積み重なった急登を各自勝手なルートを取って登ると、台地状になったところに出た。その日はそこにわずかな平地があったのでテントを張ったが、氷河の上なので、夜寝ていて背中が冷えるのには閉口した。
●9月25日
 快晴。今日はいよいよサラウンガパス(4884m)を越える日、気を引き締めて歩き出す。ルートはガレ場の急登が続いたあと雪の斜面となる。キックステップで登るも、一昨日降ったと思われる雪が積もっていて10―20センチくらい潜るので、なるべくガイド、ポーターの後を彼らの作ったステップを利用しながら登った。登るに連れて雪の斜面がだんだん緩くなり、平らになったところがサラウンガパスであった。サラウンガパスは予想以上に幅が広く縦に長いので、峠と言うよりは雪原といった感じである。峠からの眺めは、北にCB山群の山々、南に遠くパルバティの山々まで見えて、疲れを忘れさせるに十分のものであった。峠の入り口で全員アンザイレンして、ヒドンクレバスを警戒しながら進んだが、それでも小生は2度ほどクレバスに落ちた。ただクレバスはそれ程大きなものでなかったので、いずれも腰から胸くらいまで落ちただけで止まった。下りのチョタシグリ氷河は、傾斜はそれほどでもないが距離が長くて疲れる。18時過ぎうす暗くなった頃ようやく宿泊地のプチルニ(3800m)に着いた。
●9月26日
 チャンドラ河に沿った河原と山腹の道を辿って、バラシグリ氷河末端に位置するホワイトセールのBCサイト(3900m)へ。BCサイトはバラシグリ右岸の台地上に開けた砂まじりの草地で、脇には小川が流れ「なるほどここがベースキャンプか、」と思わせるような気持ちのいい場所であった。ここからは手前の山に邪魔されてホワイトセールは見えないが、31年前、遭難した学生達もここにベースキャンプを設営して、勇躍ホワイトセールに向かって踏み出して行ったかと思うと、胸が痛む思いがする。
●9月27日
 今日はホワイトセール氷河の取り付きまで行ってみるつもりで、ポーターはBCに残しガイドと中村、佐藤の3人だけで出かける。踏み跡も無いので適当にルートを取って登るが、バラシグリ氷河が荒れていて歩き難いことこの上ない。なるべくサイドモレーンの脇の平らなところを選んで進むも、大きな石が積み重なっているところが多く、石の上を飛んだり滑り降りたり回りこんだりしなければならず大いに消耗する。登ること約4時間、ようやくホワイトセール氷河の落ち口が見える所まで来てタイムアップ。ホワイトセール氷河の取り付きまでは少し距離があるが、ここは学生達がデポ ポイントとした辺りだろうと思われたので、そこをバラシグリ氷河の最終地点とした。写真を撮り、中村氏と二人でホワイトセール氷河に向かって山讃賦を歌って、遭難した3人の鎮魂を祈った。
●9月28日
 チャンドラ河の広い河原を歩いてバタルへ、13:40バタル着。バタル(3990m)はマナリからスピティへ抜けるバス道の中間点であり、また、バララチャ峠経由ザンスカールへ行くトレッキングルートの出発点でもあるので,小さいながらも集落があるのかと思っていたが、1軒の茶店と建築中のゲストハウス、それに倉庫のような建物があるだけの寂しいところであった。それでも我々が到着した時には、ちょうどスピティへ行くバスが止まっていて、その乗客やら、これからチャンドラ タルへトレッキングに行くというイスラエル人のグループなどが昼食を取っていて、茶店は結構賑わっていた。ここには遭難の翌年、中村君の父君や金子氏らが訪れて慰霊碑を建てたので(但し、1992年に再度中村君の父君等が訪れた時には、プレートは無くなっていて土台のみが残っていた由―「針葉樹会報第79号」)探してみたが、土台の跡も見つからなかった。
●9月29日
 迎えのジープが昨夜のうちに到着していたので、朝食が終わると直ぐに乗り込みマナリへ。途中、難所のロータンパス(3978m)を越えたが、道路が3年前に比べて格段に良くなっている。このためジープに乗っていてもそれ程揺れないので、CB山群や、ディオティバの眺めを車窓から楽しみながら越えることができた。(3年前はバスで越えたが、前の座席にしっかりと捉っていないと座席から放り出されそうになり、景色を眺めるどころではなかった。)なお、ロータンパスは今や観光地と化していて、茶店や土産物店などが軒を連ね、大勢のインド人観光客が乗馬やマウンテンバイク、バギー車などを楽しんでいるのには驚いた。これもインドの近年の経済成長による中間層の増大に伴う現象の一つであると思われる。6時間強のドライブでマナリに着く。トレッキングエージェントのオフィスで、代金の清算をするとともにガイド、ポーターにチップを渡し、11日間のトレッキングを締め括った。古希の身には少しきつかったが、楽しく充実した山旅であった。

▼画像をクリックすると大きく表示されます。
9月22日 10:51
サムシサッチに向けて
トスナラ右岸山腹の道を登る
(手前からガイド、佐藤) 
9月23日 13:07
ホワイトセールからトス氷河
に流れ落ちる壮絶な懸垂氷河
9月25日 10:09
サラウンガ峠を目指して
雪の斜面を登る
(手前から佐藤、ポーター5名)
9月25日 11:40
サラウンガ峠にて
全員アンザイレン
(右から中村、ガイド、
佐藤、ポーター4名)
9月27日 12:26
バラシグリ氷河に流れ落ちる
ホワイトセール氷河
 (DP近く)
9月29日 8:48
バタルから望むホワイトセール
(6446m)


会   報
***

■2012年10月1日〜7日 インド ヒマチャルプラデシュ・ヒマラヤの旅(その2)
                                 佐藤 久尚(昭和41年卒)
     *********** 『針葉樹会報』第126号より転載
(編集注)本篇は長文なので以下の3稿に分割します。
** その1:前書き、(1)トレッキング
その2:(2)ローカルバスの旅 ・・・・ 本稿
その3:(3)学生の遺体捜索協力要請、(備考)
********************************************************************
 
(2)ローカルバスの旅
●10月1日
 トレッキングを終えマナリで1日休養したあと、後半戦のローカルバスの旅に出た。5時のバスに乗るため、ホテルの玄関のシャッターを特別に早く開けてもらいバス停に行く。暗い中、バス停には既に10人位の客がカザ行きのバスを待っていた。暑いミルクティーを飲みながら待っているとバスが来た。バスには既にかなりの乗客が乗っていたが、素早く乗り込んだお陰で、前から2列目という景色を見るには絶好の席が確保できた。
 バスはマナリを出た後ロータンパスを越え、バタルで昼食休憩、その後、本日のハイライト、クンザムパス(4551m)の登りにかかる。満員のおんぼろバスでは登れないのではないかと心配したが、バスは九十九折りの急坂を喘ぐようにして登り、なんとか登り切った。クンザムパスを越えると景色が一変してスピティの谷に入る。スピティ谷はバラシグリ氷河最奥の山に続く山脈と、チベット国境の山に続く山脈の5,6千メートル級の山々に挟まれた大きな谷である。両側の山には、ほとんど雪が付いておらず、流れも谷幅に較べて水量が少なく、赤茶けた大地には緑がほとんど無い、荒涼とした景観を呈している。           
バスはスピティ河に沿って下り、16:50にカザに着いた。11時間強バスに乗ったことになるが、ローカルバスだと10時間を越えると、やはりちょっときつい感じがする。カザはスピティ地方の中心の町で、立派な寺院の他に役所やホテル、商店などが建ち並ぶ人口4,000人の町。標高は3700mあり、バスが給油で寄ったガソリンスタンドには“世界最高所の給油所”という誇らしげな表示があったのが、印象的であった。
●10月2日
 インナーライン パーミットを取ろうと思ったが、今日はガンジーの誕生日とかで役所は休日。仕方が無いので観光に当てる。タクシーでカザから12km離れたキ・ゴンパに行ってみる。キ・ゴンパは、険しい岩山の上に建てられた要塞のような建物で、スピティ地方最古かつ最大,のゴンパと言われるだけあって規模も大きく見ごたえのあるものであった。
●10月3日
 カザの役所は10時に開くというので、それに合わせてインナーライン パーミットを取るため治安判事事務所に行く。予め用意した申請書とパスポートコピーと写真2枚を差し出すと、何の質問を受けることもなく、待つこと30分でパーミットを受け取ることができた。過去の経験から、インドの役所相手なので1日仕事になるかと覚悟していたが、あまりの簡単さに驚く。これもインドの近年の規制緩和の為せる故か、それともインナーラインの壁が低くなっているせいか。いずれにしてもインナーライン パーミットを入手すれば、これ以上カザに止まる必要はないので、速やかに,次の目的地、タボに移動することにした。調べたところ14時発のバスがあるが、それだとタボに着くのが夕方になってしまい、観光の時間が取れないので、タクシーで行くことにした。タボまで47km、1,500ルピー(2、250円)払ってタボに着いた。宿を取った後、タボゴンパの見学に出かけた。タボゴンパは、西暦996年に建てられたもので、僧院内部の壁画で有名であるが、確かに7棟ある僧院の壁いちめんに描かれたマンダラの絵はカシミール風あり、チベット風ありで、いずれも圧巻であった。驚いたことに、ここで中国人の一人旅の若い女性に会った。
●10月4日
 カザ発レコンピオ行きのバスが9時から10時の間に来るというので、バス停に行って待っていると、9:20ちょっと過ぎにバスが来た。バス停には7,8人の客が待っていたが、ここでも素早く乗り込み、なんとか二人分の席を確保した。しかしながら最後尾の席であったため揺れが激しく、このあと9時間のバスの旅にはかなりつらいものがあった。ただ、昨日ゴンパで会った中国人の女性は席が取れず、2時間くらい立ったままであったし、途中から乗り込んできた欧米人の男性は、5,6時間立ったままで、しかも頭が天井につかえるため、首を曲げたままの姿勢を保たざるをえなかったので、さぞかしつらかったにちがいない。それに比べれば我々は座れただけでもよし、としなければならない。バス道は最初はスピティ河に沿った比較的平らな道であったが、進むに連れだんだんと左右の山が迫ってきて、岩をくり抜いたようなスリルあふれる所が多くなる。さらに進みスピティ河がサトレッジ河と合流するあたりになると大峡谷地帯となり、ゴルジュを避けるために道は数百メートル登りまた数百メートル下るという壮絶な道となる。この辺りは、第2次大戦中セブンイヤ―ズ イン チベットの主人公、オーストリアの登山家ハインリッヒ ハラーが、デラドンの捕虜収容所を脱走してチベットに抜ける時に越えた有名なシプキ峠の近くで、彼はどうやってこのゴルジュ帯を越えたのかと思うと、いやがうえにも想像が膨らんだ。大峡谷帯の手前のスムドという所と、大峡谷帯を抜けたジャンギという所にチェックポストがあったが、いずれもインナーライン パーミットを見せると問題なく通過できた。ジャンギを過ぎる頃から谷が開けて緑も多くなってきて、ようやくキナウルに入ったかという感じになる。さらに進むと行く手にキナウル カイラスと思われる白い大きな雪の山が見えてきて、レコンピオに着いた。レコンピオは、キナウル地方の中心地でメインストリートには商店やホテルが軒を連ねるかなり大きな町であった。
 なお、バスがレコンピオの町に入った時、急に車窓に街並みが現れたので、隣に座っている乗客に「レコンピオか。」と聞くと「そうだ。」という。てっきり終点がレコンピオだと思って安心して乗っていたので、これを聞いて慌ててバスから飛び降りた。そしてバスの屋根の上に載せている二人のバッグを降ろすために、中村氏に屋根の上に登ってもらったが、バスの運転手が「早くしろ。」と急かすためにバスを少しずつ動かすので、中村氏は屋根の上に乗ったままバスが発車してしまうのではないかと、大いに焦ったようであった。こういうことがあるので、大きな荷物を持ってのインドのバス旅行は厄介である。
●10月5日
 レコンピオにもう1泊して、キナウル カイラス(6,050m)が良く見えるというカルパ村に行ってみることにした。バスとタクシーを乗り継いで着いたカルパ村は、標高2,960mのリンゴの木に囲まれた気持ちのいい所で、村の至るところからキナウル カイラスがよく見える。この山は、チベットのカイラスから冬の間だけシバ神が下りて来て過ごすという伝説のある山だけあって、氷河の発達した立派な山容の山である。ビューポイントを求めて歩いて行くと、村の先端に小学校があった。ちょうど生徒が校庭に集まり朝礼のような事をやっていたので、しばらく興味深くそれを見学した。その後、学校の隣にあるゴンパに行ってみた。このゴンパは建物そのものは火事で焼けたため立て替えられたので、それ程古さを感じないが、壁に掲げられた説明を読むと、そもそもはタボのゴンパとほぼ同じ時期に同じ僧侶によって創建されたもので、由緒のあるものの由であった。村を散策した後、帰りはゆっくりバス停まで歩いて下り、バスでレコンピオの町まで戻った。
●10月6日
 早朝(6:15)のバスでシムラに出るべく、バス停でバスを待っていると、ほぼ定刻通りにバスが来た。バス停で待っているインド人の客から、バスはセミスイートだと聴いていたので、どんなバスが来るかと期待していたが、実際に来たバスは、とてもセミスイートとは言えない古いバスであった。それでも座席だけはリクライニングで、普通のバスに較べて多少ゆとりがある。バスは思いのほか空いていたので、ザックを持ったまま乗り込んで、中ほどの席に座ることができた。レコンピオからシムラへの道は、サトレッジ河に沿って下る道で、所々ゴルジュ帯で岩を繰り抜いた緊張する箇所はあるが、一昨日までの道に較べれば道幅も広く路面もいいので、気楽に乗っていられる。車窓には4,5千メートル級の山並みが続いているが、スピティの岩と雪の山とは違って草木に覆われた緑の濃い山であるため、眺めていても心が癒される感じがする。16:15シムラ着。3年前の記憶では、バス停の近くにホテルがあったと思っていたが、着いてみるとバス停の周りにはホテルも民家も無い。仕方が無いのでタクシーでモール(シムラの中心地)近くに行ってホテルを探すも、適当な値段のホテルが無い。夕やみ迫る中、重いザックを背負ってあっちこっち歩き回った末、ようやくモールストリートで手頃なホテルを見つけて落ち着くことができた。(後で判明したことだが、シムラにはバススタンドが近距離バス用と遠距離バス用の二つがあり、記憶にあったのは近距離バス用のものであった。)
●10月7日
 11:15発のバスでシムラからデリーへ。昨日ホテルに着いて直ぐにホテルのマスターに頼んで予約してもらったお陰で、VOLVOデラックスバスの座席が確保できた。ゆったりと座って25年ぶりの車窓の景色を楽しみながらデリーに帰る。20:05、バスがデリー郊外のターミナルに着いて、6泊7日、総延長870kmのバスの旅を終えたが、タクシーでトレッキングに出発する前に泊まっていたホテルに戻る途中、車窓から見えるホテル街の雑踏がやけに懐かしく感じられた。

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10月1日 13:04
クンザムパスからの山岳展望
10月2日 11:05
キ・ゴンパからスピティ谷を
眼下に望む
10月5日 10:51
カルパ村から望む
キナウル・カイラス(左)


会   報
***
■2012年10月1日〜7日 インド ヒマチャルプラデシュ・ヒマラヤの旅(その3)
                                 佐藤 久尚(昭和41年卒)
     *********** 『針葉樹会報』第126号より転載
** その1:前書き、(1)トレッキング
その2:(2)ローカルバスの旅
その3:(3)学生の遺体捜索協力要請、(備考) ・・・・ 本稿
********************************************************************

(3) 学生の遺体捜索協力要請
●9月17日
 マナリの登山学校(Atal Bihari Vajpayee Institute of Mountaineering and Allied Sports)に行って、ダイレクターのサルフリア氏に面会。学生の遭難当時の状況を説明し、将来遺体が発見された場合には連絡してほしい旨お願する。そして予め作成して持参した“NOTICE”(末尾参照)を渡して、構内の人目の付く場所に掲示してもらうよう依頼した。同氏はホワイトセールの遭難については全く無知であったが、当方の依頼については快諾してくれた。また同氏との面談の中で、遭難当時、CTまでヘリで飛んで捜索に協力してくれた、教官のマハビール タク―ル氏が副ダイレクタ―に昇進し、まだ登山学校にいることが分かったので、早速、彼の部屋に行って同様のお願をした。マハビール氏は遭難当時のことをよく覚えていて、定年まであと3年は登山学校にいるので、その間、少しでも参考になる情報があれば連絡すると、力強く約束してくれた。さらに同氏は、遭難当時マナリを訪れた金子晴彦氏(44年)や中村君の父君のことを懐かしがっていて、突然の訪問にもかかわらず我々に対して終始好意的、最後には近くのピザ店でピザとケーキまでご馳走してくれたうえに、車でマナリの町まで送ってくれた。
 登山学校を訪ねた後、州の観光情報センターに行き尋ねたところ、マナリに旅行代理店協会(Travel Agent Union)なるものがあることが分かった。事務所も近くなのでその足で訪ねてみると、幸い会長のアニル シャルマ氏がいたので、同氏に“NOTICE”を渡して会員に広く回付してくれるように依頼した。
 なお、マナリでは、上記2機関のほかに地元の警察にも同様の依頼が必要だとは思ったが、訪問している時間が無いので、こちらについては,今回トレッキングの手配を担当したエージェントのマネジャー、フッカム氏を通じて“NOTICE”を渡してもらうよう依頼した。
●10月8日
 インドの山の登山許可を発給する機関に、インド登山財団(Indian Mountaineering Foundation)という機関がある。インドの山の情報が最も集まる所と考えられるので、出発前に訪問のアポを取るべくインターネットでメールアドレスを調べて、2度もメールしたが返事が無い。しかたがないのでダメもとで訪問してみた。受付でダイレクターに会いたいと言うと、受付嬢が部屋に案内してくれて、すんなりとダイレクターのJPバガッジー氏に会うことができた。当方から遭難の経緯を説明し、遺体発見の情報が入ったら連絡してくれるように頼んだところ、同氏は「情報が入れば連絡するが、それよりも自分達で捜索隊を出した方がいいのではないか。その場合には速やかに許可を出すから。」と盛んに勧めてくれた。当方としては、自分達で捜索隊を出す余裕が無いので、今後ホワイトセールを目指す遠征隊があれば、我々の意図を伝えて、登攀中も注意深く周囲を観察してくれるよう、IMFから積極的に働きかけてくれないか、と虫のいい事を考え、図々しくも頼んでみたが、明確な返事は得られなかった。どうやらそれは無理のようであった。なお、登山財団の構内でたまたまインド・ネパール合同登山隊の一員としてカメット峰から帰って来たばかりのネパール人隊員、B・ムケルジ―氏に出会ったので、雑談ついでに遺体捜索の話をしたところ、「自分達で大規模な捜索隊を出す人的余裕がなくても、2,3人の隊員がいれば、あとはネパール人を使って捜索することは可能だし、費用も安く抑えられる。」とアドバイスしてくれた。こういうアイデアは今まで思いもつかなかったが、将来、針葉樹会としても検討の余地があるかもしれないと思った。
 
添付資料
NOTICE
 In 1981,Three Japanese Students of Hitotsubashi University Alpine Club(HUAC) went missing when climbing on the south east ridge of Mt. White Sail. It seems that they have fallen into either White Sail glacier or Tos glacier by accident. They are still missing.
 Now that more than 30 years have passed, we are expecting that it is about time when they could be found in the glacier.
 Please inform us if you find something presumed to be their remains or belongings. We would also deeply appreciate it if you would give us any relevant information.
Thank you for your cooperation.
Sep.2012
HUAC
Incharge : Hisanao Sato
5-30-10 Funabashi Setagaya-Ku Tokyo, Japan
Tel & Fax : 00-81-3-3304-5650
E-mail : NQJ26703@nifty.com

(備考)
 年金生活者にとっては、支出は少しでも少ないほうがいい。今回の旅でも格安航空券を利用したり、複数のトレッキングエージェントから見積もりを取ったり、現地では極力公共交通機関を利用したりして、節約に努めた。その結果、アグラへの一泊二日のタジマハール観光と上海での観光を含めて一カ月間の旅費総額を19万円以下に抑えることができた。

■旅費内訳
項目 金額 備考
航空賃 63,570円 中国東方航空
ビザ代 2,135円 インドビザ
トレッキング代 67,625円
(45,083Rs)
トレッキングエージェントへ支払い3,640Rs×12日
宿泊代 14,118円
(8,345Rs+1,600円)
18泊
食事代 18,305円
(10,850Rs+140元)
18日分の飲食代
交通費 10,885円
(5,461Rs+51元)
バス、タクシー,鉄道、地下鉄、リニア―等
その他 8,545円
(5,030Rs+1,000円)
観光、チップ、
185,183円 *
 換算レート: 1Rs=1.5円, 1元=14.5円

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9月17日 11:48
マナリの登山学校玄関前にて
(佐藤)
10月8日 13:03
デリーのインド登山財団
玄関
10月8日 13:01
デリーのインド登山財団
クライミングWall
(佐藤)

会   報
***

■2012年9月13日〜10月13日 インドヒマラヤの旅(速報) 佐藤 久尚(昭和41年卒) 
     *********** 2012年10月16日のHUHACメールより転載(一部改訂)

 9月13日から一カ月間、中村雅明(S43)氏と二人でインドヒマチャルプラデッシュ州の山旅(トレッキングとローカルバスの旅)を楽しんできました。また、同時に1981年にホワイトセール峯で遭難した学生3人の遺体捜索について現地関係機関に協力を依頼してきましたので、簡単にご報告します。

(1) トレッキング
** 9/15−16(土、日) 曇り時々雨、Delhi -----(Bus) ------ Manali
** 14時間強の夜行バスの旅であったが、バスがVOLVO製のSemi-Sleeperであったため、それほど疲れを感じることなくマナリに着いた。午後、トレッキングエージェントのオフィスで今後の段取りを打ち合わせると共にガイド兼コックの紹介を受ける。
9/17(月)曇り時々雨、Manali
Atal Bihari Vajpayee Institute of Mountaineering & Allied SportsおよびTravel Agent Unionを訪問し情報収集と遭難した学生の遺体捜索に関して協力を要請
9/18(火)雷雨、Manali
予定では今日、トレッキングに出発する予定であったが、土砂降りの雨のため出発を見合わせる。
今年はモンスーンの明けが遅いようで、明日からの天気が気になる。
9/19(水) 雨のち晴れ、 Manali ------ (Jeep) ------ Barsheni ------Tos(2450m)
バルセニ村のロードエンドでジープを降り歩き出すと、たちまち雨止む。トス村には欧米人のヒッピー風トレッカーが多数いるのに驚く。
9/20(木) 快晴、Tos ------- Budaban(3020m)
どうやら心配していたモンスーンは明けたらしい。気持ちのいい青空の下、樹林の中の道を歩く。ブダバンは、大きな石が点在する広い草原。4,5張りの放牧テントあり。
9/21(金)快晴、Budaban ---------- Sharam Thach(3505m)
樹林の中の急登がしばらく続く。森林限界を越えると谷が開け周囲の山々の眺望を楽しみながら歩く。
サラムサッチにも1張りの放牧テントあり。
9/22(土)快晴夕方雨のち霰、Sharam Thach --------- ShamshiThach(3850m)
トス河右岸の山腹の道をたどってサムシサッチへ。サムシサッチには付近の無名峰に登るイタリア隊(5名)のテントあり。
9/23(日)快晴夕方霰のち雪、Shamshi Thach ---------- Papsura BC
トス氷河のモレーン上の歩き難い道を登ってパプスラBCサイトへ。
此処にはつい数日前までいたと思われるMMTAと言う隊(国籍不明)の生々しい痕跡あり。ここからホワイトセール峯からトス氷河に流れ落ちる壮絶な懸垂氷河が良く見える。無駄と思いつつも落ち口のあたりを双眼鏡で観察する。
9/24(月)快晴、Papsura BC ----------- Camp on Sara Umga Glacier
モレーンから一旦トス氷河に下ってガレ場を登る。登るに従って東トス氷河の奥が見えてくる。ヒンズークシュ遠征の後、倉知さんが一人で登ったピークが見えないかと目を凝らしてみたが、残念ながら特定することはできなかった。最後は大きな石の積み重なった急登を各自勝手なルートを取りながら登る。
9/25(火) 快晴、Camp on Sara Umga Glacier ------- Sara Unga La(4886m) --------
Phuti Runi (3900m)
ガレ場の急登がしばらく続いた後雪の斜面となる。一昨日降ったと思われる雪が20?30センチ積もっていてキックステップで登る。登るに連れて傾斜がだんだん緩くなり、今回のトレッキングの最高地点であるサラウンガ峠に到着。峠からは北方にCBの山々が、南方には遠くパルバティの山々までが見渡せ、疲れをしばし忘れる。全員アンザイレンして、ヒドンクレバスを避けながら峠を横断しチョタシグリ氷河を下りる。
18時過ぎ暗くなる寸前に本日の宿泊地にヨレヨレになって到着。
9/26(水)快晴、Phuti Runi ---------- White Sail BC (4000m)
チャンドラ河に沿った河原と山腹の道。ホワイトセールのBCサイトはバラシグリ氷河の末端から200m位下流の右岸に開けた砂まじりの草原。31年前、ここから学生3人が勇躍ホワイトセールに向かって踏み出して行ったかと思うと胸が痛む感じがした。
9/27(木) 快晴、White Sail BC
中村、佐藤、ガイドの3人でホワイトセール氷河の取り付きまで行ってみるつもりでテントを出た。しかしバラシグリ氷河が予想以上に荒れていてルートがうまく取れず、結局、学生達がDPとした辺りまで行ってタイムアップ。ここからはホワイトセール峯は見えないが、ホワイトセール氷河が良く見えるのでそこを最終目的地として、山讃賦を歌って学生3人の慰霊とした。
9/28(金)快晴、White Sail BC ---------- Batal
広い河原を歩いてバタルへ。バタルには1軒の茶店と建築中の洒落たゲストハウスあり。30年前に作った慰霊碑のプレートが無いのは承知していたが、碑の残骸位は残っていないかと探してみたが、それらしき物も見つからなかった。
9/29(土) 快晴、 Batal ---------- Manali
昨夜のうちに到着した迎えのジープでマナリに帰着。途中ロータンパス(3990m)を越えたが、3年前に較べて道路が大分良くなっていることと、ロータンパスの観光地化には驚かされる。
***
(2) ローカルバスの旅
10/1(日)トレッキングを終えてマナリで1日休養した後、後半戦のローカルバスの旅 に出た。ルートはマナリからバタルに戻り、クンザム峠(4551m)を越えてスピティ谿谷に入り、スピティ河に沿ってキナウルに抜け、シムラ経由デリーに戻るという、総延長約870kmの旅である。途中、スピティ谿谷最大の町であるカザで、インナーラインパーミッ トを取得し、タボ、レコンピオ、シムラでそれぞれ1−2泊し都合6泊7日かけてデリーに戻った。バスはガタガタのボロバスで1日10時間近く乗るには、かなりつらいところあったが、車窓からの眺めは雄大な景観の連続で終始退屈することはなかった。また途中の村で見学するゴンパもなかなか見ごたえがあり十分楽しめた。
***
(3)学生の遺体捜索に関する関係機関への要請
9/17(月)マナリの登山学校(Atal Bihari Vajpayee Institute of Mountaineering & Alied Sports)に行きDirector のRandhir Singh Salhuria氏に面会。遭難当時の状況を説明し将来遺体が発見された場合は連絡くれるように依頼すると共に、持参した “NOTICE”(添付資料参照)を渡して構内の人目の付く場所に掲示してもらうべくお願いした。同氏はホワイトセールでの遭難については全く無知であったが、当方の依頼には快諾してくれた。なお、同氏との会話の中で、遭難当時CTまでヘリで飛んで捜索に協力してくれたMahavir Thakur氏がまだ登山学校にいてDpt.Directorに昇進していることが分かったので、早速、彼の部屋を訪ねて同様のお願をした。同氏は当時の事をよく覚えていて、(金子氏や中村君 の父君のことを非常に懐かしがっていて)定年まであと3年は登山学校にいるからその間は少しでも参考になる情報があれば連絡すると力強く約束してくれた。
  登山学校の後、HP州の観光情報センターに行き尋ねたところ、マナリに旅行エージェント協会( Travel Agent Union)があることが分かったので、そこを訪ねて会長のAnil Sharma 氏と面談。“NOTICE”を渡して会員に広く回付してもらうよう依頼した。
  なお、上記2機関の他にマナリとケーロンの警察にも同様の依頼が必要だとは思っていたが、訪問している時間が無いので、こちらについては今回のトレッキングの手配を担当したエージェントのマネジャー、Hukam 氏を通じて“NOTICE”を渡してもらうように依頼した。トレッキング終了後確認したところマナリの警察には既に渡してくれたとのこと。
 10/8(月)デリーでインド登山財団(Indian Mountaineering Foundation)を訪ねてDirector のJP Bhagatjee氏に会い、上記と同様のお願をした。同氏は、「情報が入れば連絡はするが、それよりも自分達で捜索隊を出した方がいいのではないか。その場合には許可は直ぐに出すから。」と、さかんに薦めてくれた。同財団はインドの山の登山許可を下す機関であるため、将来ホワイトセールを目指す遠征隊があれば、それに我々の“NOTICE”の趣旨を伝えてもらえないかと、虫のいい事を考えていたが、どうやらそれは無理のようであった。
 なお、最近はバラシグリ氷河に入る遠征隊は少ない由である。
***
※ここをクリックすると添付資料『NOTICE』をダウンロード出来ます。


▼画像をクリックすると大きく表示されます。
9月23日 13:07
ホワイトセールからトス氷河
に流れ落ちる壮絶な懸垂氷河
9月29日 8:48
バタルから望む
ホワイトセール(6446m)
9月27日 12:26
バラシグリ氷河に流れ落ちる
ホワイトセール氷河(DP近く)
9月25日 10:09
サラウンガ峠を目指して
雪の斜面を登る
(手前から佐藤、ポーター5名)
9月25日 11:40
サラウンガ峠にて全員アンザイレン
(右から中村、ガイド、佐藤、ポーター4名)




●2012年10月17日 Re:インドヒマラヤの旅  竹中 彰(昭和39年卒)
** ****** 2012年10月17日のHUHACメールより転載

佐藤(久)さん
中村さん共々インドの長旅お疲れ様でした。
先日の三月会で概要報告を頂きましたが、改めてHUHACへの報告感謝します。
ホワイトセール遭難から30年経過しましたが、現地関係先と接触してNOTICE等の依頼ご苦労様でした。これが切っ掛けで何等かの成果に結びつくことを期待します。

●2012年10月20日 Re:インドヒマラヤの旅  佐藤 活朗(昭和53年卒)
****** 2012年10月20日のHUHACメールより転載 

佐藤久尚様
詳しいご説明ありがとうございました。一か月にわたるご活躍に感心しました。
クルマナリでの関係機関への依頼などは本来三君と近い我々の世代がやるべきところで、申し訳なく思います。
いずれにしても1981年からの宿題でもあり、今後(たぶん)時間ができるようになったら、ホワイトセールに、捜索とはいかないとしても巡礼・慰霊くらいはしなくてはという気がしております。近い年代の皆さんと相談したいと思います。
 以上、とりあえず・・。

●2012年10月21日 Re:インドヒマラヤの旅  佐藤 久尚(昭和41年卒)
****** 2012年10月21日のHUHACメールより転載

佐藤活朗さん
貴兄達の世代ではまだ現役で、まとまった時間が取り難いでしょうが、来年は三君の33回忌に当たるので何か企画ができればいいですよね。
また、これはデリーのIMFを訪ねた際、たまたま会ったネパール人(インド、ネパール合同登山隊の隊員)からサジェストされたことですが、捜索隊を出す場合、日本から2,3人しか参加できなくともネパール人を使って捜索する方法もあるので、今後同世代の人達が時間がとれるようになったら、かかる方法での捜索も遭難対策基金の使い道も含めて、将来の検討課題となるかもしれません。ご参考まで。

会   報
***



2011年11月25〜28日 香港・山海徑ハイキング報告 金子 晴彦(昭和46年卒)
              *********** 2012年1月9日投稿(PDF版)

1頁 シャープピークの北方高原を下る
全52頁 写真132葉
●11月25日 大阪 → 香港。
●11月26日 ランタオ高原。
●11月27日 シャープピーク、 
         北方高原
●11月28日 ビクトリアピーク、
         香港 → 大阪 


  画像をクリックしてください
       (PDF版ダウンロード)

会   報
***

■2011年10月24日〜11月14日 アンナプルナ一周トレッキング(速報)
          佐藤 久尚(昭和41年卒) 
   *********** 2011年11月20日のHUHACメールより転載(一部改訂)

 昨年、下記3人でネパールのカラパタール、ゴーキョへのトレッキングを楽しんだが、今年も同じメンバーでアンナプルナ一周のトレキングを楽しんで来ました。当初、今年は目先を変えてカラコルムのバルプ氷河(最終目的地はラッシュピーク5,098m)のトレッキングの後、ク‐ンジェラブ峠を越えて天山南路をバスでウルムチまで行くという旅を計画していたが、3月のウサマビンラディン殺害後のパキスタンの治安情勢の悪化から計画を変更、再度ネパールでのトレッキングということになりました。幸いトレッキング中は3人とも一度も体調を崩すことも無くトロンパス(5,416m)を越え、予定通り全行程を踏破することができました。また、天候にも恵まれアンナプルナを初めヒマルチュリ、マナスル、ダウラギリなどの景観を十分に堪能することができました。以下、簡単に旅の概要をご報告いたします。

1. メンバー
佐藤久尚(昭和41卒)
岡田健志(昭和42卒)
中村雅明(昭和43卒)
2. 旅程
10月24〜25日 中国南方航空で成田から広州経由カトマンズへ。
10月26日 カトマンズでトレッキングエージェントおよびガイドと打合せ。
10月27日 カトマンズのニューバスパークでポーター二人と落ち合い早朝のバスで終点のブルブレへ。
古いバスなので故障を心配していたが、案の定、途中で推進軸が外れるという日本では考えられないような事態が発生した。しかし驚いたことに運転手と車掌が車の下に潜り込んで何とか1時間程度で直してしまう。
10月28〜11月1日 (ブルブレ→ジャガット→バガルチョップ→ツアーメ→ピサン→マナン)
 現在、マナン迄自動車道路の建設が進んでおり、ブルブレから歩いて5〜6時間のシャンゲまでジープで入ることができるとの情報を得ていたのでブルブレでジープを探す。
しかしタハールの祭りの最中であったためジープが出払っていて無い。約10km下流の街ベシサハールから呼ぶと2万Rs(約2万円)かかるというのでジープを諦めてブルブレから歩くことにする。
ブルブレからはマルシャンディ川に沿った街道を行くことになるが、マルシャンディの谷は去年歩いたドゥードコシ(エヴェレスト街道)よりも全体的に広く明るい印象で、畑や
森が各所に広がっていて緑も多い。ブルブレを出て2時間程歩くと早くも右手からヒマルチュリの雄姿が眺められ、その右にマナスルも尾根越しに白いピークを現わす。
さらに谷を進むにつれてアンナプルナ山群の山々が次々と視界に入ってきて歩いて飽きることがない。
11月2日 マルシャンディ峡谷最大の村マナン(3,440m)で1日停滞。マンナンはティルマンが「ネパールで最も美しい所」と言ったと伝えられているが、その通り背後からガンガプルナのアイスホールやアンナプルナU、V、W峰の雪峰が 屏風のように迫って風景は絶景と言えよう。
 高度順化と写真撮影を兼ねてプラケン・ゴンパ(3,900m) まで登り、僧侶に一人100Rsのお賽銭を払って旅の無事を祈ってもらう。その上、毛糸でできた首飾りのお守りを首に掛けてもらうと、これで何となく無事にトロンパスを越えられそうな不思議な気分になる。
11月3〜4日 (マナン→レダー→ハイキャンプ)
  いよいよ4,000mを越えるのでゆっくりと登るも全員高度の影響をほとんど感じることなく、比較的楽にハイキャンプ(4,925m)に着く。
11月5日 今日は今回の旅のハイライトとも言うべきトロンパス越え。午後になるとカリガンダキ側からの風が強くなるというので、早朝4時20分に出発する。真っ暗な中をライトを頼りに黙々と登る。峠に近くなると風が強くなり猛烈に寒くなる。中村氏が持参した温度計をみるとマイナス13度。毛糸の帽子を持って行かなかったので、タオルとマナンで買ったネッカチーフで顔を覆つたが、それでも頬が凍傷になるかと思うくらい寒かった。峠に7:05到着。
峠には石積みの小さな茶店があったので中に入って紅茶で暖を取る。峠で食べようと思って持参した虎屋の羊羹を切って配ったが、岡田氏などは、寒さで口が強張り直ぐには食べられないと言っていた。
  茶店に30分程もいると後続のトレッカーが上がって来て狭い茶店が満員となったので、外に出て写真を取り早々に下山に入る。下るにつれて太陽が登り風もおさまってきて、先ほどまでの寒さが嘘のような穏やかな天気となる。峠から少し下ったところから正面にダンプス、その左にツクチェピークが望まれるようになり、さらに下っていくと 猛烈な雪煙をあげたダウラギリの雄姿が、また、逆光の中にニルギルの優雅な姿も見えてきた。これらの山々の眺めを楽しみつつ写真を撮りながら1,600mを快調に下り、4時間弱でムクチナートに着いた。
  ムクチナートで有名なヒンズー教寺院とチベット仏教寺院を見学して、今日の宿ラニポーワのロッジに11:55に着いた。ここでトレッキング開始以来初めて日本人トレッカー(男女2人のカップル)に会った。今回のコースでのトレッカーの数は、エヴェレスト街道に比べると大分少ない(10分の一程度か)が、それでもここまで日本人に一人も会わなかったのは意外であった。
11月6〜9日 (ラニポーワ→カグベニ→ジョムソム→マルファ→コバン→ガーサ→タトパニ)
  ラニポーワから自動車道路ができていて時々、車とすれ違うたびに猛烈な埃をかぶり不快な思いをするが、周囲の景観を楽しむためには歩かなければと歩き通す。
  途中、カグベニでは由緒あるゴンパをマルファでは河口慧海記念館(河口慧海がチベット潜入前にしばらく住んだという住居)を、また、ジョムソムから1時間程度歩いたサヤンという所では、日本のNGOが運営する農園(通称近藤ファーム)を見学して、いろいろ興味深い話を聞いた。最後のタトパニでは、温泉に入り旅の疲れを癒した。
11月10日 (タトパニ→ベニ→ポカラ)
  タトパニ−ベニ間は、谷も狭まり景観もあまり期待できそうもないので、最初から車を利用する予定であったが、ロッジの主人に聞くと「ジープをチャーターすると7,000Rsかかる。
バスもあるが客が集まり次第出発するので何時に出るか分からないとのこと。兎に角バス停に行って当たってみたら」と言うので前日の夕方バス停に行ったところ、たまたま2台タクシーが止まっていた。交渉すると2台で5,000Rsでベニまで行くとのことなので手付金を払って予約したが、果たして約束通り待っているかどうか,--心配しながら早朝、バス停に行くと昨日のタクシーが2台我々を待っていた。早速乗り込んでベニに向かう。ベニまで約2時間、べニからは乗合バスでポカラへ。途中バスの窓からアンナプルナ南峰とマチャプチャレの優美な姿がよく見えた。
11月11〜14日 (ポカラ→カトマンズ→広州→成田)
  ポカラで1日滞在しマウンテンバイクを借りてポカラの市内観光。ポカラはカトマンズほど車も多くないし街も小さいので自転車で回るのに丁度よい。
  ポカラからカトマンズ迄はツーリストバスで出て(約7時間)。翌日カトマンズで1日観光、買い物等を楽しんだ後、中国南方航空で帰国した。


 ▼画像をクリックすると画像が拡大されます。
11月2日  7:27 (撮影:ガイド)
マナンのプラケン・ゴンパに登る途中
左から岡田、ポーター2人、中村、佐藤
11月5日  7:29 (撮影:ガイド)
トロンパスにて
左から岡田、佐藤、中村


会   報
***


■クーンブ・ヒマールトレッキングあれこれ 佐藤久尚・岡田 健志・中村雅明

                           (2011年7月5日投稿)
  ※本稿は『針葉樹会報第121号』「クーンブ・ヒマールトレッキング報告」 [報告篇]
   <付記> 6.費用、ロッジ事情(食事、トイレ・・・)、装備などは同じコースを行かれる人の参考に
     なると思いますので別稿にて報告予定です(メンバーで手分けして執筆)
     の別稿に当たります。行程全般にわたる詳細については[報告篇]を参照。

1.旅費について     佐藤 久尚(昭和41年卒)
 ゴーキョやカラパタールへのトレッキングについては、日本の旅行会社が毎年シーズンになるとパッケージツアーを組んでいるので、それに参加するのが最も簡単であろう。パッケージツアーの内容はどこの旅行会社のものもほぼ同じで、ゴーキョだと成田発帰着まで15日間、カラパタールだと17日間で、値段は、前者の場合42〜43万円、後者の場合44〜45万円が相場のようである。
 今回,我々は、成田を出てからカラパタールとゴーキョに登り、成田に帰着するまで22日間の総費用を一人当たり約22万円(内訳下記参照)に抑えることができたが、後から振り返ってみても、旅行エージェントのパッケージツアーと内容的にはそれほど遜色のないものであったと思っている。(パッケージツアーの方が、カトマンズで泊まるホテルが多少高級であること、および、コックを帯同しているので多少日本人好みの料理が供されること、くらいの差であったと思う。)
 費用を安く抑えるためには基本的には、自分たちでできることはなるべく自分たちでやるということに尽きるが、今回は、ガイド、ポーター、国立公園入園許可取得、国内航空券の手配のみを現地のエージェントに依頼し、その他は、ビザ取得、航空券の手配、ホテル予約、カトマンズ空港への迎えの車手配等すべて自分達で行った。そして現地のエージェントは、三森さんから紹介していただいた会社と、インターネットで探した会社の2社から見積もりを取り、安い方に依頼した。
また、旅費の中でカトマンズまでの航空賃が大きなウェイトを占めるので、如何に安い航空券を探すかということも節約のポイントである。
 現在、成田・カトマンズ間には6,7社のエアーラインが飛んでいて、いろいろな種類の格安航空券を出しているので、インターネットで検索すれば格安航空券を簡単に入手できる。今回はキャセイの30日間フィックスの航空券を購入したが、金額だけから言えば、中国国際航空やエア−インデアなどの方が安かった。しかし中国国際航空やエアーインデアだと途中、成都やデリーで一泊せざるをえないので、ホテル代を含めるとキャセイの方が安くなると考えた。航空券をフィックスにするかオープンにするかは悩んだところである。フィックスの方がオープンよりも約4万円安くなるが、フィックスだと一旦予約した帰りの便を変更できないので、万一、ルクラからのフライトが天候によって数日欠航し帰国便に間に合わなくなったような場合、片道の航空券を買い直さなければならなくなるというリスクがある。今回はフライト予備日を3日見込んで帰国便を予約することによりフィックスにしたが、結果的には正解であった。(トレッキング途中で、天候を見定めルクラからのフライトが数日欠航する可能性は低いと判断して、2日間トレッキング期間を延長した。お陰で日程に余裕ができ当初予定していなかったゴーキョにまで足を伸ばすことができた。)
 なお、今回は現地エージェントに依頼してガイドをカトマンズから帯同したが、ゴーキョやカラパタールへのルートはポピュラーなルートであり、必ずしもガイドがいなければならないとは思わなかった。現に欧米人のパーティにはガイドを連れていないグループがかなりいた。ルクラで英語の話せるポーターを雇えばガイドは不要で、さらに2万円程度は節約できたかもしれない。

******* 旅費内訳
成田・カトマンズ航空運賃(空港利用税、サーチャージ含む) 104,980円
カトマンズ宿泊代(4泊、55$) 4,675円
カトマンズ、ルクラ空港利用税(340Rs) 408円
現地エージェントへの支払い(726$) 61,710円
 (カトマンズ・ルクラ往復航空賃、ガイド、ポーター、国立公園入園料等)
トレキング中の宿泊代、食事代(30,518Rs) 36,620円
カトマンズでの食事代等(18$、1,500Rs) 3,330円
ビザ取得料 5,000円
合計 216,723円

 
2.ロッジ事情・食事事情・高山病等について    岡田 健志(昭和42年卒)
●ロッジ事情
 添付の地図(註1)で言えば、一番下にトレッキング出発地のルクラ、地図の最上部真ん中にゴラクシェプがある。ゴラクシェプの左やや下(南西)にゴーキョがある。
私の感覚では、ルクラやナムチェ・バザールは「村」と呼んでも違和感はないが、ゴラクシェプ(じつは、私は写真でしか知らない)やゴーキョなど街道沿いの集落は「村」よりウーンと小さくて、ロッジが数軒から十数軒建っているだけの「ロッジ集落」とでも言えばわかりやすいだろうか?
カトマンズでの4泊以外はネパールの山中に16泊して毎日動き回った。ルート内の要所要所には「ロッジ集落」が点在し、今回は12軒のロッジに宿泊した。どのロッジも立地こそ異なるものの、内容的には殆どかわることはない。色とりどりに窓枠を塗り、石を積み上げた頑丈な作りである。ストーブを中心に、食堂がある。食堂は、食事時には宿泊客で一杯になる。とてもにぎやかであった。暗いけれど電気がつくロッジもあった(ジーゼル発電機による)。
 ベッドルームは、たたみ六畳ほどのスペースに窓をはさんで両側にベッドが二つ。ベッドは下がマットレスで上掛けとして毛布、ふとんがつく。私は、夏用のシュラフを持参したが、4,000m超のロッジでは、衣類をかなり着こんでシュラフにもぐりこんでようやく寒さをしのげた。この季節は冬用のシュラフを持参するのが良い。
トイレはもちろん共同トイレ。宿泊交渉でウェスタンスタイル(腰掛式)のトイレがあるロッジを選び、目で確認してから宿泊した。メタボ腹の身には、和式のトイレは大変つらい。行動表(註2)を参照していただきたいが、殆どのロッジにウェスタンスタイルのトイレがある。(備考欄にW印)

 「すべておまかせの旅」ではないので宿泊の交渉から始まる。交渉はガイドがやってくれることが多かったが、我々が行ったフルシーズンでも、満員だからと宿泊を断られることは殆どなかった。一軒目で断られても、二軒目では無事宿泊することができた。
 素泊まり代金は、場所によってちがうが、200Rs〜500Rs(Gokyo Resort)でこれは一部屋の代金。したがって、宿泊代については、偶数人で出かけたほうが大幅な費用節約ができる。

(註1)ここをクリックすると「クーンブ・ヒマールトレッキングMAP」がダウンロードされます。
(註2)ここをクリックすると「クーンブ・ヒマールトレッキング行動表」がダウンロードされます。


2010年.10月25日 Sona Lodge(Namuche Bazar)
 ロッジの例(ナムチェは「村」と呼ぶにふさわしい)


2010年.10月31日 Gorak Shep のロッジ集落


2010年.10月.25日 Khubi Yul Lha Lodge(Khumjung) の食堂内部

●食事事情
 食事については、行く先々のロッジの食堂でメニューから選んで食べた。
インスタントラーメンのようなものも含めて各種のスープや焼きそば、フライドポテト、ピザ、モモ、焼き飯など各250〜300ルピーくらい。味は日本食的で、香辛料や油がたくさん入っているという感じではない。盛りは大変に多く、我々高齢者は2皿を3人でシェアーすることも多かった。特に筆者は下痢期間が長かったので、欧米人の旺盛な食欲を羨望のまなざしで(ウラメシゲニ)見つめることが多かった。
 下痢と言えば、少しでも消化のよいものをということでもらった、中村が持参した「おかゆ」「ぞうすい」等の和食の乾燥食品は美味かった。ロッジで沸騰したお湯だけ注文して食した。

●高山病等について
 2009年のネパール行きでは、ナムチェバザールから不眠・下痢・が続き、エベレストビューホテルでは、嘔吐まではじまって、折角のホテルの美味しい食事が食べられなかった。高山病特有の頭痛はなかったので、これが高山病だったかどうかは定かではない。ただ、パルスオキシメーターの数値が60台に落ち込んだり、ベッドに入って2〜4時間経つと息苦しくなり、酸素を吸っても改善しなかった。
 今回、病院で高山病予防薬と言われるダイアモックスを処方してもらい、ルクラ行きの日から朝夕、服用した。スタートは1/2錠服用し、ナムチェバザール泊の日から1錠(250mg)服用した。指先がジンジンする副作用があったのと、夜の小便回数が増えた。同時に呼吸に注意(息を勢いよく吐き、その反動で深く吸いこむ)した結果、前回のように夜中呼吸困難になって寝られない、ということはなかった。
 ただ、下痢については、前回同様大変悩まされた。日本で抗生物質を処方してもらって持参したが、全く効かず、ペリチェ(Pheriche)にある診療所に駆け込み、より強力な抗生物質をもらって服用した。下痢症状は少しおさまったが、完全におさまったのはカトマンズに着いてからだった。
 下痢については、生水は飲まない、食事の量を控えるといったことを完全に守ったにもかかわらずこの有様だった。精神的なものかもしれない。
 出発前に市の健康診断でメタボを指摘され、体重を減らしましょう、という目標を立てさせられたが、5kg減量を軽くクリアできたのは愉快だ。

3.装備について     中村 雅明(昭和43年卒)
 今回のトレッキングの装備(持ち物)は基本的には日本の秋山・避難小屋泊りの登山の時の装備に準ずるものだった。従って、ここでは出発前に気になったこと、現地で気がついたことのみ記す。
○寝袋 3人とも夏用シュラフとシュラフカバーを持参したが、冬用の方がベター(岡田前述)。
○防寒衣料 行動中、風が冷たい時は、佐藤は長袖シャツの上にウインドブレーカーを、岡田、中村は雨具を着用した。ロッジの食堂では夕方から冷え込んでくるので、セーター、フリース、ダウンジャケット等を着用した。厚手のダウンジャケットは持参しなくても困らなかった。中村はインナーダウンズボンを穿いたが暖かくてとても良かった。
○サンダル トイレは水びたしになっている所が多い(水洗でなく手桶で水を流すので)。底の薄いスリッパでは靴下が濡れるので、底の厚いサンダル必携。
○懐中電灯 部屋の電灯が点かないロッジがあった。点いても、消灯すると真っ暗になる。ダイアモックスを服用すると夜間トイレに2〜3回行くが、二人部屋の時は同宿者への配慮から懐中電灯を使用する。中村は旅の前半は懐中電灯が不調で困った。ペンライトの様な予備電灯があった方が良い。替電池も現地で購入できないので多めに持参すべきである。
○テルモス(魔法瓶) トレッキング中は生水は一切(歯磨きの時も)飲まなかった。朝晩、煮沸湯あるいは紅茶をテルモスに満たし、頻繁に飲んだ。佐藤は500ml、岡田、中村は800mlのテルモスを持参した。水分を多く摂る人は800mlの方が良い。
○地図の補修用テープ ネパール製の地図は紙質が劣悪。折り目から直ぐ破れてきた。ロッジでは毎夕方、地図を補修するのが日課となった。セロテープを持参しなかったので、テーピング用の布テープを貼ったが、ゴワゴワになって具合悪かった、幅広のセロテープを持参すると良い。
○薬品 出発前の病気の心配は高山病、下痢が主で、風邪についてはそれほど配慮しなかった。4,000m以上になると大気が冷たく乾燥しているので3人とも喉風邪(気官支炎)にかかり、抗生物質を飲んでもカトマンズに戻るまで治らなかった。のど飴も途中で切らしてしまった。ダイアモックス、下痢止め薬と同じ位に喉風邪用の薬に気遣うべきだった。
○ガイドブック 『地球の歩き方 ネパール』ダイヤモンド社が、トレッキング途中でのコース変更、カトマンズ観光、店探しに大変役に立った。

会   報
***

■2010年10月21日〜11月11日 ネパール・ヒマラヤトレッキング(速報)
                               佐藤 久尚(昭和41年卒) 
 10月21日から佐藤久尚、岡田健志(昭和42年卒)、中村雅明(昭和43年卒) の3名はネパール、ク‐ンブ地方のトレッキングに行きましたが、一昨日(11日)予定通り帰国しました。当初の予定では、ク‐ンブ氷河の最奥のロッジ村ゴラクシェプまで入り、そこからエヴェレストBC往復とカラパタール登頂を果たす予定でしたが、ガイドの「ゴラクシェプのロッジはいっぱいで泊まれない」とのミスインフォ―メイション(実際は空いていた)により、エヴェレストBC訪問は諦め、ロブチェからカラパタール往復を余儀なくされました。その代りカラパタール登頂後ゴーキョに転進し、結果的にはカラパタールとゴーキョの二つのピークの登頂を楽しむことができました。以下、日程を追って簡単に概要をご報告します。

10月21日、成田から香港経由カトマンズ
10月23日、カトマンズからルクラに飛び、トレッキング開始しパグディン泊
10月24日、パグディンからナムチェバザール
10月25日、高度順応のためナムチェからシャンボチェ、クムジュン往復
 シャンボチェでは中島さんのレリーフを訪問し、線香をあげ山讃賦を歌う。
10月26−27日、ディボチェ経由ディンボチェ(4,530m)、この日初めて4,000mを
 越えるので高度の影響が出るのではと心配していたが、誰も影響なし。
 但し、岡田は下痢に悩まされる。
10月28日、ディンボチェで2泊したが、高度順応のためチュクン(4,730m)を往復
10月29−30日、ディンボチェからドゥグラ経由ロブチェ(4,930m)
10月31日、下痢で体調不良の岡田を残して、佐藤、中村が早朝ロブチェを出発し
 ゴラクシェプ経由カラパタール(5,545m)に登頂。登頂後ロブチェへ戻る。
 この日は朝から天気が悪く、カラパタールに登りだす頃から雪が降りだし、
 頂上では視界ゼロ、周囲の山は全く見えず。ロブチェで積雪約10センチ。
11月1−3日、ロブチェからぺリチェ、パンボチェ、ドーレを経てゴーキョ。
 当初ロブチェからチョラパス(5,420m)を越えてゴーキョに入ることを考えたが、
 ガイドが「チョラパスの手前のゾンラはロッジ1軒しかなく、客で一杯で泊まれない」と
 言いだしたため、チョラパス越えを諦め、上記ルートでゴーキョに入ることにした。

 なお、ぺリチェで岡田は下痢が止まらないため、欧米人の女性医師が駐在する
 診療所で診断を受け、強力な下痢薬をもらう。
11月4日、3人でゴーキョからゴーキョピーク(5,360m)登頂。
 頂上ではチョーオユー、ギャチュンカン、エヴェレスト、ローツェ、マカル―などの
 360度の大パノラマ展望を楽しむ。
11月5−7日、ゴーキョからポルツェタンガ、モンジョを経てルクラ
11月8日、ルクラからカトマンズ
11月10−11日、カトマンズから香港経由成田

カラパタール、ゴーキョとも街道には各国からのトレッカーの往来が激しく、その頂上もトレッカーが勝手に取り付けたと思われるタルチョーが邪魔なほど張り巡らされおり、まさに手あかベタベタのピークという感は免れないが、それでも頂上からの眺望は予想していた以上で、はるばる来た甲斐があったと素直に思えるものであった。

11月1日  7:45 ロブチェから少し下った処
(プモ・リをバックにして)
後列左からポーター、佐藤、ポーター
前列左から中村、ガイド、岡田
11月4日  8:56 ゴーキョピーク山頂
左から中村、岡田、佐藤

■佐藤久尚/岡田健志/中村雅明さん:
蛭川(昭和39年卒)です。
カラパタールとゴーキョへの登頂、おめでとうございます。所用で12月に上京し三月会にも出席しますので、そのとき写真を見せてください。MLには載せられない土産話も楽しみにしています。
   *****20101年11月15日 HUHACメールより転載
■中村さん
カラパタール、ゴーキョの登頂に敬意を表します。
さすがというか、2つの目的を果たしたこと、私のアレンジでは考えられないでしょう。
以前、70歳超の方が、この二つを一人で(もちろんシェルパ、ポーターはついていましたが)
長時間掛けてトレッキングしてきたのを帰りがけに会ったことがあります。感心したものです。私のアレンジだときっと町の風景を見たり村の人たちとの交流に時間をかけたでしょうから。

とにかく念願の高峰を直に眺めることができたのは、体調管理また天気に恵まれたこともあ
り、とにかくおめでたい。 三森 茂充(昭和40年卒)
   *****2010年11月15日の中村宛メールより抜粋

会   報
***


■2010年5月 ランタン谷のトレック 原 博貞(昭和41年卒)
     *********** 2010年6月28日投稿
この数年、いや7年くらいか、ネパ−ルのNPO活動に関わってきたが、ようやく現地に移管の見通しとなり、やれやれの感となった。ところが家内が「私はネパ−ルに一度も行っていない」と文句を言い出したので、これも良い機会とかねて行って見たかったランタン谷のトレッキングを行おう、という事になった。無論、ガイドとポ−タ−付きの二人だけの豪華旅行である。
アレンジはNPO活動の相棒であるエコ・トレックのジョテイ社長に全てお任せした。

5月18日 午後カトマンズ入り。その日の内にNPOに関わる所用を済ませ、準備完了。

5月19日 8:10  ホテル発
トヨタのランクルで出発。ガイドは、チベットでも一緒だった、日本語が少し出来るソロ−ズで、ポ−タ−はジョテイさんと同じ村の出身の若者。
山を越え、州都のトリスル着11:20。ここから悪路だが、チベットのキ−ロンにつながる道路の為か中国の援助であちこちで補修工事が行われている。特に今日の目的地近くでは盛んで、地域の雇用の為には最高の援助で中国のプレゼンスとチベット問題が大きく認識される。
14:10 ドウンッチェ(1,950米)着。 ここからランタンへのトレックが始まるが、われわれはここから高度にして500米程下った、シャフルベシからスタ−トする。なんだか大損するみたいだが、この方が日程を縮められるのだそうだ。
15:20 シャフルベシ着。

5月20日 7:40 いよいよトレッキング開始。大快晴。
吊り橋を渡りランタン谷に入る。 50分ピッチで登る。高巻きでウンウン上り又下りの繰り返しで、暑くて参る。森に入ったが、暑さは和らがない、様々な鳥の歌声が慰めにはなるが。 10:10 パイロ(地すべり)1,800米着。20分休憩。
次のバンブ−(1,970米)着。大休止で昼食。ヌ−ドルス−プとしたが塩分喪失なので塩を貰い、嘗める。うまい、甘く感じる。ガイド達は暑いと言って動かないので「ゆっくり行くから」と言って13:05出発。石楠花の花を見る予定だったのだが、20日程遅すぎ、少し咲いているだけ。この谷はレッサ−・パンダの名所なので竹やぶが在る度、キョロキョロするが昼間ではちょっと無理でした。
15:15 リムチエ(2,455米)着。今日はここへ泊まる。森を抜け出し展望の良い明るいロッジだ。シャワ−を浴び、ビ−ルとウイスキ−。森の中で小鳥の姿を見るのは難しいが、ロッジだと、下の木に鳥達がとまって囀るので良く見える。極彩色の美しい鳥が多く、ああ、亜熱帯だなあ、と溜息が出る。今日は初日で夫婦共、ばてたが、静かな山小屋で大いに満足した。

5月21日 7:18出発。
ここから徐々に谷が広がり、そこここに台地が出てきて、放牧地や畠が多くなる。歩いていても心が明るい。
10:30 ゴ−ダタベナ(馬の放牧地)で昼食。又も野菜ヌ−ドルス−プ。これはインスタントラ−メンではあるが、エベレスト街道のものと違い、いろいろな野菜が入っていて以外に美味しい。
11:40 ガイドをせかせて出発。 14:20 目的地のランタン村に到着した。今日の行程は途中に徳澤園のような放牧地が沢山あり川沿いののどやかな道で、気持ちの良い歩きだった。ランタン村の高度は3,400米。森の樹間からランタンの雪山が見え撮影にも最適である。
▲5月22日
ランタン氷河末端からランタンリルン

▲5月22日
ランタン氷河末端からランタンリルン

▲5月22日
ランタン氷河。
左がランタンリルン

▲5月22日
 氷河の舌端。
氷河の退行が
明らかだ。

▲5月22日
キャンジン・クンパ
のロッジ

▲5月23日
パイロのロッジから
蜂の巣を見る。
黒くぶら下がった
袋状のものが
巣です。
←画像をクリックすると画像が大きく表示されます。

5月22日 6:56 出発。
楽勝で最終目的の村、キャンジン グンパ(3,800米)に9:40 到着。回りは白いランタンの山々に囲まれた美しい村。 昨日と同様、谷は大きく広がり、馬、山羊、牛、ヤクが放牧され野菜や麦の畠も多い。農家はここで越冬し、ホテルは冬は2軒を除いて閉めると。 ただ、ここへ来るまで気がついたのだが、閉鎖しているホテルが極めて多い。 ホテルを作り過ぎて供給過多になって値崩れし、コミュニテイが閉鎖させたのだそうだ。
大休止(2時間)の後、氷河舌端とランタン・リルン見物のハイキングに出る。強い陽射しと長すぎる休止で筋肉が固くなり苦労する。「これからはガイドのペ−スでなく我々のペ−スで歩こう。彼等は休みすぎる」とボヤきつつモレ−ンの上を1時間半、舌端が目前となる。ここでお終い。高度は4,200米。家内も生涯最高高度とご機嫌である。
舌端は数年前より相当、引っ込んでいる。前の舌端の跡が目の前にくっきり残っている。後はランタン氷河とランタンリルンをのんびり眺めて、14:00ホテルに帰る。

5月23日 7:10 出発 帰路へ。
快適な下り。家内も快調で鼻歌混じりだ。 ランタン村 8:45 。
ゴ−ダタベルナ10:50 昼食。 ガイド達はゆっくり食事なので、11:40 「ゆっくり行くから先にでるよ」と言って出発。「ラマ村までには追いつくよ」と言っていたが、「まあ、ゆっくり来いよ」と歩き出した。ところが昼を過ぎると雷がゴロゴロ鳴り出し、これはいかんと二人ともペ−スアップ、ポツポツ振り出す雨の中、久しぶりで走り下りも披露し、ロ−カル・ポ−タ−達と一緒になって下り、目的のリムチェには13:40 着。ガイド達も10分遅れで着いてその直後から土砂降りの雨となった。ゆうゆうとビ−ルを飲みつつ眺める我々。荷揚げのロ−カル・ポ−タ−やトレッカ−も雨宿りで大騒ぎ。往路はガラガラだったこのロッジも今日は満員だ。 

5月24日 6:45 出発。
7:50 バンブ−着。快調な下りで、8:45 パイロ着。手前でガイドが指笛で我々を止め、「あれを見ろ」と指差す。対岸の岸壁のオ−バ−ハングの下に黒い大きな(長さ2米もあろうか)袋状の物体がいくつもぶら下がっている。お化け蝙蝠のようだ。追い着いたガイドに聞くと「蜂の巣だ」と。あれが有名なランタンの蜂の巣か。
パイロでガイド達は大休止で昼飯を食べたそうだったが、せかして9:15出発。15分で今日の目的地トウロ・シャブル村への分岐となる。ここからトラバ−ス気味の長い上りで谷をはさんだ目的の村へ向かう。ガイド達は、もうお任せの気持ちなのかなかなか来ず、途中の広い見晴台で待っていると、紡ぎ車をぶら下げ回しながら、かなり汚れた女性が下って来た。「トウロ・シャブルへの道はこれで良いのか?」と聞くと以外に流暢な英語で「そのとおり。もうすぐよ」と言われ、流石、観光ル−トと感心した。ガイド達も追い着き、村の直前の曲がり角で大きなラングン猿にばったり会う。ゲッゲッと威嚇してくるが、構わず進むといやいや道をよけてくれた。大麦ととうもろこしを主体とした段々畑がきれいに耕作された大きな村である。麻らしきものがちんまり植わっており「これは?」と聞くとニヤリと笑って「マリフアナ」だと。ホテルは村の一番高い場所にあり、青と白に美しく塗られた立派なロッジである。早速、シャワ−を浴び、ふと足元を見て驚いた。ふくらはぎから血がタラタラ流れている。「蛭だ!」ガイドに言うと、彼も2箇所やられていた。どうもパイロの手前の湿地でやられたらしい。
この村を囲む谷は山桃やねむの木の大樹が散在し段々畑の景色とあいまり、素晴らしい。ロッジの裏窓からはガネッシュの山が良く見えた。
村の住人は100%タマン族である。シエルパ族と同じチベット系だが、顔立ちが違う。ランタンの谷、その手前の街道沿いもタマンが多い。他の地域ではタマンはちょっと蔑視されみじめな生活をおくっているが、ここでは堂々としている。













ここで、この旅で出会った人達を紹介しよう。
22日、23日、キャンジン・クンパとリムチェで吉田さんという地質学者と同宿し、いろいろ話をさせて貰いました。先生は72歳で小山台高から北大の理学部に進み地質学の専門家となられたよし。又、北大時代山岳部に属され熱心に登山されたとの事です。その頃、衝立正面壁を登られたとの事ですから、まだ片手で数えられる登攀度で先鋭的なクライマ−であったでしょう。我が先輩である甘利さんもパ−トナ−であった永光さんとの関係で良くご存知でした。86年以来、ネパ−ルには何度も来られているが、今はカトマンズ大との共同研究でこの地域に来ておられる。ただここはブリガンダキと比べると面白い発見は無いと。昨年は奥様を連れて来られたが高山病になり、危ない所だったと。又、大阪市立大がランタンリルン登攀何十周年記念と遭難された方の慰霊の為に来ていたとの事。ついでに森本ピ−クに登ろうとしたが駄目だったようだと言われていた。これからさらに10日間、カトマンズ大との共同研究に従事されると言う事で頭が下がり、持参したお粥と梅干を差し上げ、ご活躍を祈念した。
単独行の男女が多かった。その分、行方不明の人があり、我々が行っている間もアメリカ人の女性が行方不明となり、ポスタ−が出ていた。判りやすい道で何故?とガイドに聞いた所、ほとんどは高所でハイになり上に上がってしまい帰路が判らなくなり不明になるのだと。事実、あとでジョテイ社長に聞くとつい先日、オ−ストラリア人の男性が同じ状況で不明になったが、40日後、無事保護されたとの事。困ったものです。
キャンジュンからトウロ・シャンブルまで一緒だったオランダ女性は一人ではあったがガイドとポ−タ−同伴の優雅な旅。下りでさんざん我々の邪魔をしてくれたフランス人の女性はガイドのみの同伴でシエルパ族のガイドはうんざりしながら連れ添っていた。
面白かったのはリムチチエのコックです。帰路、暇にまかせ、彼の働く竈の(すごく立派)横にビ−ル片手に陣取り、「仕事振りを見せて」と言うと「大歓迎」と言われ、暫く眺めさせて貰った。往路でも感じたのだが、さえない風貌の老人だが英語が上手で身体の動きが水際立って冴えている。一体、なんだろうと聞いてみると、彼は年齢56歳、ナムチェの近くの出身で登山隊やトレッカ−の為に長年働いていたが、足を痛め、シエルパとして働くのを諦め、こうやってあちこちのロッジでコックとして働いていると。「岡田さんはどうしているかなあ?」などと懐かしみながらカレ−を作り、ダル・ス−プを作り米を炊きジャガイモを茹で、チャンを飲み、身体の動きは冴えており見事なものです。昔の登山隊はきっと、こういうシエルパにかしずかれていたのだろうなあ、と感じ入りました。そうこうするうちにガイド達も竈の回りに集まり、楽しい交流が出来ました。
我々のガイド
ソロ−ズ君はカイラスへ行った時のサポ−トメンバ−の一人であり、我々が拙い飯で参っていた時にこっそり「インドの人達には内緒です」と言って、ツナ缶をテントに持ってきてくれた好青年である。我々のNPO活動の対象であったマハカリ村の出身で「とても感謝しています」と日本語で何度もいってくれました。私の実力は(エヘン)充分知っていたが、家内は同じ67歳と聞き正直、心配していたと。ところが何の心配も無く良く歩き、「いやあ、ついていくのが大変だった」とお世辞を言われ家内はホクホクでした。




▲5月25日 早朝
トウロ・シャブルの
ロッジから
ガネッシュ
をのぞむ





▲5月25日 朝
チベット国境の山々








5月25日 7:05 ロッジ発
木立を縫いつつ小鳥の音楽に耳を傾けつつ、谷の巻き道を下っていく。ガネッシュやその左のパウダ−・ピ−ク、右手に光るのはチベットの山々。カイラスに行った時、サガを過ぎて左手に見えた山々であろう。でもこちらから見るほうがずっと素敵である。
極彩色の小鳥を散見しつつ楽しいウオ−クを続けたが良い事はそれまで。9時から自動車道路への急降下開始。9:45 道路着。これまでと異なり、排気ガスとゴミと人いきれの世界である。ここから1時間半、えっさ、やっさ炎天下を歩いてドウンチェに12時到着。又、立派なロッジに宿泊となり、シャワ−後、全員集合、ビ−ルで乾杯した。ロッジの前は、あじさい、ばら、ダリア、カ−ネ−ションの花々が咲き楽しい。いよいよ旅は終わりである。

5月26日 6:50 ドウンチェ発 カトマンズ着 13:50
NPOの仕事を済ませ、家内と何が食べたいか相談した。結論はグリ−ンサラダです。
カトマンズの誇るイタリアンの「フアイア&アイス」でグリ−ンサラダ、ピザ1人前と赤ワイン沢山で堪能しました。
翌日はソロウズの案内で観光、運転は我が芸能運転手アンビ−でお笑いの半日でした。夕方はジョテイさんと真面目な打合せ後、カトマンズ一のレストランでご馳走になり、堪能。
28日 バンコクにて1泊 29日の早朝便で帰国しました。といっても自宅に着いたのは夜でしたが。

今回も又、ジョテイさんに過分の世話になりました。5月17日から28日までお世話になり、トレッキングから全てこめて一人790ドルでまかなってくれ、おまけにご馳走にまでなりました。 「サテイの人達には、出来る限り尽くす」が彼のモット−です。ちょっと辛くなりましたが、遠慮も失礼であり甘える事としました。家内も驚いていました。
細かい点ではいろいろエピソ−ドもありましたが、本レポ−トでは略させて頂きます。楽しい旅でした。
以上


付記
ジョテイさんの商売
無論、カイラスが中心で今年も500人は大丈夫だろうと。我々がいる間も出たり入ったり賑やかだが、われわれがカイラスに行った時とは客層が変った。我々の時は主体はアメリカやイギリスの医者や医学部教授、研究員で金持ち層であったが、今は、インド経済の勃興を受けてか、インド本土からの客がほとんどでリピ−タ−も多いと。ところが問題もあるらしく、ソロ−ズに聞いた話だが「南インドからの客はインテリも多くマナ−も良いが北、特にデリ−近くの客には問題が多い。例えば、ガイドを召使扱いして下着の洗濯までやらせるリピ−タ−がいた。余りひどいので、今年は断った」と。
我々が帰着した日は、なんと「南アフリカの横のフランス植民地の島からの20数名」が帰路で同宿した。フランス植民地の島とは?と考えたが、モ−リシャス島しか思い浮かばない。昔、フランス植民地だった事は知っていたが、今でも植民地とは!なんでも「本国に差し上げるものは無く、本土からの援助で暮らす結構な身分」だと。確かに皆、フランス語をしゃべる人達でほとんどはしろんぼ、中にインド人との混血がいる。なんでカイラスの巡礼なのだろう?

会   報



▲5月11日 10:35
西峰観景台より見た玉山頂上
        



▲5月11日 14:20
排雲山荘前(左:遠藤 右:三井)
        
  


▲5月12日 4:45
夜明け前の玉山頂上
(左:遠藤 右:三井)

 


▲5月12日 4:50
玉山頂上よりの御来光
(前方の山は中央山脈)


















■2009年5月11〜12日 台湾玉山登頂記 
************三井 博(昭和37年卒)
(2009年6月14日のHUHACメールより転載)
●1か月遅れになりますが、台湾玉山(ユイシャン、3952メートル)に登頂いたしましたので、報告いたします。
 台湾には標高3000メートル以上の山が250座以上あり、最高峰はかって新高山と呼ばれていた玉山で富士山より約300メートル高い東北アジアの最高峰です。岳友遠藤晶土君と毎日新聞旅行のツアーに参加して登りました。
 玉山は登山道が整備され難しい山ではありませんが、外国人は一日24人以内に制限され、オーバーすると抽選で当選者に登山許可証が発行され、登山口でパスポートとともにチェックされます。又、中華民国登山協会の現地ガイドを必ず雇用しなければならない規則があり、登山以前が厄介です。2009年5月10日(日)成田から台北にフライトし、バスで5時間半もかかって、東埔(トンボ)山荘につきました。
●5月11日(月)
 5時に起床、6時に出発する。すぐに塔塔加(ターターチャ)警察分隊所及びツーリストセンターに到着する。入山許可証、パスポートをチェック、写真で本人確認後出発、登山口の塔塔加鞍部に着く。7時30分登山開始、歩き易い山道をゆっくり登ってゆく。玉山は山は急俊であるが、登山路は山腹を切り開いて開発しており、急登、急降下が少ない。代わりに橋が多くかけられており、86橋もあって、番号が鉄板で打ちつけられている。約3時間歩いて西峰観景台に着いた。ここで初めて玉山主峰の頂上が見えた。ガイドは陳さんという山岳協会のベテランで日本語もペラペラである。彼が連れてきたポーター兼料理人の王さんが、暖かいみそ汁とウーロン茶を沸かしてくれた。
 観景台を出ると勾配が急になり本格的な登りとなるが、難しい悪路はなく最後の200段の木段を上がると、森林の中の排雲山荘に到着した。到着時間は14時15分、6時間半の行程で、標高差は792メートル、予想していたより楽な登りであった。遠藤君はいたって元気である。
 排雲山荘の寝具はシュラフであったが、湿っぽい。小屋の前の机に広げて乾かす。間もなく学校の先生に引率された高校生、中学生、小学生が続々と登ってきた。台湾の登山は学生が主体で、中高年の社会人は殆どいないそうである。
●5月12日(火)
 昨晩は学生たちがうるさかった。ハーモニカ、ギターの演奏、放歌で先生も一緒になって騒いでいた。8時の消灯で静かになり数時間まどろむ。午前1時過ぎに起床、2時に出発する。リーダーの陳さんを先頭にヘッドランプで足元を照らしながら黙々と歩く。昨日よりはるかに急俊である。すぐに森林限界となり、岩と土の急斜面が続く。危険と思われるところには太い鉄鎖が固定されている。陳さんは全く休まない。休むとかえって危険である。ジグザグの岩場の急登をくり返し、4時45分に玉山の頂上に立った。2時間45分の登りであった。東の中央山脈の山が赤く色つき、ご来光となった。メンバーが一斉にシャッターを切ると、リーダーはすぐに下山を命じる。もう少し長くいたかったが、頂上は狭く、狭い山道の交差は難しいとのことである。案の定下ってゆくと、団体が続々と登ってくる。
一時かなり待たされたが、玉山頂上発が5時15分、排雲山荘着が6時55分で1時間40分で下ってきた。朝食後荷物整理を終えて、8時に排雲山荘をあとにする。遠藤兄は下りは何といっても早いと言っていたが、このコースは高低差が少ない割に距離が長く、塔塔加についたのは、14時10分で6時間10分かかり、登りと殆ど同じであった。メンバー12名(男7、女5)は全員元気で高山病には誰もかからなかった。東埔山荘に帰り、荷物整理後、台湾観光協会理事長でもある陳さんの豪華な食事、阿里山の観光などへて、嘉義のホテルに泊まり、翌日成田に帰った。
 ただ、難点は、台湾では国家公園(日本の国立公園)内は禁酒であり、玉山国家公園内、阿里山国家公園内の食事の際にはアルコールがなかったことである。

会   報
■キリマンジャロ登山とナイロビ支部訪問  小島 和人(昭40法)
      *********** (『如水会々報』 平成21年1月号より転載)
●一橋大学山岳部OB会、「針葉樹会」の佐薙恭(31経)、中川滋夫(36法)、遠藤晶土(37商)、蛭川隆夫(39 経)、小野肇(40社)そして私の6名が本年4月、富士山の西麓に集まって10月の満月の日、13日にキリマンジャロ登頂を目指すことを決め、準備に入りました。登頂の日には最年長の佐薙氏が76歳、リーダー中川氏が72歳、最年少の私が66歳、6人平均すると70歳1カ月、アフリカの最高峰を目指すにはやや高齢ですが、赤道直下で頂上に氷河を残し、広大なサバンナの荒野に気高く聳える秀峰への熱い思いを胸に秘めた面々です。準備の最中、如水会々報にナイロビ支部設立の寄稿が載りました。ナイロビはいわばキリマンジャロの玄関、我々がアフリカ入りする街です。早速連絡を取り、登山の前に支部との交歓会が設営されました。
●ジャカランダが咲き誇る太陽の街、ナイロビを我々が訪れたのは10月7日午後。夕刻、ホテルに岩谷滋雄支部長(48法)、大村昌弘会さん、増古剛久さんご夫妻が、わざわざ迎えに来てくれました。岩谷邸にて、岩谷夫人、大賀敏子(58社)さんが加わり、美味しいお食事とワインと、お心尽くしの豪華なおもてなしで盛大な交歓会となりました。。支部長と大村さんは在ケニアの日本大使と日本公使、大賀さんは国連環境局、増古さんはJICA駐在員の奥様と共に一橋の博士論文を準備中とのこと。政治的混乱と貧困・治安問題に悩む現地の様子は大賀さんが会報で紹介された通りですが、ナイロビ支部の皆様の奮闘話には端々に、ケニア、そしてアフリカへの深い思いやりが感じられ、如水会員として真に嬉しく誇りに感じました。岩谷支部長のマウナケア山、増古氏のケニア山の経験談、山岳部OBの石元学長、尾身元科学技術大臣との交流と話は弾みましたが、翌朝早い登山隊は、ナイロビ支部の更なる発展を祈念して深夜前に大使館を後にしました。
●翌8日ナイロビからタンザニアのモシに車で移動して1泊、9日に1700mのマラングゲイトからの登山開始。ジャングルのような樹林帯を通り、2700mで1泊、2日目から樹林帯が切れて視界が開け、3000m近辺から目指す山頂が広大な山すその高原の彼方に見え隠れします。10日と11日は3700m地点で高度順化を狙って2泊、12日の午後に最前線基地のキボハット(4700m)に全員元気に入りました。夕刻4時間ほどの仮眠をとって夜中の11時に火山礫と砂地の急峻な登りに掛かりました。風も弱く、満月が山容を浮かび上がらせる中、山頂を目指しました。事前の情報通り、技術的に難しい事は無かったのですが、高所での薄い酸素、マイナス10度という寒さ、暗い中での急登は、若くない我が隊には厳しいものでした。5000m地点までに2名が高山病の症状で前進を断念することになり、残り4名が13日午前6時過ぎに、東の空に太陽が昇るのに合わせてギルマンズポイント(5685m)に登頂しました。その時点で予定時間を超えていた事と、隊員の疲れもあり、安全第一と考え、もう一つのピーク(最高峰5895m)までは挑戦せず下りに掛かりました。この決断で同日中に6人が元気に3700mに帰り、ガイド達とビールで乾杯、我々の一橋山岳部部歌とガイド達のキリマンジャロ讃歌の交換で成果を祝うことが出来ました。
●翌日モシに下山、タランギーレなどで数日サファリを楽しみながら老体に感謝し、最終日はヘミングウェイが『キリマンジャロの雪』を構想したリゾート、アンボセリに1泊、我々の旅を振り返りました。4月以来、富士山などの山々で、地上で、さらに低酸素室でトレーニングをし、沢山の医師に相談して高齢登山対策をするなど、考えられる準備を全てして臨みました。キリマンジャロは期待通り美しく、大きな大きな山でした。ナイロビ支部も訪問でき、挑戦してよかったと全員が思う“古希隊“のキリマンジャロ登山となりました。 
(元富士通(株)勤務)

【写真説明】 10月14日 3700m地点 後方の山がキリマンジャロ
 (後列左から)小島、小野、ガイド、佐薙、遠藤 (前列左から)蛭川、中川

会   報
【 キリマンジャロ写真 】  
小島 和人(昭和40年卒)  
(2008年11月4日投稿)



Gilliman’s Point 5681登頂
(登頂証明書は5685m)
10月13日午前6時30分 
右より遠藤、蛭川、小島とガイド


   登頂後の下山中4200m地点から
キリマンジャロ(10月13日)


   HORUMBO HUT 3720m 
最終下山日の朝(10月14日)


  最終下山日 3100m位からの
キリマンジャロ(10月14日)
■キリマンジャロ報告 蛭川 隆夫(昭和39年卒)
 (2008年10月24日のHUHACメールから転載)
蛭川です。
キリマンジャロ行から戻りましたので、報告します
 (敬称略)。
●メンバー
 中川(L)、佐薙、遠藤、小野、小島、蛭川
●旅程
 10/6  深夜、関空から出発。
 10/7  ナイロビ(泊)。如水会ナイロビ支部と交流。
 10/8  専用車で国境越えしてタンザニアへ。
      山麓のモシ(泊)。
 10/9  専用車で登山口1,860mへ。
      マンダラ・ハット2,705m(泊)。
 10/10 ホロンボ・ハット3,719m(泊)。
 10/11 高度順化日。ジブラ・ロック3,980mを往復。
      ホロンボ・ハットに連泊。
 10/12 最終小屋のキボ・ハット4,713m(泊)。
 10/13 頭から足まで防寒衣に身を固め、ヘッド・
      ランプを点けて出発(前夜23:10)。
       高度障害から佐薙、小野は途中までと
      なった。
      中川、遠藤、小島、蛭川は、6:00に
      キリマンジャロ山頂の一角である
      ギルマンズ・ポイント5,703m (富士山の
      お鉢のよう所)に到達。お鉢の底は雪が
      ないガラ場だが、南西方向のお鉢の外縁
      は雪田になっており、また遠く北西方向に
      は素晴らしい氷壁が切り立っていた。
      さらに最高点のウフル・ピーク5,895m
      (富士山の剣が峰)を目指すも、時間的
      余裕がないことや現地ガイドの頭数不足
      などから、最高点往復(約2時間半)は断念
      して下山することにガイドと相談の上で
      決定しました。
      標高差(登り990m、降り1,984m)は、
      予想どおり、厳しいものでした。加えて、
      山肌を吹き上がってくる強風、零下10度の
      気温(頂上直下、日の出直前のデータ)、
      14時間 20分におよぶ行動時間などに、
      平均年齢70歳1か月のシニアはしごかれ
      ました。
      それにもかかわらず、充実した1日を過ごす
      ことができました。
      往路を戻って、13:30ホロンボ・ハット着(泊)。
 10/14  さらに下山して、モシへ(泊)。
 10/15 〜タランギーレ国立公園などでサファリを体験。
 10/19 ナイロビ発。
 10/20 羽田着20:20。解散。
 10/14  さらに下山して、モシへ(泊)。
 10/15 〜タランギーレ国立公園などでサファリを体験。
 10/19 ナイロビ発。
 10/20 羽田着20:20。解散。
 
●備考
添乗員無しのプライベート・ツアーとして1年がかりで計画、準備を重ねてきたので最高点を踏めなかったのは残念でしたが、全員そろって無事帰国できました。
高崎・本間・竹中のお三方には緊急連絡先を引きうけて頂きありがとうございました。緊急連絡を要するほどの出来事がなかったのはなによりだったと思います。
なお、詳細は別途報告します。

会   報

 1:ダンプス南面(6035m) 

 2:BC5200m

 3:ニルギリ(7061m) 

4:ツクチェピーク(6920m)と
ダウラギリ主峰(8172m) 

5:ダンプス主峰 

6:ダンプス頂上にて
(07.10.31 10:10AM) 

7:ダンプスプラトー 

8:下山―1 

9:下山‐2

 10:マルファの登山口にて

ダンプスピーク(6035M)登頂 覚書 
               
  金子 晴彦(昭和46年卒)
********************* (2008年7月6日投稿)
■何故出かけたのか?
会社勤めはあと3年位かと思っていたところ突然会社都合で3ヶ月になった。途端に時間だけはいっぱい生まれた。それを生かす第一は何と言ってもヒマラヤ登山だった。
何故ダンプスか?
最初からダンプスではない。6月末、三森、倉知御大が針葉樹会報に載ったラプチェ谷の詳細説明をしてくれた。その気になったがラプチェ谷の登山許可は出ず、これまでのヒマラヤトレッキングの延長で、ダウラギリの東にある、ヒマラヤ入門で有名なダンプスピークにした。

■予算と期間は? 
2007年10月21日から11月8日までの19日間。広州経由の中国南方航空で出かけた。手配担当のヒマ観への支払いは48万円/人。それに保険(海外旅行傷害保険 運動割増付帯 救援費用2千万円=保険料15550円/人)、途中の街での食事代、ネパール内空港使用料等加えて総計56万円/人の予算。1泊した広州での市内観光、ムクチナートへのジープ旅行なども含んでぴったりだった。
■出発前準備は?
ぼくにヒマラヤ登山の経験は無いがメンバー最長老の今津氏(72歳)は飛騨のプロのガイド。改めてヒマラヤ氷雪の対応を一から学んだ。最近の装備を拝見する座学から始まり出発直前の2泊3日富士山高所訓練と学ぶべきことは実に多かった。 高所食料として何が食べやすいか? 防寒着は何がいいか? 高所順応の方法は? テント生活のポイトは? 今津氏からの厳しいお小言をいただいた。
■天気は?
滞在中の16日間は全て快晴で、登頂成功の大きな要因になった。ただし上から見ていると4千M以下は雲が出た日もあった。また、東のエベレスト方面は雲が多かったと聞く。5千M超に7日間いたが昼は暑く、日がかげると途端にひどく寒くなり強風が吹く(温度は昼は+25度、夜はー15〜20度)。
■パーティー構成は?
日本人は兄も含め、男性3名、女性2名。ハイシーズンでポーターが払底していて集まらず、初日は2人だけ。3日目にようやくポーター7名、キッチンボーイ4名、サーダー1名、アシスタントサーダー1名の13名編成が完成。おかげで行動計画でもめるなどの問題も起こった。サーダーの力量は明らかに低く、トレッキングはともかく、登山の場合はどうしたら良いサーダーを確保できるかがぽいんと。
■ルートは
ダンプスピークはマルファの裏山。とにかくやたらに大きな山容で、BCまで10キロの距離で3500メートル登る。 特に最初の登りは2キロの間に1000メートル登る急峻さでひどくこたえる(ヤクカルカ3950M)。2日目も頂上は見えないままに山腹をジグザグに登りそして長く急な稜線を直上することになる。 稜線上の道は一旦4900Mまで達し、そこから稜線の西側の雪に覆われた山腹の延々たるトラバースを経て中間キャンプ(4500M)にいたる。谷を挟んで西にツクチェとその上にダウラギリが見える。そこから前方はゆるやかな雪のスロープがBC(5030M)のある最奥のプラトーまで続いている。
途中高度順応の停滞をしなければマルファからBCまでは3日で入れる。このためポーターはBCまで荷揚げすると一旦下に下り、後日また登って来て荷物を降ろしていた。まさに裏山だ。中間キャンプとBCの間にはハイキャンプと呼ばれる場所があり(4950M) 当初そこに泊まる予定もあったが斜面もきつお勧めできない。BCはダンプス峠の下に1時間ほど離れて2段の台地となって広がっている。ダンプスに登る稜線にとりつくには下の台地がふさわしい。
ダンプスはのっぺりしているが斜面を登ってみると実に大きい。従っていつの間にかひどく高い位置にいることになる。ひたすら直上すると岩の出た稜線の真下にやや傾斜のゆるくなった場所が現れここがACとなる(5600M BCから3時間)。BCから頂上を直接往復することも可能だろうが我々は大事をとってここにACを設営した。年寄りパーティーには不可欠だ。
ACからは稜線まで約1時間。そこから頂上までの稜線がいたく長い(2時間)。一旦下って北側の急斜面をトラバースするところがある。そこだけはトレースが無ければフィックスが欲しいがそれ以外はひたすら登ればよい。大部の人が登っていて足場はしっかりしている。幅の狭い雪の斜面の上部が壁になりそこに階段状にステップが切ってあり、その上が頂上。

■高度順応は?
登り始めて3日目には早くも4500Mまで登った。そこで1日停滞して順化を進めた。そのせいかあまりひどい高度障害は現れなかった。直前の富士山高所訓練の効果があったとも思われる。ただし歩くスピード、食欲等については正に各人各様だった。薬は一切飲まず、スープ、茶、コーヒーなどの形で水分を極力補給(4L/日が理想)、排泄を頻繁にして対応した。乾燥している為口の中がからからに乾き夜中に何度か水を飲んだ。このためさらに排泄は増加、寒さもあり一大事業だったが、立派なトイレテントを作ったおかげで何とか実行できた。これが無かったら大変だ。 口をすぼめて大きく息を吐くことを中心とした呼吸方法が効果的で、東京に戻ってもその呼吸法が習慣になってしまった。
■登山技術は?
周辺のヒアマラヤ襞に飾られた山はともかく、ダンプスピークは高度順応をうまく実施し淡々と歩きさえすればほぼ問題無く登れる。しかし、稜線上のトラバースでトレイスが無く自分たちでルート工作をしなければならない場合はかなりの体力が必要。また、広大な斜面のためホワイトアウトになった場合方向が見つけにくい。このため30本ばかりの竹さおを用意した。またGPSもあれば心強い。スノウバー、フイックスロープは使用しなかった。3人づつでアンザイレンした。
■装備は?
軽量化に徹底的にこだわり一人当たり日本を出る時点で全重量22キロ/人とした。このため登山靴は3シーズン用のゴアテックスの軽量靴とし、オーバーシューズで保温した。ACでのシュラフは日本から持参した半シュラフとシュラフカバーで対応した(ヤッケ着用で寒さはしのげた)。テントも現地のものでは不安なためAC用に4−5人用テントを日本から持参した。BCまでのテントはトレッキング用の夏用三角テントでマイナス20度の寒風が布地を通して吹き込み防寒は全くできなかった。今回初めて利用したインナー羽毛服は行動がしやすく保温効果も抜群で有効だった。現地での機材借用は可能だが全て高額であり、また品質的に不安があるため極力持参が望ましい(ガス1缶 USD10、高所用テント1張りUSD120)。
■食事は?
BCまでは毎日コックが3食作ってくれる。朝はお粥とプレイト盛りの野菜、ナン等。高度が上がり寒くなるにつれ食欲は大幅減退。5人中2人は毎回食べたが3人はBCに入って以降大半を残した。日本から高所用食を持って行ったがこれで救われたメンバーも多い。尾西の五目御飯に寿司太郎を混ぜたメニューが最も評判だった。ただし食料担当が梱包を粗雑にしていたため当初どこに何があるか分からず不評を買った。事前の準備が不可欠
なおコックは大変優秀で、味噌汁、うどんなどで日本食の微妙な味を出していた。また最後の日にはなんとケーキを焼いてくれた。
傷害ならびに後遺症は?
出発前2ヶ月はほぼ毎朝5−10キロ走り心肺機能を高めたため現地ではさほど苦しいことは無かった。しかし、5千M超に1週間いた影響は大きく、寒さで脂肪が大幅に消費され4キロ痩せた。また足の指先がしびれた感じが長く残った(帰国後2週間)。さらに強烈な紫外線で日焼けしたが、唇の日焼けが最もきつかった。上下の唇がただれてくっつくようなことになり、食事の折に痛んだ。リップクリーム程度では全く防止できない。何か特効薬が無いだろうか?またサングラスは2重にしてようやく雪盲を防止できた。指先が乾燥してひょうそになりやすくなるため常に薄手の手袋をはめるようにした。下痢になるようなことは無かったが一晩だけ腹が痛み熊の胆を飲んで治した。

■感想と今後は?
現地では気が張っていたのかそんなに消耗した気がしなかったがカトマンズに下りて4キロやせたのを知って驚いた。入門と言うことであったが正に人間の住むところではない神の住むヒマラヤの凄みを見た。現地にいる間はこの凄みから逃げ出したい気にもなったが今となってはそれが懐かしい。ヒマラヤの山の往復と言う活動が始まるんではないかと期待している。ただそれには改めて雪上技術を復習する必要がありそうだ。そもそも登りたかったラプチェは2007年11月7日に解禁されたと聞いた。今回の経験を踏まえできれば1−2年の内に訪問したい。どなたか同好の士を募りたい。 了

会   報
●ヒマラヤ報告 遠藤 晶土(昭和37年卒)

 バンコック〜カトマンズ〜ルクラ〜
 バグディン〜ナムチェ・バザール〜
 ホテル・エベレスト・ビュー〜カトマンズ
 〜バンコック
▲画像をクリックしてください ○『針葉樹会報』第111号から転載
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