一橋山岳会のホームページへようこそ。当ホームページは2008年8月1日に開設しました。
文庫・蔵書・著作 会   報
※目次
■一橋山岳部の丹沢史 本間 浩(昭和40年卒)
■2018年7月 故宮武幸久氏遭難関係資料
針葉樹会・一橋山岳部 共同山行 本間 浩(昭和40年卒)
■グルリ丹沢 本間 浩(昭和40年卒)
■山岳部再生に活躍した学生達とOBの支援活動 藤原 朋信(昭和44年卒)
■2016年10月 故大塚武氏遭難関係資料
■『故中村慎一郎君追悼録』補足
■『小谷部全助』資料
■『山讃賦』資料
■妙高山遭難関係資料一覧
■1995年4月 カカボラジ峰登山隊資料
**




■一橋山岳部の丹沢史  本間 浩(昭和40年卒)
     ********2018年6月21日投稿(2018年4月16日作成)
T、始めに
  再生山岳部が初めて丹沢に取り組んだのは2014年秋の、FN短大山行でした。
  ここで、課題・目標を見つけた学生は、翌年2015年春に主脈縦走を計画しました。
  しかしこの年は雨と雷に阻まれ丹沢山から大倉に引き返しました。
  
  2016年に入ると2月に残雪の丹沢山に往復で訓練し、ついに4月に「主脈縦走」に成功しました。
  12月には丹沢山往復のボッカ訓練も実施しました。

  2017年は「秋に主稜縦走」を目標に立て、6月に塔ノ岳・鍋割山、さらに下見として西丹沢から檜洞丸を往復しました。
  9月に1年生だけで塔の岳・鍋割山を登ったのも画期的な試みでした。
  満を持して臨んだ11月の主稜縦走は、ほぼ計画通りのタイムで成功しました。
  学生の喜びがいかに大きかったかは記録を読めば良く伝わってきます。

  特筆すべきは、丹沢山系の主要山行を成功し、その力量を他の部員に示した部員が次の主将に推薦されていることです。

 2014年 蛭が岳往復   上さん     2016年主将
 2016年 主脈縦走     内海さん   2017年主将
 2017年 主稜縦走     坂本さん   2018年主将
  
 以上は「2014年〜 学生の丹沢山行の歩み
 2018/1/30 S44卆 藤原」より転記しました

U、山行記録
** ●2008年(H20年)
** 4・13 「三四郎会」 
・大山    竹中 岡田            [学生]原口翔伍
・仏果山   本間 小島 小野 中村(雅) [学生]糟谷知紀
        反省会 飯山温泉「ふるさとの宿」
学生諸君は初山行で雨合羽を着ることとなった(本間) 
●2010(H22)
5・1  「大山」  糟谷  [学生]伊藤研祐 米田卓矢 山根範子
12・12  「懇親山行  丹沢・白山」 
        本間 石原 高崎(治) 上原 仲田 遠藤 小島 中村(雅)
       [学生]米田卓矢 山根範子
        反省会 飯山温泉「ふるさとの宿」
        途中で、下りの時の脚運びの講習を行った(本間)
●2012(H24)
5・12〜13  「丹沢主稜縦走(塔ノ岳―蛭ヶ岳―檜洞丸)」
12 大倉〜大倉尾根〜塔ノ岳(尊仏山荘泊)
13 塔ノ岳〜丹沢山〜蛭ヶ岳〜檜洞丸〜ツツジ新道〜西丹沢
       反省会 新松田駅前「焼肉OO園」
       本間 昼から会/高橋康夫 門脇哲朗
       [学生]小宮山尚与志 町田広樹 峰弘卓
       1日目は食料を学生さんが担いだので良かったが、2日目彼らは空身だから早い々々。
       小生脚は攣るし遅れるしで往生こいた。
       こんなことなら石か水を背負わせ負荷をかけるべきであった。(本間)
●2014(H26)
8・ 2 「FN短大 水無川本谷」藤原 中村(雅) [学生]太田貴之
10・25 「FN短大 蛭ヶ岳 往復」
       大倉〜塔ノ岳〜丹沢山〜蛭ヶ岳 往復
       藤原 中村 高崎俊 岡田 
       [学生]上茂衛 大矢和樹 内海拓人
       学生三人中、上さんだけが達成。
       入部したばかりの内海さんは部の雰囲気に馴染めず、継続するか悩んでいましたが、
       この山行で課題を見つけ、また上さんと親しくなったことがその後の活躍に繋がりました。(藤原)
       記録1「丹沢 蛭ヶ岳往復 内海拓人(法1)」
       *当ホームページ『山行報告』−『国内山行報告』に掲載
●2015(H27)
4・25 FN短大 蛭ヶ岳集中登山 
       A班(学生)大倉〜蛭ヶ岳〜焼山 
        太田貴之 高橋直道 西山祥紀 辰川貴大 内海拓人 
        大矢和樹 黄勉(院2)[体験]安藤圭吾(院1)
       B班(OB)焼山〜蛭ヶ岳〜大倉 
        藤原 中村(雅) 宮武 [学生]岡部(博1)    
        蛭が岳で擦れ違う計画だったが、雷雨激しく引き返す    
        丹沢山で打ち切った学生の判断は適切でした。(藤原)
        記録2「丹沢主脈縦走 内海拓人(法2年)」
        *当ホームページ『山行報告』−『国内山行報告』に掲載
●2016(H28)
2・26 「丹沢山往復」 (大倉〜大倉尾根〜塔ノ岳〜丹沢山)
       CL内海拓人 SL大矢和樹 坂本遼
       残雪の中、丹沢山を往復。軽い雪山体験もできました(藤原)
4・ 3 「懇親山行 大山」
       計画ではA班B班共に日向薬師に下る予定であったが、午後からは雨と寒気が厳しく表参道を下った
       A班 金毘羅尾根〜大山〜表参道
        佐藤久 佐藤力 岡田 吉沢 中村(雅) 山崎
        [学生]内海拓人 工藤 坂本遼
       B班 イタツミ尾根〜大山〜表参道 
        宮武 佐薙 鈴木 松尾 本間 小野 池知
       C班 下社周辺散策 上原 仲田    
       D班 小島 高崎(俊)
4・30 「丹沢山系主脈縦走」
      (大倉〜塔ノ岳〜丹沢山〜蛭ヶ岳〜姫次〜焼山〜三ヶ木)
      CL内海拓人 SL坂本遼 羽二生祥馬
      3人が登山道を23Km,一般道7Kmの主脈縦走に成功しました。
      内海さんは、ついに蛭ヶ岳頂上を踏むことができました。(藤原)
        注:内海さんの記録から:今回は30Kmを歩くハードな山行でした。
          このような山行も楽しいし、同時にトレーニングとして必要である、と感じます。
      記録3「丹沢主脈縦走 内海拓人(法3)」
      *当ホームページ『山行報告』−『国内山行報告』に掲載
12・18  「ボッカトレーニング  丹沢山 往復」
      CL大矢和樹 SL坂本遼 田中亨 吉田和磨
●2017(H29)
6・ 4 「塔ノ岳〜鍋割山」
      CL内海拓人 SL羽二生祥馬 福家一裕 阿倍瑞己 川原の乃 佐々木豪 宮川純樹
6・11 「秋山の偵察山行 檜洞丸」(??西丹沢〜檜洞丸 往復)
      CL内海拓人 SL大矢和樹 水洞章夫 羽二生祥馬 坂本遼 井山瑞貴 吉田和磨        
9・24 「1年生企画山行(第1回) 塔ノ岳・鍋割山」
      CL阿倍瑞己 SL川原の乃 宮川純樹 佐々木豪 三宅森羅
      安全なコースということで1年生だけで企画(藤原)
11・ 4 「丹沢主稜縦走」
      大倉〜大倉尾根〜塔ノ岳〜丹沢山〜蛭ヶ岳〜檜洞丸〜ツツジ新道〜西丹沢
      CL坂本遼 SL内海拓人 羽二生祥馬 吉田和磨 佐々木豪
      1年生を含む5名で丹沢主稜を完走しました(藤原)
       注:坂本さんの記録から: 
         後輩たちには、是非来年以降、日帰りのロングトレイルを他の部員にも広めてもらいたい。
         今回の山行は自分の山岳史上忘れられないものになるだろう。
      記録4「丹沢主稜縦走 坂本遼(法3)」
      *当ホームページ『一橋山岳部HP』−『活動の記録』に掲載





【2018年7月 故宮武幸久氏遭難関係資料】

■坪山遭難の顛末        中村 雅明(昭和43年卒)
   ※以下の資料名をクリックすると資料全文にジャンプします。

1.捜索活動と会員のメール

2.遭難考察(●)、今後の遭難対策(■)、慰霊(▼)

■宮武幸久君の針葉樹会活動   本間 浩(昭和40年卒)

※以下の資料名をクリックすると資料全文をダウンロードすることができます。
 宮武幸久君の針葉樹会活動  1、山行
 宮武幸久君の針葉樹会活動  2、高谷山周辺の登山道整備
 宮武幸久君の針葉樹会活動  3、マーキュリー Mt.富士登山
1.捜索活動と会員のメール
 
坪山鳥瞰図
【 2017年12月25日(月) 】
 *12:44の小島会長の宮武さん行方不明メールで捜索活動が開始された。
  小島、本間、岡田、佐藤(周)が上野原に急行。上野原警察署にて状況把握。
  小島、岡田、佐藤(周)は上野原のホテル泊。本間は帰宅。
 *小島会長のメールに対して会員から捜索関係メール()、安否を気遣うメール(●)が発信された。

■12:44  宮武さん行方不明  小島 和人(昭和40年卒)
 皆様
 S45年卒の宮武さんが23日土曜日に山に行くと出かけ帰っていません。
 上野原警察から今朝ご自宅に電話あり、宮武さんの車が坪山の登山口にあったそうです。
 佐薙さんに家族から電話あり判明しました。誰と山に行ったかも不明です。
 心配ですがとにかく本間、岡田、中村(雅)、佐藤(周)辺りで上野原駅方面に向かいます。(後略)


■13:15  Re: 宮武さん行方不明  佐藤 周一(昭和54年卒)
 小島様
 佐藤周一です。
 先ほどは、ご連絡ありがとうございます。
 坪山は三頭山南西の山のことですね。
 とりあえず、国立に置いてあるSUVに装備 を載せて山麓へ向かいます。
 何か連絡入りましたら、逐次お知らせください。

■13:26  Re: 宮武さん行方不明  兵藤 元史(昭和52年卒)
 周一さま
 私も明日以降は出動可能です。今晩電話します。

■14:12  Re: 宮武さん行方不明  小島 和人(昭和40年卒)
 周一さん(略)
 今は町田、上野原に向かってます。

■14:38  Re: 宮武さん行方不明  佐藤 周一(昭和54年卒)
 小島様
 間もなく押上の自宅を出ますが、車でなく電車で上野原駅へ直行すれば明るいうちに着けます。
 車で行った方が良ければ5時を過ぎるかと思います。どなたか車で来られる方はいらっしゃいますか?

●14:51  Re: 宮武さん行方不明  原 博貞(昭和41年卒)
 何も出来ませんので、ただ無事を祈っております。何事もなかった、という報を待っています。

■15:09  Re: 宮武さん行方不明  前神 直樹(昭和51年卒)
 小島さん
 皆様
 一連のメール見てびっくりしております。何がすぐ何が出来るわけでもありませんが、状況の進展ありましたら、
 このメールアドレスに発信いただければ幸甚です。

●15:16  Re: 宮武さん行方不明  池知 昭洋(昭和41年卒)
 メール見てます。驚いています。無事を信じています。

●16:48  Re: 宮武さん行方不明  佐薙 恭(昭和31年卒)
 (前略)無事を祈っています。

●17:35  Re: 宮武さん行方不明  竹中 彰(昭和39年卒)
 小島さん
 寝耳に水の情報です。山行中の一寸したトラブルで、どこかでビバークしていることを願っています。

■18:57  明日捜索  藤原 朋信(昭和44年卒)
 中村さん 明日私は、坪山登山口とは逆に、西側の中風呂登山口から佐野峠に登って坪山登山口に下ります。
 遅くても15時までには下に下ります。

■22:23  Re: 宮武さん行方不明  佐藤 活朗(昭和53年卒)
 明日以降、人手が必要な場合は参加できますので、その場合は私の携帯にお願いします。
 車が坪山登山口にあったとのことなので、三頭山⇔坪山の周回コースの可能性があると思います。
 いずれにしても難しいコースではありませんが・・。無事を祈ります。

【 2017年12月26日(火) 】
 *会員による朝から夕方までの捜索活動は23:57小島会長がメールで詳述報告。
 *捜索隊の兵藤、佐藤(周)がスマホで在京連絡先の前神に通報(■)。前神より会員に状況がメール(■)で伝えられた。
 ※遺体発見の報に接し、多数の会員から哀悼、お悔やみ、捜索隊への慰労のメール(■)が発信された。

■7:22  Re: 宮武さん行方不明  藤原 朋信(昭和44年卒)
 佐藤さん    44年卒藤原です。  どうも中学同級の女性2名と一緒なので、坪山往復の計画のようです。
 電話等一切ないので沢筋に迷い込んでいると思われます。

■9:02  捜索活動の件  松田 重明(昭和53年卒)
 昭53年卒の松田です。宮武さんの捜索活動に人手が必要ならば、明日27日以降はお手伝いできます
 (もっとも、救出活動の技術・体力はないと思いますが)。
 小生、携帯を持ち合わせないので、18:00までは下記のメールアドレスにご連絡ください。
 藤原さんの情報では、連れの女性が2人、いらっしゃるとのこと。生存の可能性が高まりました。
 一刻も早く救出せねばと、気持ちが焦ります。

■9:31  RE:捜索活動の件  前神 直樹(昭和51年卒)
 皆様
 宮武さんの件、続々と「坪山で男女3人行方不明」でネットに出てきますが当方まだ身動き出来ておりません。
 警察の捜索活動も始まっているとて無事に見つかると信じておりますが、少々焦ります。

■9:39  RE:捜索活動の件  田形 祐樹(平成6年卒)
 簡単ですが、このくらいの記事ですね。
 http://www.news24.jp/nnn/news88812053.html

■10:18  RE:捜索活動の件  佐藤 周一(昭和54年卒)
 最新情報(10時15分)
 西尾根と東尾根の間の沢で、男性1名?がうつ伏せ状態で発見の報あり。
 これから向かいます。

■10:20  RE:捜索活動の件  前神 直樹(昭和54年卒)
 皆様
 現在捜索活動に参加している兵藤君と連絡取りました。
 2017/12/26 1015hours
 活動に参加しているのは小島さん、佐藤(久)さん、中村(雅)さん、岡田さん、本間さん、佐藤(周)さん
  兵藤さんの7名 + 山梨県警から7名 +地元の方2名
 二つのコースから山頂まで登って捜索しているが手がかりなしの状況。
 ヘリコプターも出ています。
 心配が募りますがまた情報ありましたらご連絡します。

■10:27  RE:捜索活動の件  前神 直樹(昭和54年卒)
 皆様
 上記(10:08)佐藤(周)さんのメールが最新です。
 手がかりなしの当方のメールはその直前のものでした。
 無事の発見を祈るのみです。

■11:29  RE:捜索活動の件  佐藤 周一(昭和54年卒)
 皆様
 残念ながら、三人とも意識不明(心肺停止)で発見されました。
 場所は傾斜が急な沢筋のため、搬出等の対応は全て警察側で行うことになり(ヘリ搬出の可能性大)
 我々は登山口での待機を命じられ、下山中です。
 取り急ぎ、経過報告まで。

●11:40  RE:捜索活動の件  山本 礼二郎(昭和59年卒)
 本当に残念です。

●13:12  RE:捜索活動の件  川名 真理(昭和63年卒)
 信じられない思いでいっぱいです
 現地に赴かれたみなさま、本当にお疲れ様です
 みなさまも足もとに気を付けて、お帰りになってください■

●13:20  RE:捜索活動の件  加藤 博行(昭和51年卒)
 佐藤周一様、現地活動に参加された皆様、
 本当にご苦労様でした。何が起きたのか信じられない気持ちですが、無事お帰りください。
 新潟は冬型の吹き出しで、寒波到来、猛吹雪です。

●13:24  RE:捜索活動の件  松田 重明(昭和53年卒)
 今回の捜索隊の皆様、ご苦労様でした。残念な結果となり、しばし呆然としております。
 小生、最近は奥多摩ばかりに行っておりますので、奥多摩は案外、危険で一杯なことは実感しております。
 しかし、実際に事故・遭難が起きてみると、心にぽっかりとあいた穴は埋めようがありません。
 亡くなられた3人のご冥福をお祈りいたします

●13:38  RE:捜索隊の皆様、ご苦労様でした  齋藤 誠(昭和63年卒)
 柔和な笑顔が目に浮かびます。信じられません。

■13:50  RE:捜索隊の皆様、ご苦労様でした  前神 直樹(昭和51年卒)
 皆様
 捜索隊はすべて下山しており、後は県警からの話待ちという状況です。
 なぜこんなことに?とはおもいますが、事実は事実として受け入れねばなりません。
 警察からの話が聞ければまた報告します

●14:01  RE:捜索隊の皆様、ご苦労様でした  上原 利夫(昭和39年卒)
 小島会長、捜索隊一同様
 急な出来事に手際よく行動され御苦労様でした。
 詳しいことはいずれ判るでしょうが、残念なことでした。
 1時前のNHKTVニュースで、名は伏せて簡単に報道され駐車されていた車が写っていました。

●14:04  RE:捜索隊の皆様、ご苦労様でした  中西 茂(昭和56年卒)
 前神さん
 ご連絡有難うございます。
 先日、国立のまっちゃんで初めてお話しさせて頂いたばかりでしたのに、本当に残念です。捜索戴いた先輩方もご苦労様でした。
 尚、当方からHuhacへ発信しても、セキュリテイレベルの問題なのか、メール発信できません。
 今後の経過、段取りについても連絡戴けますと幸甚です。

■14:12  RE:捜索隊の皆様、ご苦労様でした  前神 直樹(昭和51年卒)
 中西兄
 上記了解。
 あまりの急展開にこちらも戸惑っておりますが、事実は事実です。
 今後の事等どんどんメール出ると思いますが、逐次必要なものは連絡します。

●14:27  RE:捜索隊の皆様、ご苦労様でした  原 萌子(平成29年卒)
 突然の知らせに、ただただ驚き悲しんでおります。
 本当にお優しい方で、部員に優しくしてくださって、昼にみなさまからのメールを拝見した際に涙が止まりませんでした。
 本当に悲しいです。

●15:41  RE:捜索隊の皆様、ご苦労様でした  吉川 晋平(昭和42年卒)
 学生時代に一緒に山に登った宮武くんが、このようなことになるなんて、とても残念で悲しい。
 今はただ、ご冥福をお祈りするだけです。小島さん、岡田さん、他の皆様、ご苦労様でした。
 迅速な活動に敬意を表します。宮武くんも皆様の行動に喜んでいると思います。

●15:51  宮武幸久さん  田形 祐樹(平成6年卒)
 お世話になっています、田形祐樹です。
 宮武さんは新宿での会合にも来られていましたよね?
 この写真の、どなたになりますか?

●16:04  RE:捜索活動の件  原 博貞(昭和41年卒)
 言葉も無い、ただ悲しみだけ。御家族の悲哀と衝撃は!
 小島さん以下の出動された面々、本当にご苦労様でした。
 学生さん達の衝撃も大きいだろう。起きた事は受け入れるしかない、皆で一歩一歩、対処していきましよう。

●17:53  RE:捜索活動の件  吉沢 正(昭和42年卒)
 あの優しく逞しい宮武さんが、それほど厳しくもなさそうな山で亡くなるとはとても信じられません。
 今朝までは皆さんのメールを見ながら、無事帰還して来るものと思っていたのですが、残念です。
 早々に捜索活動に参加された小島会長はじめ8名の皆様には大変にご苦労様でした。

■17:57  RE:捜索活動の件  前神 直樹(昭和51年卒)
 皆様
 1550頃の情報です。(タイムリーに報告できず失礼しました)
 宮武さんのご子息が警察に向かっておられ、一方本日ご遺体は検視予定。
 ご遺体は明日ご遺族にお返しとなるはずです。OB捜索隊はご子息と落ち合ったあと、現地で解散帰京となります。
 改めて3人の方々のご冥福をお祈りします。

●18:00  RE:捜索隊の皆様、ご苦労様でした  西山 祥紀(平成29年卒)
 お知らせいただき誠にありがとうございます。
 現役時代からとりわけお世話になっていただいたこともあり、大変悲しいです。

●18:48  RE:捜索隊の皆様、ご苦労様でした  辰川 貴大(平成29年卒)
 皆様
 あまりに突然のことに驚きと悲しみの気持ちでいっぱいです。
 部員一同大変お世話になった方なのでただただ残念でなりません。
 ご冥福をお祈りいたします。

●18:49  Re: 宮武さん行方不明  石和田 四郎(昭和31年卒)
 諸兄姉:宮武さん達の遭難、そして訃報、痛恨の極みです。
 心からご冥福を祈ります。
 遭難の一報を受けてからの会員諸兄姉の迅速な情報交換積極的な行動に心から敬意を表します。
 この経験を色々の面で今後の活動に生かして行ってください。
 有難うございました。

●18:55  RE:捜索隊の皆様、ご苦労様でした  渕沢 貴子(平成8年卒)
 皆様
 仕事に追われ合間にメールを見ることしかできませんでした。
 旭川にいて、普段遭難の取材をすることが多いため、大先輩の悲報がとてもつらいです。
 頭の中を色々なことが駆け巡ります。なぜ、何があった、と。
 ご家族のお気持ちを思うと胸が締め付けられます。
 現場に捜索に行かれた方々はなおさら心も体もお疲れでしょう。どうかご自愛下さい。

●19:52  Re: 捜索活動の件  井草 長雄(昭和48年卒)
 山仕事から帰ってきて、たった今、メールを開いてびっくりしているところです。
 宮武さんは私が山岳部に入ったときのリーダーでしたから、突然の悲報に何と言っていいか言葉が見つかりません。

●20:27  宮武さんのご冥福をお祈り申し上げます  竹中 彰(昭和39年卒)
 大変残念な結果となりました。
 本当に思いがけない出来事でしたね。
 捜索活動に参加された小島会長以下の皆さんお疲れさまでした。
 宮武さんには、学生担当幹事として、以前の公募学生富士登山から最近の現役学生さんとの各種会合やOB会の
 懇親山行など色々の場面で責任感溢れる活躍をしてもらいました。
 今月初めには彼の出身校立川高校山岳部のかなり上のOB(慶大登行会)から、最近宮武さん他の若手メンバーと
 酒を酌み交わす様になった、との話を聞いたところでした。
 今回は不幸にもパーティー全員が死亡しており、遭難原因など詳細は未だ全く分かりませんが、
 針葉樹会員としては加齢に伴う諸々の基礎体力等の低下を自覚して対象の山を選択する必要があるのでしょう。
 遭難された宮武さん以下の皆さんのご冥福をお祈り申し上げます。

●22:54  痛恨の極み  齋藤 正(昭和42年卒)
 岡田さん、捜索隊の皆さん、ご苦労様でした。
 昨日午後1時、小島さんのメールを受けた時、既に申し上げました通り、私は伊豆の実家辺におり
 直ちには身動きが取れず、貴兄や皆様、そし て何より宮武君には申し訳ない事となってしまいました。 
 はからずも上野原には親戚があり、辺りの山域には通じていましたので、少しは力になれたはずでありましたのに…。
 昨日貴兄と話した事がほぼ的中してしまったとは。
 宮武君は入部の折「齋藤さんいますか?」と高校先輩である私を訪ねてくれたのでした。今はこれ以上は辛くて言えません。   

■23:57  ご報告;宮武幸久さん遭難  小島 和人(昭和40年卒)
 針葉樹会員の皆様・一橋大学山岳部員の皆さん
 大変多くの皆様からご心配いただき、何とか無事でいて欲しいとの期待を持って本日針葉樹会員8名で
 地元上野原警察・上野原消防団・地元山作業従事者の皆様と、既報の通り捜索活動を致しましたが、
 最も恐れた結果に終わりました。真に痛恨の極みであり残念でなりません。
 上野原警察初め地元の皆さんは昨日、宮武会員ら3人が23日(土)に坪山に登ったと判明した昼前後から
 捜索活動を始めてくれていました。我々針葉樹会員は、宮武会員のご子息から佐薙先輩に
 第一報の入った昨日11時から直ちに連絡を取り合って本間・岡田・佐藤(周)・私の4名で現地に駆けつけましたが、
 既に16時過ぎでおりました。上野原署の地域課長に対応頂きましたが、「当日の捜索で一般ルート全て
 捜索したがなんら手掛りなしで、明日ルートの外に範囲を広げ捜索する。」との話で、本日7時からの捜索となったものです。

 前夜現地に留まった3名に加えて、暗い内から本間・佐藤(久)・中村(雅)兵藤会員がが駆け付け、
 少し遅れて遠路、藤原会員が到着しました。捜索活動状況は既報の通り、何組かに分かれて、
 消防ヘリも参加して当りました。
 10時過ぎに東尾根ルートと西尾根ルートの間の沢の捜索に当たった警察隊から心肺停止状態の
 男性発見との報が入り、尾根筋の捜索に当たった全員でその方向に向かう途中で女性二人も発見の
 知らせを貰いました。
 但し現場が可なり危険な場所であり、警察の検視作業などあるので我々は現場に入らないで欲しいと
 強い要請で、我々は登山口待機となりました。

 14時過ぎに宮武さん達3人は上野原消防の防災ヘリで収容され警察預かりになりました。
 報道関係がまだとどまっているとの話で、警察も詳しい説明は避けたい意向とのことで、
 上野原警察に駆け付けた宮武会員のご長男と警察に挨拶して我々は帰路につきました。
 発見当初は外傷はあまりなかったと警察の話でしたが、後ではやはり色々傷があったとの発見警官の話もありました。
 しかし宮武会員に会うことも出来ていません。沢の東尾根側での宮武会員発見位置から100m位上部に
 女性二人が横たわっていたとの話程度しか現場の状況は判っていません。

 針葉樹会の山行幹事・学生幹事として積極的に会の活動を引っ張ってくれ、登山活動も大変活発で、
 体力・技術・判断力面で優れた宮武会員にどうして魔が差したのか信じがたいものがあります。
 本日夜遅くご子息が宮武会員に対面可能との知らせも来ていますし、落ち着いた時点で、
 現場の様子・警察の見解等情報を集めて、今回の痛ましい事故の教訓を今後の活動に活かさねばならないと考えています。
 今は偏に宮武幸久会員のご冥福を皆様と共に祈りたいと思っております。

 以上ご報告まで。



  『朝日新聞』12月26日夕刊9面

【 2017年12月27日(水) 】



 『朝日新聞』12月27日朝刊29面

 ※前日に続き会員から哀悼、お悔やみ、捜索隊への慰労のメール(●)が発信された。

●0:12  Re:ご報告;宮武幸久さん遭難  金子 晴彦(昭和46年卒)
 各位
 捜索の皆様ご苦労様でした。無念です。50年前(1967)、サラグラールから戻ったばかりの、
 日に焼けた宮武さんをまばゆい思いで見つめたことを思い出します。
 このたびの事態に先立ち、わずか1月ほどの間に宮武さん同期の俵さん、そして一期下の戸川さんも先立たれるという
 思いもかけない悲しみの連鎖に呆然としています。

●7:16  Re:ご報告;宮武幸久さん遭難  西牟田 伸一(昭和47年卒)
 前略 今朝のNHKのニュースで現段階の事態概要が知れました。
 なぜ3人同時滑落という事態になったのか、疑問が晴れるのはいつになるのか等ありますが、
 まずは今回捜索に参加された会員諸兄に感謝いたします。
 金子君が言うように、俵さん、戸川さん、宮武さんと続いた諸先輩の悲報に言葉もありません。
 1967年私の入部当時、それぞれ3年、2年、3年生だった3人がこの1か月の間亡くなりました。
 今年もあと数日。ここらでこの悲報の連鎖を打ち切りにしたいと思います。  合掌

●7:26  HP更新のお願い [針葉樹会報]  中村 雅明(昭和43年卒)
 山崎さん
 昨日は宮武さんの捜索に参加しましたが、最悪の結果になってしまいました。
 1年下で学生時代3年間、最近は学生・山行幹事で活躍され一緒に行動することが多かったので残念です。ご冥福を祈ります。

●8:15  Re:ご報告;宮武幸久さん遭難  藤本 敏行(昭和51年卒)
 この二日間、全くPCを開いておらず、今朝のニュースで宮武さん訃報を知りました。
 言葉もありません、ご冥福を祈るのみです。

●8:26  Re:ご報告;宮武幸久さん遭難  糟谷 知紀(平成22年卒)
 小島会長
 針葉樹会員皆様
 一橋大学山岳部員皆様
 現地での迅速な捜索活動および待機や後方支援をされていた、皆様、本当にありがとうございます。
 大変寒い中、現地の捜索隊や警察と連携しながらの捜索で、非常にご苦労されたことと思います。
 メールで逐次状況を確認していましたが、何も力になれず、申し訳なく思っております。
 宮武さんのご無事を祈っておりましたが、このようなことになり、大変残念な気持ちでいっぱいです。
 テレビでも報道されていましたが、未だに信じられません。
 心からお悔やみ申し上げます。

●10:00  Re: HP更新のお願い [針葉樹会報]  山崎 孝寿(特別会員)
 中村さん、岡田さん
 捜索活動お疲れ様でした。
 宮武さんとは富士山登山のチラシ作成打ち合わせでお会いしたのが最初でした。
 今回の山行でも使われていたプリウスでお越しになられ私もすぐにあの宮武さんの温厚な笑顔のファンになりました。
 昨年の大山での懇親山行で初めて山でご一緒させていただきましたが今回の悲報に言葉がでません。
 奇しくもこの会報での宮武さんの天塩岳報告が絶筆とは、、、。

●10:00  Re:ご報告;宮武幸久さん遭難  小宮山 尚与志(平成26年卒)
 突然の訃報に驚きと悲しみを隠せません。宮武さんには部員が数名だった時から多大なご支援を頂き、
 特に一般学生もつれた富士山山行では先頭に立って学生を引っ張って頂いた事を覚えています。
 ご冥福をお祈り致します。

 捜索隊の皆様
 お疲れ様でございました。捜索に加われず大変恐縮ながら、迅速なご対応、誠に有難うございました。

●11:05  Re:ご報告;宮武幸久さん遭難  坂本 遼(山岳部3年:主将)
 小島様、針葉樹会員の皆様
 おはようございます。山岳部主将、坂本遼です。
 現地で捜索活動されていた皆様、大変お疲れ様でした。
 部員を代表致しまして、御礼申し上げます。ありがとうございました。
 一報が入った一昨日から無事を祈るばかりでしたが、このような結果になりましたことが残念でなりません。
 宮武さんは自分が入部当初から交流がありましたOBの1人で、山岳部と針葉樹会の間にたってご尽力くださいました。
 つい10日ほど前にも三月会でお会いしたばかりで、突然の訃報が信じられません。
 部員一同、心よりお悔やみ申し上げます。
 学生の身ではできることも少ないかと思いますが、何かございましたら自分までご連絡いただければと思います。

●14:23  Re:ご報告;宮武幸久さん遭難  内海 拓人(山岳部4年:前主将)
 針葉樹会員の皆様
 一橋山岳部前主将4年の内海拓人です。
 一昨日以降、メールを見てご無事を祈っておりましたが、最悪の結果となってしまい残念でなりません。
 そして、あまりに突然のことで、私自身もまだ気持ちの整理がつかないでいます。
 宮武さんには、私が入部するきっかけとなった富士山ツアー、今年の谷川での雪上訓練など、
 様々な面からここ数年間の部の成長をサポートしていただきました。
 部としても、私個人としても大変お世話になった先輩であり、今回このような事態となってしまったことが
 とても悔しく、悲しいばかりです。
 宮武さんのご冥福を心よりお祈りいたします。

●21:09  Re:ご報告;宮武幸久さん遭難  高橋 直道(平成28年卒)
 思いがけない訃報に、悲しみと信じられない気持ちで言葉になりません。
 私が入部当初から面倒を見て頂いた先輩のお一人です。
 先月も月見の宴でお話したばかりでした。本当に残念でなりません。
 宮武さんのご冥福を心よりお祈り致します。

【 2017年12月28日(木) 】

●0:37  Re:ご報告;宮武幸久さん遭難  松尾 寛二(昭和31年卒)
 諸兄、31年の松尾です。
 宮武君の悲報に接し、驚きと悲しみで胸が塞がりました。
 先日「針葉樹会報」140号で宮武君の「天塩岳」登山記録を読んだばかりです。
 11月の雪中伊吹山の記録もありました。小生の数少ない近年の山行には必ず宮武君の逞しい笑顔がありました。
 山岳部・針葉樹会を通じての活動と奉仕に感謝と敬意を表し、謹んでご冥福をお祈り致します。
 尚、今回捜索に尽力された諸兄に心から御礼を申し上げます。

●9:55  Re:ご報告;宮武幸久さん遭難  鈴木 克夫(昭和31年卒)
 昭和31年卒の鈴木克夫です。この度の宮武さんの事故には大変心を痛めております。
 宮武さんとご同行のお二人のご冥福を祈っています。
 名だけの会員で宮武さんにお会いした機会も僅かでしたが、気配りの行き届いた温和な人柄は
 心に残っております。現役会員の指導の面でも活躍されており、洵に残念の極みです。
 加齢と共に身体能力は当然低下をしますが、それが劇的に低下することが時々あるようです。
 その時の意識と現実のギャップが、往々にして危険を招くことが多いようです。
 超高齢会員として自戒を込めてご留意をお願いします。
 今回の事態に際し敏速に対応いただいたOB各位に改めて感謝申し上げます。

2.遭難考察(●)、今後の遭難対策(■)、慰霊(▼)

【 2017年12月27日(水) 】

●12:47  Re:ご報告;宮武幸久さん遭難  竹中 彰(昭和39年卒)
 小島さん
 2日間に亘る捜索活動ご苦労様でした。
 本当に残念な結果で言葉がありません。
 宮武さんとは年明け最初の丹沢に本間さんの企画でご一緒する予定でもあっただけに、本当に信じられない出来事です。
 坪山には小生も足を向けたことがなく、詳しくは知りませんがJACの東京多摩支部平日山行(2016.4.21.)の報告を見ると、
 16名の会員で西尾根から登り、学校前バス停に下る東へ延びる尾根を下降路にとり、ヒカゲツツジ、イワカガミ、
 ミツバツツジ等の花に囲まれ楽しく登っています。

 この様な悲劇が生じることは予想できない記録でした(www.jac-tama.or.jpの行事報告(平日山行)にあります)。
 年末押し詰まっての思いがけない事故でご遺族のお悲しみは如何ばかりかと、お慰めする言葉もありませんが、
 同時に亡くなったパーティーの皆さんのご冥福を心からお祈りするばかりです。

■13:43  Re:ご報告;宮武幸久さん遭難  兵藤 元史(昭和52年卒)
 針葉樹会員各位
 CC:学生さん
 まずもって、宮武さんや同行の方のご冥福をお祈りいたします。
 小島会長からのメールに記載された経緯を経て、本当に残念な結果となっていました。
 今後、事故の原因の推定は、小島会長が記されているように真摯に行いに今後に活かさなければいけないと思います。
 県警からの情報や、多分宮武さんが残しているであろう記録が待たれます。

 今回残念な結果になった要因で(事故の直接的な原因はともかく)一つ強く指摘したいと考える点は「初動の遅れ」です。
 23日(土)が山行当日で、25日(月)朝に地元住民からの「県外の車が駐車場にある」との警察への通報から
 事態が動き始めていきます。
 23日の夜、あるいは遅くとも24日の朝に初動が始まっていれば、違った結果になった可能性は否定できません。
 特に24日の夜間は結構雨が降ったようですし。
 針葉樹会として、以下の点を何とかルール化出来たら、初動の遅れは今後回避できるのではないかと思います。
 是非、皆さんでご検討頂ければと思います。(帰路の車の中でも本件少し頭出ししました。)

 A) Bestな方法
   ・ 山行計画書(含む在京連絡先)を家族に残す、下山後は在京連絡先に連絡。
     この方式は学生諸君にはそうするように指導しています。
     OBだってこれに準ずるべきです。
     ちなみに、私は学生時代は必ず(山に行くための親からの条件でした)、
     今も(針葉樹会の多数が参加する懇親山行は除いて)基本はそのようにしています。
 B) 簡易な方法
   ・ HUHACのMLを利用し、行先(登山口、下山口)、同行者、下山日などをメールで流し、下山通知も流す。
   ・ メール環境が無い方は、同様な情報を会の誰かに伝えて置いて、下山後電話する。
 C) 最低限
   ・ 行先(登山口、下山口)、同行者、下山日 及び 緊急時に連絡するOB会員の名前と電話番号を
     書いたもの家族に残す。

  以上です。
  様々なご事情、色々なご意見、コメントがあろうかと思います。
  新年会、三月会や総会の場で議論が進むことを希望します。
  (追加メール13:51)
  9月飯豊山に行った際の山行計画書によれば、宮武さんはjROなどの保険には加入されていないようです。
  計画書を作る段階で参加者に問い合わせをしておりますので、間違い無いかと思います。

■●15:06  Re:ご報告;宮武幸久さん遭難  小島 和人(昭和40年卒)
 兵藤さん(13:43兵藤メールへの返信)
 ご提案の趣旨賛成です。是非具体化しましょう。
 所で、竹中相談役から坪山を紹介して頂いていますが、昨日東尾根西尾根を歩かれた貴兄から冬の、
 現在の状態を会員の皆様に紹介いただけませんか?

■16:32  Re:ご報告;宮武幸久さん遭難  竹中 彰(昭和39年卒)
 各位(13:43兵藤メールへの返信)
 兵頭さんから提案がありますが、山行計画書を然るべきところ(警察、留守宅、留守連絡先等)に出ていなければ
 初動の遅れは否めません。
 小生が一度使ったのは、コンパスですが、一定時間経過後にも下山メールが入らない場合には留守連絡先等に
 連絡が入る仕組みになっています。
 また、地元警察(県警等)への登山届も兼ねることが出来るようです。
 最近日本山岳会では、この1年間で広島支部関係者が2件の遭難事故(富士山、幌尻岳、何れも個人山行)で
 計5名の会員が死亡していることに鑑み、この12月からは個人山行を含む全ての会員の山行計画書を提出が義務化されました。
 以上参考まで。

■16:40  登山届け、下山届けの簡易報告版試作  山崎 孝寿(特別会員)
 兵頭さん、小島さん、みなさん
 HPのトップページから簡易登山届けと下山届けを入力(パソコンはもちろんスマートフォンにも対応した
 レスポンシブルウェブにしてあります)できるようにテスト設置してみました。
 登山届け、下山届けをいれると山行幹事のメルアドにそれぞれ転送されるようにしてあります。
 グループメールですと全員にメールが配信されるため特定の担当者(便宜的に山行幹事にしてみました)のみに
 配信されるようにしています。
 今回はテスト版ということで兵頭さん、小島さん、中村(雅)さんにとりあえず転送される設定にしています。(後略)
 (編集子より)
  この『登山届』『下山届』は関係者[中村(雅)、兵頭、佐藤(周)]の試用を経て
  2018年2月2日に正式版として一般公開し、実使用を開始した。

●16:47  Re:ご報告;宮武幸久さん遭難  兵藤 元史(昭和52年卒)
 小島さま(15:06小島メールへの返信)
 承知致しました。
 行く前は何の知識もなく、1100mの山で、ほんのハイキングコースかと思っていました。
 地元の坪山の案内図(どなたかが入手されました)には、西尾根は花を見るのに良いルート、
 東尾根は岩があるので上級者向きとの記載がありました。
 また両コースとも、古くからの登山道ではなく、平成X年(印刷の具合で読めませんでした)に地元の方が
 山仕事道を整備したとのことでした。

 私と(周一さん、救助隊2人)で東尾根を登りました。ルートの状況は、元々しっかりした道ではないうえに、
 落ち葉が大量にあって、あまり判然としませんでした。
 しかし、救助隊の方は前日も東尾根を捜索して下さった方でしたので、ルートを探すことはありませんでした。
 途中間違えそうな支尾根を下ってみましたが、そことルートとの見た目の違いは余りありませんでした。
 枯葉の下は霜で凍った土で、気温が上がるにつれ融けて滑りやすい状況でした。道の状態は東尾根も、
 下りに通った西尾根も違いが無く、とても歩き辛い状態でした。捜索に加わって下さった地元の方(地下足袋でした。
 下りが一緒でした。)も滑って歩きづらいとこぼしていました。
 傾斜的には東尾根も西尾根も結構な傾斜で、かつ上部はやせていて、あちこちにトラロープが張ってありました。
 西尾根の方がロープ箇所が多かったです。東尾根には何か所か岩っぽいところが出てきますが、
 岩稜と言えるようなものではありませんでした。

 以上ルートの印象は、とてもハイキングコースとは言えないという感じでした。
 尚、ヘリによる収容が終わるのを登山口で待っていたのですが、13時すぎに陽が当たらなくなると、急に寒くなりました。
 ツエルトやガス無しでのビバークはとてもつらいものだったろうと想像されました。

●17:08  Re:ご報告;宮武幸久さん遭難  佐藤 周一(昭和54年卒)
 兵藤さん 皆様
 昨日はお疲れ様でした、佐藤(周)です。
 兵藤さんのコメントに追加することは特にありませんが、パンフレット等に記載されている『西尾根』と『東尾根』との
 難易度差は、さほど無いなとは感じました。
 通過する人数の差が、後者ルートの踏み跡を部分的に不鮮明にしている程度であり、少ない道標を見落としたりしなければ、
 道迷いの可能性も低いと感じます。
 気になるのは、三人の遺体発見場所が東尾根に近い方の沢上部との警察側の発表内容で、
 それが本当なら三人はどのような背景で、そこまで至ったのか…です。
 いずれにしろ、遭難原因については上野原署から後日、 説明があるのですよね。
 ネットでは不自然な遺体状況から『事件性』も取り沙汰されてますが、早く払拭していただきたいものです。
 東尾根登高中の写メもありますが、添付して送ろうとするとダメみたいです。

▼19:17  Re:ご報告;宮武幸久さん遭難  藤原 朋信(昭和44年卒)
 小島会長 皆様   宮武奥様及び息子さんから聞いた続報です。
  1. まだ遺体は返してくれない、明日になるか明後日になるか警察は明言しないので不明。
  2.従い、遺体状況、および遭難状況は未だに不明。
  3.遺体が帰ってきたら、身内だけで密葬にする。
  4.49日前後の2月に偲ぶ会をやるので針葉樹会の皆さんには参列して頂きたい。

【 2017年12月28日(木) 】

▼20:35  Re:ご報告;宮武幸久さん遭難  藤原 朋信(昭和44年卒)
 小島会長   皆様   宮武息子さんより聴取した内容です
  1.本日、警察より事件性はないので引き取りOKの連絡があった。
  2.火葬場が空いていないので、来月3日に迎えに行き、4日に通夜の予定。
  3.遭難経緯等詳細は3日に引き取りに行った時に聞くつもり。以上が聴取内容
小島会長   
  警察も、今なら充分な説明をしてくれると思われますので当方から直接聞いたほうがよさそうです。
  警察に出向く際に、足を延ばして、現場に花束を捧げ、焼香もしたいのです
   が如何でしょうか? それと現場写真も撮りたいですね。 

▼20:50  Re:ご報告;宮武幸久さん 遭難  兵藤 元史(昭和52年卒)
 藤原さま
  CC:小島さま
 ご連絡ありがとうございました。
 日程が会えば、私も現場に行ってみたいと思います。引き続き情報をお知らせください。
 前にも記しましたが、宮武さんの記録が出てくれば、ある程度状況が判明するのではと考えています。
 ザックなどはもうご家族に戻ったのでしょうか?

▼21:13  Re:ご報告;宮武幸久さん遭難  藤原 朋信(昭和44年卒)
 兵頭さん   同行可能ならよろしくお願いします。
 ザックも 3日引き取りです。私の知る限り、彼は記録を付けないタイプなのであまり期待しないほうがよさそうですが?

【 2017年12月29日(金) 】

■▼0:07  ご報告と今後の対応;宮武幸久さん遭難とその後  小島 和人(昭和40年卒)
 針葉樹会の皆様・一橋大学山岳部員の皆様
1.本日私も宮武さんのご長男と話しました。
  @藤原さんからのご報告の通り、本日上野原警察より連絡があり、すべての検査が終了し、
   事件性はないので宮武幸久さんはご家族の元に帰れることになりました。
  A年末年始のこの時期は葬祭関係の施設の利用が難しく、来年4日に通夜5日に葬儀が執り行われるとのことですが、
   家族葬として静かに執り行いたいのでご理解いただきたいと強く希望されています。
   友人とのお別れ会は別途用意されると言っておられます。
2.今後の対応
  (1)宮武家への対応 
     藤原会員を窓口にして進めたいと思います。
     4日・5日は家族葬をご希望であり、ご家族の悲しみを考え静かに見守りたいと思います。
     弔問などは控えますが、会員の皆様・現役部員の弔意を考え針葉樹会から生花をお届けしたいと思います。
     藤原さん、佐藤(久)さん岡田さんとご相談の上、ご家族にお話しお届けください。
  (2)上野原警察対応
     小島が上野原警察小宮山課長と以下を相談したいと面会を求めます。
     @警察・消防・山仕事関係者への御礼の方法
     A宮武さんと2名の女性の遭難現場の様子を捜索隊責任者の秋山警部からお聞きしたい。
      現場の状況を把握して、今後の教訓に役立てたいし、出来れば現場に針葉樹会員が花を届けたい希望も話します。
      上野原を訪問する際は佐藤(久)さん、藤原さん、兵藤さん等に同行をお願いすると思います。
  (3)学生部員との会話
   宮武さんは現役部員の面倒を直接見ていてくれた一人ですので、学生部員のショックも大きなものがあります。
     前神さん兵藤さん佐藤(周)さん等で早めに会って話してみていただけませんか?
  (4)この遭難から学ぶ今後の活動に活かす教訓
     既に兵藤さんからの提案に山崎さん・佐藤(周)さんが応じて計画書提出の具体案が話されています。
     前神さんにこの計画書提出義務化も含めて、兵藤さん・山崎さん・周さん等と相談し
     他にもやるべきことないか検討の上、提案をお願いします。出来るものは試行的にでもすぐ実施しましょう。
  (5)今後の山行計画について
     悪いことは続くと言われます。
     鈴木先輩・竹中相談役からの話にもある様に、加齢に伴う体力・筋力の劣化の問題もあります。
     今後の行計画については慎重の上にも慎重に準備の上実施して頂くようお願いします。
     学生部員は今まで通り前神・佐藤(周)さんと良く相談して実施下さい。

  以上ご報告と当面必要になる事項について担当頂きたい方を述べさせて頂きました。
  ご意見ご要望などありましたらお寄せください。


■5:40  Re:ご報告と今後の対応;宮武幸久さん遭難とその後  佐藤 周一(昭和54年卒)
 小島会長 皆様
  お世話になります、佐藤(周)です。詳細なご連絡に感謝します。
  今後の対応に関して、いくつかコメントいたします。
 (2)警察対応
  遭難原因に関する警察見解を詳しく聞きたく、私も都合が付く限り、同行を希望します。
  ただ現場への献花については、足元が悪い点も考慮し、余り無理はされない方が良いかと思います。
  個人的にも遭難現場の確認はしたいと思いますが、二次災害の防止措置など万全の態勢で臨む必要があります。
 (3)学生部員との会話
  坂本主将とやり取り していますが、濃密な関係であっただけに学生側のショックは大きいものがあります。
  年明けの「お別れ会」に参列は予定してもらっていますが、期末試験終了後の17日(水)の部会に
  座学講師として出掛けますので、その席上で今回の経緯報告をするつもりです。
 (4)今後の活動に活かす教訓
  遭難原因が明らかにされる過程で学ぶことも出てきますが、少なくとも現時点で「計画書未提出」や
  「保険未加入」等の問題点が指摘されます。
  計画書に関しては針葉樹会HPに試行版が早速UPされ、私もテスト参加していますが、その他の論点についても
  経緯を検証する過程で十分に吟味する必要 があります。
  前項の学生への講義時点には間に合いそうもありませんが・・・。
   
  また、会員が山岳遭難した場合の、針葉樹会としての対処方法に関しても、この機会にじっくり議論すべきと感じます。
  26日下山後に藤原さんから「厳しい山に行って万一行方不明になっても捜すなよ」とのお話がありました。
  その場では半分冗談のような受け止めだったと思いますが、真剣に考えるべき指摘と感じます。
  今回は首都圏近郊の低山ということで、多くの会員が現地に集まり捜索活動に従事しましたが、海外はもちろん、
  国内の山岳でもそう簡単に出動できるとは限りません。
  坪山も標高の割には手強い山という印象を受けました。たとえヒカゲツツジが綺麗な時期でも、私はガイドとしては
  初心者を連れて行く山ではないと感じます。
  山梨TVで流された画像を見てガイド仲間が「針葉樹会は年寄りばかりじゃないか」と揶揄してきました。
  確かに被災者よりも年長者が捜索に当るのは一般的には二次災害のリスクが指摘されても仕方ないと思います。
  今後の捜索対応方法について、何らかのルール化が必要と思われます。(費用負担など実務的なことも含めて)
  取り急ぎ、以上といたします。

【 2017年12月30日(土) 】

▼●14:33  ご報告と今後の対応(その2);宮武幸久さん遭難とその後  藤原 朋信(昭和44年卒)
  小島会長   皆様  
  本日 ご長男が警察から死体検案書を受け取って来られました。
  死亡日時は23日ごろ直接死因は頭蓋内損傷死因の原因は頭部打撲です。以上が死体検案書の内容です。
  ご遺体の引き取りは3日で変わりません。
  この内容だと、滑落死かと思われ、即死に近かったと思われます。
  滑落の原因、女性達との関連性はわかりませんが、女性たちも電話で救助を頼まなかった事を考えれば、
  かなりダメージを受けていたと思われます。今後警察に確認することになります。

●17:31  ご報告と今後の対応(その2);宮武幸久さん遭難とその後   佐藤 周一(昭和54年卒)
  藤原様 皆様
  お世話になります、佐藤(周)です。
  詳細な情報をありがとうございます。
  やはり落ち葉等で滑落し頭部を強打したのでしょうか・・・。
  それにしても、女性二人も同時に滑落とは考えにくく、何らかの経緯が生じていたのでしょうね。
  倒れていた場所が東尾根に近い沢筋と警察から伺ってますが東尾根を下降路に選択するのは、
  両尾根を歩いてみて不可解と感じます。
  山頂では二つのルートは明瞭に分かれているので迷い込む可能性は低いですよね。
  西尾根自体も決して易しくはないものの、登路として 選んでいたら往路を戻るのがリスクは少ないですよね。
  女性二人が中級者以上であれば、往路とは違うルートを試そうとした可能性もありますが・・・。
  捜索当日、東尾根を登りながら右側の谷にも何度もコールをしましたが、滑落の痕跡は見当たらず
  谷筋にも何も見えなかったです。倒れていた地点は相当に下の方だったのでしょうか。
  現地を確認したい気持ちが強まります。
  明日から雲取山の越年ツアーに行ってきます。

●17:57  ご報告と今後の対応(その2);宮武幸久さん遭難とその後  藤原 朋信(昭和44年卒)
  佐藤周一さん
  登山口で話した、警察官の話が正しければ、現場は登山口から10分程度の相当下になると思います。

●21:00  ご報告と今後の対応(その2);宮武幸久さん遭難とその後  藤原 朋信(昭和44年卒)
  小島会長 佐藤久さん 岡田さん 中村雅さん 金子さん
  先ほど奥様より電話があり、高校山岳部の仲間たちが、どうしても宮武に別れをしたいというので、
  4日の午後14時から17時の間ならということで受け入れられるそうです。
  ついては針葉樹関係でも、遺体があるうちにお別れ希望の方があれば、どうぞお越しくださいとの話です。
  私は弔問しますが、他に希望される方があれば連絡ください。場所は自宅で東武鎌ケ谷駅下車、徒歩20分です。
  行かれる方あればJR船橋駅で待ち合わせになると思います。

【 2017年12月31日(日) 】

●0:34  ご報告と今後の対応;宮武幸久さん遭難とその後(その2)  小島 和人(昭和40年卒)
  針葉樹会の皆様・一橋大学山岳部員の皆様
  昨日、29日に上野原警察と連絡をとりました。残念ながら我々と対応して来て頂いた小宮山課長は
  休暇に入っており新年4日が出勤日となります。それで捜索隊長の秋山警部に連絡したい旨お願いしておいたところ
  後程電話を貰いました。

  @現場は西尾根の登山口から15分ぐらいの所から左側の谷に入り、15分位谷を登り、
   二股になっている左側、東尾根側、に少し入った所
  A宮武さんを発見してから上部100m位のところに女性二人を発見したとの当時の情報であったが、
   実際は50mと離れていなかったとのこと。

  位の情報しかもらえませんでした。後は「小宮山課長が出て来られてから課長とお話し下さい。
  詳細情報は家族にしか話せない。」との事で、仕方なく引き下がりました。
  他の署も同じかもしれませんが、上野原署は初めから上司の許可なく一切の情報提供はしない方針が徹底しています。
  年内にも行ってみたいと思っていましたが、4日に小宮山課長にコンタクトしてアポを取りたいと思っています。
  その際は宮武さんのご長男とご一緒することが必要かと思っています。
  従い暫くはご報告できることも少ないと思われます。
  明日は大晦日です。Huhac経由のご報告、メールのやり取りは控えたいと思います。
  会員の皆様にも、必要なメールは関係する個人間でのメールでお願いします。
  宮武さんの遭難は信じられない悲しい悔しい、しかし厳しい現実です。
  「山が大好きで、針葉樹会を愛し、一橋大学山岳部を愛した宮武さんが私たちに、
  学生部員に何を期待しているか?」宮武さんのご冥福を祈りながら、姿勢を正し静かに考えてみたいと思っています。
  会員・現役部員の皆様それぞれのご努力で良い新年を迎えられますよう期待いたしております。


【 2018年1月3日(水) 】

●17:51  宮武遭難状況  藤原 朋信(昭和44年卒)
 小島会長  皆様
 本日 宮武さんの御遺体が引き取られましたが、その際ご長男の信さんが上野原警察署のシバタさんから聞いた内容です。
 
 1.坪山東尾根西斜面の事故現場の位置を提示。
   登山道から外れている。どのような経緯で登山道から外れたかは不明。
 2.現場の谷間の写真を提示。
   遺体は3人とも谷間に横たわる。女性二人が近い位置。
   父(宮武さん)は50-100m離れた北側 (下り側)に横たわる。
   おそらく3人とも滑落による。
 3.谷間の現場を上からと下から撮影した写真を提示。
   信さんの印象では、緩やかな斜面ではないが、断崖絶壁でもない。
  
  以上が聴取内容です、小島会長が上野原警察署から聞かれた内容と合わせれば、遭難現場は特定できると思います。
  なぜ登山道から外れたか?
  3人が滑落した状況は?  この2点は目撃者がいないので解明は難しいと思われます。

【 2018年1月4日(木) 】 弔問 宮武家
    参列者 小島、佐藤(久) 岡田 中村(雅) 藤原 金子

【 2018年1月17日(水) 】

●9:53  上野原警察御礼と宮武幸久さん遭難現場確認  小島 和人(昭和40年卒)
  針葉樹会の皆様・一橋大学山岳部員の皆様
  一昨日1月15日(月)に針葉樹会員有志(佐藤(久)、中村(雅)藤原、兵藤、佐藤(周))と共に上野原を訪問し
  警察への御礼と情報入手を済ませ、宮武さんの遭難現場を訪れ慰霊してまいりましたのでご報告致します。

 1.上野原警察
   小宮山地域課長と秋山係長(捜索隊長)とに対応頂きました。
   司法の壁があって、お話しはかなり限られていましたが以下確認できたと理解しています。
  @3人共23日中に亡くなっている。
  A女性二人は頭部打撲による即死、宮武さんはそれから短時間生きておられて女性の近くにリックと靴が残り、
    約60m下ったところで力尽きた模様。下ったのは救助を求めての行動と推測。
    宮武さんも頭部打撲が致命傷。どのような滑落であったかは皆さんが亡くなられており不明。
  B宮武さんの横たわった位置は緯度・経度とも正確に知ることが出来ました。

 2.現場確認
   坪山の西尾根登山ルートの登山口から約10分登り左の谷に分け入り約15分で沢が二股になり、
   その左側の沢を約15分登ったところが現場です。
   中村(雅)さん撮影の添付写真の一番目が左側の沢に入って登っている所です。
   沢は大きな滝などない小さな沢ですが、石がごろごろで、大きな岩は氷が張りつき、
   その上に落葉が深く積もっていて大変歩きにくい状態でした。
 
   この沢の両側はかなり急峻で岩がいくつも出た状態で、両側共に東尾根登山ルートにつながっています。
   3人は下山中に落葉で消えた登山道からはずれ、谷に落ちたものと推測されますが、
   どのような落ち方かは知る由もありません。
    宮武さんの横たわっていた場所に花・線香・ビールを供え、山讃賦を捧て慰霊致しました。

   以上簡単ですがご報告とします。詳細は1月24日の新年会でご報告いたします。
   (写真2枚とも中村(雅)さん撮影)
   尚、宮武さんのお別れ会は2月10日です。


坪山コース図

▼画像クリックで大きく表示されます
 1月17日 11:19
登山口からの登り始め
(前から佐藤(久)、小島、藤原(花束2))
 1月17日 11:21
西ルート、東ルート分岐)
(西ルートへ、藤原)
1月17日 11:25
木の橋を渡る
 (前から佐藤(久)、小島、藤原)
1月17日 11:32
指導標の少し先で沢に降りる
(前から佐藤(久)、小島)
1月17日 11:32
沢に降り始め
(前から兵藤、佐藤(周)、佐藤(久)、
小島、藤原)
1月17日 11:39
沢を登る
(前から兵藤、佐藤(久)、小島、藤原)
1月17日 11:43
さらに沢を登る
(前から兵藤、佐藤(周)、佐藤(久)、
小島、藤原)
1月17日 11:51
沢の上部を詰める(添付1)
(前から兵藤、佐藤(久)、小島)
1月17日 11:59
現場位置を確認する兵藤
(前から佐藤(久)、兵頭、
小島、佐藤(周))
1月17日 12:08
女性2名の終焉現場に花束を供える
 1月17日 12:14
宮武氏終焉現場にて(添付2)
(左から佐藤(周)、佐藤(久)、兵頭
小島、藤原)
1月17日 12:20  (撮影:佐藤(周))
山讃賦を歌って慰霊
(左から中村、佐藤(久)、小島
兵藤、藤原)

【 2018年1月19日(金) 】

●11:32  宮武さんのこと  本間 浩(昭和40年卒)
 小島さん 佐藤久さん 中村さん 藤原さん 兵藤さん 佐藤周さん
 先日の遭難現場訪問ご苦労様でした。足元が悪く難儀されたご様子お疲れ様でした。
 今回の事故は何故?が多くしかも生存者がいないため判らないことだらけです。
 判らないことは判らないとして時の経過を待つのも一つの手ですが、心の据わりが悪くモヤモヤした物が残るのも事実です。
 小生、気持の整理の為次のように考えてみましたが、小島さんの報告(1/17)と1/25000の地図(猪丸・七保)からの
 推測ですので(中村さんの写真は取り出し不可でした)現場を知る皆さんの考えもお聞きしたいわけです。

 *東尾根を下山中、730m地点で左の支尾根に入り込みそのまま進んでいる時、最後尾の人が前の二人を巻き込んで、
  支尾根の右側(東)に転落した のではないか?

  1、坪山は険しい山だが、地元が花で集客を図るべく登山道にはロープを張り巡らし・道標を設けてそれなりの対策を
    講じている。小生が歩いた西尾根からみて東尾根も同様と考え、登山道での事故よりは道を間違えた結果ではないかと。
  2、三人頭部打撲で即死(宮武さんもそれに近い状態のよう)したようですが、一緒に転落するのは下山時の
    巻き込みしか考えられません。登りと異なり、下山時は姿勢が高く不安定です。
  3、730m地点で下山時は左側(西)に小さな尾根が派生しています。
    下る時登山道は、尾根の左側をそのまま左の支尾根に入り少し下り、その後山腹を右に巻いて本来の尾根稜線に
    戻るようになっています。ここでそのまま支尾根進んだのでは?
    地図上、坪山の尾根は概して東側(下る時は右側)の方が切れています。

 *尚小生、花の時期(4〜6月)に、現場と東尾根中腹辺りまで、酒とたばこと花を持って訪れるつもりです。

●12:32  Re:宮武さんのこと  藤原 朋信(昭和44年卒)
  本間大兄 もやもやした気持が拭えないのは現場を見ても変わりません。
  三人が全員頭部損傷で致命傷を受けるような傾斜でもないので、最悪の場所で滑ったのでしょうね、
  谷間から7ー8メーター灌木が無くて、岩が出っ張った場所がありましたが、そこで大きくバウンドして谷間の岩床に
  頭を打ち付けたとしか考えられません。全ては推測です。

●16:25  Re:宮武さんのこと  小島 和人(昭和40年卒)
  本間さん
  気持ちも推測も同じくしています。
  ツツジのさくころ行きましょう!

●18:23  Re:宮武さんのこと  中村 雅明(昭和43年卒)
  本間さん
  現場に行きましたが、なぜ登山道を外れたのか、何が起こったのか、あの宮武さんが亡くなる山ではない・・・
  もどかしい気持ちです。
  小生は捜索日の26日は小島さんと一緒に西尾根を登り頂上で3人の遺体発見の報を受けて登ってきた
  西尾根を下りました。兵藤さん、佐藤(周)さんが東尾根を頂上まで登って西尾根を下りました。
  従って、東尾根の様子が判りませんが、ご推察の通り支尾根に進んで登山道に戻らず、滑落したのでしょうね。
  おそらく前に女性が二人、宮武さんが最後に下ったのではないでしょうか。
  2番目の女性が滑落し1番目の女性を巻き込んで一緒に下まで滑落、それを見ていた宮武さんがパニック(動顛)状態で
  下り彼も滑落したのでは?
  宮武さんは即死でなく、朦朧状態(なぜか靴を脱いでいる)で助けも求めるため50mくらい下ったところで
  意識不明になったのでは。全て推測ですが。

【 2018年1月20日(土) 】

●15:24  Re:宮武さんのこと  本間 浩(昭和40年卒)
  皆さま  色々とお聞かせ頂き、有難うございました。
  話してスッキリした、とはよく聞きますが、小生も偏見に満ちた独断でしたが、これでこの件には区切りをつける事が出来ました。
  重ねて有難うございました。
  今は宮武さんの「宮武幸久君 山行及び針葉樹会活動記録」に取り組んでいます。
  項目は、@山行   A芦安登山道整備   Bマーキュリー Mt.富士登山
  資料は、@懇親山行記録  A一橋山岳会山行記録(FN短大関係) B会報  C三月会 
  記録資料に漏れは付き物ですが、特に小生の最近のものはジャジャ漏れ状態です。
  24日の新年会に(粗)をお持ちしますので、ご意見お聞かせ下さい。

【 2018年2月10日(土) 】 お別れの会開催
   当ホームページ『トピックス』
     「2018年2月10日 故宮武幸久会員のお別れの会が執り行われました。」参照

【 2018年4月13日(金) 】

▼●9:53  Re:三月会は16日です。  佐藤 周一(昭和54年卒)
  岡田様 皆様
  (前略)昨日三カ月振りに坪山へ行ってきました。
  この時期に見頃を迎えるヒカゲツツジが早めに満開とのことで急ぎ観に行ったもの。
  平日にも係わらず、50人以上の登山者で賑わっていました。
  山頂で隣り合った高齢女性と何気なく暮れの遭難を話題にすると、「(犠牲者の)女性一人は知人です」とのこと。
  やはりツツジを愛でながら鎮魂行に来られていました。
  西尾根から上がり、東尾根を下りましたが下降途中に支尾根の分岐点を注意して見ても迷い込んだ形跡は分からず、
  足跡は辿れませんでした。現場にも行きタバコを添え
  冥福を祈りました。

【 2018年5月6日(日) 】

●16:56  宮武さん坪山東尾根支尾根迷い込み地点特定しました  中村 雅明(昭和43年卒)
  各位
  昨日、藤原さんと2人で坪山東尾根を登り、昨年末に宮武さんが東尾根を下山途中に支尾根に迷い込んだ地点を探索しました。
  特定地点を写真2(上から下)で示します。八ツ田登山口から約1時間登った天狗岩の少し手前です。
  右側が登山道です。左側が支尾根分岐入口です。
  右側の登山道を写真3で拡大します。丸木が道に斜めに倒れています。
  下ってきた宮武さんは侵入禁止の丸太と思ったのでしょう。左手の支尾根入口を写真1で拡大します。
  運悪く下山道と思わせる木が斜め下に倒れています。この木に惑わされて支尾根に迷い込んだと推測します。
  下り始めの傾斜はきつくなく、かすかな踏跡がありました。

  12月末だったので木の葉も落ちて下まで見通せたと思います。
  なお、この地点以外では尾根の登り右手斜面は急で間違っても下ることはありません。
  この地点で支尾根が分岐するのでここが運命の別れ道であることを確信しました。
  支尾根に迷い込んだ後、遭難までを藤原さんが考察していますので以下に添付します。
  なお、坪山から東尾根の降り口に「東ルート通行危険」の新しい看板が設置されていました。
  (藤原&中村は坪山から大寺山〜北峰まで縦走し、鋸尾根を杉平に下山しました)

  *****************************************
  中村さん    遭難の簡単な考察ですが参考までに。

  考察:標高800−900m地点で下り方向左側に迷い込んだ3人は、真北方向に、木につかまりながら
      1時間前後400−500m、下ったと思われます。
      最後は、冬場で、視界が良く効くので、左側の白く輝く沢に引き寄せられ、木のない岩場の上に出て、
      そこで最後尾の人が足を滑らせ、3人全員が沢床の岩に打ちつけられたと推測されます。
       (積み重なった落ち葉が、落下スピードをはやめたかもしれません)
      結果論ですが、どこでも歩ける地勢なので、沢に誘惑されずに、そのまま真北に進めば、やがて東ル−トに
      合流して無事帰還できたはずですが、不幸にして最悪地点に 下りてしまったのでしょう。
      でも沢に下りれば、滝も見えないので、踏み跡があって、容易に下れると考えるのが普通で、
      私も同様状況なら沢を目指したと思います。
      道を間違えた時点で、引き返すのが正しい判断ですが、かなり下って気づけば、引き返すエネルギーは
      残ってないでしょうね。
      遭難は、不幸な状況が重なって起こったもので、運命としか言いようがありません。
       (藤原)

5月6日 10:39
写真1:天狗岩手前の分岐
(支尾根への入り口)
5月6日 10:40
写真2:天狗岩手前の分岐
(右側が登山道、左側が支尾根)
5月6日 10:39
写真3:天狗岩手前の分岐
 (登山道の拡大写真)
 5月6日 10:39
支尾根に入った付近
 5月:6日 12:54
坪山頂上から東ルートの降口の看板


●17:29  Re:宮武さん坪山東尾根支尾根迷い込み地点特定しました  松尾 信孝(昭和48年卒)
 中村さん
 藤原さん
 ご苦労様でした。途中まで降りて間違った事に気づいてからの判断と勇気は、いつの時代でも重要だと改めて思いました。
 50年前の5月1日の天狗尾根を思いおこします。

【 2018年5月7日(月) 】

●7:40  Re:宮武さん坪山東尾根支尾根迷い込み地点特定しました  佐藤 周一(昭和54年卒)
 中村様
 お世話になります、佐藤周一です。
 現地迷い込み地点の特定、お疲れ様でした。
 私も先月12日に東尾根を下降した際、迷い込むとしたら、この分岐くらい・・と感じましたが、踏跡は確認できませんでした。
 ところで、今後の再発防止策など、現地自治体等とコラボして針葉樹会として行なうべきことは無いのでしょうか。
 芦安登山道整備も重要ですが、こちらも会として何かしておくべきではないでしょうか。僭越ながら感じる次第です。






■針葉樹会・一橋山岳部 共同山行 

※以下の資料名をクリックすると資料全文にジャンプします。

1.「針葉樹会・一橋山岳部 共同山行」 はじめに

   T、部員ゼロ・山岳部消滅の危機をヒシヒシと感じていた時代
   U、部員の育成・教育と体力・脚力強化の時代
   V、一橋山岳部の再生

2.「針葉樹会・一橋山岳部 共同山行」

  2008年
  2009年
  2010年
  2011年
  2012年
  2013年
  2014年
  2015年
  2016年
  2017年
  2018年



針葉樹会・一橋山岳部 共同山行  はじめに  本間 浩(昭和40年卒)
         ******2018年6月21日投稿

 昨年末に亡くなった宮武さんの針葉樹会への貢献を「宮武幸久君の針葉樹会活動 1、山行 2、高谷山周辺の登山道整備 3、マーキュリーMt.富士登山」にまとめました。本来であれば、彼の「山岳部への支援活動」は「項目」を建てても良い内容のものですが、これは単に山行を共にするだけではなく、部会への出席、個別山行へのアドバイス、針葉樹会との連絡等記録に残りづらい事柄が多く、時間の制約もあり、部員との共同山行だけを取り上げ、彼個人の山行と併せて「1、山行」にまとめました。
 彼のこの活動を書き残して置こうと考えている時に、これを単独で取り上げるよりも全体の流れの中に置いた方が、彼の役割が良く理解できるのではと思ったのがこの記録を書く理由です。

 ここ十数年の「針葉樹会」と「山岳部」の関係は、次の様に言えるのではないでしょうか
 部員の確保・保持→育成・教育/体力脚力強化・登山技術習得→自立・企画実施/アドバイス

T、部員ゼロ・山岳部消滅の危機をヒシヒシと感じていた時代

** 1、 2002年 月見の宴で「山岳部をどうするか」が話し合われた。
そして体調不良で欠席の石原会長からは後日提言(アイデア提供)があった。
テーマは1、発想の転換  2、募集方法の見直し を必要とする、ものであった。
    (針葉樹会報97号 2002・11 「メール発信」西牟田伸一さんの発信)
2、 2004年1月17日 
部員ゼロに対する、第1回対策会議  *ポスター・立て看板作りの作業応援
同年   2月28日 第2回会議   *ポスター貼り   *山行計画・花見の宴のプラン検討 
同年   4月3日
    ・くらぶ・サークル紹介応援 ・立て看板完成  ・花見の宴 コースチャ参加
同年   4月25日  新人歓迎山行  「三つ峠」
    参加者 鳥本真司(商4) コンスタンチン・チェルニシェブスキー(法1)
       川名真理(S63)山田秀明((H15)木下(慶応大学山岳部OB)
    ・ハイキング  ・ザイルワーク  クライミング  確保技術
                 (針葉樹会報101号 2004・6)
3、 針葉樹会報102号 2004・10「リレー投稿その4佐藤周一(S54)」さん  
 「山岳部の新人確保問題」として幾つかの提言をしています。例えば国際交流や環境問題という観点から「付加価値」を付けたり、四大学連合間の交流提携等々。
4、 竹中彰氏の針葉樹会会長就任の挨拶 (針葉樹会報108号 2006・12)
 「@最大の問題である当針葉樹会の母体であるべき現役山岳部の復活に向けて針葉樹会としてどの様なことが出来るか」と部員確保を第一に取り上げています。
5、
新入部員紹介           (針葉樹会報112号 2008・6)
代表 原口翔吾(経4) 大橋義拓(経4) 尾上香奈子(法4) 田平愛(社4) 中村共芳(御茶ノ水大4) 糟谷友紀(経3)
7月13日に行われた新人歓迎山行「高尾山」に、植松なつみ(院生)が参加。
迎えたOBは、高崎治郎(S31)石和田四郎(S31)上原利夫(S33)以下
山田秀明(H15)まで、計11名のOBが参加しましたが、これは新入部員に対するOBの期待の大きさを表しています。

 一橋山岳部に外国人部員が誕生する、大学院生・他大学の学生も加入、その上他の部に在籍する学生も兼部員となる等々、これからの新しい山岳部の姿のある面が浮かび上がって来ます。
 茶道部兼の部員勧誘は、同部顧問で山岳部S40年卒の佐藤力さんの協力・努力の賜物で、出身部の惨状を見兼ねて、部員に茶道と登山精神の同一性を説き、登山・入部を薦めた結果と云えます。その後数人入部しましたが、継続して山登りを続け針葉樹会員として残ったのは、残念ながら糟谷友紀君一人でした。
 これは受け入れ側の我々に問題が有った、と考えます。新人歓迎山行・針葉樹会懇親山行・個人的な同行山行と、それぞれの担当・人々が山行を企画し実施したわけですが、そこには何かが欠けていた様な気がします。部員育成の強力な意思或は計画性と言ったものが。
 当時山行幹事であった私は会の懇親山行への参加を呼び掛けることのみに注力し、縦走・テント生活・雪渓訓練等を考える余裕も無かったし、自分に指導するだけの能力が在るとも思わなかった。
 一方新入部員にとってもハイキングの積み重ねであり、そこには山岳部らしさを感じずに自然と登る意欲も消えていったのではないか、と。
 これに一つの回答を、別の方法、新しい世界を与えたのが「FN短大」でした。

U、部員の育成・教育と体力・脚力強化の時代

** 1、 「FN短大」はF=藤原朋信さん(S44)とN=中村雅明さん(S43)の二人が作り上げた山岳部員の育成システムです。目的を体力・脚力の強化に置き、方法は駅から山登りを始め駅まで歩いてその山行を終了とする、原則バス等利用しない極めてユニークなものです。
2、 「FN短大」は、2013年10月に開校し、2015年5月閉校しました。2年弱の間に、「駅駅山行」をベースに、縦走・ボルダリング・沢登り・雪山歩きと部員の経験と志向に合わせた、バリエーションに富んだ訓練を施しています。
3、 山岳部が、開校翌年4月「新人歓迎山行」の企画実施・8月一般学生対象の「マーキュリーMt.富士登山」の主導・15年には山岳部の自主山行が増えるに及んで、彼らの力を見定め、閉校に至ったわけです。特に丹沢主脈縦走に際しての撤退の見極めを適切な判断と評価したのだと思います。
 また現役部員が4月の新入生勧誘を積極的に行い、部員個々も友人・同級生に入部を働き掛け部員を増やしている状況からも、将来に不安は無く、むしろある程度距離を置いた方が良い、と判断したと思われます。
4、 2015年5月18日「FN短大」山行(生藤山〜市道山〜臼杵山)に参加した時、小生の脚では到底彼らに付いていけず、後を追う事になりました。ただ私は反省会担当の為店との打合せが有り生藤山手前で引き返し五日市に向かいました。店で待ってもなかなか来ずその内藤原さんが一人で現れたので、道中の話を聞いた処、今回は極めてハードで皆疲労困憊の状態とのこと。これでは2〜3人部を辞めるかも知れないナなどと話している処へ彼らが現れました。確かに疲れ切っているようで、辞める学生が出てきても無理ないか、と。
 後日聞いたところ、退部者は出ていないとのことでした。小生それを聞いて、「自分は間違っていた」と思いました。山岳部に入ろうという学生はある程度のハードさを求めている、鍛えたいと思っていることを見抜けなかった、からです。そこを感じ取れずに対応したため、入部はしても残らないという結果を招いたのではないかと反省する次第です。
5、 これだけの成果を挙げた「FN短大」の「駅駅山行」は何としても残したいものです。
優れたチームは、そのチーム独自のもの、独自のやり方・行事を持っています。
一橋山岳部のそれは、「駅駅山行」と富士山学付きの「マーキュリーMt.富士登山」ではないかと考えます。
何とか「伝統行事」として継続していきたいものと考えます。

V、一橋山岳部の再生

 2015年夏以降は自立的に山行を実施しており、しかも昔の様な長期山行が不可能な状況に対応して、2泊3日程度の山行を数多く行っているし、新人歓迎山行も2回行うなど木目細かなやり方を考え、効果を挙げています。
 登山技術の向上では、以前から教育訓練に熱心に取り組んできた前神直樹さん(S51)、学生担当幹事の宮武さん(S45)が他のOBを交えながら、北アルプス他の縦走や雪渓訓練・アイゼン歩行訓練を実施、雪山に備えてきたわけです。この中にはFN短大のボルダリング、沢登り等も入りますが、より高度な技術の習得には、今年2018年2月実施した講習の様に、外部の専門家に依頼することが必要になるでしょう。これ等はアドバイザーの佐藤周一さん(S54)との相談事項でしょうか。
 創部以来近々100年を迎えようとしています。これだけの歴史ある一橋山岳部も昭和36年に海外遠征隊を出すまで30年掛かっています。
 現在の山岳部は再生なってまだ数年です。焦らず腰を据えて部の力を蓄える時期です。
 そして「チーム一橋山岳部員」でないと出来ないことは何かを考え、実行することが大事なのではないでしょうか。

2018年1月2日投稿の次の文章も是非お読みください
「山岳部再生に活躍した学生達とOBの支援活動 2017・11・28
                       藤原朋信(昭和44年卒)」
(編集子より)
  当該記事は当ホームページ『記録・資料』に掲載されています。

針葉樹会・一橋山岳部 共同山行 (*印 一橋山岳部企画実施山行)  本間 浩(昭和40年卒)
         ******2018年6月21日投稿

** 山行日 山行名 山名 針葉樹会員 一橋山岳部員 外部
●2008年(平成20年)
4.13 三四郎会 大山 竹中 岡田  [部員]原口翔吾
仏果山 本間 小島 小野
中村(雅)
[部員]糟谷友紀
7.13 新人歓迎山行 高尾山 本間 高崎(治) 石和田
上原 三井 高橋(信) 
竹中 佐藤(力) 西牟田
川名 山田
[部員]
原口 糟谷 大橋儀祐
田平愛 中村共芳 植松なおみ
●2009(平成21年)
6.20 歓迎懇親山行 三ツ峠山 山田 蛭川 竹中 本間
小島 中村(雅) 
[部員]
糟谷 望月優 伊藤研祐 米田卓也
●2010(平成22年)
1.4  美ヶ原・茶臼山 [部員]糟谷
3.15 横手山(志賀高原) [部員]糟谷
5. 1 丹沢・大山 糟谷 [部員]伊藤 米田 山根範子
7.10 大岳山 本間 [部員]米田
12.12 懇親山行 丹沢・白山 本間 石原 高崎(治)
上原 仲田 遠藤 小島
中村(雅)
[部員]米田 山根
●2011(平成23年)
8.19〜21 新入部員
歓迎山行
蝶ヶ岳往復
(徳沢テント泊)
前神 竹中 佐藤(久) [部員]米田 山根
小宮山尚与志
町田広樹
11.27 懇親山行 倉岳山 佐薙 本間 鈴木 仲田
三井遠藤 宮本 
佐藤(久) 中村(雅) 前神
兵藤 佐藤(活) 
[部員]
小宮山 町田
●2012(平成24年)
2.25〜26 訓練山行 縞枯山 前神 [部員]小宮山 町田
3.4 懇親山行 棚横手〜甲州高尾山
(大滝不動尊〜富士見台
〜棚横手〜甲州高尾山
〜大善寺)
佐薙 本間 金子 仲田
三井 遠藤 宮本 小島
佐藤(久) 中村(雅)
[部員]
小宮山 町田 
5.12〜13 丹沢主稜縦走
大倉〜塔ノ岳〜蛭ヶ岳〜檜洞丸〜西丹沢) 
本間 (昼から会)
高橋 門脇
[部員]
小宮山 町田
峯 弘卓
6.16〜17 高谷山周辺の
登山道整備
本間 高崎(俊) 佐藤(久)
斎藤(正) 中村(雅) 宮武
佐藤(活)
[部員]
小宮山 峯
8.5〜6 第1回
マーキュリ―
Mt.富士登山
5日
国立=バス= 河口湖口5合目〜本八合目
(トモエ館泊)
6日
(前泊地)〜富士山頂
〜お鉢巡り〜河口湖口5合目=バス=国立
宮武 佐薙 高崎(治)
上原 竹中 本間 小島
佐藤(力) 
[部員]
小宮山 町田
峰 細川朋道
川尻貴之
8.23〜25 涸沢合宿 奥穂高・北穂高 夫々往復
  (涸沢テント泊)
前神 兵藤 川名 
佐藤(久) 原夫妻
男性1名
[部員]
小宮山 町田
8.31〜9.6 大学生
登山リーダー
夏山研究会
講習場所   剱岳周辺
参加者
[部員]小宮山尚与志 町田広樹
10.21 高谷山周辺の
登山道整備
本間 小島 高崎(俊)
斎藤(正) 宮武 井草
宗像
[部員]峯
10.27 高谷山周辺の
登山道整備
(針葉樹会員の
検分山行・慰労パーティ)
上原 仲田 三井 遠藤
宮本蛭川 竹中 本間
小島 半場 小野 坂井
高崎(俊) 佐藤(久)
吉沢 中村(雅) 金子
[部員]
小宮山 川尻
●2013(平成25年) 
8.2〜7 黒部川・赤木沢〜裏銀座 A班 小島 中村(雅)
    前神 川名
B班  兵藤
[部員]
小宮山 町田
8.3 (全員)折立〜太郎平小屋〜薬師沢小屋(泊)
8.4 (A班)前泊地〜赤木沢出会〜同源頭〜中俣乗越(B班と別れ)〜黒部五郎岳〜黒部五郎小屋(泊)
(B班)中俣乗越(A班と別れ)〜太郎平小屋〜薬師峠(ツェルト泊)
8.5 (A班)前泊地〜鷲羽岳〜ワリモ岳〜水晶小屋(泊)
(B班)前泊地〜折立
8.6 (A班)前泊地〜東沢乗越〜野口五郎岳〜烏帽子小屋(泊)
8.7 (A班)前泊地〜烏帽子岳往復〜ブナ立尾根〜高瀬ダム
9.21〜22 高谷山周辺の
登山道整備
本間 小島 佐藤(力)
高崎(俊) 岡田 中村(雅)
宮武 井草 
[部員]
小宮山 伊藤久裕
9.28〜29 山岳部 女子部山行 廻り目平合宿
9.28 瑞牆山(不動滝コース往復) 藤原 川名 [外部]
前嵩西
9.29 編笠山(観音平から往復) 藤原 川名 [部員]菊田果琳 [外部]
前嵩西
10.13 FN短大
開校記念山行
石割山 藤原 中村(雅)  [部員]峯
10.18〜20 第1回 廻り目平OB学生合同合宿
10.18 瑞牆山荘〜金峰山 中村(雅)  [部員]
長島宏賢 伊藤久裕
10.19 瑞牆山荘〜八丁平 本間 佐藤(久) 藤原
飯盛山 蛭川 宮武 [部員]原萌子 菊田
茂来山 本間 佐藤久 吉川
中村(雅)
廻り目平ボルダリング 藤原 [部員]長島 伊藤
横尾山 山田ファミリー
夜、OB学生懇親会
10.20 雨天の為登山は中止。帰途に就く。
10.27 FN短大    御前山・扇山・百蔵山 藤原 中村(雅) 本間 [外部]
前嵩西
11.16 FN短大 高尾山南高尾山稜  藤原 中村(雅) 本間
川名
[部員]原 [外部]
前嵩西
11.23 FN短大 滝子山・大谷ヶ丸 藤原 中村 [部員]長島 [外部]
前嵩西
12. 1 富士ビュー山行 九鬼山 A班(菊花山)
佐薙 竹中 小島
佐藤(久) 中村(雅) 宮武
B班(富士見平)
三井 遠藤 宮本 本間
三森 岡田
[部員] 原
12. 8 FN短大 陣馬山・市道山 藤原 中村(雅) 本間 [外部]
前嵩西
12.21 FN短大 鋸山往復 藤原 中村(雅) 本間 [外部]
前嵩西
●2014(平成26年)
1.12 FN短大 鎌倉アルプス A班(全縦走) 藤原
B班(3/4)
中村(雅)・夫人 佐薙
仲田 三井 遠藤
高橋(信) 本間 小島
岡田 
[部員]
原 辰川貴大
[外部]
前嵩西
1.19 FN短大 高水三山  藤原 本間 [部員]辰川 中野広美
*中野 初山行 
*辰川 初ボルダリング経験
3.23 FN短大 本社ヶ丸・清八山
A班(角研〜本社〜清八)
B班(清八〜本社) 
A班 藤原 中村(雅) B班 佐薙 本間
*両班は、角研〜本社ヶ丸間ですれ違い、
大月で再会
[外部]
前嵩西
4.20 FN短大 箱根・明星ヶ岳 藤原 中村(雅) 本間 [部員]
高橋紗季 渡部顕志
上茂衛 辰川 中野
大谷彩子 鈴木陽介
4.27 新人歓迎山行 御岳山〜大塚山
 [山岳部企画の初回山行]
[部員]長島弘賢(部長;商4)パク・チェヨン(交留生3)
上茂衛(法2)辰川貴大(法2)鈴木陽介(社1)
[体験部員]
(3年)西山祥紀 太田貴之 山守
(1年)大矢和樹
5.18 FN短大 生藤山〜市道山〜臼杵山 藤原 中村(雅) 本間
小島 小野
[部員]
渡部 太田 西山 上
辰川 中野 大谷 岡田
6.21 FN短大 軍刀利沢(南秋川) 藤原 [部員]
長島 太田 高橋直道
6.28〜29 キタダケソウ
観察会(芦安ファンクラブ)
北岳山荘分岐道周辺 竹中 本間 [部員] 鈴木
6.29 FN短大 大岳山(鋸山〜大岳山
〜馬頭刈尾根)
藤原 中村(雅) 宮武  [部員]
太田 西山 上
大矢
[外部]
前嵩西
7. 6 雪渓訓練 谷川岳一ノ倉沢 藤原 中村(雅) 前神  [部員]
高橋 太田 上 鈴木
7.21 FN短大 石津窪(南秋川) 藤原 中村
8.4〜5 第2回廻り目平OB学生合同合宿       (藤原山荘泊)
8.4 A班 黒富士・升形山 宮武 [部員]高橋 西山 太田
B班 ミズガキ山荘〜大日岩 藤原 [部員]長島 辰川 上 
8.5 A班 金峰山 宮武 [部員]高橋 西山 太田
B班 クライミング 藤原 竹中  [部員]長島 辰川 上
8. 7 FN短大 権現山(八ヶ岳) 藤原 [部員]太田
8.20 FN短大 水無川本谷(丹沢) 藤原 中村(雅)  [部員]太田
8.24〜25 第2回マーキュリーMt.富士登山 [部員]
長島 高橋 西山 太田 辰川 上 岡田堯之 中野 大谷
[一般学生]
9名(のち 内海拓人 黄勉 入部)
[OB]
高崎(治) 宮武 小島 藤原
8.24 国立=バス=御殿場口5合目
〜本八合目(トモエ館)
8.25 本八合目〜富士山〜御殿場口5合目
=バス=国立
9.5〜8 北岳 本間 [部員]太田
9.5 広河原〜白根御池小屋 本間 (白根御池小屋)
9.6 白根御池〜大樺沢〜北岳山荘 本間 (北岳山荘)
広河原〜白根御池小屋〜大樺沢〜北岳〜北岳山荘 太田(テント)
9.7 北岳山荘〜北岳〜草すべり〜白根御池 本間(小屋) 太田(テント)
9.12〜15 涸沢合宿 (北穂高・奥穂高) 宮武 [部員]太田 渡部
9.12 上高地〜徳沢(テント)
9.13 徳沢〜横尾〜涸沢(テント)
9.14 涸沢〜ザイテン〜北穂高〜南陵〜涸沢(テント)
9.15 涸沢〜ザイテン〜奥穂高〜キミコ平〜重太郎新道〜上高地
9.23 FN短大 川苔谷逆川(沢登り) 藤原 [部員]太田
9.28 FN短大 小仏城山・高尾山 藤原 佐薙 上原 塩川
竹中本間 高崎(俊)
吉川 宮武 前神 松田 
[部員]
太田 鈴木 黄勉
10.11 FN短大 甲州高尾山・棚横手 藤原 [部員]黄 大矢和樹
10.18〜19 第3回 廻り目平OB学生合同合宿    (藤原山荘泊)
10.18 茅が岳 宮武 [部員]高橋 太田 黄
小川山 中村(雅) 本間(見晴らし台)
10.19 金峰山 [部員] 高橋 太田 黄
四方原山 藤原 中村(雅) 宮武 本間
10.25 FN短大 大倉〜塔ノ岳〜丹沢山
〜蛭ヶ岳 往復
藤原 中村(雅) 高崎(俊)
岡田
[部員]上 大矢 内海
11.15〜16 高谷山周辺の登山道整備 上原 本間 小島 小野 
高崎(俊) 佐藤(久) 岡田
中村(雅) 宮武
[部員]太田
11.23 FN短大 御前山 藤原 前神 [部員]黄 辰川 大矢 内海
11.30 FN短大 大菩薩峠・牛ノ寝通り 藤原 中村(雅) [部員]黄 太田 辰川 内海
12. 4 FN短大 乾徳山 藤原 中村(雅) [部員]太田 西山 上 内海
12. 7 富士ビュー
山行
笹子雁ヶ腹摺山 佐藤(久) 佐薙 仲田
竹中 本間 小島 岡田
宮武 松尾 兵藤 松田
糟谷夫妻
[部員]太田 辰川 岡田 内海
●2015(平成27年)
1. 4 FN短大 葉山アルプス 藤原 中村(雅)
岡田夫妻
[部員]黄 西山 辰川 大矢
1.11 FN短大 三つ峠(アイゼン歩行訓練)  藤原 中村(雅) [部員]高橋 西山 太田 上
1.24 山岳部部室外壁再塗装 宮武 前神 中村(雅)
藤原 金子 西牟田
井草
[部員]太田 辰川 上 内海
2. 7 FN短大 日光・雲流渓谷
(アイスクライミング体験)
藤原 中村(雅)  [部員]高橋 太田 上
2.25 FN短大 大岳山・御岳山・日の出山
(アイゼン歩行訓練)
藤原 中村(雅)  [部員]太田
2.28〜3.1 強化合宿
(アイゼン
歩行訓練)
雲取山 
(雲取山荘泊) 
宮武 小野 吉沢
中村(雅) 
[部員]太田
3.21〜22 北八ヶ岳合宿
(アイゼン訓練と
雪山テント設営・生活術習得)   
前神 高崎(俊) [部員]
高橋 太田 西山 上 辰川 大矢
3.21 渋ノ湯〜黒百合ヒュッテ  テント設営
3.22 テント〜中山峠〜東天狗岳直下 往復 
4.12 高尾山・景信山 [部員]上 辰川 内海 大矢 高謙 原島大介 
4.19 甲州高尾山 [部員]太田 西山 上 辰川 内海 大矢
4.25 FN短大 丹沢主脈縦走
A班(焼山〜蛭ヶ岳) 藤原 中村(雅) 宮武 [部員]岡部(院)
B班(大倉尾根〜丹沢山) [部員]太田 高橋 西山 辰川 内海 大矢 黄
体験希望者1名 
雷雨激しく、A班は蛭ヶ岳・B班は丹沢山から引き返す
5. 3 川苔山 [部員]高橋 太田 西山 有田  上 内海 大矢 清野有紀 
安藤由都 坂本遼 高謙 安藤圭吾  
5.14 谷川雪上歩行訓練(天神平) 宮武 佐藤(周)  学生 9名参加
5.17  FN短大 日の出山・御岳山 藤原 中村(雅) 
佐藤(久) 宮武
[部員]
黄 山崎 太田 西山 有田 大矢 清野 曲 坂本 高 胡迦安
体験希望者1名
5.23〜24 谷川岳雪上歩行訓練 前神 宮武 中村(雅)  [部員]太田 西山 原島
5.30〜31 FN短大最終山行 八ヶ岳スーパートレイル  (藤原山荘泊)
5.30 A班編笠山   中村(雅)  [部員]太田 辰川 内海 大矢
B班飯盛山 藤原 [部員]黄 大谷 有田 曲 坂本
工藤 高
5.31 八ヶ岳赤岳・県界尾根
 (両班合同山行)
当日参加OB  佐薙 小島 三森 金子
6. 7 鷹ノ巣山 [部員]高橋 太田 有田 上 内海 曲 清野 高 曾?
6.28 岩茸石山・棒ノ折山 [部員]太田 有田 大谷 内海 大矢 曲 水洞章夫
羽二生祥馬 高 胡
  FN短大では、6.21と7.4に、丹沢の水無川新茅ノ沢〜塔ノ岳を計画したが悪天の為両日とも中止
7.19 眞名井沢 藤原 [部員]太田
7.31 鍋割山 [部員]太田 西山 有田 内海
8. 2〜3 瑞牆山・赤岳  宮武 [部員]太田 工藤
8. 2 瑞牆山
8. 3 赤岳(県界尾根〜真教寺尾根)
8. 6 雲取山 [部員]有田 大谷 上 内海 曲 清野 高 小久保剣 原島
8. 9 FN短大補講 奥多摩・水根沢谷 藤原 中村(雅) [部員]太田
8.12〜13 富士山 [部員]有田 内海 曲 清野 工藤 高 坂本 原島 
8.18〜20 北岳・間ノ岳 [部員]太田 上 内海 大矢 坂本 小久保 工藤 原島 安藤
8.20〜21 第4回 廻り目平OB学生合同合宿    (藤原山荘泊)
8.20 黒富士 宮武 [部員]太田 工藤
8.21 金峰山 宮武 [部員]太田 工藤
9. 4 FN短大補講 裏妙義・谷急沢右股 藤原 [部員]太田
9. 5 FN短大補講 谷川岳・白毛門沢 藤原 [部員]太田
9.23〜26 燕岳〜大天井岳〜常念岳〜一ノ沢 [部員]高橋 太田 大矢 水洞 坂本
10.4 陣馬山・市道山・臼杵山 [部員]有田 内海 大矢 曲 羽二生
10.17〜18 女峰山 [部員]辰川 内海 黄 山崎 有田 上 大矢 水洞 曲 坂本
高 小久保
10.25 滝子山 [部員]太田 水洞 羽二生
11. 7 大菩薩峠 [部員]有田 内海 曲 胡
11月7日〜8日 高谷山周辺の登山道整備 小島 高崎(俊) 佐藤(久)
岡田 中村(雅) 井草
佐藤(活)
[部員]高橋 太田
11.29 武甲山 [部員]内海 大矢 坂本 高 胡 小久保
12. 6 富士ビュー山行 本社ヶ丸・清八山
宝鉱山口〜本社ヶ丸
〜清八山〜笹子駅
中村(雅)
三ツ峠(泊)〜府戸尾根
佐藤(久) 佐薙 小島
中村(雅)  宮武
[部員]太田 上 大矢
12.19 大岳山  [部員]内海 水洞 曾 胡
12.23〜25 燕岳 [部員]高橋 太田 上
●2016(平成28年)
1. 9 生藤山・笹尾根 [部員]CL大谷 SL坂本 黄 清野 曲 高
2.12 雲取山 [部員]CL太田 SL内海
2.19 雲竜渓谷 [部員]CL太田 SL上 内海 大矢 
2.26 丹沢山(??大倉〜丹沢山)往復 [部員]CL内海 SL大矢 坂本 
3.20〜23 宮之浦岳 [部員]CL内海 SL曲 高 胡 安藤 坂本 小久保 清野
4. 3 懇親山行 大山(A班 金毘羅尾根  B班 イタツミ尾根)
A班
佐藤(久) 佐藤(力) 岡田 吉沢 
中村(雅) 山崎
B班
宮武 佐薙 鈴木 松尾 本間 小野 池知
C班 上原 仲田
D班 小島 高崎(俊) 
[部員]内海 工藤 坂本 
4.24 新人歓迎山行 高尾山・城山 [部員]CL内海 SL大矢 曲 有田 清野 原島 小久保 安藤
坂本 工藤 胡 山本竜希 田中亨 吉田和磨 鈴木由佳里
4.30 丹沢山系主脈縦走 [部員]CL内海 SL坂本 羽二生
 (大倉〜塔の岳〜丹沢山〜蛭が岳〜姫次〜焼山〜西野々〜三ヶ木)
5. 1 FN短大補講 御坂山地 藤原 中村(雅)   [部員]大矢
5.14 [部員]黄山 西山
5.15 新人歓迎山行
第1弾
甲州高尾山
(大善寺〜甲州高尾山
〜大滝不動尊)
[部員]CL内海(法3)安藤由都(法2)清野有紀(ICU3)
原島大介(商2)小久保剣(法2)高謙(社2)
[新人] 田中亨(商1)岩崎巧実(法1)袁銘(明治大1)
5. 7 新人歓迎山行
第2弾
川苔山(百尋の滝〜川苔山〜古里駅) [部員]CL内海拓人(法3)SL坂本遼(法2)水洞章夫(法3)
胡迦安(経2)原島大介(商2)
[新人]鈴木由佳里(社1)[体験]松浦凛太郎(法1)
山本竜希(社1)
5.21 棒ノ折山・岩茸石山 [部員]CL内海 SL水洞 羽二生 鈴木 松橋 吉田
5.21 FN短大補講 乾徳山・黒金山 藤原 中村 [部員]坂本 曲
5.28〜29 八ヶ岳縦走 天狗岳・硫黄岳
麦草峠〜ニュウ〜
黒百合平(泊)〜天狗岳〜
夏沢峠〜硫黄岳〜
赤岳鉱泉〜美濃戸口
[部員]CL内海拓人(法3)SL大矢和樹(法3)曲(社3)
原島大介(商2)坂本遼(法2)小久保剣(法2)
田中亨(商1)岩崎拓実(法1)
6.11〜12 雲取山 [部員]CL小久保 SL原島 水洞 松橋 山本 鈴木 吉田
6.19 日の出山 [部員]CL内海 SL上
6.24〜26 ■安全登山普及指導者中央研修会(剱岳周辺)
参加者   内海拓人  
講習内容  コンパスによる読図実地訓練
6.26 倉岳山・高畑山 [部員]CL大矢 SL羽二生 吉田 松澤萌
7.3  伊豆ケ岳 [部員]CL坂本 SL安藤 内海 山本
8.5〜8 甲斐駒ケ岳・仙丈岳 [部員]CL上 SL内海 有田 原島 工藤 坂本 岩崎
吉田 松橋 田中
8.16〜19 夏合宿(常念山脈縦走)  [部員]CL内海拓人 SL坂本遼(法2) 大矢和樹
安藤由都(法2)小久保剣(法2)原島大介(商2)
山本竜希(社1)
8.16 中房温泉〜合戦尾根〜燕山荘
8.17 燕岳往復〜大天井岳〜常念小屋
8.18 前泊地〜常念岳〜蝶ケ岳〜徳沢〜小梨平
9.27〜28 鳳凰三山 [部員] CL内海 岩崎 鈴木 松澤 松橋 吉田
10.1〜2 谷川連峰(朝日岳・白毛門) [部員]山本
10. 2 鷹ノ巣山〜六ツ石山 [部員]CL大矢 SL有田 福家
10.16 御前山・大岳山 [部員]CL内海 SL坂本 水洞 安藤 鈴木 松沢
11.13 金時山 [部員]CL曲 SL 羽二生 小久保 吉田 福家 松橋 鈴木
12.10 北横岳  [部員]CL内海 SL山本
12.17 入笠山 [部員]CL上 SL内海 西山 工藤 松橋 福家 鈴木
12.18 ボッカトレーニング 丹沢山(大倉〜丹沢山 往復) [部員]CL大矢 SL坂本 田中 吉田
12.23〜26 燕岳 [部員]CL上 SL西山 内海 山本 (OB)前神 兵藤 佐藤周
●2017(平成29年)  
1. 7 赤城山 [部員]CL山本 小久保 吉田
2.12 雲竜渓谷 [部員]CL内海 SL西山 小久保 松橋
2.26 上州武尊山 [部員]CL山本 西山 松橋 吉田
 (OB・AD)佐藤周
3.15〜16 金峰山・瑞垣山 [部員]CL山本竜希(社1)松橋凛太郎(法1)吉田和磨(法1)
 (OB・AD)佐藤周
3.31 新人歓迎山行
第1弾
高尾山 [部員]CL内海 SL山本 羽二生 田中 松橋
[新人] 井山瑞貴 川原の乃
4.15 新人歓迎山行
第2弾
高尾山・景信山 [部員]CL内海 羽二生 安藤 坂本 原島 田中
福家 松橋 吉田 井山
[新人] 阿部瑞己 川原の乃 佐々木豪 宮川森羅
4.22 甲州高尾山 [部員]CL内海 田中 福家 松橋 吉田 井山 杉田
阿部 川原 佐々木 宮川 三宅
5.6〜7 雲取山 [部員]CL内海拓人(法4)山本竜希(社2)田中亨(商2)
松浦凛太郎(法2)吉田和磨(法2)福家一裕(法2)
岩崎拓実(法2)杉田楓太(商2)井山瑞貴(経2)
阿部瑞己(商1)佐々木豪(社1)宮川純樹(社1)
三宅森羅(法1)
5.14 雪渓訓練 谷川・天神平 [部員]CL内海 SL原島 杉田 山本 吉田 阿部 川原 佐々木
(OB)宮武 佐藤周 
6.3 塔ノ岳・鍋割山 [部員]CL内海 SL羽二生 福家 阿部 川原 佐々木 宮川
6.11 秋の偵察山行 檜洞丸
西丹沢〜檜洞丸 往復)
[部員]CL内海 SL大矢 水洞 羽二生 坂本 井山 吉田
6.17〜18 八ヶ岳 天狗岳・硫黄岳 [部員]CL小久保 SL安藤 坂本 岩崎 杉田 福家
阿部 佐々木
6.24 川苔山 [部員]CL内海 羽二生 原島 井山 松澤 阿部 川原 宮川
安全登山普及指導者中央研修会
・研修日  6月
・主催者    
・開催地 剱岳周辺
・参加者  松橋凛太郎(法2) ・研修内容 コンパスによる読図と実地訓練
7.1〜2 八ヶ岳  天狗岳 [部員]CL内海 SL羽二生 水洞 原島 井山 吉田
川原 宮川
7.23〜24 白馬岳(栂海新道)
途中撤退
[部員] CL山本 SL原島 吉田
 [栂海(つがみ)新道  糸魚川親不知付近から、新潟県・富山 の県境に沿って、朝日岳に至る登山道(岡田師)]
7.25〜27 夏合宿 北岳・間ノ岳 [部員]CL内海拓人(法4)SL羽二生祥馬(経4)
水洞章夫(法4)小久保剣(法3)福家一裕(法2)
杉田楓太(商2)井山瑞貴(経2)松澤萌(商2)阿部瑞己(1)
佐々木豪(社1)宮川純樹(社1)川原の乃(社1)
7.26〜27 唐松岳 [部員]CL坂本 SL安藤 
8.4〜7 雲ノ平合宿 [部員]CL内海拓人(法4)SL大矢和樹(法4)
羽二生祥馬(経4装備)坂本遼(法3記録)
原島大介(商2装備)松橋凛太郎(法2食料)
吉田和摩(法2食料)三宅森羅(法1装備)
[不参加]安藤由都(法3食料)岩崎拓実(法2記録)
山本竜希(社2会計)
BS富士「絶景百名山」収録行 「北アルプス 唐松岳・五竜岳」
  ・場所 北アルプス  八方尾根〜唐松岳〜五竜岳〜遠見尾根
  ・ガイド 佐藤周一(針葉樹会員・一橋山岳部アドバイザー)
  ・登山者 坂本遼(法3) 安藤由都(法3)
  ・第1回 7/26 松本 27 八方尾根 28 悪天中止
  ・第2回 8/14 八方尾根 15 五竜岳 16遠見尾根
8.14〜16 唐松岳・五竜岳 [部員]CL坂本 SL安藤
8.17〜19 常念山脈縦走 [部員]CL坂本 SL松橋 井山 松澤 川原 宮川 佐々木 阿部
8.17〜20 穂高岳 [部員]CL内海 SL原島 三宅
8.29〜30 富士山 [部員]CL羽二生 SL吉田 阿部
9.5 両神山 [部員]CL内海 SL坂本 松橋 松澤 阿部 佐々木
9.8〜9 木曽駒が岳 [部員]CL大矢 SL安藤 吉田 松橋 宮川 阿部 佐々木 川原
9.15〜17 尾瀬 燧ケ岳・至仏岳 [部員]CL内海 SL坂本 井山 川原 阿部 佐々木
9.24 塔が岳〜鍋割山 
(1年生による企画実施、初山行)
[部員]CL阿倍 SL川原 宮川 佐々木 三宅
9.24 大蔵高丸 [部員]CL坂本 SL大矢 羽二生 曲 安藤 田中 松澤
9.30〜10.1 鳳凰三山  [部員]CL内海 SL羽二生 坂本 小久保 田中 松橋
福家 杉田 井山 松澤 三宅 佐々木 川原
10.6〜8 槍ヶ岳 [部員]CL内海 SL坂本 三宅
10.14〜15 赤岳 [部員]CL坂本 SL内海 羽二生 曲 吉田 福家 杉田
井山 松澤 川原 阿部 佐々木 三宅
11.4 丹沢主稜縦走 大倉〜塔ノ岳〜丹沢山〜蛭が岳〜檜洞丸〜ツツジ新道〜西丹沢) [部員]CL坂本 内海 羽二生 吉田 佐々木
●2018(平成30年)
2.7 山岳部
「登攀チーム」
技能習得訓練
(ロープワーク)
日和田山 講師
天野和明氏(ICI石井スポーツ登山学校長 明大山岳部OB)
一橋山岳部「登攀チーム」
吉田和磨(法2) 三宅森羅(法1) 
佐藤周一(針葉樹会 アドバイザー)

       

     








■グルリ丹沢 
※以下の資料名をクリックすると資料全文にジャンプします。

1.「グルリ丹沢」 はじめに

2.「グルリ丹沢」 山行記  第1章〜第4章
 第1章  「大山〜ヤビツ峠〜二ノ塔〜三ノ塔」  
 第2章 「檜洞丸〜犬越路〜神ノ川〜大室山〜加入道山」
 第3章 「表尾根  三ノ塔〜塔ノ岳」  
 第4章 「 大山 」
 
3.「グルリ丹沢」 山行記  第5章〜第7章・章外
 第5章 「 丹沢主稜縦走  塔ノ岳〜檜洞丸 」
 第6章 「相甲国境尾根  加入道山〜畦ヶ丸〜菰釣山〜ブナノ丸」
 第7章 「相甲国境から相甲駿国境尾根 菰釣山〜三国山〜不老山」
 章外  追試

「グルリ丹沢」 はじめに        本間 浩(昭和40年卒)
         ******2018年6月21日投稿
■「グルリ丹沢」とは、
 丹沢の主稜線を、東部の大山(1252m)に始まり西に、塔ノ岳(1490m)・丹沢山(1567m)・蛭ヶ岳(1673m)の丹沢三山から檜洞丸(1600m)へ
 次いで丹沢西部に、大室山(1587m)加入道山(1418m)畦ヶ丸(1292m)県界尾根の菰釣山(1348m)と続き、相甲駿の境界、三国山(1320m)で東に方向を変え、丹沢湖の近くの不老山(928m)まで、丁度釣り針を横にした形の凡そ50kmの距離を、数回に分けて縦走しようというプランです。

 宿泊は、テント使用禁止区域のため丹沢、特に西丹沢には多い避難小屋で自炊する事を原則に、時には小屋泊り・民宿を取り入れる事にしました。

 丹沢を専らトレーニングの場とする佐薙さん(S31年卒)の唱導に、丹沢党を自任する本間(S40)が賛同、加えて三月会メンバーの竹中さん(S39)、蛭川さん(S39)が後半に参加してくれました。

 平成18年(2006年)3月24日、佐薙さんの「大山から三ノ塔」山行を皮切りに、平成19年4月28日の「三国峠から不老山」をもって、1年強掛けた「グルリ丹沢」が完成しました。

 今回この「グルリ丹沢」を公表しよう思った訳は、学生さんが丹沢をよく歩いてくれている事を知ったからです。丹沢が大好きな私には非常に嬉しいのです。
 既に、主脈・主稜縦走を終えている学生さんに丹沢全域を対象に歩いて欲しい訳です。西丹沢は避難小屋が充実?していて、しかも建て替え新築が多い点も嬉しい話です。テント生活指向の方は、小屋の周辺に空き地が有りますのでそこを利用する手もあります。(駐在のお巡りさんも車で入れる所までで、例えばユーシンロッジ、山中ではお目に掛った事はありません)
 山の生活を楽しんでもらいたいものです。そのための山行、生活上の留意点を記するようにしました。
 特に東丹沢は手入れが行き届いており、階段が多く岩場にはクサリが着いていて安全です。ただメインルートを外すと台風・洪水の 跡がそのまま放置されているケースも多々見られます。先ずメインルートそれが終わればバリエーションへ、沢登りも良いルートが沢山有ります。
 是非歩いて欲しいのは「蛭ヶ岳直登ルート」です。ユーシンから熊木沢に入ると台風で壊れた道路探しが始まり、尾根に取り付けば落ち葉だらけの道探しと、頂上直下の岩場を除いて全編ルートファインデングです。竹中さんの詳細を極めた山行記「蛭ヶ岳直登の記録 08・4・3」が有ります。ご希望の方には、コピーを差し上げます。

 肝腎の「水」ですが、塔ノ岳直下の「不動ノ清水」以外稜線には水場は無い、と思ってください。地図に水場の印が付いていても当てにはしない事です。沢の水は動物のフンなどで汚染されていますので、必ず煮沸する事です。

 コースタイムは「昭文社 地図28 丹沢(2016年版)」によります。

「グルリ丹沢」 山行記  第1章〜第4章  本間 浩(昭和40年卒)
         ******2018年6月21日投稿
 
第1章 「大山〜ヤビツ峠〜二ノ塔〜三ノ塔」  

■平成18年(2006)3月24日(金)
 伊勢原駅=大山ケーブル〜表参道〜大山〜ヤビツ峠〜二ノ塔〜三ノ塔〜三ノ塔尾根〜大倉=渋沢駅
 (コースタイム 6時間)
 参加者  佐薙 恭

「グルリ丹沢」のスタート山行。

 大山は昔から神奈川のシンボル的な信仰登山の山(阿夫利神社)で、老若幼男女が季節を問わずよく登っている。特に下社から表参道を大山山頂へ登る道は人気があり、次いでヤビツ峠からイタツミ尾根を登り25丁目で表参道に合流するコース。下社から見晴台経由山頂の道も有るが、この道は下りに使われる事が多い。しかしそれ以外にも東西南北に、歩き甲斐、登り甲斐のある尾根筋が多い。

 東面 ・日向薬師〜九十九曲〜見晴台〜大山山頂
     ・広沢寺温泉〜不動尻〜唐沢峠〜大山山頂
 西面 ・ヤビツ峠〜門戸口〜金毘羅尾根〜大山山頂
 南面 ・秦野駅〜日向山〜高取山〜浅間山〜表参道16丁目〜大山山頂
     ・蓑毛〜柏木林道〜ヤビツ峠〜イタツミ尾根〜表参道25丁目〜大山     
     ・蓑毛〜蓑毛越え〜南尾根〜表参道16丁目〜大山山頂 
 北面 ・札掛〜地獄沢橋〜分岐〜北尾根〜大山山頂

 この山の難点は、ヤビツ峠へのバス便が少ない事。
 平日 8:18 コレ1本。帰りも15:51これだけ。
 ヤビツ峠から登るイタツミ尾根は表参道に比べ、穏やかな登りで、石道や岩も少なく歩き易い年配者向きのコースです。
 平日の混み具合を視ても何とかして欲しい処。

第2章 「檜洞丸〜犬越路〜神ノ川〜大室山〜加入道山」 

■平成18年3月30日(木)〜31日(金)
 新松田駅=西丹沢自然教室〜つつじ新道〜檜洞丸〜犬越路〜(神ノ川ヒュッテ泊)〜日陰沢新道〜大室山〜
 加入道山〜白石峠〜西丹沢自然教室
  (コースタイム 1日目 6時間   2日目 6時間20分)
 参加者  佐薙恭  本間浩  山本健一郎(初日のみ) 
 宿泊   神ノ川ヒュッテ(有料)   夕食 スキ焼 

 初日山本さんの調子が上がらず、檜洞丸の登りからキツそうでヒュッテ到着も大分遅れたが、夕食の頃には回復、健啖だった。
 2日目はこの機会にと云うことで、犬越路〜大室山の一般コースを止め、神ノ川から直接神奈川山梨の県界尾根に取り付き大室山山頂に至る 日陰沢新道を選んだ。稜線まではジグザグ道でよかったが、稜線特に大室山の登りは草付き様の急な登りもあり結構ショッパイ。山頂でゆっくり休み、加入道山に向かったが、コースタイム50分(2002年版)の処が1時間10分掛ってしまつた。
 この調子では計画の畦ヶ丸経由下山では夜になるだろうと、手前の白石峠から西丹沢に下った。
 この下りはコースタイム並みだったので、大室〜加入道間の遅れがどうも釈然とせず、帰って昭文社の2005年版を見た処、50分のところが1時間20分に変わっている。
 後日「昭文社 丹沢」の調査担当の(尊仏山荘)大野さんに聞いた処、「最近中高年の登山者が増えており、その人達に気持ち良く山登りしてもらおうと、タイムは甘めにしている」とのこと。
 
西丹沢の檜洞丸、大室山は約1600mと丹沢では有数の高峰であるが、それ以上に山体の大きさを誇っている。アプローチが長く登りもきついが、混み合うこともなく森林帯の山歩きを楽しめる。
 この二山に加入道山と畦が丸を加えると、円形の1泊2日(犬越路泊)の縦走コースが出来上がる。
 新松田駅=玄倉〜ユーシン〜同角尾根〜檜洞丸〜犬越路(犬越路避難小屋)〜大室山〜加入道山〜
 畦ケ丸〜屏風岩山〜二本杉峠〜細川橋=新松田駅
 このコースで犬越路以外に宿泊可能な所は次の通りです。
*** ・ユーシンロッジ避難室 ・檜洞丸青ヶ岳山荘(有料 要予約)
・加入道避難小屋 ・畦ヶ丸避難小屋
・一軒家避難小屋(畦ヶが丸から大滝橋に下る時)

 山本健一郎さんにとっては3月のこれが最後の山行で、この後5月に食道ガンの手術を、退院後秋には三月会に復帰されたが、完治するまでには至らなかったのか翌年2月に亡くなられた。小生にとってはレッドキックホットの恩人であり、大腿部が攣って難儀した冬の大菩薩嶺の帰り路にこれを銀紙に包んでくれた事を思い出す。(本間)


第3章 「表尾根  三ノ塔〜塔ノ岳」 

■平成18年4月18日(火)
 渋沢駅=大倉〜三ノ塔尾根〜三ノ塔〜表尾根〜塔ノ岳〜鍋割山稜〜小丸尾根〜二俣〜西山林道〜大倉=渋沢駅
 (コースタイム  8時間50分)
 参加者  佐薙 恭

 塔ノ岳は、丹沢でも一二を争う位人気のある山で、富士の遠景と湘南の夜景が有名です。山頂に建つ尊仏山荘は丹沢一の大型山荘で、いつ行っても宿泊客や一休みする登山者で賑わっています。

 塔ノ岳は、丹沢山・蛭が岳へと続く主稜・主脈縦走の拠点として利用する以外に、日帰り周遊コースも多々あり、組み合わせ次第で多様な楽しみ方が出来ます。
*** ・鍋割山から鍋割山稜を  ・小丸尾根から ・大倉尾根から
・長尾尾根を新大日経由で ・熊木沢出会から不動ノ清水経由で
・表尾根から ・丹沢山から
   尚 小丸尾根は、佐薙さん御用達のコースです。

第4章 「 大山 」

■平成18年8月7日(月)
 秦野駅=蓑毛〜ヤビツ峠〜イタツミ尾根〜大山山頂〜表参道〜下社〜男坂〜大山ケーブル=伊勢原駅   
 (コースタイム  4時間)
 参加者  石井 左右平  山崎 擴  佐薙 恭  本間 浩

 この夏、高齢の石井さん・山崎さんが最後の3000m峰として南アルプスの塩見岳に登ることになり、佐薙さんと本間がお供することになりました。その為のトレーニングを大山で行ったわけですが、1000m近い上り下りと耐暑訓練で十分に目的を達しました。
 大山に詳しい山崎さんの案内で、表参道土産屋通りの蕎麦屋で軽く反省の上散会しました。
 *塩見行は、御二方にそれぞれ事情があり、佐薙さんと本間が三伏峠から塩見岳を登りました。

 大山のトレーニングコースとして、男坂又は女坂から山頂往復が交通の便が良く、階段続きで脚・膝への負荷も大きく効果があると思います。

グルリ丹沢 山行記  第5章〜第7章・章外  本間 浩(昭和40年卒)
         ******2018年6月21日投稿

第5章 「 丹沢主稜縦走  塔ノ岳〜檜洞丸 」

■平成18年10月9日(月・祝)〜10日(水)
 参加者  佐薙恭 本間浩

 9日 各自好みのコースを歩き、夕方尊仏山荘で会うこととした
   ・佐薙 渋沢駅=大倉〜西山林道〜二俣〜小丸尾根〜塔ノ岳
   ・本間 秦野駅=蓑毛〜ヤビツ峠〜岳の台〜表尾根〜塔ノ岳
     (佐薙コース 4時間5分・本間コース 6時間5分)  
 (尊仏山荘泊  夕食 スキ焼)

 10日
 塔ノ岳〜丹沢山〜蛭ヶ岳〜檜洞丸〜石棚尾根〜板小屋沢ノ頭〜箒沢公園橋=新松田駅 (コースタイム 10時間)
 (反省会 若松食堂)

●9日 前に長老の方々と歩いた??蓑毛から柏木林道をヤビツへ、峠から岳ノ台を経由して表尾根のコースを選び、翌日の長丁場に備えて1時間半のピッチで歩くこととした。しかし三ノ塔の下りに掛る所、ヨモギ尾根分岐の辺りで脚が攣ってしまい、即ザックを下しレッドキックを塗るがなかなか効いてこない。経験上、収まったと思って歩き出しても又すぐ攣ることは判っていたので小1時間休むことにした。しかし佐薙さんと尊仏で落ち合う時間が気になり携帯でTELするも圏外。再発を恐れてゆっくりと行者岳、新大日岳と歩き、バテ果てて尊仏に着く。佐薙さんは当然着いているので、すぐ水汲みに不動ノ清水まで行かなきゃならない処だが、その元気もなく山荘の水を買う破目になった。(本間)
 *常連客になって、無料で頂ける様になる前だったのですね。(竹中)

●10日 今日は蛭から檜洞までの長丁場なので気合を入れ、大野さんの「行てらっしゃい」の声に送られて尊仏を出発する。途中丹沢山、鬼ヶ岩、蛭ヶ岳、臼ヶ岳で小休止し檜洞丸まで1時間強のピッチで快調に跳ばす。檜洞で大休止を取り下山路を検討する。ツツジ新道か石棚尾根か、3月につつじ新道を登っているし、以前に登った石棚尾根は気持ち良い樹林帯だったことを思い出し、石棚から??箒沢公園橋への道を採る。しかし気持ち良い下りだけではなく、石棚山の先はヤブ沢ノ頭、板小屋沢ノの頭と昇り降りが続き、結構消耗する。板小屋沢へ下る最後のザレ場で佐薙さんが滑り、腕を擦り剥く。大きな怪我でなく、板小屋沢で応急処置をしてバス停に向かう。例によって新松田・若松食堂で反省会を行う。
 今回の山行で「グルリ丹沢」も年内完結の目途がついた。

 西丹沢は、主脈(塔ノ岳〜蛭ヶ岳〜姫次〜焼山)と主稜(蛭ヶ岳〜檜洞丸〜大室山)を外すと歩く人が極めて少なくなる
 (ような気がする)。
 アプローチが長く、山一つひとつが大きく高低差もあり歩き甲斐があるのですが。特に蛭ヶ岳〜檜洞丸は、あいだに臼ヶ岳を挟み丹沢一の難路と言えます。

 檜洞丸(1600m)は丹沢山塊の中央部に位置して登山ルートが多く、つつじ新道は5月のシロヤシオ(ツツジ)で有名で、登り降りの交通整理が必要な位です。
 
 東   主稜縦走路  臼ヶ岳〜蛭ヶ岳
 北西    〃    熊笹ノ峰〜犬越路(避難小屋)〜大室山 
              〃 〜ヤタ尾根〜神ノ川(ヒュッテ)
 西   つつじ新道〜西丹沢
 南西  石棚山稜〜板小屋沢ノ頭〜箒沢公園橋
 南     〃 〜西丹沢県民の森〜玄倉
 南東  同角ノ頭〜ユーシン(ロッジ)〜玄倉林道〜玄倉
 
 西丹沢は有人小屋・無人小屋(避難小屋)が要所々に点在し、これの組み合わせ如何では長期低額山行が可能になります。
*** ・蛭ヶ岳山荘(年中) ・青ヶ岳山荘(要予約) ・神ノ川ヒュッテ(要予約)
・ユーシンロッジ(避難室) ・黍殻避難小屋 ・犬越路避難小屋
・加入道避難小屋 ・畦ヶ丸避難小屋 ・一軒家避難小屋  ・菰釣避難小屋

第6章 「相甲国境尾根  加入道山〜畦ヶ丸〜菰釣山〜ブナノ丸」

■平成18年11月29日(水)〜12月1日(金)

 29日 新松田=西丹沢自然教室〜白石沢〜白石峠〜加入道山往復〜畦ヶ丸
      (コースタイム 5時間40分)(実行動記録 6時間40分)
      (畦ヶ丸避難小屋 夕食 スキ焼)
  ひたすら本間さん到着を待っていたので、加入道山は行っていません。(竹中)

 30日 畦ヶ丸〜大界木山〜菰釣山〜ブナノ丸〜白井平=平野
      (コースタイム ブナノ丸まで4時間)(実行動記録 7時間5分)  
      (平野 レイク荘)

 31日 平野〜山中湖=御殿場=横浜
      参加者 佐薙 恭  竹中彰  本間 
 本来は、畦ヶ丸の先の菰釣避難小屋に泊り、翌日相甲尾根を高指山まで歩き、下りて山中湖畔平野に泊り、3日目に三国山から東にターンして不老山に向かい、「グルリ丹沢」を完成させる予定でした。
 しかし本間が熱を出し、途中で計画を取り止めにせざるを得ませんでした。
 本間にとっては、西丹沢でのケチの付き始めでした。(本間)
            
●29日 晴れ          
 歩き始めて2ピッチ目辺りから本間が遅れ始め、赤や黄色のカエデが散り敷く道、白石の名前の由来となった大理石の階段をアエギツツ進む。
 他の二名は白石峠(1307m)で30分以上待った。(大室山往復はしていません)その後もペースは上がらず、バン木ノ頭、モロクボ沢の頭を経て、畦ヶ丸に15:00頃に着いた。菰釣山までは無理と判断、畦ヶ丸の避難小屋(1275m)に泊まる。
 本間は到着後すぐシュラフに潜って寝てしまったので、担いで来た公物を開け、材料を探してなんとかスキヤキらしき晩飯を作る。佐薙さんお得意の酒精をポカリで割ったドリンクを飲むが、間もなく佐薙さんも疲労で意識がなくなり(現在地の認識も薄れる)、竹中一人寂しく夕食を摂る。(竹中) 
 歩き始めから調子が出なかったが、睡眠不足の所為だろうからいずれはと思っていたがだんだん足が重くなり、白石峠の手前の登りでは完全にバテ足が前に進まない。これから先は、あと一歩、もう一歩の繰り返しでヤット畦ヶ丸に辿り着く。食事前のひと眠りが1時間以上になってしまい、目が覚めると御二方は酒を飲んでいるようだったが、こちらは飲む気にもなれずそのまま食事抜きで寝続けた。 (本間)
                         
●30日  終日曇り
 本間の調子も戻ったようなので6:45に出発したが、大界木山、城ヶ尾山、ブナ沢の頭を経て菰釣の登り辺りから遅れ始めた。頂上到着が昭文社のコースタイムより50分近く遅れ、昨日の事もあり、また適切な避難ルートの選択を、と考えて11:50に菰釣の先のブナの丸(スカイバレーキャンプ場分岐;現在の地図にはルート表示は無い)から降りる事にした。途中で本間とハグレるハプニングもあったが無事にキャンプ場経由で白井平に出て平野「レイク荘」に迎えの車を依頼し、山中湖畔の「釣りと写真の宿」に着く。(15:30) (竹中)
 朝の寝覚めは快適で、今日は期待できそうだ。しかし菰釣小屋を過ぎた辺りから遅れ出し、菰釣山頂でとても予定通りに行けそうないので、ブナの丸から降りることを伝えた処、それではみんなで降りようと云うことになった。
 道志の白井平目指して遅れながらついていった。途中で道に迷うがシャニムニ下って落ち合う。この道は地図に線が引かれていないが立派な登山道で、どうも下のキャンプ場のオーナーが登山者が通るのを嫌ったからのようだ。(本間)
               
●1日  晴れ    
 なす事もなく御殿場経由で帰る。(竹中)
 帰って測ったら38度数分あった。どうも風邪だったらしい。(本間)

 畦ヶ丸避難小屋は室内が広く、トイレは別棟に在り環境が良い。主脈の焼山の近くに在る黍ガラ避難小屋と並んで推奨できる小屋です。

第7章 「相甲国境から相甲駿国境尾根 菰釣山〜三国山〜不老山」

■平成19年4月26日(木)〜28日(土)

 26日 都留駅=道の駅「道志」=タクシー=三ヶ瀬川西沢ゲート〜ブナ沢乗越〜菰釣避難小屋 
      (コースタイム 50分+α)(実活動記録 1時間50分)
      (菰釣避難小屋 夕食 スキ焼)

 27日 菰釣小屋〜菰釣山〜石保土山〜高指山〜三国峠=平野
     (コースタイム 5時間25分)
     (小屋発6:40 三国峠着13:58  7時間18分) 
     (平野  レイク荘)

 28日 平野=三国峠〜三国山〜湯船山〜世附峠〜不老山〜向河原=新松田駅      
     (コースタイム 6時間45分)
     (三国峠発7:10 不老山登山口着14:30  7時間20分) 
     (反省会  若松食堂)
     参加者  佐薙恭  竹中彰  蛭川隆夫  本間浩  高橋結子(蛭川さんの姪 26・27日参加)

 所定通り「グルリ丹沢」を完成させた。しかも女性参加のオマケ付き、イヤメデタイ。画龍点睛を欠いたのは、又も本間にご不幸があり、その為彼は完全走破とはならなかった事です。誠に残念。(竹中)
 今回で「グルリ丹沢」が完成しました。しかも初めて女性が参加し丹沢踏破を飾ってくれました。ひとつ残念なことは、2日目本間が体調を崩し、未通部分が残ったことです。(本間) 

●26日  晴れ時々曇り
 12;05に蛭川さんの姪御さん、高橋さんも加わりいい雰囲気でスタート。
 歩いて2時間弱でブナ沢乗越経由で新装なった菰釣避難小屋へ。楽勝のスタートとなった。(竹中)

●27日  晴れ
 6:40に出発するが、出だしの菰釣山の登り、山頂下数十メートル地点で本間の脚が攣り、皆も頂上で45分ほど動けない。このままでは全体が遅れるので、菰釣山頂で2チーム(佐薙 竹中 高橋組・蛭川 本間組)に分ける。
 この先の相甲国境尾根は比較的小さな上り下りの繰り返しだが、下り基調であり問題もなく歩く。本隊は計画通り14:00前に三国峠に到着し、冨士山、山中湖の絶景を楽しみ、車を呼び「レイク荘」へ。後続隊は鉄砲木ノ頭(明神山)の手前の切通峠から宿に向かう。翌日三国峠からスタートするため、本間は両峠間が一部欠となった。
 高橋さんは仕事があり、食事の後帰ることになった。(彼女とは翌年2月同じメンバーで雪の権現山(扇山の北)に行った。ガッツある女性であった) (竹中)
 前回に次ぐ失態で、皆さんにはご迷惑をお掛けしました。脚が攣ったのは朝飯を食べ過ぎた結果血液が胃に集中し、脚に廻らなくなったために起こったものです。食べ過ぎないよう注意してきたつもりですが、ダラシナイ話です。
 道中は蛭川さんとゆっくりユックリ歩いたので再発もせず、切通峠から平野に向かいました。(本間)

●28日 晴れ時々曇り 夕方豪雨
 「グルリ丹沢」完成の日であり気合を入れて、7:10に三国峠を出発し、トラブルも無く世附峠で大休止(11:15―30)を取り、不老山に着く。後は下りを残すだけと気持ち良く足取り軽く・・・、バス停手前で急に雨が降り出しバス停に着いた頃(14:30)には豪雨に変わった。付近には雨を避ける建物も木も無く、ザックを開けて雨具を取り出そうにも中までビショ濡れになりそうでそれも出来ない。30分余雨に打たれながらバスを待った。
 そのときバンタイプの車が止まり、「どうぞ」と言ってくれるではないか!「地獄に仏」と早速く乗り込む。聞いてみたら、ドライバー氏も過去に同じように雨の中車に拾ってもらった、とのこと。新松田駅まで送ってもらいましたが、イヤー有難かった、助かりました。
 駅前の「若松食堂」で盛大に打ち上げを行い計画完遂を祝する。(本間 竹中)



章外   追試
  
 この山行は、前7章で本間が切通峠と三国峠の間を歩いていなかったので、特別に追試の機会を与えてもらった事と忘年会を兼ねたものです。
■平成19年12月20日(火)〜21日(水)

 20日  御殿場=篭坂峠〜三国山〜三国峠〜切通峠〜平野(平野 レイク 荘)
 21日  平野〜石割山〜長池山の先〜ハリモミの純林〜新畑=御殿場駅
      
 参加者  佐薙恭 山崎擴 竹中彰 蛭川隆夫 西牟田伸一 本間浩
    
●20日 晴れ  
 山は問題個所も無く、楽しく忘年会を行う。

●21日 晴れ 
 山崎さんと西牟田さんは帰り、残った4人でのんびり山歩きを楽しんだ。









■山岳部再生に活躍した学生達とOBの支援活動      2017.11.28  藤原 朋信(昭和44年卒)
                      ******2018年1月2日投稿

1.FN 短大前
【前書き】廃部の危機から山茶(花)部時代
 2005年3月に鳥本さんが卒業すると部員は留学生(2年生)のコンスタンチン君1人となり、彼が卒業する2008年3月まで風前の灯状態が続きました。4月からはいよいよ現役部員が0になると竹中会長以下憂いました。そこで救世主の枠割を果たしたのが佐藤(力)さんでした。佐藤さんは現役時代1〜2年山岳部、3〜4年茶道部で活躍し、2007年6月に針葉樹会に入会しました。当時、茶道部の師匠であった佐藤さんは山に興味を持つ部員に声をかけ、2008年4月に6名が山岳部に登録し、辛うじて名が残りました。この時に3年生で入部した糟谷君は卒業後は懇親山行に積極的に参加し、若手OBとして活躍しています。この流れが2011年まで続きました(或るOB曰く「山茶花(さざんか)部時代」)。この年、2年生の小宮山君、町田君が入部するに及んで再生への切っ掛けになりましたが、これに繋いだ意義は大きかったです。 
  文責:中村 雅明(昭和43年卒)

 私は2010年秋に、北岳バットレス要員として招集された時から、本間さんとの交流が始まりました。本間さんは当時学生へのOB窓口として、山岳部再生に注力されていました。

 本間さんや金子さんの話では、学生は山よりクライミング(ボルダリング)に興味があるので、私のクライミング活動が学生勧誘に効果的かもしれないとのことでした。

 私も、現役学生がいない時に前神さんが、入学式の日に勧誘ビラを配ったとか、OBの方々の涙ぐましい努力を聞いていたので、出来る限りの協力はすると本間さんに伝え、クライミング希望の学生が現われれば、長野県の廻り目平(クライミングのメッカ)近くの山荘に送り込んでもらう事にしました。

 しかし、本間さんの働きかけにも、当時の学生の動きは鈍く、空しく2年が経ちました。この頃、宮武さんは、まともに返信も寄こさない学生を相手に、富士山登山を企画推進して悪戦苦闘していました。2013年になった頃、世間では山ガールブームとなり、山岳部にも女性の部員が入部するようになりました。

 2013年の9月に、学生担当だった川名さんと相談し山荘で女子会を開催、音大生の菊田さんを編笠山に誘ったのが初めとなり、続く10月にはFN短大を発足し、第1回目の石割山山行を中村(雅)さん、峯君と3人で登りました。

 同じく10月に、長島、伊藤両君と、宮武さんが東京から車に乗せてきた原さん、菊田さんと4人の学生が山荘に宿泊、蛭川、本間、佐藤(久)、吉川、中村、宮武、山田夫妻、のOB諸氏が近くの岩根山荘に宿泊し、夜、中村さんの進行で懇親会が持たれました。この規模での学生とOBの宴会は久し振りだったと思います。

2.FN短大、2014年
 
 2014年に入り、第7回目の短大山行が鎌倉で実施されました。今から振り返ると、このOB9名、学生2名(原さん、辰川君)の山行が、学生拡大のターニングポイントだったと思います。
 横浜に場所を移して行われた新年会は岡田さんの進行で、各ОBが、学生に寄せる熱い思いを語り、途中からは小島さんが場を取り仕切り盛り上げて、原さん、辰川君は部員を増やすという使命感をしっかり心に刻みつけた一夜になりました。

 その後の二人の活躍は目覚しく、体験山行として多くの学生が参加するようになりました。
ある山行で、原さんに言われて参加したという4年生に、原さんとは親しいの?と聞いたら、実はあまり原さんのこと知らないんですとの返答があり、それほど知らない人にまで声掛けしてくれているのに感激したものです、辰川君は翌月の2月に上君を連れて参加、以降、中野さん、大谷さん、岡田君と輪が広がって行きました。

 2014年4月の新入生勧誘は辰川,上、両君を中心に学生が自主的に実施し、大矢君が4月に入部、内海君は5月の川乗山に体験参加したものの、テニス同好会に入部し、しばし山とは縁のない学生生活をおくっていました。

 8月に宮武さん企画の第2回富士山が実施され、内海君も参加したのですが高山病にかかり、頂上に登れず、私が付き添って下山することになりました。高崎(治)さん、小島さん主催の打ち上げ会で内海君に、そろそろ山岳部に入ったらどうか?と言うと、しばらく迷っていましたが、最後に入部を決意してくれました。この時私の向いに座った黄さんも、入部すると宣言し、2回にわたる富士山を推進した宮武さん、OB諸氏の努力が大きく報われた瞬間でした。

 2014年の短大山行で、後に大きな意味があった山行は、5月の生藤山と10月の丹沢でした。初心者の学生にとって厳しい山行でしたが、終わった後で、各人が次の課題、目標を見つけて大きく羽ばたいてくれました。生藤山では太田君、西山君、丹沢では大矢君、内海君達です。

 中国人学生の黄さんは入部後精力的に短大山行に参加し、翌年入部した中国人学生のよきお姉さん役を果たしてくれました。


3.2015年

 2015年の新入生勧誘は圧巻でした、大矢君、内海君が中心になり新歓山行が3回催され、大矢君のホームページとの相乗効果で多数の新入生が入部しました。これ以上集まると対応不能なので募集を打ち切るという、これまで学生に関わってきたOBからみて信じられない展開となりました。

 ここまで学生による、自主再建が進むと、短大活動は逆に学生の自主性を損なう恐れもある為、5月末で終了卒業と決めました。5月に毎年金子さん主催で実施しているOBの八ヶ岳スーパートレイルとコラボで短大の卒業山行を実施することにしました。

 5月30日山荘に集まったのは、学生11人と中村さん、私の13人です。山荘の収容キャパを超える人数でしたが、食卓で焼き肉をつつく11人の学生を、脇のベンチから中村さんと私が眺め、当初全く学生の参加がないところからスタートした短大山行が盛会のうちに終わる喜びを噛みしめたものです。

 翌日、野辺山高原でOBの佐薙さん、小島さん、三森さん、金子さんと落合い赤岳県界尾根を登って行ったのですが、その時の様子は、金子さんの生き生きした記録に残されています。
 部室のペンキ塗り等、長年学生をサポ−トしてきた金子さんにも11人の学生の集団は新鮮な驚きであったようです。

 2014・2015年当時の主将は、上君や内海君のように1年生からの入部ではなく、3年生になってからの入部で山経験は殆どない状況でしたが、長島君、高橋君両君とも組織の運営、マトメに抜群の能力を発揮し山岳部の発展に寄与してくれました。長島君の時に、部員拡大の起点となった原さん、辰川君が活躍して、山岳部のよき伝統である自主性を十分発揮してくれたのだと思います。

 短大終了後も暫くは補講として、2015年8〜9月に太田君と3回の沢登りを、2016年3月に坂本君と新雪の笹子雁ヶ腹摺山、5月に大矢君と黒岳、節刀ヶ岳、坂本君、曲君と乾徳山から黒金山の山行を実施しましたが、それで完全に終了しました。この補講まで入れるとFN短大の活動は2年8ヶ月、山行回数48回に及びました。    以上





■2016年10月 故大塚武氏遭難関係資料

  ※大塚武氏(昭和16年卒)神威岳遭難事故に関しては以下の『針葉樹会報』を参照
     『針葉樹会報』第64号 (1984.12)
     大塚武氏への以下追悼文が掲載されています。
 ・弔辞「大塚武氏」  望月達夫
 ・大塚武君のこと 望月達夫
 ・大塚さんを懐う 根本大
 ・大塚さんとの四十六年  山田亮三
 ・ご両氏の連続急逝を悼んで――最近登山同行の印象記  
                      久保孝一郎
  ※当HPに以下が掲載されています。
   『サロン』−『会員消息』
     2012年11月13日  『(JAC)北海道支部通信』第87号に「大塚武第5代北海道支部長遭難レリーフを訪ねて」の
                  記事が掲載されました。
   『トピックス』
     2016年7月8日 神威岳山麓に大塚武先輩の遭難レリーフを訪ねました。
                                     小島 和人(昭和40年卒)


 ●『故大塚武氏遭難難関係資料一覧』
    (編集子より)
     1965年から札幌に在住し、大塚武氏と親交深かった小野肇会員(昭和40年卒)が個人資料として保管されていた以下の
     資料が2016年7月に針葉樹会に寄贈されました。

  ※以下の下線付き資料名をクリックすると資料全文PDFをダウンロード出来ます。

  1.故大塚武殿銀行葬パンフレット  北洋相互銀行
     銀行葬:昭和58年9月8日 午前11時  於札幌霊堂
     ・式次第
       望月達夫一橋山岳会代表が弔辞
       故人の絵画(萩伏から神威岳を望む)が掲載されている。
     ・略歴
     ・銀行葬委員

  2.利尻山と大塚君の七回忌  望月 達夫(昭和13年卒)
     『ヌプリ』第19号(平成2年4月)に所収
     ・平成元年(1989年)7月29〜30日 大塚元支部長七回忌供養山行(JAC北海道支部)
      望月達夫、佐々木誠(昭和14年卒)両会員が参加

  3.大塚武元支部長13回忌追悼山行・登山届  JAC北海道支部
     ・平成7年(1995年)8月14〜16日:17日予備)
       神威山荘から神威岳往復
     ・小野肇会員(昭和40年卒)参加

  4.大塚武元支部長を偲ぶ会  JAC北海道支部
     ・【日高山脈・神威岳遭難没後20年 追悼集会と登山・計画書】
     ・平成15年(2003年7月12〜13日)
     ・A班:神威山荘待機 B班:レリーフまで C班:神威岳往復

  5.大塚武元支部長追悼・神威岳登山  
     『支部だより』No.25 2003年9月号 JAC北海道支部 に所収・
     ・大塚武元支部長を偲ぶ会の実施報告

  6.新聞記事切り抜き集  小野 肇(昭和40年卒)
    (編集子より)
     遭難発生から遺体発見、葬儀に関する新聞記事を網羅しています。これを通読すると大塚氏の遭難が北海道岳界、
     経済界にとっていかに衝撃、大きな事件であったことが判ります。以下に各記事の見出しを収録しました。

   1)1983.8.30『北海道新聞』
     単独登山の大塚(北洋相銀)会長 神威岳から帰らず
   2)1983.8.31『北海道新聞』
     水筒、ツエを発見 神威岳 大塚さんの捜索難航
   3)1983.8.31『北海道タイムス』
     大塚(北洋相銀)会長、遭難か 神威岳 食料と装備残し
   4)1983.8.31『北海道タイムス』
     山容に魅せられ再登頂 大の山岳愛好家 本道の山に詳しく 大塚さん
   5)1983.8.31『北海道タイムス』
     情報不足、募る不安 山岳地帯、無線届かず
     捜索に北大、山のかいなど 道警きょう空から
     下山ルート誤る?
     イライラ対策本部
   6)1983.9.1『北海道新聞』
     空から捜索 応答なし 大塚さん憂色深める関係者
   7)1983.9.1『北海道タイムス』
     なぜ水筒置き去りに・・・
     なぞ深まる大塚さんの遭難 「なにか不可解」首かしげる関係者も
     捜索隊にあせりの色
   8)1983.9.1『北海道タイムス』
     依然手掛かりなし 行方不明の大塚氏 沢や危険個所を捜索
   9)1983.9.3『北海道タイムス』
     沢や峰を重点捜索 不明の大塚会長 有力手掛かりなし
  10)1983.9.4『北海道タイムス』
     沢に滑落、負傷か ルートの反対側 ザック、靴見つかる
     自衛隊員2百人きょう捜索
  11)1983.9.4『北海道新聞』
     大塚さんがビバークか 神威岳 サブザックなど発見
  12)1983.9.5『北海道新聞』
     大塚(北洋相銀会長)遺体で発見 捜索7日目沢に迷い込み衰弱?
     大塚さん遭難 「恩人の死」肩落とす岳人
     老クライマー慎重さ通じず 「今度こそ」が裏目
  13)1983.9.5『北海道新聞』
     無線の悲報にため息 大塚さん発見 やっぱりだめか・・山小屋に重苦しさ
     残念ですと武井会長 沈痛な北洋相銀対策本部
  14)1983.9.5『北海道タイムス』
     大塚(北洋相銀)会長 遺体で発見 神威岳 十勝川の沢で
  15)1983.9.5『北海道新聞』
     神威岳遭難 滑落か、顔や足に負傷 
  16)1983.9.5『北海道タイムス』
     信望厚く人情家 大塚さん
  17)1983.9.5『北海道タイムス』
     なぜ十勝側へ 何かが起きた 行動ナゾ
     学友失い深い悲しみ 言葉も出ぬ山の仲間ら
  18)1983.9.5『北海道タイムス』
     大塚氏を悼む
  19)1983.9.6『北海道タイムス』
     大塚さん無言の下山
     悪条件下の過労死 致命的外傷なし ルート誤る
     長男・謙一さんが記者会見 「山の人たちがよくやってくれ本人も幸せでした」
     ほほえむ遺影に涙 家族でしめやかに仮通夜
  20)1983.9.6『北海道新聞』
     大塚さんは病死 神威岳遭難 遺体、札幌の自宅へ
  21)1983.9.8『北海道新聞』
     大塚さん最後の微笑 念願の神威岳頂上で
新聞記事9月8日道新




■2015年10月  『故中村慎一郎君追悼録』補足
 (編集前書き)
1. 2015年10月7日にしばらく所在不明であった故中村慎一郎君の遭難慰霊碑を発見し、慰霊した帰路、車中で遭難当日の下山の模様について遭難パーティーの藤原さん、松尾さんが思い出を語りました。
2. 藤原さんは帰宅後、「まだ記憶らしきものが断片的にでも残っている内に整理したい」と記憶の掘り起こし、資料の読み直しをされ、当時いろいろな事情で整理しきれなかった事を纏めました。松尾さんもそれに協力されました。
3. それらを遭難2年後に発行された『故中村慎一郎君追悼録』を事故後50年を機に補完する位置づけで掲載します。


『故中村慎一郎君追悼録』昭和45年6月1日 表紙

●2015年10月14日 その(1968年5月1日遭難)後の事  藤原 朋信(昭和44年卒)
1. 当日の行動
4時40分 出発
6時頃  事故発生(曲沢に転落)
6時半 死亡確認
7時半頃? 登行中の長崎山岳会2名に連絡を依頼。(13時20分両氏大町署に届出)
15時45分 山田・大橋OBがエコノミスト村に現地連絡本部設置)
21時20分 俵、大町署に出頭。
2. 遭難パーティーの行動
8時頃  下山開始(俵・戸川が死亡確認後、天狗尾根に上がって、合流した経過時間を1時間半と推定)
10時頃 右折点を見落とし、直進、大川沢に降り立つ(標高差700mの下りから時間推定)
降りた地点は、荒沢出合の1km上流(道があれば15分で出合にでる距離)。
渡渉・へずり・高巻きで下流へ進もうとするも、増水した雪解け水にはばまれ左岸の尾根に逃げ込む。
13時頃 小遠見山からの枝尾根に出る。300mの標高差で急登の筈だが、この間記憶なし。
尾根に這い上がってから初めて大休止。漸くパーティーから声が出始める。
この後、尾根筋を下るがこの間の時間経過は記憶なし。
16時頃 再び大川沢に向け下り始める
途中ザイルでの降下もあり、時間を要したと思われる。
19時頃 荒沢出合と営林所の中間地点の登山道に降り立つ。
19時半頃 営林署について電話を借り、タクシーを呼んでもらう
タクシーの運転手が、我々が遭難パーティーだと思わず、遭難の話をする。
20時半頃 鹿島山荘着、俵は飯を掻きこんで、タクシーで大町署へ出向く。
3. 記録
 一橋山岳部の追悼録に事故後の遭難パーティーの行動は藤巻の追悼文に1行のみ触れられている。「少し道を違えて大川沢に降り立った時、やっと一つの休息にありつくことができた。」
 この文章をどう解釈するかは、藤巻が故人になっているので、推測になるが、彼にも心の封印作用が働いていたのではないかと思われてならない。
 10時間を越える下山行動を少し道を間違えたで済ますのは不自然であり、休息にありつけた時点は尾根に這い上がった時の大休止で時間も大分飛んでいる。藤巻自身の言葉を借りれば「ほとんど想像できない奇妙な興奮と虚脱の入り混じった気持ち」の中での体験だからこその表現かと思う。俵の表現ではボンヤリした状態となる。
 遭難メンバーの戸川は当日の行動を全く覚えていない。心の封印作用のせいか、単なる物忘れか良くわからない。
4. 教訓
 当日は天気も快晴で、事故後の集団虚脱状況の中では、二重遭難の危険も感じなかったし、疲れも覚えなかった。しかし、冷静になって振り返れば遭難一歩手前だったのかもしれない。
 増水した大川沢を渡渉するのは、通常の精神状態なら無かっただろう。
 登山の原則で、間違った地点に引き返すのが正しい選択だが、それを考えもしなかった。
 藤原の場合は、下界には下りたくないから、いつまでも山中を彷徨しても良いといった異常心理でもあった。他のメンバーも似たような状況だったと思う。
 事故現場から200m(標高差)下りた地点で、右のアラ沢に方向を転ずるのが残雪期のルートであるが、この間の記憶が飛んでいるので、何故道を間違えたか良くわからない。正確に言えば大勢の登山者でつけられたバケツ状のラッセル跡をわざわざ外して、新たにラッセルしながら大川沢方面に直進したことになる。ラッセル跡が無くなれば、通常ならパーティーの誰かが、道がおかしいのに直ぐに気がつくはずなのに500m下って大川沢にでてから「シマッタ」と初めて気づいたのだから、集団パニック+夢遊病が想像以上にひどかったともいえる。
 日が暮れる頃、営林署近くの登山道に下りたわけだが、後30分も彷徨に時間がかかっていれば、日暮れで立ち往生しビバークを余儀なくされたかもしれない。疲れを感じていなかったとはいえ、感覚が麻痺してたのだから実際は大分疲労していたと考えられる。疲労凍死の可能性も零ではなかったろう。

●2015年10月15日 再整理の追加  松尾 信孝(昭和48年卒)
 付け加えますと、あそこで誰かを連絡員として走らせてパーティーを分けていれば、よりリスクが高まり悲劇になっていた可能性もあるので、せっかくあそこまで登って来ていた長崎の方に連絡をお願いしたということは、結果的には適切な判断であったと思います。






■『小谷部全助資料』
 1:『小谷部家・家系図』
 ※上の下線記事名をクリックすると該当記事にジャンプします。
***********
 2:『山日記』(抜粋版

大町山岳博物館所蔵『山日記』

  ※以下の下線年度名をクリックすると山日記(抜粋版)をダウンロード出来ます。
  1)1934年(準備中)
  2)1935年
  3)1936年(準備中)
 ***********
 3.針葉樹会報のPDF版
  ※以下の下線記事名をクリックすると記事全文をダウンロード出来ます。
  1)第14号 小谷部のハガキから(望月達夫)
  2)第31号 小谷部・森川両君のこと(柿原謙一)
  3)第49号 小谷部・森川両氏の年忌に憶う(船本文治)
  4)第50号 小谷部・森川両氏の年忌に憶う(二)(船本文治)
  5)第59号 小谷部・森川両君の手紙(一)(望月達夫)
  6)第60号 小谷部・森川両君の手紙(二)(望月達夫)
  7)第75号 小谷部全助・森川真三郎 両畏兄の追想(宮城恭一)
  8)第98号 山の仲間から望月さんへの手紙 (小谷部全助)
  9)第112号 別冊付録 小谷部全助 文献抄(砂田定夫)
  10) 第119号 小谷部全助山行譜 (倉知敬)

■小谷部家・家系図

 (編集前書き) 
本家系図は小谷部全助の甥の洲崎卓夫氏の二女のMYさんからご提供いただきました。ご提供に至った経緯は家系図の後に述べます。

 下の家系図画像をクリックして下さい(A4版家系図がダウンロードされます)


【家系図ご提供の経緯】

●2014年1月1日 山崎孝寿さんへの年賀状でMYさんが
 「先日、亡父のおじにあたる小谷部全助さんという人のことを一橋大学・山岳部のH.P.で見ていたら山崎さんの写真を発見!! 美しい心をもっている人は美しい写真を撮るのですね(笑)にビックリしました....」と付記されました。
(編集注)
** 1. 亡父:洲崎卓夫氏
2. 山崎孝寿さんは証券会社で勤務していた時にMYさんの上司。2008年8月に開設された本HPの管理を開設以来担当されています。2009年6月に針葉樹会の特別会員に推挙され、ご自身の山行記、写真を本HPに投稿されています。今回MYさんがそれをご覧になりました。
3. 生田正子さん(小谷部全助の姪、洲崎卓夫氏の妹)が小谷部全助の『山日記(1934.1935、1936)』を大町山岳博物館に寄贈されました。

●2014年1月6日 山崎孝寿さんのMYさんへの返信
 MYさん、年賀状見て驚きました。
 一橋大学山岳部のホームページは私が制作・管理を任されており、小谷部全助さんの資料のデジタル化やHPアップは私が行ったものです。
 その小谷部全助と親戚とはビックリです。一橋山岳部(針葉樹会)の皆さんとは色々縁があり(証券会社で香港勤務時代に知り合ったのがきっかけで台湾やヒマラヤ、ブータンにも一緒に行きました)現在もお世話になっている方が多いのです。
 一橋大学山岳部のHPに小谷部全助さんのページを充実させたいとの声もあがっていますので、もしかしたら古い資料か何かのことでMYさんにお願いすることが出てくるかもしれませんので、その節はよろしくお願いいたします。
 取り急ぎ年賀状を見て感動と縁に感謝です。

●2014年1月23日 山崎孝寿さんへのMYさんの返信 
 お葉書ありがとうございます。大変嬉しく拝読しました。
全助さんの父親の小谷部全一郎さん(私の曽祖父)のことは何かと話題となり資料などを目にすることが多かったのですが全助さんのことは息子の大学受験の時、一橋大学のH.P.を見ていて そういえば・・・と山岳部のH.P.を見て偶然に山崎さんの写真を目にしたのです。その時には今だに全助さんのことをH.P.に残して下さっている方がいることに感謝しました。それをして下さっていたのが山崎さんだったとは本当に驚きました。ありがとうございます。
 全助さんと父(卓夫)は品川区大井町で一緒に暮らしていた時期もあり全ちゃんというおじさんの話はよくしていました。父の弟の幸久(H12没)は全助さんの影響をうけて東北大学の山岳部に所属。晩年まで登山をしていたそうです。幸久さんの奥さんに以前全助さんの資料はどこかの山の資料館へ寄付したと聞いたことがありますが・・・ 残念ながら私の手元には全助さんの資料はありません。
 2年前に亡くなった父や昨年11月に亡くなった父の妹(生田正子)がこのことを知ったらどんなに喜んだことでしょう。
今は小谷部家と洲崎家のお墓が茨城県の古河市の光了寺という所にあって全助さんも確かそこに眠っていたと思います。(今度確認しておきます)(中略)
 もし機会がありましたら一橋山岳部の皆様によろしくお伝え下さい。(後略)
◎家系図のようなもののコピーがありましたので一緒に送付します。
                    
(編集注)
** 1. 本手紙、家系図が1月23日に開催された針葉樹会の新年会で山崎さんから紹介されました。
2. 小谷部全一郎
  1867年(慶応3年)12月23日〜1941年(昭和16年)3月12日。
  牧師、教師、アイヌ研究家、また義経=ジンギスカン説と日猶同祖論の提唱者。
  北海道アイヌ虻田学園創始者、勲六等旭日章を受賞。
  成吉思汗ハ源義経也』は大正末期のベストセラー。
3. 当HPに掲載した家系図は原図よりMYさんのお父上とご兄弟まで収録しました。

●2014年3月8日 HP「小谷部家・家系図」  蛭川 隆夫(昭和39年卒)
     ******2014.3.8の山崎さん宛てメールより転載

  山崎さん
蛭川です。こんばんは。
題記の件、大変興味深く拝見。まったく世の中は狭いですね。
どこでどうつながりが生まれるのか…。
編集注に「北海道アイヌ虻田学園創始者」とあるのに刺激されて、全一郎を調べていたら「北海道キリスト教史研究に関わって−小谷部全一郎のことども−」なる16ページの研究ノートに遭遇。それによると、全一郎はキリスト者として北海道で10年間にわたりアイヌ教育に努め、その後上京したとありました。全助が生まれたのは、上京して数年後のようです。また、「在米中、人類学、考古学を学んだ」ともあり、この辺は小生の最近の関心事でもあるので、そうかと感じた次第。
 (後略)

●2014年3月26日 小谷部全助、全一郎  山崎孝寿
      ******2014.3.27のHUHACメールより転載
 みなさん、こんにちは。
今回、小谷部全助関連の情報を充実させるに際し全助の父である全一郎にも関心を持ち、彼の著作(英文)「ジャパニーズ・ロビンソン・クルーソー」の翻訳本を読んでみました。
翻訳者は全一郎の孫にあたる生田正子さんのご主人の生田俊彦さんです。
 この本というか全一郎が凄いんです。北海道から千島列島を経てアメリカを目指そうとしたりアメリカにたどり着く迄がまさに大冒険で全助のDNAはまさにここにありといった感がしました。
 米国に渡った全一郎はクリスチャンとして数々の功績を残しますが疑問だったのがなぜ、その全一郎は生前に真宗大谷派の古刹「光了寺」(古河市)に墓を建て、全助とともにここに永眠するようになったのか?
 そのヒントがこの本の巻末にあり先日の休日に全助の墓参り&報告&御礼を兼ねて古河へ足を運んでみました。全助の父、全一郎は帰国後た義経=ジンギスカン説や日猶同祖論を提唱していますがこの義経絡みで静御前との縁の深い光了寺に墓があります。光了寺には全一郎、全助のほか、今回ホームページに関し協力いただいたMYさん、洲崎家のお墓も一緒にあり、ここには東北大学山岳部出身でやはり全一郎の孫にあたる洲崎幸久さんも眠っているそうです。
 小谷部、洲崎家のお墓のある光了寺のあと栗橋駅のそばにある静御前の墓所も訪問。ここには全一郎が私費を投じた義経招魂碑もありました。
以上、報告まで。

●2014年3月27日 小谷部全一郎−Wikipedia  中村 保(昭和33年卒)
      ******2014.3.27のHUHACメールより転載
 小谷部全一郎のことは、山岳文化学会の小谷部全助研究家の砂田さんのアレンジで、数年前に生田さんが日本山岳会有志の皆さんにお話をされたことがあります。小生も出席しました。
添付ご覧下さい。
※ここをクリックすると添付資料「小谷部全一郎」(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia』 をダウウンロード出来ます。
(編集注)中村さんは2009年3月19日に以下のメールを会員向けに送付されています。
 昨夕、日本山岳会の同好会で砂田定夫さん(小谷部全助論考を針葉樹会報の掲載させて頂いた)の「小谷部全助を語る」集いがありましたので出席しました。全助の姪にあたる生田正子さんが来られ、知られざる逸話(特に富士見での小谷部全助・森川真三郎の死)と全助の父の全一郎につての話を聞き感銘を受けました。 下記はインターネットからのコピーです。  中村 保
小谷部全一郎
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
  以下添付資料全文


●2014年3月27日 山崎孝寿さんへのMYさんのメール返信 

山崎様
光了寺までわざわざお墓参りしていただきまして本当にありがとうございます。
洲崎の向かいにある小谷部の大きな石のあるお墓に全助さんも入っていると思います。
小谷部のお墓のお骨は井戸のようなもので地中深くに入っていると聞いたことがあります。
小さいころから法事などのたびに、なんでこんな不便な場所にお墓があるの!と親戚で言っていますが。
(Y子のひいおじいちゃんが静御前の生き方に惚れたからだよ?とよくわからない説明を父から聞かされたものです。)

先月の下旬に全助さんのお墓参りに日本山岳会の方がいらしたそうです。
(父の弟の幸久も洲崎のお墓に入っていて、幸久は日本山岳会に所属していたのでその時の知り合いの方が幸久の命日のお参りとかねていらしてくれたそうです)
いとこや叔母など皆、大阪など遠方に住んでいて私がいちばん近いこともあり季節のお参りにいっています(3月21日に行きました)
ありがたいもので未だに全一郎の熱烈なファンの方などがいるそうで時々お参りに来てくださる方がいます。

ジャパニーズロビンソンクルーソーも読んでくださってありがとうございます。
生田俊彦はあの生田です。
私が高校卒業のころ叔母と結婚しました。
そして叔父の紹介でT社(注・山崎孝寿さんのいた会社)に入社したわけです。
(中略)
今はお手伝いさんはいるものの89歳で一人暮らし。
今週の日曜日に久しぶりに会う予定です。かなり弱っているようなので今回の山崎さんや一橋山岳会の方のことを話すつもりですが、どのくらい理解してもらえるかは分かりませんが喜ぶと思います。

全一郎の冒険心はうちの息子にも受け継がれているようです。
親としてははらはらすることも多く大変ですが・・・

MY
         
▼小谷部家の墓と静御前の墓碑(写真・山崎)
(クリックすると大きく表示されます)
小谷部家のお墓がある光了寺
(茨城県古河市)
全一郎、全助の眠るお墓
この向かいに洲崎家のお墓も
JR栗橋駅(埼玉県久喜市)
近くにある静御前の墓所
栗橋は静御前ゆかりの地として
静御前まつりも開かれている
全一郎が建てた義経招魂碑 招魂碑の裏に全一郎の名前と
昭和4年9月15日とありました。

■『山讃賦』資料


1:『山讃賦 一橋山岳部に寄する』(増山楽譜)
 ▲クリックすると記事全文をダウンロード出来ます。

***表紙(1頁):山讃賦 一橋山岳部に寄する
***2頁:楽譜
***3頁:楽譜
***4頁:歌詞



**
2:『山讃賦』(ピアノ演奏)  演奏:菊田 果琳
  ▲クリックすると演奏が再生されます(mp3形式、再生には音声再生ソフトなどが必要です)。
3:「山讃賦」由来 増山清太郎  『針葉樹会報』第77号 24〜26頁
  ▲クリックすると記事全文をダウンロード出来ます。
  ▼以下、下線記事名をクリックすると該当記事にジャンプします。
4:山讃賦の楽譜(HUHACメール) 佐薙 恭、中村 雅明、蛭川 隆夫 
5:山讃賦の歌詞の読みについて  (有志のメール集成)
6:山讃賦の歌詞(その1:標題) 蛭川 隆夫
7:山讃賦の歌詞(その2:1番の白銀と霊香の読み) 蛭川 隆夫
8:山讃賦の歌詞(その3:2番の崇厳?荘厳?祟厳?) 蛭川 隆夫
9:山讃賦の歌詞(その4:4番の殿堂と宮廷の読み) 蛭川 隆夫
10:部歌の標題は山讃賦か讃山賦か(再論)  蛭川 隆夫
                      *******2014年10月24日投稿
■4:山讃賦の楽譜 

■2013年5月〜6月 山讃賦の楽譜 
●2013年5月20月 山讃賦の楽譜  佐薙 恭(昭和31年卒)
     ****** 2013年5月20日のHUHACメールより転載

S31卒の佐薙です。
山讃賦の楽譜をどなたか持っていませんか? 以前会報かなにかで見た記憶があるのですが思い出せません。探している訳は 故石井さんのお嬢さん(アメリカ在住)からメ-ルで「父が時々歌っていた山岳部の歌がなつかしいが忘れてしまったと母が言っています。私は知らないので知りたいと思いyou-tubeなどトライしたのですが見つかりません。」との連絡があったのです。小生 歌詞は持っていますが 楽譜を一緒に送ってあげたいと思っているのです。よろしく。

●2013年5月20日 Re:山讃賦の楽譜  中村 雅明(昭和43年卒)
     ****** 2013年5月20日のHUHACメールより転載(一部改訂)

 山讃賦の楽譜につきまして幹事の立場から以下ご連絡致します。
 1.図書幹事から
   ・山讃賦の作曲に関して『針葉樹第15号』の「一橋山岳部&針葉樹会年表」の327頁
    に12.9の日付で記述されています。
   ・「同上 文献集」364頁 10−3の文献の一つとして
    『針葉樹会報』(復刊)第77号 増山清太郎「山讃賦」由来 を掲載しています。
    当該会報の24頁に楽譜が載っています。但し、縮小されていますので判読しずらいと
    思います。小生の手元にB4サイズの楽譜コピーがありますので明日郵送致します。
2.ホームページ(HP)幹事から
    一橋山岳会のHPの「針葉樹会会員資料」−「会務報告」−「平成21年度新年会報告」
    の記事の”三井副会長閉会挨拶&山讃賦が聞けます”ボタンをクリックすると、三井
    さんのご挨拶の後に山讃賦合唱が聞けます(雑音が入っていますが)
    ご参考までに音声ファイルと添付します。

●2013年6月19日 山讃賦の楽譜(増山さん所蔵品) 蛭川 隆夫(昭和39年卒)
     ****** 2013年6月19日のHUHACメールより転載

 山讃賦の楽譜に関する佐薙さんと中村(雅)さんのメールを拝見して、増山清太郎さんの蔵書の中に古い楽譜があったのを思い出しました。同蔵書はその多くが針葉樹文庫に収蔵さ

れるなど安住の地を得たのですが、楽譜は私の手元に残っていました。それは、B4両面印刷の二つ折りで、表紙が「山讃賦 一橋山岳部に寄する」となっています。表紙を開いた2ページと3ページに楽譜があり、1番の歌詞(かたかな)が付いています。最後の4ページは1番から4番までの歌詞ですが、そこには手書きで校正が施されています(増山さん自身によるものと思われます)。紙が全体に茶色に焼けていて、年月の経過を感じさせます。
 増山さんの楽譜は、活用方法が思いつかず、かといって捨てがたかったのですが、このたび佐薙さんの楽譜探しのメールをきっかけにして、中村図書幹事にこれを託すことができてホッとしています。
 中村さんの投稿によれば、『針葉樹会報』復刊第77号に、楽譜が載せられています。また、増山さんが『「山讃賦」由来』と題した一文を寄せています。この際『由来』をじっくり読みなおしましたが、我が部歌の文字どおりの由来を伝える、貴重な歴史証言だと感じました。
 『由来』で、増山さんは、石原さんの「実際にピアノを叩いてみることが必要だ」を引用され、それに賛同されています。同じく『由来』によると、作曲者(石川強氏)は「主旋律よりも、伴奏の方を評価していただきたい」と言っていたようです。そうと知るにつけ、山讃賦の楽器演奏を聞いてみたいなと思いました。
 なお、増山さんの楽譜でも『会報』掲載の楽譜でも、一番の歌詞で「白銀」が「シロガネ」、「霊香」が「レイコー」となっているので驚きました。それぞれ「ハクギン」「レイキョー」と
 教わり、歌ってきたからです。そんなことから、山讃賦の歌詞に興味がわき、のめり込んでいるところです。


5:山讃賦の歌詞の読みについて    (有志のメール集成) 
【本文】
■2013年5月〜7月 山讃賦の歌詞の読みについて 
     ※(編集注)本篇は山讃賦の歌詞の読みについて会員が交換したメールを収録したものです。

●2013年5月21日 山讃賦の歌詞の読みについてのお尋ね  中村 雅明(昭和43年卒)
     ****** 2013年5月21日のHUHACメールより転載

石原 脩様
 図書幹事の中村です。
 先に佐薙様がHUHACメールに「山讃賦の楽譜」を投稿され、蛭川さんと小生がフォローしております。山讃賦の楽譜を見て、以前、石原先輩から山讃賦の歌詞の読みが年代に
  これに関する記事が一橋山岳会のHPに掲載されています。
  『トピックス』の「2008年11月24日 一橋山岳部の国立部室で月見の宴が開催されました。」がそれです。山田秀明さんの報告の中で
***** 1番    「白銀」:Xハクギン    ○シロガネ
4番    「殿堂」:Xトコロ    ○デンドウ
4番    「宮廷」:Xミヤイ    ○キュウテイ
 の記述があり、○を正として合唱したと書かれています。
 今回、楽譜で確認したところ、1番「白銀」:Xハクギン ○シロガネは楽譜でそうなっています。
 さらに1番「霊香」は「レイキョウ」でなく「レイコウ」となっています。(小生は「レイキョウ」と歌っていました)
 楽譜には1番しか歌詞が書かれておりませんので、4番は確認できません。
 そこでお尋ねしたいのですが、4番の「殿堂」、「宮廷」は「白銀」をシロガネと訓読みするのであれば、トコロ、ミヤイと歌うのではと思いました。小生も当該月見の宴に参加していながらお恥ずかしき限りですがトコロ、ミヤイが正と思い込んでいました。
 これを機会に山讃賦の歌詞の読みを統一致しく、再度お尋ねする次第です。

 <追伸>
  『針葉樹第12号』に「讃山賦」(「山讃賦」が正)が載っていますが
   1番「白銀」は「はくぎん」、「霊香」は「れいきょう」とふりがなされています。
  ※楽譜のカタカナを正とすべきでしょう。 

●2013年5月22日 Re:山讃賦の歌詞の読みについてのお尋ね 中村 雅明 (昭和43年卒)
     ****** 2013年5月22日のHUHACメールより転載

各位
 今朝、石原先輩から山讃賦の楽譜、歌詞の読みについてお電話いただきました。小生手持ちの楽譜のコピーは増山先輩から石原先輩が入手されたものでした。
 それを皆さんに配布(おそらく総会資料として)されたとのことです
 歌詞の読みについては
***** 1番    「白銀」:Xハクギン    ○シロガネ
1番    「霊香」:Xレイキョウ    ○レイコウ
4番    「殿堂」:Xトコロ    ○デンドウ
4番    「宮廷」:Xミヤイ    ○キュウテイ

 で間違いないとのことです。
 次の総会までに異論がなければ、これで統一することを提案します。

●2013年6月19日 山讃賦の楽譜(増山さん所蔵品) 蛭川 隆夫(昭和39年卒)
     ****** 2013年6月19日のHUHACメールより転載
 (略)
 なお、増山さんの楽譜でも『会報』掲載の楽譜でも、一番の歌詞で「白銀」が「シロガネ」、「霊香」が「レイコー」となっているので驚きました。それぞれ「ハクギン」「レイキョー」と教わり、歌ってきたからです。そんなことから、山讃賦の歌詞に興味がわき、のめり込んでいるところです。

●2013年6月19日 Re:山讃賦の楽譜(増山さん所蔵品) 兵藤 元史(昭和52年卒)
     ****** 2013年6月19日のHUHACメールより転載

 蛭川さま
 ご無沙汰いたしております。
山讃賦の歌詞ですが、我々の世代は シロガネ、レイコーと覚えています。
4番の殿堂、宮廷は それぞれトコロ、ミヤイと教わりました。中村さん(石原さん)によれば デンドウ、キュウテイとのことですが、音符に合わない様な気がしています。(音痴なので、自信はありませんが)
増山さんの楽譜には1番から4番まで歌詞が書いてあるそうですが、4番はどう記されているのでしょうか?お手数ながら、教えて頂ければ幸甚です。

●2013年6月19日 Re:山讃賦の楽譜(増山さん所蔵品)  蛭川 隆夫(昭和39年卒)
     ****** 2013年6月19日のHUHACメールより転載(一部改訂)

 兵藤さん:
> …我々の世代は シロガネ、レイコーと覚えています。

先日の三四郎会で聞きましたら、出席者15名全員がハクギン、レイキョーでした。兵藤世代がシロガネ、レイコーだということは、山讃賦ができたときの本来の(?)読み方に、ある時期から戻ったということになりますね。
ちなみに、レイキョーもレイコーも両方とも辞書で見出し語として認められています。ただし、レイキョウが「本見出し」で、レイコウはいわゆる「から見出し」です。

> 4番の殿堂、宮廷は それぞれトコロ、ミヤイと教わりました。…
> デンドウ、キュウテイ(は)音符に合わない様な気がしています。
> (音痴なので、自信はありませんが)

私は「超」の付く音痴なのでまったく自信はありませんが、ここは4モーラ(拍)でなく3モーラ(拍)の単語の方が音楽的に自然ですね。その観点からすればトコロ、ミヤイに軍配があがります。当て字も当て字、大変なる当て字とはなりますが。
なお、増山さんの楽譜では、殿堂、宮廷という漢字表記だけでルビがありません。
実は、1番で、ハクギンかシロガネか、レイキョーかレイコーかなどと議論ができるのは、楽譜に1番の歌詞がカタカナで記されているからなのです。
 蛭川

追:『針葉樹』第12号に山讃賦の歌詞が記載されています。前のメールで「山讃賦の歌詞に興味がわき、のめり込んでいるところ」と書いたのは、一つにはこの歌詞の存在があります。この歌詞は、ハクギン、レイキョーです。

●2013年6月30日 Fw: [HUHAC-GroupMail :524] Re:「山讃賦」の楽譜(増山さん所蔵品)
                         中村 雅明(昭和43年卒)
     ****** 2013年6月30日の金子さん、井草さん宛てメールより転載

 金子さん 井草さん
 添付のメール(略)はHUHACメールで配信されたものです。
 山讃賦の歌詞の読みについて、1番、白銀、霊香、4番の殿堂、宮廷の読みが
  
***** 蛭川(中村) 兵藤
白銀 ハクギン シロガネ
霊香 レイキョー レイコー
殿堂 デンドー トコロ
宮廷 キューテー ミヤイ

 年代で違っています。先日の部室での学生さんとの話し合いの時に兵藤さんに誰から教わったのか尋ねたと所、金子さん、井草さんの名前が出ました。
 (月見の宴の時に甘利さん、中島さんもそう歌ったと思うとも言っていました)
 お二人がどう教わったか教えて下さい。金子さんが1年の時は小生が4年ですが上記の様にと教えた記憶がありますが確かではありません。
   
●2013年7月1日 Re: [HUHAC-GroupMail :524] Re:「山讃賦」の楽譜(増山さん所蔵品)
                      井草 長雄(昭和48年卒)
     ****** 2013年7月1日の中村宛てメールより転載

 中村さま
 私が教わったのは、1969年だと思いますが
 ハクギン、レイキョウ、トコロ、ミヤイという歌い方でした。
 リーダーは宮武さんでした。

●2013年7月1日 Re:: [HUHAC-GroupMail :524] Re: 「山讃賦」の楽譜(増山さん所蔵品)
                     金子 晴彦(昭和46年卒)                   
     ****** 2013年7月1日の中村、井草宛てメールより転載

 中村様
 当方は井草さんの指摘通りの歌い方でした。「デンドー」だと指摘されて違和感を覚えたことがあります。方言みたいなもので、初期記憶がすべてですからこの統一は大変難しそうですね。

●2013年7月3日 山讃賦4番の殿堂と宮廷 古田 茂(平成7年卒)
     ****** 2013年7月3日の中村宛て返信メールより転載
中村様
 会員名簿は、当時、不定期に改訂しておりましたが、山讃譜については、改訂> 前のものをそのまま流用していました。
 したがって、1997年度版だけではなく、その前の版でも「トコロ」「ミヤイ」になっていると思います。
 私たちの年代でも、「トコロ」「ミヤイ」と歌っていました。

※1 本メールは7月2日付の中村の以下の古田さん宛てメールに対する返信です。

 古田さん
 HP&図書幹事の中村です。
 突然のメールで恐縮です。
 添付(略)の通り、蛭川さんを中心にして山讃譜の歌詞談義をしています。貴兄が編集された「針葉樹会会員名簿」1997年度版についてお尋ねします。15年も前のことで記憶にないかも知れませんが覚えていたら教えて下さい。
  1.4番の「殿堂:トコロ」「宮廷:ミヤイ」のルビはどなたの説(指示)でしたか。
  2.貴兄の年代ではどう歌われましたか。

※2 ※1のメールのきっかけは、7月2日付の蛭川さんの以下の中村宛てメールです。

  私は、針葉樹1号(1925)→増山楽譜(1931以降)→針葉樹12号(1960)→会報77号(1991)と文字資料を辿る作業をおこないました。括弧内は発行年。
(略)なお、偶然ですが、昨日、針葉樹会会員名簿(1997年発行、発行人・古田さん)の附録に山讃賦を発見。なんと「トコロ」「ミヤイ」とルビがありました。上記資料よりも新しい印刷物での証拠です。

●2013年7月5日 山讃賦4番の歌詞の読みについてのお尋ね 中村 雅明 (昭和43年卒)
      ****** 2013年7月5日の次行4氏宛てメールより転載

 澁谷様 佐薙様 上原様 有賀様 山田様
 図書幹事の中村です。
 添付のメール(上掲)は以前、HUHACメールに小生が投稿したものです。
 その後、蛭川さんを中心として年代毎にどう歌ってきたか調査しております。
 つきましては現役時代に以下をどう歌われたか教えて下さい。
   1番 白銀     霊香
   4番 殿堂     宮廷
 また、どなたから教えていただいたか(どの資料を拠り所にしたか)も教えて下さい。
 なお、1番は楽譜に白銀=シロガネ、霊香=レイコー とふりがなしてありますので
 今後、シロガネ、レイコウで統一することは問題ないと思います。
 4番は楽譜には記載されていませんが、1997年版の針葉樹会会員名簿所収の 山讃賦には、殿堂=トコロ、宮廷=ミヤイとふりがなされています。それ以前の名簿は 手元にありませんがおそらく同じと思われます。これに依って殿堂=トコロ、宮廷=ミヤイと 歌った年代も多く、石原先輩の説に違和感を覚える人もいます。

●2013年7月5日 RE:山讃賦4番の歌詞の読みについてのお尋ね 
          上原 利夫(昭和33年卒)
     ****** 2013年7月5日の中村宛て返信メールより転載

 中村(雅)さん  上原です。
 私が山岳部で歌ったのは、
1番は、シロガネ、レイコウ、4番は、デンドウ、キュウテイでした。
4年生の石原さんから教わったと思います。

●2013年7月6日 Re:山讃賦4番の歌詞の読みについてのお尋ね 
          佐薙 恭(昭和31年卒)
     ****** 2013年7月6日の中村宛て返信メールより転載

 中村さん
私、s31卒は 石原さん 上原さんに挟まれた年代で 上原さんの説明のとおりに歌っていました。私が1年の時の最上級生が中村正さん 渋谷さん達でしたから その年代の先輩たちも同様に歌っておられたと思います。

●2013年7月8日 Re:山讃賦4番の歌詞の読みについてのお尋ね 
          山田 秀明(平成15年卒)
     ****** 2013年7月8日の中村宛て返信メールより転載

 H15年卒の山田です。
私の現役のころには、実はすでに山讃賦の引継ぎはありませんでした。
宗像さんが教えてくれませんでしたからね。
というわけで、私は誰からも教わったのではなく、どこかの歌集を参考にして歌っていました。
わたしがたまたま見た歌集には殿堂=トコロ、宮廷=ミヤイとあったので、それで歌っていた
と思います。ただ、参考にした歌集は針葉樹会会員名簿ではなく、「ひとつばしのうた」のような歌集だったような…
すなわち、ボート部や応援部、一橋寮など、すべての部歌・一橋に関連する歌が入ったいた歌集と記憶しております。ただ、その歌集はすでに手元にはありませんが、、、
どうぞよろしくお願いいたします。

●2013年7月8日 Re:山讃賦4番の歌詞の読みについてのお尋ね 
          石原 修(昭和30年卒)
     ****** 2013年7月8日の中村宛て返信
 メールより転載
 中村様
小生が50歳〜70歳頃は、葬儀で山讃賦(1〜4番)を唄うことが殆どでした。
キュウテイとデンドウ以外の「読み方」を勝手に考え出したのは、どなたですか?

※このメールは中村の石原さん宛ての以下のメールに対する返信です。
 
 石原様
  度々申し訳ありません。
  添付のメールの通り、山讃賦4番の殿堂、宮廷のよみ(歌い方)について調査しております。先輩より殿堂=デンドウ、宮廷=キュウテイが正とご教示いただいておりますが、その根拠(拠り所)についてお尋ね致します。
  1.先輩ご自身はどのたから教わったのですか。
  2.吉沢一郎先輩、増山先輩、望月先輩がどう歌われたかご記憶されていますか。

●2013年7月9日 山讃賦4番の歌詞の読みについてのお尋ね 中村 雅明 (昭和43年卒)
      ****** 2013年7月5日のHUHACメールより転載


各位
  図書幹事の中村(雅)です。
  現在、山讃賦の歌詞の読み(歌い方)を蛭川さん、小生で調査・考察中です。
  4番の殿堂、宮廷の読みがデンドウ、キュウテイから1970年頃からトコロ、ミヤイに変わっています。その依り所が「針葉樹会会員名簿」所収の山讃賦にあることが判明しました。蛭川さん、小生の手元にある名簿は1997年度版です。添付のメールの通り、1997年度版の編集者の古田さんはそれ以前の版もそうなっていると推測されています。
  そこで皆様にお尋ねします。
   1.1997年度版以前の版をお持ちの方は、殿堂、宮廷の読み(ふりがな)をお知らせ下さい。
   2.殿堂=トコロ、宮廷=ミヤイのふりがなはどなたに依るものなのかご存知の方はお知らせ下さい。

●2013年7月10日 Re:MLで発言しましょうか  中村 雅明 (昭和43年卒)
      ****** 2013年7月10日の中村の蛭川さん宛てメールより転載
 蛭川さん
 本日の総会での山讃賦、以下ご報告します。
 1.針葉樹会会員名簿(総会に持参orメール)
     1974年度版(編集者;西牟田)  ルビなし[高崎さん持参]
1983年度版(編集者;米田)   ルビなし [竹中さんメール] 
     1985年度版(編集者;米田)   ルビなし[竹中さんメール] 
     1987年度版(編集者:岡部)   ルビなし[三井さん持参、竹中さんメール] 
1989年度版(編集者:中西)   ルビなし[三井さん持参、竹中さんメール] 
     1992年度版(編集者:石丸)   白銀=ハクギンのみ[三井さん持参]
     1995年度版(編集者:石丸)   白銀=ハクギンのみ[竹中さんメール] 
   予想に反して1997年度版以前の版は殆どルビなしです。
   1970年以降のトコロ、ミヤイの根拠としては針葉樹会会員名簿は弱いですね。
 2.山讃賦合唱のガイドとして、樂譜裏表紙の歌詞を配布しました。
   それには白銀=はくぎん、霊香=れいこう、殿堂=でんどう、宮廷=きゅうていの
   ルビを小生が付け、その根拠を説明しました。4番の殿堂、宮廷の読みは本日のところは石原さん説を取りましたと説明しました。(皆さんからの反応なし)
   合唱は上の通り歌いました。
   (略)


■6:山讃賦の歌詞(その1:標題) 蛭川 隆夫(昭和39年卒)

■2013年7月12日 山讃賦の歌詞(その1:標題) 蛭川 隆夫(昭和39年卒)
      ****** 2013年7月12日のHUHACメールより転載(改訂版)

<前書き>
佐薙さんによる山讃賦の譜面探しを契機に、歌詞に興味がわき印刷資料を調べました。調べた結果を、テーマごとに、4回にわたり報告します。今回は、「その1」標題について。

<標題>
漢字表記は「山讃賦」か「讃山賦」か? また、読みは「やまさんぷ」か「さんさんぷ」か?それを、次の資料によって調べました。
***** 番号 資料名称 作成 標題
@ 『針葉樹』第1号 1925 山讃賦
A 「増山楽譜」 1931 山讃賦
B 『針葉樹』第12号 1960 讃山賦
C 『針葉樹会報』第77号 1991 山讃賦
D 『針葉樹会会員名簿』 1997 山讃賦

備考:
(1) 作成は資料の発行年または印刷年。ただし、Aは作曲年。
(2) AについてはHUHAC投稿(No. 523)を参照。
(3) Cには、『「山讃賦」由来』(増山清太郎)が投稿されている。以下『由来』として引用。
(4) AとCには、歌詞だけでなく譜面も載っている。

1. 我々は部歌の標題を山讃賦と書いて「さんさんぷ」と読んでいるが、『由来』によると、作詩者の松崎武雄氏は山讃賦を「やまさんぷ」と読ませるつもりだったようです。「山(やま)」への「讃賦」というわけです。
ところが、同じく『由来』によると、山讃賦は部歌となった当初の頃から「さんさんぷ」と読まれていたという吉沢一郎さんの証言があります。
「さんさんぷ」と読むか「やまさんぷ」と読むか。増山さんは、『由来』で、それは「今後の問題に属する」と述べました。

2. 興味深いことに、Bの『針葉樹』第12号は、山と讃をひっくり返して讃山賦としました。「讃山(山を讃える)」の「賦」というわけです(これは印刷上の誤植でしょうか)。
「さんさん」と音読みをする限り、讃山とした方が漢字熟語の構造として自然です(登山・散髪・洗車・拍手・作曲・殺人…すべて動詞が先に来て次に目的語が来る)。そう考えると一概に誤植と決めつけるのも憚られます。
『針葉樹』第12号は、標題以外にもいろいろな変更を、原典である@に対して加えています。讃山も、単なる誤植ではなく、何らかの考え方に基づいた変更だったのかもしれません(その辺を同号の編集者に教えていただきたいものです)。

3. 増山さんは、上記のとおり読み方については未解決の問題と認めましたが、漢字表記を讃山賦に変更するなどとは思ってもみなかったはずです。これは想像ですが、Bで標題までもが変えられたことに危機感を抱いた増山さんは、その31年後に『由来』を書いて「山讃賦だよ」と注意を促したのではないでしょうか。今のうちにと思い筆を執られたのでしょうか(増山さんが亡くなられたのは、それから9年後のことでした)。

4. 増山さんが標題の読み方という宿題を残したのは、1991年。それ以降、何らの検討もなされることなく今日に至ったことになります。

次回は、1番の白銀と霊香の読み方について。

■7:山讃賦の歌詞(その2:1番の白銀と霊香の読み) 蛭川 隆夫(昭和39年卒)

■2013年7月20月 山讃賦の歌詞(その2:1番の白銀と霊香の読み)
                蛭川 隆夫(昭和39年卒)
     ****** 2013年7月20日のHUHACメールより転載(改訂版)

<前書き>
佐薙さんによる山讃賦の譜面探しを契機に、歌詞に興味がわき印刷資料を調べました。調べた結果を、テーマごとに、4回にわたり報告しています。今回は、「その2」、1番の白銀と霊香の読みについて。

<印刷資料での「白銀」と「霊香」の読み/ルビ>
***** 番号 資料名称 作成 白銀の読み/ルビ 白銀の読み/ルビ
@ 『針葉樹』第1号 1925 × ×
A 「増山楽譜」の歌詞 1931 × ×
A’ 「増山楽譜」の譜面 1931 しろがね* れいこう*
B 『針葉樹』第12号 1960 はくぎん れいきょう
C 『針葉樹会報』第77号の歌詞 1991 × ×
C 『針葉樹会報』第77号の譜面 1991 しろがね* れいこう*
D 『針葉樹会会員名簿』 1997 はくぎん ×
備考:
(1) 作成は資料の発行年または印刷年。ただし、AA’は作曲年(実際の印刷年は不明)。
(2) AA’についてはHUHAC投稿(No. 523)を参照。
(3) CC’には『「山讃賦」由来』(増山清太郎)が投稿されている。以下『由来』として引用。
(4) ×印は、ルビなしを示す。

補足説明:
1. 原典である@にも、@に依拠して印刷されたAの歌詞にも、白銀と霊香にルビがありません(金箭と東には、きんせん、ひんがしとルビがあります)。
しかし、A’の譜面には、1番の歌詞が長音記号を使用してカタカナで表示されています。上記では、それをひらかなに直して表記し、語尾に*を付しました。
2. 増山さんの『由来』の記述からすると、A’譜面の読み(しろがね/れいこう)は、(作詞家ではなく)作曲家が決めた可能性があります。
3. Bの『針葉樹』第12号が「はくぎん」と「れいきょう」を採用した理由は分かりません。
4. 『由来』に「この歌詞は…何時も印刷ミスが多いので、(@に)発表されたものを、そのままここに再録する」と述べられています。そこで、Cの1番は、当然ながら@と同じになっています。ただし、2番以降には、新たな印刷ミスが生じています。
『山讃賦or讃山賦の詩の変遷』 ←クリックするとダウンロード
資料の詮索を離れて、言葉を吟味してみます。

<白銀:しろがね or はくぎん?>
1. 音符とどちらがより合うかを見ます。拍数はどちらも4拍、アクセントの型はどちらも平板型(第1拍が低く、第2拍以降が高い型)で、両者は同等です。
2. 意味の点から比較します(日本最大の『日本国語大辞典』などを参照)。雪の白さをたとえる「色」としての意味は両者に共通ですが、「雪」そのものの意味があるのは「はくぎん」だけです。
3. 1番は雪山の夜明けを描写したものですから、雪の意味内容を有する「はくぎん」がベターだと言えます。
『“しろがね”と“はくぎん” −白銀の読み−』 ←クリックするとダウンロード

<霊香:れいこう or れいきょう?>
1. 国語辞典では、『日本国語大辞典』をはじめとして、「れいきょう」=「本見出し」、「れいこう」=「から見出し」とするのが多数派です。どうやら、室町時代の終わり頃から「れいきょう」と読まれていたようです。
2. 漢和辞典では、『字通』(白川静)に用語例として「霊香」がありますが、その読みは「れいきょう」です。
3. 以上から、「れいきょう」がベターだと言えます。
備考:香の音読みで「こう」は呉音「きょう」は漢音ですが、呉音で読む単語は、辞書を見ても(将棋の)香車などきわめて少ないようです。
『“れいこう”と“れいきょう” −霊香の読み−』 ←クリックするとダウンロード

言葉の吟味という点では、@原典の読み「しろがね」と「れいこう」ではなく、B『針葉樹』第12号の読み「はくぎん」と「れいきょう」に軍配があがるようです。

次回は、3番の「崇厳」の読み方について。

■8:山讃賦の歌詞(その3:2番の崇厳?荘厳?祟厳?) 蛭川 隆夫(昭和39年卒)

■2013年8月1月 山讃賦の歌詞(その3:2番の崇厳?荘厳?祟厳?)
            蛭川 隆夫(昭和39年卒)
     ****** 2013年8月1日のHUHACメールより転載(改訂版)

<前書き>
佐薙さんによる山讃賦の譜面探しを契機に、歌詞に興味がわき印刷資料を調べました。調べた結果を、テーマごとに、4回にわたり報告しています。今回は、「その3」、2番の最後の節の「▲厳の山におろがめ」の▲に使われている漢字と、▲の読みについて。

<印刷資料での、「▲厳の山」の▲の漢字と音読み>
***** 番号 資料名称 作成 ▲の漢字 ▲の音読み
@ 『針葉樹』第1号 1925 スウ
A 「増山楽譜」の歌詞 1931 スウ
B 『針葉樹』第12号 1960 ソウ
C 『針葉樹会報』第77号の歌詞 1991 スウ
D 『針葉樹会会員名簿』 1997 スイ
(1) 作成は資料の発行年または印刷年。ただし、Aは作曲年(実際の印刷年は不明)。
(2) AについてはHUHAC投稿(No. 523)を参照。
(3) Cには、『「山讃賦」由来』(増山清太郎)が投稿されている。

1. Dのは、「飲み過ぎが祟(たた)って頭が痛い」などというときの漢字です。崇と字形が似ていることから生じた誤植でしょうから、検討の対象外とします。
備考:崇は「山+宗」で、は「出+示」で構成されている。

2. 注目すべきは、B『針葉樹』第12号 が、という、崇厳とはまったく別の言葉で印刷されたことです。同号発行年に入部した私は、ずっと「ソウゴンのやまにおろがめ」と教わり、歌い、記憶していました。
では、崇厳も「ソウゴン」と発音するのでしょうか。いくつかの漢和字典で調べましたが、崇の音はスウ(常用音)、シュウ(漢音)、ズウ(呉音)であり、ソウはありません。ただし、『字通』に「声符は宗そう」とあります。想像をたくましくすれば、この「宗=そう」から、崇厳→そうごん→荘厳と変転したと考えられます。

3. 『日本国語大辞典』で「崇厳」を引いてみました。意味は、「容易に近よりがたく、おごそかなこと」。昔からある言葉ではなく、大正時代にできた、かなり新しい言葉です。初出は1920年。その年に寺田寅彦が『旅日記から』という連載物の一篇として俳句雑誌に寄稿した随想に崇厳が出てくるのです。それは、山讃賦が『針葉樹』第1号に載るわずか5年前でした。
1909年4月27日、寅彦は汽船で紅海をスエズに向かいましたが、その時に左舷から見たアフリカの「赤裸の連山」を形容して「この世とは思われない崇厳な美しさ」と日記に書いたのでした。
『旅日記から』は、ネットの青空文庫で読めます。興味のある方は、次をクリックしてください。                       http://www.aozora.gr.jp/cards/000042/files/1682_11116.html

余談:
この投稿メールを書く寸前になって、ネットの「YAHOO知恵袋」で、「崇厳 この漢字の読み方と意味を…教えてください」なる質問と、上記の『日本国語大辞典』を引用したベストアンサーとを発見。崇厳を追求するために図書館に通い詰めたのは何だったのか…(苦笑)。

次回は、4番の「殿堂」と「宮廷」の読み方について。


■9:山讃賦の歌詞(その4:4番の殿堂と宮廷の読み) 蛭川 隆夫(昭和39年卒)

■2013年8月19月 山讃賦の歌詞(その4:4番の殿堂と宮廷の読み)
           蛭川 隆夫(昭和39年卒)
     ****** 2013年8月19日のHUHACメールより転載(改訂版)

<前書き>
佐薙さんによる山讃賦の譜面探しを契機に、歌詞に興味がわき印刷資料を調べました。調べた結果を、テーマごとに、4回にわたり報告しています。今回は、「その4」、4番の「殿堂」と「宮廷」の読みについて報告します。

<印刷資料での「殿堂」と「宮廷」の読み/ルビ>
***** 番号 資料名称 作成 殿堂のルビ 宮廷のルビ
@ 『針葉樹』第1号 1925 × ×
A 「増山楽譜」の歌詞 1931 × ×
B 『針葉樹』第12号 1960 × ×
C 『針葉樹会報』第77号の歌詞 1991 × ×
D 『針葉樹会会員名簿』 1997 ところ みやい
備考:
(1) 作成は資料の発行年または印刷年。ただし、Aは作曲年(実際の印刷年は不明)。
(2) AについてはHUHAC投稿(No. 523)を参照。
(3) Cには『「山讃賦」由来』(増山清太郎)が投稿されている。以下『由来』として引用。
(4) ×印は、ルビなしを示す。

<「でんどう」「きゅうてい」派と(「ところ」「みやい」派>
「殿堂」「宮廷」の読みは、世代によって、4拍派(「でんどう」「きゅうてい」派)と3拍派(「ところ」「みやい」派)に分かれています。三四郎会世代(筆者およびその数年前後)は、4拍派です(去る5月の三四郎会で参加者に聞いたらそうでした)。それ以前の世代も同じです。三四郎会世代よりも下の世代は、1970年前後に「ところ」「みやい」派となったようです。

<詩としては4拍がいいか3拍がいいか>
ここでは、山讃賦を歌詞としてではなく一篇の詩としてとらえて、4拍と3拍のどちらが詩としてふさわしいかを考えてみます(投稿「その1」で述べたように、作詩者は、山讃賦が声に出して歌われることを想定していませんでした)。
山讃賦の1番は、<むらさきの><くもゆらめけば>から、<きみみずや><ひんがしのそら>まで、五七調で、五・七を6回繰り返して12句体(72拍)とした定型詩となっています。しかも、音調と句調とが合致した正格です。2番と3番もやはり五七調で12句体の正格です。この詩形が4番にも採用されていると見なすのが自然でしょう。
そうすると、殿堂と宮廷とをそれぞれ3拍で読んで、
<ああやまは><わがゆく○○○>
<ああやまは><わがすむ○○○>
と、五・七・五・七とすべきとなります。
 殿堂と宮廷に3拍の「ところ」と「みやい」をそれぞれ当てはめるのは、熟字訓(広義の当て字)だと思えばいいでしょう。山讃賦はすでに熟字訓を使っています(1番の白銀/しろがね、四方/よも、2番の生命/いのち、3番の桔梗/ききょう、百合/ゆり)。Bの『針葉樹』第12号が4番で嗚呼と書いて「ああ」と読ませるのも熟字訓です。
 
備考:3拍かそれとも4拍かという問題は、当然ながら、音符との関係でも議論すべきでしょう。音痴の筆者には確言できませんが、3拍の方が音符に合っているように感じられます。もちろん、4拍ではまったく歌えないということではありませんが。

<「ところ」「みやい」の歴史>
 まず、作曲者が、「殿堂」を「ところ」、「宮廷」を「みやい」と読んで作曲した可能性があります。それは、『由来』(増山清太郎)によると、作曲者が「漢語は作曲に都合のよいように読んでおいた」と話していた事実があるからです。
 戦後は長らく「でんどう」「きゅうてい」が伝承されてきましたが、上記のように1970年ごろから現役学生の間では「ところ」「みやい」と歌われるようになりました。それにはOBの関与があったのかもしれません(有力OBが月見の宴で「ところ」「みやい」と歌っていたという記憶証言があります)。
 さらに、「ところ」「みやい」とルビが付された山讃賦の文字史料が存在します。D『針葉樹会会員名簿』の付録2です。この発行年(1997年)のころまで、30年間ちかく、「ところ」「みやい」が歌い継がれたことになります。
 その後、山讃賦の伝承そのものが山岳部の中で途絶えた時期を経て、歌集『ひとつばしのうた』(仮称、正式な歌集名は不明)を参考にして部員が山讃賦を歌う時代がありました。同歌集は、「ところ」「みやい」のルビだったようです。「ボート部や応援部、一橋寮など、すべての部歌・一橋に関連する歌が入っていた歌集」とのことなので、どこかで発見できないものかと思います。注:この段落は、山田さんの投稿メール(末尾参照)に依って書きました。
 定型詩としても音符の面からも3拍の方が望ましいという思想が、想像(むしろ妄想か)をたくましくすれば、作曲の1930年ごろからずっと受け継がれていたことになります

<1番の最後は「東の空」かそれとも「東の空を」か>
 拍数の問題を論じたので、ついでに述べます。Bの『針葉樹』第12号のみ、「東の空を」と、助詞を補いました。そして「東」のルビは「ひんがし」を踏襲したので、「ひんがしのそらを」なる8拍の変格となってしまいました。定型詩である山讃賦の五七調という基本から逸脱してまで「を」を補う必然性はないと思います。

まだ細かい点で述べたいこともありますが、これで私の歌詞調べの報告を終わります。

※編集注 資料5:山讃賦から再録

●2013年7月8日 Re:山讃賦4番の歌詞の読みについてのお尋ね 
             山田 秀明(平成15年卒)
     ****** 2013年7月8日の中村宛て返信メールより転載

 H15年卒の山田です。
私の現役のころには、実はすでに山讃賦の引継ぎはありませんでした。
宗像さんが教えてくれませんでしたからね。
というわけで、私は誰からも教わったのではなく、どこかの歌集を参考にして歌っていました。
わたしがたまたま見た歌集には殿堂=トコロ、宮廷=ミヤイとあったので、それで歌っていた
と思います。ただ、参考にした歌集は針葉樹会会員名簿ではなく、「ひとつばしのうた」のような歌集だったような…
すなわち、ボート部や応援部、一橋寮など、すべての部歌・一橋に関連する歌が入ったいた歌集と記憶しております。ただ、その歌集はすでに手元にはありませんが、、、
どうぞよろしくお願いいたします。

10:部歌の標題は山讃賦か讃山賦か ―新資料の発見を踏まえて再論する―    蛭川 隆夫

 部歌の標題を(山讃賦ではなく)讃山賦と記した、複数の文字資料が2014年に中村雅明さん(1968年卒)と宮武幸久さん(1970年卒)によって国立部室で発見された。

あらたに発見された文字資料は5点で、そのうち2点は戦前のものである。
「故友田純一君追悼會次第」
A4サイズ1枚に、会次第とともに部歌が記されている。その標題が「讃山賦」。
備考:友田純一さんは1940年入部。入部した年の夏山合宿の北アルプス奥木挽山で遭難死(この合宿のリーダーは、後に述べる宮城恭一さんであった)。
その追悼会が同年の11月17日に如水会館で開催された。吉沢一郎さん(1928年卒)が針葉樹会代表として挨拶している。
「東京商科大學々部報國團鍛錬部山岳班規約」
全23條の規約。1941年4月19日付けの「本年度役員」とともに、「班歌」が記されている。その標題がやはり「讃山賦」。
備考:時局からであろう、第1條に「本班ハ東京商科大學々部報國團鍛錬部山岳班ト稱ス」、また、第17條に「本班ハ下ノ行事ヲ行フ」とあり、その第(6)項に「高度国防力増強ノ一端ニ資スル為一年一回一晝夜行軍剛健旅行ヲ擧行スルコト」とある。

残りの3点は、戦後の合宿計画書である。
「1954年度夏山合宿計画」
夏山合宿(涸沢と奥又白定着、後半は2隊に分かれての縦走)の計画書。「一橋山男の歌」とともに「讃山賦」が載せられている(他に「一橋寮歌」、「雪山讃歌」など)。
「1955 No. 1 Summer合宿のしおり」
夏山合宿(剣沢定着、後半は2隊に分かれての縦走)の計画書。「一橋山男の歌」とともに「讃山賦」が載せられている。
「1956夏合宿計画書」
夏山合宿(涸沢定着、後半は2隊に分かれての縦走と北岳定着)の計画書。「一橋山男の歌」とともに「讃山賦」が載せられている。

 部歌標題については、「山讃賦の歌詞(その1:標題)」と題して、昨年の2013年7月12日にこのホームページに投稿した(HUHACメーリング・リストに発信したメールを改訂したもの)。そこでは、当時の5点の参照資料のうちで唯一『針葉樹』第12号(1960年発行)のみが、「山讃賦」ではなく「讃山賦」となっていることを指摘した。投稿では「讃山賦」を誤植と決めつけはしなかったが、「山讃賦」が正であるとの立場にたっていた。

 ここで、上記の新資料を含めて部歌標題の変遷を年表にする。@・A・Bの増山清太郎は、Lの「『山讃賦』由来」からの引用。

番号 西暦年 資料・出来事 漢字表記 読み
@ 1925年 松崎武雄氏が、作詩した「山讃賦」を『針葉樹』第1号に寄稿。「少なくとも作詩者は、標題を‘やまさんぷ’と読ませるつもりだった」(増山清太郎)。 山讃賦 やまさんぷ
A 1931年 譜をつけられた山讃賦が針葉樹会で披露され、部歌とすることが決定された。
備考:「吉沢一郎氏は古くから‘さんさんぷ’と呼んでいた、と言われる」(増山清太郎)。
山讃賦 さんさんぷ
B 1932年
(以降?)
部歌の譜面を初めて印刷化。
「その後数回印刷された」(増山清太郎)。
山讃賦 さんさんぷ
C 1940年 「故友田純一君追悼會次第」 讃山賦 さんさんぷ
D 1941年 「東京商科大學々部報國團鍛錬部山岳班規約」 讃山賦 さんさんぷ
E 1941年 宮城恭一さん(1941年卒)の卒業アルバム寄せ書き
下記の3.を参照
山讃賦 さんさんぷ
F 1954年1955年1956年 「1954年度夏山合宿計画」
「1955 No. 1 Summer合宿のしおり」
「1956夏合宿計画書」
讃山賦
讃山賦
讃山賦
さんさんぷ
G 1960年 『針葉樹』第12号 讃山賦 さんさんぷ
H 1983年 『針葉樹会会員名簿』 讃山賦 さんさんぷ
I 1985年 『針葉樹会会員名簿』 讃山賦 さんさんぷ
J 1987年 『針葉樹会会員名簿』 讃山賦 さんさんぷ
K 1989年 『針葉樹会会員名簿』 讃山賦 さんさんぷ
L 1991年 『針葉樹会報』第77号
           増山清太郎「『山讃賦』由来」
山讃賦 さんさんぷ
M 1995年 『針葉樹会会員名簿』 山讃賦 さんさんぷ
N 1997年 『針葉樹会会員名簿』 山讃賦 さんさんぷ
O 2001年 平川紀男君追悼登山の歌詞資料 讃山賦 さんさんぷ

 この流れをどう解すべきだろうか。

1. 山讃賦を「やまさんぷ」と読ませるという作詩者松崎武雄氏の心づもりは、どうやら浸透しなかったようだ。部歌となったのが作詩後6年も経過してからだったせいであろう。吉沢さんが言われるように山讃をすなおに音読みした「さんさんぷ」が、音の記憶情報として針葉樹会員や一橋山岳部員の間に刷りこまれていった。
2. いったん定着した「さんさん」という音から逆に漢字を表記する、すなわち「さんさん」を「讃山」と書くことを、おそくともCの1940年ごろには誰かが始めたのであろう。これは、表記の際の単なる誤記として自然発生したのか…。あるいは、動詞を先に目的語を後にするという漢字熟語の特性を踏まえて意識的に始めたのか…。どちらにしても、中国から漢字を導入したことにより日本語が背負い込んだ‘ごう’、すなわち漢字の同音異義語という問題が背景にあることはまちがいない。誰が、いつ、どういう理由で讃山という表記を始めたのか。それは今となっては永遠の謎である。
3. 讃山が生まれたからといって部歌の標題がいつもそれに統一されたわけではない。その証拠がEの宮城恭一さんの寄せ書きである。讃山と記したDの規約と奇しくも同じ1941年に、規約をつくった現役班員の先輩にあたる宮城さんは山讃と書いた。その寄せ書きを再録しておく(仮名づかいや促音表記は現代風に改めた)。

山に憧れて、早や六年の歳月は流れた。山は美しかった。しかしそれにもまして
  悲しく、亦苦しかった。それでも山岳部の生活は私にとって何にもまして樂しい
  思い出である。誰がキャンプファイアに照らし出された同志の顔を、そして共に
  歌った山讃賦を、忘れることが出來ようか。

備考:この寄せ書きにアクセスするには、まず如水会公式サイトで「支部・クラス会・同好会」→「年度会」・「年度会サイト一覧」→「12月クラブ」と進む。12月クラブとは「昭和16年(1941年)に3ヶ月繰上げ卒業になった」年次の年度会であるが、そのサイトから「卒業アルバム」→「目次」→「卒業生の声」・「梧友會」と進むと、このアルバム寄せ書きにたどりつく。
4. このように、戦前すでに山讃派と讃山派がともに存在していた。そして戦後も両者並存の流れは継続したはずだが、讃山派が優勢だった。その流れに対抗するかのように、増山さんがL「『山讃賦』由来」を書いて軌道修正を図った、しかし、読みの方は、定着していた「さんさんぷ」を尊重してそのままとした。上表からはそのように私には受け取れるのだが、これは深読みのしすぎだろうか。
追補:
<1>宮城恭一さんについて
 上記の「12月クラブ」のページで、「鍛錬部・国防部」→「山岳班」と進むと、部歌の4番の歌詞が載っている。標題は単に「部歌」となっていて、残念ながら山讃賦なのか讃山賦なのかはわからない。そして、おそらく宮城さんが書いたと思われる山岳班生活への感慨が載っている。それも再録しておく。


唯一本のザイルに全生命を託し合った吾々の友情は
永久に変わることがないであろう。

友田君を山に喪ってから早くも一年。
各々の本年度夏季合宿は
五色ヶ原に彼の記念碑を建設することにあった。
総ては吾々部員の手でなされ、
かくして恰も一周忌、八月十八日、
その除幕式を挙行し得たのは吾々の最も大きな喜びである。

友田君の霊は高山植物乱れ咲く五色ヶ原に
永くあらけき眠について居るであろう。


 宮城さんは、「12月クラブ」のサイトに、他にも短文を寄せている。「好漢・里見君」、「植物分類学と私」、「山の遭難と西川先生と」、「一橋・蔵前合併論」など。
「山の遭難と西川先生と」は、友田さんの遭難死にふれたもの。「親しく尊敬していた西川先生が打ちのめされていた私を慰め励ましてくれたときは思わず泣いてしまった」と書いている。西川先生とは、当時予科の山岳部長であった西川正身氏(アメリカ文学者、アンブローズ・ビアスの研究者)。引用は、遺体を安置した立山温泉に西川氏が(太田可夫氏などとともに)駆けつけてくださったときのことである。

<2>平川紀男君追悼登山の歌詞資料について(上表O)
 この投稿文を書き終えたとき、中村雅明さんからPDFファイルで送られてきた。2001年9月30日に平川紀男さん(1966年卒)の追悼登山を行ったが、この歌詞を見ながら参加者で斉唱したのだという。漢字使いや送りがなは、『針葉樹』第12号と完全に同じである。ただし、同号の六根「精」浄という誤植は、六根「清」浄と正しく訂正されている。


■2009年4月 妙高山遭難関係資料


※近藤泰氏(昭和53年卒)妙高山遭難事故に関しては以下の『針葉樹会報』を参照
* 『針葉樹会報』第115号 (2009.6.24)
* 「妙高山遭難事故速報」
* 入山〜事故発生〜下山までの経過  
妙高山遭難 在京連絡先報告  
妙高山遭難 現地での対応  
佐藤活朗(昭和53年卒)
金子 晴彦(昭和46年卒)
中村 雅明(昭和43年卒)
「弔辞」  佐藤活朗(昭和53年卒)
『針葉樹会報』第116号 (2009.11.28)
「近藤泰氏 追悼特集」
強い心が生んだ悲運を悼む  
2009年3月妙高山スキー遭難  
近藤のテレマークスキー  
近藤との沢登り  
近藤の山  
2000年GWの梅花皮雪渓  
近藤さんが教えてくれたこと  
倉知 敬(昭和38年卒)
加藤 博行(昭和51年卒)
兵藤 元史(昭和52年卒)
前神 直樹(昭和51年卒)
佐藤 活朗(昭和53年卒)
齊藤 誠(昭和63年卒)
川名 真理(昭和63年卒)
※当HPに以下が掲載されています。
『トピックス』
2009年3月27日 近藤君の葬儀が行われました。 竹中 彰(昭和39年卒)
『写真コーナー』
故近藤泰君追悼写真展  佐藤活朗(昭和53年卒)

●『妙高山遭難関係資料一覧』
     ※以下の下線付き資料名をクリックすると資料全文PDFをダウンロード出来ます。
* 1.妙高山遭難 入山〜事故発生〜下山
  『『針葉樹会報』第115号』に所収
2.妙高山遭難 在京連絡先報告
  『『針葉樹会報』第115号』に所収
3.妙高山遭難 現地での対応(2009年3月21日夜〜22日夜)  

4.妙高山遭難 現地での対応(2009年3月23日)
  『『針葉樹会報』第115号』に所収
5.妙高山遭難 現地での対応(2009年3月24日)

6.妙高山遭難 現地での対応(2009年3月25日)

7.妙高山遭難 警察挨拶状(大島様)

8.妙高山遭難 警察挨拶状(WEB)
  『トピックス』2009年3月27日 「近藤君の葬儀が行われました。」所収
9.妙高山遭難関係者リスト  

10.妙高山遭難関係費用  
    (1)遭難対策基金口
    (2)総務幹事立替
    (3)各自立替 
佐藤 活朗

金子 晴彦

加藤 博行

中村 雅明

高崎 俊平

高崎 俊平

高崎 俊平

高崎 俊平

中村 雅明

中村 雅明




■1995年4月 カカボラジ峰登山隊資料 
●『一橋大学山岳会カカボラジ峰登山隊偵察隊 報告書』(正式報告書)
下の画像をクリックするとPDF全文をダウンロード出来ます。

『報告書』表紙
* 【目次】
はじめに
1.隊員
2.隊員
  カカボラジ偵察隊記録
4.天候
5.道の状況
6.ポーター
7.リエゾン・オフィサー
8.ガイド
9.装備
10.食事
11.医薬品
他隊の動向
会員寄付(銀行振込分)     
偵察隊費用明細
カカボラジの伝説

※以下の下線記事名をクリックすると記事全文をダウンロード出来ます。
なお、本偵察隊の引地真隊長が『岳人』1995年7月号(No.577)に投稿された
秘峰カカボラジ偵察隊 半世紀の思いを繋げて』が『針葉樹第15号』に掲載されています。

[新聞記事]
 ●『カカボラジへの道 ミャンマー最北の村で』(読売新聞)
 ●『伝説の未踏峰 カカボラジ偵察から 上、中』(読売新聞)

 [幻の登山隊(本体)計画書]実施されず
 ●『一橋大学山岳会カカボラジ峰登山隊偵察隊 1995 計画概要

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