一橋山岳会のホームページへようこそ。当ホームページは2008年8月1日に開設しました。
街道歩き 会   報
街道歩きについての論文、随筆、記録などのコーナーです。
▼クリックするとそれぞれの記事の詳細へジャンプします。



■2013年5月9日〜6月6日 遥かなり・奥州道中(五街道中、踏破完結)
                                    石和田 四郎(昭和31年卒)

■2012年10月19日〜2013年5月9日 日光道中を往く  石和田 四郎(昭和31年卒)
■2012年5月18日〜6月6日 挑戦!中山道・六十九次――その4(完結編) 石和田 四郎(昭和31年卒)
■2012年4月13日〜4月26日 挑戦!中山道・六十九次――その3 石和田 四郎(昭和31年卒)
■2011年5月31日〜6月11日 挑戦!中山道・六十九次――その2 石和田 四郎(昭和31年卒)
■2010年11月17日〜2011年3月2日 挑戦!中山道・六十九次――その1 石和田 四郎(昭和31年卒)
■2010年2月27日〜6月4日 水と緑の甲州道中(街道)を歩く 石和田 四郎(昭和31年卒)
■2010年1〜2月 中山道談義(その1) 針葉樹会有志

■2009年2月11日〜11月19日 喜寿の東海道五十三次漫遊録 石和田 四郎(昭和31年卒)

■2003年1月28日〜2月15日 四国八十八ヶ所歩き遍路「阿波の国編」+ 後日談  
                                          松尾 信孝(昭和48年卒)


■2013年5月9日〜6月6日 遥かなり・奥州道中(五街道中、踏破完結)
                           石和田 四郎(昭和31年卒)

          *********** 2013年9月14投稿(Word版)
                         全75頁 写真・図表139葉
 (編集前書き)
本稿は昭和31年卒(オーション会)の6名(リーダー:佐薙、鈴木、高崎、松尾、宮川、
石和田各氏)による街道歩き第5弾、奥州道中紀行(五街道中、踏破完結)です。
<五街道中踏破完結>にまとめ、6名の所感が収録されています。
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「遥かなり・奥州道中」 1頁


 「遥かなり・奥州道中(五街道中、踏破完結)」 50頁より
<奥州道中の最終宿駅・JR白河駅入り口>
2013年6月6日
 左から宮川、佐薙、石和田、松尾、高崎、鈴木

会   報



■2012年10月19日〜2013年5月9日 日光道中を往く  石和田 四郎(昭和31年卒)
            *********** 2013年6月14日投稿(Word版)

                         全77頁 写真・図表122葉
 (編集前書き)
本稿は昭和31年卒(オーション会)の6名(リーダー:佐薙、鈴木、高崎、松尾、宮川、石和田各氏)による街道歩き第4弾、「日光道中を往く」です。
 なお、6月6日に第5弾の奥州道中が、白川・女石まで到達し、めでたく五街道踏破されました。石和田氏が夏のうちに「遥かなり・奥州道中(仮題)」を纏められる予定です。
   
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「日光道中を往く」 1頁



「日光道中を往く」 46頁より
<全員、はれて勢ぞろい、間々田駅前>
2013年4月12日
左から松尾、高崎、石和田、宮川、鈴木、佐薙

会   報


■2012年5月18日〜6月6日 挑戦!中山道・六十九次――その4(完結編)
                           石和田 四郎(昭和31年卒)

      *********** 2013年1月10日投稿(Word版)
                         全71頁 写真・図表320葉
 (編集前書き)
本稿は昭和31年卒(オーション会)の6名(リーダー:佐薙、鈴木、高崎、松尾、宮川、石和田各氏)による街道歩き第3弾、中山道紀行--その4(完結編)です。
<あとがき>に6名の所感、中山道ウオークの記録(全行程)が収録されています。
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「挑戦!中山道・六十九次――その4」 1頁



「挑戦!中山道・六十九次――その4」 31頁より
<不破の関守館の前・1200年余を遡る>
2012年5月20日
左から松尾、佐薙、高崎、鈴木、石和田


会   報


■2012年4月13日〜4月26日 挑戦!中山道・六十九次――その3
                          石和田 四郎(昭和31年卒)

       *********** 2012年10月24日投稿(Word版)
                         全75頁 写真・図表137葉
 (編集前書き)
本稿は昭和31年卒(オーション会)の6名(リーダー:佐薙、鈴木、高崎、松尾、宮川、石和田各氏)による街道歩き第3弾、中山道紀行--その3(本山宿・日出塩〜美濃大田)です。
4/13〜16に『中山道談議』のコーディネータである蛭川隆夫(昭和39年卒)ご夫妻が特別参加されました。
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 「挑戦!中山道・六十九次――その3」 1頁



「挑戦!中山道・六十九次――その3」 13頁より
       <奈良井宿・旧旅籠・越後屋 御世話になりました。出発します>
                 2012年4月14日
     左から高崎、蛭川(隆)、蛭川(紀)、松尾、越後屋のお母さん、石和田、鈴木、佐薙


会   報


■2011年5月31日〜6月11日 挑戦!中山道・六十九次――その2
                           石和田 四郎(昭和31年卒)

       *********** 2012年1月24日投稿(Word版)
                         全67頁 写真・図表98葉
 (編集前書き)
本稿は昭和31年卒(オーション会)の6名(リーダー:佐薙、鈴木、高崎、松尾、宮川、石和田各氏)による街道歩き第3弾、中山道紀行--その2(高崎・群馬八幡〜本山・日出塩)です。
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 「挑戦!中山道・六十九次――その2」 1頁


「挑戦!中山道・六十九次――その2」 17頁より
<碓井峠・しげのや 全員集合 これから雨具をつけて下る>
2011年6月1日
左から高崎、宮川、松尾、鈴木、佐薙、石和田

会   報


■2010年11月17日〜2011年3月2日 挑戦!中山道・六十九次――その1
                                        石和田 四郎(昭和31年卒)

       *********** 2012年1月24日投稿(Word版)
                         全37頁 写真・図表41葉
 (編集前書き)
本稿は昭和31年卒(オーション会)の6名(リーダー:佐薙、鈴木、高崎、松尾、宮川、石和田各氏)による街道歩き第3弾、中山道紀行(その1)です。2012年夏に完歩されました。その紀行は4部作(その1〜4)に纏められました。本稿はその1(日本橋〜高崎・群馬八幡)です。
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 「挑戦!中山道・六十九次――その1」 1頁


 「挑戦!中山道・六十九次――その1」 2頁より
<日本橋・全員集合 凡そ2年前に比べて若々しさは変わらない?>
2010年11月17日(道中初日)
左から佐薙、宮川、高崎、鈴木、石和田、松尾

会   報


■2010年2月27日〜6月4日 水と緑の甲州道中(街道)を歩く 石和田 四郎(昭和31年卒)

       *********** 2012年1月24日投稿(Word版)
                         全73頁 写真・図表87葉
 (編集前書き)
本稿は昭和31年卒(オーション会)の6名(リーダー:佐薙、鈴木、高崎、松尾、宮川、石和田各氏)による8回/11日(日帰り:8日、2泊3日:1回)の甲州街道紀行です。2009年に実施された東海道五十三次紀行に続く第2弾です。佐薙さん、石和田さん、高崎さんが完全踏破(218km)されました。街道歩きの模様はもとより宿場・街道沿いの名所・旧蹟の由来、現況が余すところなく記述されています。行動記録(タイム)も完璧です。これから甲州街道歩きをする人にとってこの上ないガイドです。(中村 雅明)
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  「水と緑の甲州道中を歩く」 1頁



 「水と緑の甲州道中を歩く」 3頁より
<日本橋・日本国道路原標>
   2010年2月27日(道中初日)
左から佐薙、石和田、鈴木、松尾、高崎



[水と緑の甲州道中を歩く」 61頁より
   <下諏訪宿・甲州道中・中山道合流点・終点>
 2010年6月3日
後列左から宮川、佐薙 前列左から高崎、石和田


会   報


■2010年1〜2月 中山道談義(その1) 針葉樹会有志

 【編集前書き】
本稿は、2010年1月21日から2月4日までHUHACメールで配信された[中山道のルート]に関する疑問や情報交換を集成したものです。なお、個人宛メールも収録しました。おおむね原文のまま編集していますが、中仙道を中山道に統一したほか、表記の一部を訂正しました。また、談義に関連した写真を追加しました。(中村・記)
 【談義の経緯など】
三月会での話題を軽い気持ちで紹介したら、思いがけない反応をいただき、ちょっとした談義が生まれました。中山道は、数年前に石井さんと山崎さん(いずれも昭和23年卒)が踏破されました。街道巡りとしては、この談義に参加した山本さんが各地をドライブしています。同じく松尾さんが四国遍路をなしとげました。また、熊野古道には、中村(雅)さんが小辺路、中辺路、雲取越え他を、本間・竹中・村上さんが大峯奥駈道の主要部をそれぞれ踏破しています。昨年は、オーション会が東海道を完歩しました。ほかにも街道歩きを実践している方がいるはずです。HUHACに投稿していただけたら面白いと思います。三月会では、塩の道(千国街道)を歩こうという新しい話も出ています。やはりこの談義に参加した市畑さんからは、「針葉樹会に古峠散策クラブでも立ち上げていただければうれしいですね」との声が寄せられました。(蛭川・記)
●2010年1月18日開催 三月会記録(中山道のルート) 蛭川隆夫(昭和39年卆)
********** 2010年1月21日のHUHACメールから抜粋
・中山道のルート: 信州側から木曽側に抜けるルート(和田峠を越えたのかどうか)がひとしきり話題になりました。地元の松尾さんご存知ないですか。
関連して補足(蛭川):霧訪山の麓の小野宿には、「初期中山道」の標識があります。中山道が最初は下諏訪から西南西に小野宿を経由して木曽側の贄川(にえかわ)に抜けていたのですが、十数年で西北西に下諏訪〜塩尻〜贄川と小野宿を迂回するルートに変更されたからです。中山道を踏破された石井さんと山崎さんは、どちらのルートを辿ったのでしょうか。
 【編集者より】
本談義のメンバーの一人、山本尚禎さんから2004年9月に旅行された時に撮影された中山道の写真11葉を送っていただきました。今回の談義でカバーしている中山道は、木曽の贄川と佐久との間です。この区間の写真2葉を掲載します。(中村・記)
贄川宿の関所 桜沢にある石碑 「是より南木曽路」

●中山道(諏訪〜木曽?) 松尾 信孝(昭和48年卒)
********** 2010年1月25日のHUHACメールから転載
蛭川様
松尾です。いきなり振られて、どぎまぎですが…。
何か諸賢のお知恵をもってしてもわからないことで、地元の利と腰の軽さを生かして調べろということでしたら、折から商売も暇な時期ですので下諏訪町役場とかその類のところに行って調べてきます。ただ、私の読みの浅さでしょうか、ちょっとわからないのは、「信州から木曽に抜けるルート」と言われる一方で「和田峠を越えたかどうか」とのくだりです。ご承知のように和田峠は佐久側と諏訪側の間です。問題となっているのは、「諏訪〜木曽」でしょうかそれとも「諏訪〜佐久」のルートでしょうか。教えてください。
●中山道(諏訪〜木曽?):返信 兵藤 元史(昭和52年卒)
********** 2010年1月25日のHUHACメールから転載
松尾様
お久しぶりです。蓼科は寒いでしょうね。
私も同じ疑問を持ちましたが、振られたのが松尾さんだったのでお任せしていました。
●中山道(諏訪〜木曽?):返信 蛭川 隆夫(昭和39年卒)
********** 2010年1月26日のHUHACメールから転載
松尾さん、兵藤さん:
蛭川です。
> 問題となっているのは、「諏訪〜木曽」でしょうか、それとも「諏訪〜佐久」のルートでしょうか。
わかりにくい言い方でした。すみません。
中山道が小野経由でなく塩尻経由に変わったのであれば、和田峠を越えて諏訪に出るのでなく、もっと北を(例えば扉峠を)越えて直接松本盆地に出たらいいのにという文脈での議論であったと、記憶しています。その昔は、扉峠を通るような峠越えの道はなかったのでしょうか。
●中山道:割り込みです:返信 山本 尚禎(昭和36年卒)
********** 2010年1月27日のメールから転載
蛭川様:
松尾様:
メーリングリストで中山道のことが話題になっています。議論のポイントがいまひとつ理解できません。
役に立つか不明ですが、数年前、中山道の長野県域を歩くつもりで調べたことがあります。その時の参考書を記します。
『信濃路二十六宿の旅 中山道』 吉井正徳著 ほおずき書房刊
『歴史の道を楽しく歩こう 中山道』 岡村知彦著 郷土出版社刊
『贄川宿〜馬篭宿 木曽路をゆく』 児玉幸多著 学研刊
『中山道69次を歩く』 岸本豊著 信濃毎日新聞社刊
お勧めは、『信濃路二十六宿の旅 中山道』です。
中山道は、大化の改新後、何回もルートの変更があったようです。最初のルートは、恵那から伊那谷、深志を経て青木村から上田へ通じていたそうです。 深志から青木村へは、保福寺峠で山越えです。このルートゆえ、上田に信濃国分寺があったのも納得できます。また、ウエストンが最初に安曇野へ入ったルートは、保福寺峠越えでした。現在、保福寺峠にウエストンの碑があります。
このルートに興味を持った動機は、ヒマラヤ観光の宮原社長の故郷である青木村田沢温泉が相当前からあったという、同社長の控えめな言葉でした。
保福寺峠は、東側は傾斜もなだらかで距離も短い峠です。
宮原さんに近い三森さんは、もっと知っているかもしれません。お聞きしたらいかがですか。
扉峠も話題になっていますが、大昔、出雲のオオクニヌシの子供タケミナツキが諏訪に逃げた時の峠は大門峠?では。タケミナツキが長野市の善光寺や別所温泉近くの生島足島神社に立ち寄ったとの資料もあります。
「中山道」には「中仙道」を使う人もありますが、大化の改新後に制定された街道の呼び名は「中の山道」ゆえ「仙」を使ってはいけないと、江戸時代、本居宣長が言ったとか。
穀倉地帯の伊那谷から、米もとれない木曾谷にルートが変ったのは、田舎町「江戸」に都市を新たに建築する木材を木曾から運ぶ必要があったためのようです。
なお、中山道は、横浜発大垣行きの夜行列車を利用し中津川に7時に着き、木曽路を北上しました。道の駅の駐車場で野宿後、洗馬でザックの紐が切れたのを幸いと、塩尻から電車で帰宅しました。大変面白かったですよ。
山本尚禎
●中山道について 松尾 信孝(昭和48年卒)
********** 2010年1月29日のHUHACメールから転載
蛭川様:
先日の新年会でお話しさせていただき、疑問点がクリアーになりました。
つまり、「佐久側から木曽に抜けるのに、例えば扉峠などを通れば峠越えは一度で済むのに、なぜ和田峠と塩尻峠という二つの峠越えをしなければならない諏訪経由のルートになったか」と言うことでしたね。
”売られた喧嘩”ではない”振られた疑問”に少しは役に立つようなお答えをすべく、地元の茅野図書館に行ったりして少し調べてみました。
たしかに江戸時代に制定された今の中山道のルートは、ルーツである大化の改新後に制定された5畿7道のうちの東山道の頃から変遷しているようですが、その変遷をたどったり変わった要因を調べたりするのは蛭川さんの当面の疑問とは乖離するので、なぜ和田峠なのかについてだけ考えてみました。ちなみに東山道は兵藤君の地元の村井に駅(覚志駅・フカシと読む)があったようです。
また、山本尚禎さんから、ウエストンの最初の北アルプス紀行には保福寺峠が使われていたとか、オオクニヌシの子供タケミナカタの出雲からの逃避行には大門峠が使われたなど、参考文献も含めて貴重なアドバイスもいただきました。
にわか勉強の結果、以下の仮説にたどり着きました。
1. 木曽谷経由の中山道が制定される前までの東山道は、伊那谷を通っていた。伊那谷を遡ると岡谷(諏訪の隣)に到達し、そこには馬を供出する牧場があった(インフラはあった)。
2. 和田峠一帯は石器時代から黒曜石の産地であり、この黒曜石を求める道は峠の両側からあった。つまり、和田峠道は、かなり古くから通られていたのではないか(和田峠の黒曜石は、遠くは青森の三内丸山遺跡からも出土されているらしい)。
3. 保福寺峠など北側のルートは、塩尻から松本を通ってさらに北上して迂回するので距離が多くなる。ちなみに、松本の殿様の参勤交代には、保福寺峠より南側の三才山峠が使われていたようです。つまり松本からでさえ迂回となる。
4. 扉峠は、標高1,650m。中山道の最高地点和田峠1,531mより100m以上も高い。かつ扉峠はその両側はかなり急峻だし、谷筋をたどると結局松本まで出てしまい、距離がかさむ。
5. 一方、塩尻峠は諏訪側からはせいぜい200mくらいのそれほど急峻でない登りで、かつその塩尻側はなだらかなので、峠越えはそれほどの苦難ではなかったと思われる。
というような背景から、江戸時代に中山道が制定された時に和田峠越えルートに決まったのではないかと、私は推測をいたしました。くわえて、全国の諏訪神社の大元締めの諏訪大社とその周辺の温泉も大きな決定要因であったと思います。長旅の途中の温泉のありがたさは、四国の歩きお遍路さんの時の道後温泉で身にしみて感じました。
というわけで、中山道のことについて調べてみる機会を与えてくださった蛭川さんに感謝します。山本尚禎さんもアドバイスをありがとうございました。
●中山道について:返信 蛭川 隆夫(昭和39年卒)
********** 2010年2月1日のHUHACメールから転載
蛭川です。
松尾さん:
図書館で調べていただき、まことに恐縮です。
「黒曜石」を見て、最近読んだ『列島創世記』(小学館)を思い出し、ページをくりました。引用します。
打製石器をつくるのにもっとも適した素材である黒曜石は、北海道中央部の白滝、長野県東部の和田峠や八ヶ岳、…などがおもな産地である。
三内丸山遺跡からは、北海道および長野県の黒曜石…などが見つかっている。
縄文時代前期のことですから、「古くから通られていた」というのは、まさにそうですね。さらに、「長旅の途中の温泉のありがたさ」というのは、温泉大好きの私には大変説得力がありました。黒曜石と温泉で、諏訪経由とした理由がわかりました。
山本さん:
いろいろ教えていただき、ありがとうございました。
ルートを「穀倉地帯の伊那谷から米もとれない木曽谷に」変えたのは、江戸を大都市として建設するために「木材を木曽から運ぶ必要があった」からというのは、興味深く拝読しました。それにしても、大垣行きの夜行で中津川に行き、野宿しながら木曽路を北上されたとは、何歳のときの話ですか。
●中山道について:黒曜石産地 山本 尚禎(昭和36年卒)
********** 2010年2月2日のHUHACメールから転載
蛭川さん
> 打製石器をつくるのにもっとも適した素材である黒曜石は、北海道 中央部の白滝、長野県東部の和田峠や八ヶ岳、…などがおもな産地である。
和田峠近くに黒曜石の産地は数箇所ありますが、私の好きな場所は「星糞峠」です。黒曜石の名前が「星のくそ」。いいですね!ビーナスラインに平行に走る良い道です。車山の北斜面になります。大門峠から長久保宿に向かい、左折できる二番目の道を行けば、公営の施設があります。峠は此処から更に北上しますが…。一度行って見ては!
昨年静岡へ日帰りの飲み会に行った時、初めて登呂遺跡で黒曜石を使った稲刈りを見ました。稲刈は、「穂刈」で「株刈」ではありません。黒曜石は、「穂刈」に最適。「穂刈」は、稲の保存に最適。「穂刈」は米の脱穀と精米が同時にできるからです。黒曜石の実用を初めてみて、再度星糞峠を思い出したしだいです。
> 大垣行きの夜行で中津川に行き、野宿しながら木曽路を北上されたとは、何歳のときの話ですか。
今から5年前です。
大垣行きの夜行列車が全席指定と、初めて知りました。知らずに乗ったので、何十年ぶりに通路で寝て、豊橋以西は名古屋への通勤列車。良い経験でした。
●中山道について:返信 市畑 進(昭和33年卒)
********** 2010年2月3日のHUHACメールから転載
松尾さん&諸兄:
小生の義父の残した書籍の中に『古道』(藤森栄一著、昭和41年初版、滑w生社)がある。小生の愛読書です。これによれば、古墳後期から奈良時代にかけて、東国と西国の連絡、特に馬では、神坂峠、伊那谷、諏訪湖から雨境の役行者越えを通って碓日(うすひ)坂に出たことは確実であるという。碓日坂は、後の調査で、旧碓氷峠ではなく入山峠と判明したという。当時の主役は、「雨境峠」だったのです。
この本の著者は、昭和4年に完全に廃道となった雨境峠を調査している。彼によれば、神坂・雨境・入山の、美濃・信濃・上野(こうずけ)の日本の屋根の3峠は、日本にも珍しい峠神の信仰が発生している。この峠の石像は殆ど東にむいている、防人に召しだされた東国人の最後の思いが表れているという。峠で最後の祈りをささげた。
ちはやふる神の御坂に幣(ぬさ)奉り斎(いわ)ふいのちは母父のため
(『万葉集』、埴科から防人に召された神人部子忍男の歌)
これが10世紀、延喜式によれば、神坂峠、阿知、育良、賢錐(かたぎり)、宮田、深沢を通って善知鳥(うとう)峠をこえ松本へ出て、覚志(かがし)〜錦織、保福寺峠を越え、小県の浦野〜日理、千曲川へ出て、清水〜長倉、碓氷峠を越えて坂本に至る道になった。
この東山道の大幅な移動は、小生の推理だが、信濃の国、松本市に国府が置かれたことによるのではないだろうか。国府の衰退、戦国時代をへて、江戸開幕に伴い江戸の初期以降は和田峠が中心になってきたのではないだろうか。
藤森栄一 藤森栄一 『古道』

 【追補】 蛭川隆夫
市畑さんのメールに出てくる藤森栄一(ふじもり-えいいち)氏について、 『デジタル版日本人名大辞典+Plus』は次のように説明しています。
1911‐1973。昭和時代の考古学者。明治44年8月15日生まれ。森本六爾(ろくじ)にまなび、昭和25年郷里の長野県で諏訪考古学研究所を設立。井戸尻(いどじり)遺跡群などを発掘し、在野の立場から縄文中期農耕論などを提唱した。43年長野県考古学会会長。昭和48年12月19日死去。62歳。旧制諏訪中学卒。著作に『かもしかみち』『銅鐸(どうたく) 』など。
なお、諏訪大社まで徒歩1分の所にある諏訪市博物館に、藤森栄一記念室があります。
●中山道:市畑さんのメールへの返信 松尾 信孝(昭和48年卒)
********* 2010年2月3日のHUHACメールから転載
市畑様
貴重な情報ありがとうございます。山本尚禎さんは、現在の上田市にある「信濃国分寺」の存在も保福寺峠道が使われた要因にあげていらっしゃいます。
「雨境峠」とは、現在白樺湖(大門峠)から女神湖経由で佐久市望月(旧望月宿)へ通じる県道40号の女神湖に近いあたりに「雨境峠」の碑が立っていますが、それでしょうね。40号を通る限りでは確かに前後で多少の上り下りはあるものの、明瞭な峠という印象は薄いのですが、昔は別なルートから登ってきてヨッコラショとそこを越えたことでしょう。地形的には複雑な地帯で、どこに街道が通っていたのか興味がわきます。
地元の資料を当たって少しずつその変遷についても調べてみます。
●中山道:雨境峠 山本 尚禎(昭和36年卒)
********* 2010年2月4日のHUHACメールから抜粋
市畑さんご指摘の雨境峠を通る現在の県道「諏訪白樺湖小諸線」は、江戸時代の芦田宿(現在の立科町役場近く)へ通じる、傾斜のゆるい、直線的な道です。女神湖から、峠を通過した感じがなく芦田宿に着きます。この道は、大門峠から長久保に通じる道と共に、大和時代からの重要な交通路だったようです。
雨境峠は、佐久地方と諏訪地方の天候を分けた峠とも、甘酒峠ともいうそうです。
松尾さんの調査に期待しています。
追加、蛇足ですが…
芦田宿は本陣の形を復元しようと努力していますが、昔の面影の復活にいまいちです。芦田の近く、望月宿との間にある「茂田井宿」は、「間の宿」ですが家並みが今も残る集落です。中に二軒の造り酒屋、その一軒は大澤酒造、銘柄は善光寺、主人の弟が画家、屋敷内に収蔵品を並べた美術館を公開しています。ヒマラヤ観光の宮原社長は、主人の弟さんと懇意で、その作品をホテルエヴェレストビューに飾っています。
芦田近くの津金寺はこの地域の名刹ですが、江戸時代の中山道の長久保宿と芦田宿との中間の笠取峠の松並木が最近枯れて残念です。
会   報

   
■2009年2月11日〜11月19日 喜寿の東海道五十三次漫遊録 石和田 四郎(昭和31年卒)
      *********** 2012年1月24日投稿(Word版)
                         全75頁 写真68葉
 (編集前書き)
本稿は昭和31年卒(オーション会)の6名(リーダー:佐薙、鈴木、高崎、松尾、宮川、石和田各氏)による8回/20日(日帰り:3日、1泊2日:2回、2泊3日:1回、3泊4日:2回)の東海道五十三次紀行です。佐薙さんと石和田さんが完全踏破(464.9km)されました。街道歩きの模様はもとより宿場・街道沿いの名所・旧蹟の由来、現況が余すところなく記述されています。行動記録(タイム)も完璧です。これから東海道歩きをする人にとってこれ以上ないガイドです。(中村 雅明)
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 「喜寿の東海道五十三次漫遊録」 1頁
  <訂正> 65頁 「総括  実動 19日」 19日 → 20日

「喜寿の東海道五十三次漫遊録」 5頁より
<横浜・上台橋付近・出発地点>
 2009年3月5日
左から松尾、宮川、石和田、高崎、佐薙、鈴木
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会   報

   
■2003年1月28日〜2月15日 四国八十八ケ所歩き遍路「阿波の国編」+ 後日談
                                           松尾 信孝(昭和48年卒)

    *********** 「針葉樹会報」第101号より転載
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(編集前書き)
街道歩きは「登山(山登り)」の範疇から外れますが、山登りとは違った趣き、楽しみがあり、会員の中に同好者が大勢います。
特に昭和31年卒(オーション会)の皆さんは2009年から東海道を皮切りに、甲州街道、中山道を精力的に歩かれ、素晴らしい紀行を纏めています。また昨年(2011年)から懇親山行として八ケ岳スーパートレール歩きが取り入れられ、今後も続けられますので、益々街道歩きファンが増えることと思います。
そこで、当HPに独立した「街道歩き」コーナーを新設することにしました。そのコーナーにオーション会の街道歩き紀行を順次掲載しますが、新コーナー開設を記念して松尾さん(昭和48卒)の本稿を針葉樹会報から転載します。
なお、松尾さんはその後もお遍路を続け、2005年2月25日に完全踏破(約1100キロ、述べ29日)されました。それらを後日談として付記します。(中村 雅明)
(内容)
** プロローグ
阿波の国編
第1回目 2003年1月28日
高徳線坂東駅 → 第1番霊山寺 → 第10番切幡寺 →徳島線阿波川島駅 
(歩行時間:10時間15分 35km)
第2回目 2003年2月11日〜15日
阿波川島駅 → 第11番藤井寺(泊) → 第12番焼山寺 → (宿)
→ 第13番大日寺 → 徳島市内 → 第19番立江寺 → (宿)
→ 第20番鶴林寺 → 第21大龍寺 → (宿) 
→ 第23番薬王寺 → 牟岐線山河内駅 
(歩行時間:34時間20分 132.5km
▼「お接待」
▼「遍路宿」
▼「納経帳
▼「同行二人」」

●その後の歩き遍路の足取り  松尾 信孝(昭和48年卒)
           *********** 2012年2月7日投稿

2003年
3月10日〜14日
(前回ここまで歩いてきた)牟岐線山河内駅から室戸岬(24番最御崎寺)を経て土佐市高岡まで。
220キロ 24番から35番
2004年
1月31日〜2月4日
土佐市高岡から足摺岬(38番金剛福寺)を経て宿毛まで。
165キロ 36番から39番
3月1日〜8日
宿毛から宇和島、松山、今治を経て伊予西条まで。
340キロ 40番から64番
2005年
2月21日〜25日
伊予西条から88番大窪寺まで。208キロ
以上約1100キロ、延べ29日。



後日談
[歩き]
歩きお遍路のよいところは、もちろん健康に良い事だが、車のように景色があっという間に通り過ぎないのでいつまでも脳裏に焼きついている。今でも通ったところは目をつむるとだいたい思い起こせる。高知の近郊を歩いている時に「エチオピア饅頭」と言う看板が目に付いて、頭の片隅に残っていた。何年か経って、たまたまその町出身のお客様がありその話をしたら、わざわざ実家まで電話をかけて聞いてくださった。東京オリンピックのマラソンでエチオピアのアベベが優勝したので、それを記念して売り出したチョコレート饅頭だそうで、今でも売っていると。
コンビニでアイスキャンデーの「名糖ホームランバー」を買って歩きながら舐めた。舐め終わったらスティックに「当り!もう一本」と書いてあった。引き返してもう一本もらうには遠くまで来すぎた。歩きの困る点だ。
[装束]
お遍路さんというと、編み笠に白装束、金剛杖が定番のスタイルだが、もちろんそれらを身に着けなければいけないという事ではない。最初に一番札所を出発した時は杖を持っているだけでなんとなく照れくさかった。3回目から上だけ白を着た。初めての学生服みたいな気持ちだった。でも、それなりの利点もある。白装束はトンネルの中などを歩くときに車から目に付いて安全だ。それと、皆さんの親切度が違う。立ち止まって道を探している時など必ず声をかけてもらえる。こちらも見られているから変な事もできないが。
[費用]
歩くと交通費もかからないから安上がりだと思われるが、費用的には一番かかると思う。宿代と昼飯と途中のドリンク・おやつ(歩くと誘惑も多い)などで1日9000円くらいかかる。これが私の場合早くて30日で回っても27万円。プラス行き帰りの交通費がかかる。観光バスのお遍路さんツアーもあるが、大阪・名古屋あたりから何回かに分けても20万円くらいで収まるようだ。逆に一番高そうに思えるタクシーを雇って回る方が、運転手の宿代を入れても一番安くあがるという説もある。もっとも、費用で回り方を決める人もいないと思うが・・・。でも、歩きお遍路は贅沢だ。
[難所]
「遍路ころがし」と言う言葉がある。特に初めの頃の阿波の国の山間部にある難所で山歩きに慣れないお遍路さんを追い返すように立ちふさがる。多少構えて臨んだが、山岳部OBには拍子抜けであった。難所と言って良いかどうか、23番薬王寺(日和佐)と24番最御崎寺(室戸岬)の間がつらい。左は海、右は山。単調な景色の中をほぼ一日半国道をひたすら歩く。悪い事に40キロ以上も手前から室戸岬が見えて来る。あそこまで歩くのかと思うと一時は絶望的な気持ちにもなった。
もうひとつは最後の八十八番大窪寺への道。なだらかなバス道路沿いの道もあるが、オリジナルは女体山越えの道。前日高松付近で見舞われた雪がまだ新雪で残っている、鎖場もある山道。文字通り最後の試練と思って頑張った。

かなり駆け足で回ってしまった。自分の体力の限界を見てみたいと言う気持ちもあったのだが。それぞれのお寺の来歴ももっと知るべきだろうし、中にはすばらしいお庭なども有ったであろう。土地土地の名所を見たり美味しい物を食べたりもできたであろう。次回はそんな風に回ろうと考えて、もう一度行ってみたいと思う。

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