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■2018年8月4〜7日 南アルプス・茶臼岳〜光岳〜池口岳縦走 中村 雅明(昭和43年卒) *********** 2018年8月22日投稿 盛夏8月、南アルプス(以下南ア)南部・茶臼岳〜光岳〜池口岳縦走を好天に恵まれて楽しみました。光岳は4年越しの登頂です。2015年の7月末に小島和人さん(昭40)と2人で椹島か ら入山し、荒川三山〜赤石岳〜聖岳〜光岳と歩き、易老渡に下山する予定でしたが、道半ばの百間洞で小島さんが一睡も出来ない事態に見舞われ、そこで縦走を打ち切り赤石岳に戻り椹島に下山しました[会報第134号参照]。 翌2016年の8月には本間浩さん(昭40)も加わって易老渡から入山し、光岳〜茶臼岳〜聖岳まで北上する雪辱戦を企画しましたが、便ヶ島の聖光小屋の管理人が亡くなり休業中であることが判明し、聖岳〜赤石岳縦走に変更した為、 光岳はお預けとなりました[会報第137号参照]。 昨年は藤原さんと200名山の池口岳も含めた今回のコースで光岳を目指しましたが、直前の 悪天予報の為に今年に延期しました。当初参加予定だった小島さんが仕事の都合で参加でき なくなり、佐藤さんが急遽参加することになりました。
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■ 2018年8月2日(木)〜5日(日) 大滝山・中村新道を歩く 本間 浩(昭和40年卒) *********** 2018年9月1日投稿 日時 2018年8月2日(木)〜5日(日) 概略 松本=上高地→横尾(泊)→蝶ヶ岳→大滝山・同小屋(泊)→中村新道→徳本峠小屋→上高地=坂巻温泉(泊)=松本 メンバー 本間浩 岡田健志 高橋康夫(昼から会) 小生の「常念山脈縦走計画 その2」は、徳本に泊り翌日霞沢を往復、島々に下るのが最初のプランであったが、徳本峠小屋が満員とのことで、上の様に変わった。徳本に泊まれないとは思わなかったのでビックリした。藤原さんの山行記で知りましたが、200名山人気とはツユ知らず、最新情報不足で霞沢と峠小屋にははなはだ失礼した次第。そう言われてみれば、峠に張られた当日のテントの数、擦れ違う登山者の数から今や人気コースになったのがよく判った。 遅ればせながら「計画 その4」で取り組んでみましょう。尤も再来年なので、その頃にはブームも終わっているかも知れないが。 |
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■2018年7月20-23日 暑寒別岳 岡田 健志(昭和42年卒) *********** 2018年8月24日投稿 |
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■誰も登らない大滝山(2,616m) 誰も知らない鍋冠山(2,194m) 播隆上人が辿った槍ヶ岳開山の道を歩く 2018年8月 藤原 朋信(昭和44年卒) ********2018年9月1日HUHACメールより転載 |
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■2018年6月13〜14日 鹿島槍ヶ岳慰霊登山 中村 雅明(昭和43年卒) ********2018年6月26日HUHACメールより転載(改正版) 本山行は藤原さんが企画し、中村が同行しました。6月半ば梅雨の中休みの絶好の好天に恵まれて、鹿島槍ヶ岳を登頂し昨年11〜12月に相次いで亡くなった俵昭、宮武幸久、戸川哲也3君を慰霊しました。またその前日、1968年5月に鹿島槍天狗尾根で遭難死した中村慎一郎君の大谷原近くの遭難慰霊碑を訪れました。 T メンバー 藤原 朋信(昭和44年卒) 、中村 雅明 U 行程 6月13日 信濃大町(11:05)====大谷原(11:40〜50)−中村慎一郎君慰霊碑(12:40〜55) − 大谷原(13:20〜30) − 西俣出合(14:40) 6月14日 西俣出合(4:23) − 2pで高千穂平(6:03〜09) − 2pで冷乗越(7:41〜48)− 2pで布引山(9:03〜10) − 2pで鹿島槍ヶ岳頂上(10:03〜40)− 3pで冷乗越(12:23〜30) − 高千穂平(13:10〜30) − 2pで西俣出合(14;58〜15:28) − 大谷原(16:08〜25)===大町(17:05) ●6月13日(水) 曇のち晴 中村慎一郎君の慰霊碑は遭難の2年後の1970年5月に大川沢右岸に建立されましたがトラック道工事の為左岸に移設されました。その後、所在が不明となりましたが、2015年10月に中村、藤原、宮武、松尾の4名が探索し捜し当てました(注1)。それから年数が経っていないので、すぐに探せるだろうと高を括って大谷原から大川沢の鉄製の橋を左岸に渡って上流に向かいました。ところが前回は無かった3m幅のトラック砂利道が続いていました。前回は大ゴ沢を渡って林の中にかすかに残る登山道を辿りましたが、今回は砂利道を進みながら左岸の斜面、特に出張った台地を探しました。ところがすぐには見つかりません。地形的に明らかに行き過ぎたと思われる地点から引き返し、じっくり探す内に砂利道から見える木の間に慰霊碑が埋め込まれていると推測される大きな石が見えました。藤原は正面、中村は右側の斜面を3mほど登ってその石に辿り着きました。正に2015年に探し当てた慰霊碑でした。前回供えた酒ビンがありました。 石に埋め込まれた碑の「やみがたき おもいありて 猛き心 いま蒼天に」の碑文(俵昭作)を手でなぞり、線香と缶ビールを供えて慰霊しました。これで50回忌をつつがなく終えることが出来ました。 次に訪れてくれる人の為に慰霊碑の近くの2本の木と、砂利道沿いの2本の木に赤布を巻き付けました。大谷原へ戻り時間は15分、前回の林間の登山道経由より早い道のりです。中村慎一郎君の同期の方々には是非訪れていただきたいものです。 大谷原から左岸の林道を1時間強歩いて西俣出合へ。砂防ダムの細いトンネルを抜けて少し歩くと赤岩尾根登山口の道標があります。その少し手前の道脇にテントを張りました。2〜3人用なのでゆったりです。少し昼寝をした後、5時前から夕食。7時前に就寝しました。ところがエアーマット&シュラフがあるので安心してセータ、フリース等の防寒具を持参しなかったのが大失敗でした。西俣出合は標高1330m、まだ真夏でないので夜半からかなり冷え込み、寒くて眠れません。2時半にトイレに起きた時、半袖、長袖シャツを着こみましたがそれまでは寝た気がしませんでした。藤原さんは防寒具があり寒くはなかったが、エアーマットがないので体が痛くてやはり眠れなかったと後で聞きました。 (注1)『針葉樹会報』第134号「中村慎一郎君遭難慰霊碑を探して」松尾信孝 |
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●6月14日(木) 快晴 3:30起床、昨晩の残り物で朝食を済ませて4:23出発しました。今日は西俣出合から赤岩尾根経由、鹿島槍ケ岳南峰往復です。このコースでの鹿島槍は藤原さんは50年振り、中村は初めてです。往復のコースタイム[昭文社]は往:7時間20分、復:4時間40分、合計12時間です(山渓のコースタイムは14時間20分:注2)。高度差1500mも考えると74才、しかも今年は朝の散歩&ラジオ体操をサボッている身には厳しいので冷池山荘当たりでリタイアを懸念して歩き始めました。藤原さんが「最初の2ピッチはゆっくり行きましょう」と声をかけてくれましたが、昨夜の寝不足の為か、体がふらつきペースがつかめません(後で判ったのですがいつもより速いペースでした!)。すぐに急な登りになり、木の階段、鉄製の階段が次々に現れ、どんどん高度を上げます。天気は快晴、雲一つない青空です。2ピッチ目から道脇に頻繁にオオイワカガミが見頃に咲いているのが見られ登りの苦しさが和らぎました。オオイワカガミはこの先ずっと楽しませてくれました。2p目からはシラネアオイ、ミツバツツジも目を和ませてくれました。 6;03高千穂平に到着。登山口から1時間40分。ゆっくり歩いた積もりでしたがコースタイムより1時間早く着いたので意を強くしました。小広い高千穂平からの眺望は絶景でした。目の前に布引山〜鹿島槍ケ岳南峰〜北峰が聳えます。さらに北峰の右遠くに雨飾山〜〜火打山〜妙高山〜乙妻山・高妻山の北信の山々、その右手に浅間山、八ヶ岳、南アルプスさらにその間の奥にうっすら富士山までが見渡せます。 高千穂平からは残雪斜面が出てきました。夏道が消えた急な雪渓をステップを切って3mほど登りましたがさらに急になったので、冬用の尾根道に逃げました。ちょっと緊張したのはここだけで冷乗越近くの2箇所のトラバース雪面は踏み跡窪みがあったので難なく通過し、持参した軽アイゼンは使用しないで済みました。2010年11月6日に冬山偵察山行で赤岩尾根を登った金子さんは、新雪のラッセルに苦労してこのトラバースに実に3時間かかっています(注3)。冷乗越着7:41。西俣出合から3時間20分、コースタイムより1時間30分早いペースです。冷乗越からの北アルプスの大展望に目を奪われます。北方稜線〜劔岳〜立山三山〜薬師岳〜三俣蓮華、手前には爺ヶ岳〜岩小屋沢岳〜赤沢岳〜針ノ木岳が連なります。いつもの様に動画に収めました。 小憩後、鹿島槍に向かいました。一度下って登り返し冷池山荘を通過しキャンプ場まで1p。ここは劔岳の絶好の展望台です。休憩中に藤原さんから思いがけない告白がありました。昨晩から体調不良だったのです。長年の岩登りで酷使した肩が痛み、寝返りすると苦しくて良く眠れなかった、以前にやった軽いぎっくり腰が、昨日林道から慰霊碑に登った時に痛い肩をかばって無理な体勢をした時に悪化し、ここまでの速いペースの登りにやっとついてきた・・・とのことでした。常人であれば今日は登山取り止めた体調でした。さすが超人の藤原さんはそれを表にださず、いつもの様に私の後にぴったり付いてきました。でも先が少し不安になりました。 キャンプ場の先から布引山の登りにかかるまでは夏道は雪の下に隠れ、気持ち良く雪の上を歩きました。布引山でゆっくり休み、鹿島槍への最後の登りにかかりましたがこれまでの疲れが出て中々進みません。それでもその苦しさを登山道脇に咲く黄色のシナノキンバイ、白色のハクサンイチゲが和らげてくれました。また登山道近くでライチョウに遭遇したのも嬉しいことでした。ハクサンイチゲと一緒の良い写真が撮れました。南峰までの最後の登りで藤原さんの腰の痛みが増して私より遅れ始めました。頂上にあと一登りの処で腰を下ろし、私に「一人で頂上を踏んで下さい」と頼みました。 10:03南峰着。西俣出合から5時間30分。コースタイムより約2時間早く着いたので大満足です。しばらく休憩しているとほどなく藤原さんも到着しました。途中つらそうだったのでその頑張りに脱帽です。白馬から槍・穂高までの大眺望をゆっくり楽しみ、写真に撮った後、北に向かって立ち、白馬三山、その前にどっしり鎮座する五竜岳、五竜からキレット経由鹿島槍北峰に続く稜線を眺めながら、「山讃賦」1番、4番を合唱して岳友5人[ 俵・宮武・戸川・中村(慎)、藤巻(注4)]を慰霊しました。眼前に広がる山々、鹿島槍ヶ岳には、岳友の思い出が沢山残っています。この年では鹿島槍は今回が最後だろうと話しながら10:40頂上を後にしました。 心配した藤原さんの腰も下りには痛みがなく、快調に下って西俣出合に15時30分着。 頂上から約4時間50分。ほぼコースタイム通りでした。出発前に藤原さんが目標とした西俣出合から頂上まで6時間、下り4時間、合計10時間とほぼ同じです。頑張ったご褒美がありました。朝、出発時に藤原さんが大冷沢の冷たい水に漬けておいて存分に冷えた缶ビールで乾杯し、快心の山行を祝いました。 (注2)『YAMAPシリーズ 白馬岳 鹿島槍』山と渓谷社 2002年初版 中西俊明 (注3)『国内山行報告』「2010年11月5〜7日 鹿島槍ヶ岳冬山偵察行」金子晴彦 (注4)中村(慎)と同期、鹿島槍天狗尾根パーティーの一員、平成11年11月没 ■藤原さんのコメント 快晴に恵まれ、五人の岳友を偲ぶ鹿島槍を無事終えてようやくしんがりの役目を果たした気分です。70代には厳しいタイム設定でしたが、藤原のブレーキに関わらず、中村さんは終始快調で計画どおり終えることができました。ありがとうございました。です。 |
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【 鹿島槍ヶ岳南峰頂上からの展望動画 】 6月14日 10:16 右から鹿島槍ヶ岳北峰、奥右から高妻山、乙妻山、妙高山、火打山、雨飾山 五竜岳、白馬三山、北方稜線、剱岳、立山連峰、薬師岳、三俣蓮華岳、 針ノ木岳、蓮華岳、奥に穂高連峰(雲がかかる) 手前右から赤沢岳、岩小屋沢岳、爺ヶ岳 をクリックすると動画がスタートします。 |
■2018年5月11日 横津岳(三四郎会山行) 岡田 健志(昭和42年卒) ****** 2018年6月11日投稿 |
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横津岳は函館市の北、七飯町にあって、大沼公園をはさんで駒ヶ岳と相対する1166.9mの山である。1971年7月3日、東亜国内航空(当時)のYS-11は悪天のなか、この山に墜落し、乗客・乗員68名が亡くなった(ばんだい号墜落事故) この事故を教訓として、横津岳の頂上には航空監視レーダー(国土交通省管轄)やドップラーレーダー(函館海洋気象台管轄)が建設され、さらに自衛隊や、携帯電話会社などのアンテナが頂上付近に、まさに林立している。 そんな諸設備のメンテナンスを冬期でも実施できるように、道路の除雪は完璧にできている。黄金週間後のこの時期でも、除雪された雪が道の両側に積まれて残っている箇所もあった。 積まれた雪とアスファルトの間にフキノトウが無数に出ている。今日の天気はともかく、陽が射して暖かい日があったのだろう、トウが立ち、花までつけたものもある。家へ持ち帰って「フキ味噌」を作るのだと、本間さんはフキノトウを切り取ってはポリ袋に入れている。 小雨まじりの物凄い強風と、濃い霧の中、除雪されたアスファルト道を駐車場から約1時間、我々は、9:27に横津岳の頂上に達していた。そこには、かなり大きな航空監視レーダー用の建物が、霧の中に聳え立っているのがかすかに認識できる。下着にキルティングのシャツを着こみ、雨具のフードを頭にかけ、手袋を着けて寒さを凌ぐ。 休憩もそこそこに、袴腰岳に向けて歩き始めたが。風が強く視界もきかない。加えて、大きな雪田に出くわし、ルートを失う可能性も出てきた。函館マウンテンクラブの土佐会長でさえ、帰路、道を間違わないように、木の枝にピンクのテープをつけながら我々を誘導してくださった。此処まで来るうちで一番大きな雪田に出くわした時、土佐さんと内城事務局長が相談し、ここから引き返すこととなった。安全第一ということだ。 除雪された道路まで引き返すと、あとは駐車場まで下るだけ。 この日で三四郎会@函館とその延長戦も終わった。土佐さんと内城さんには新函館北斗駅まで送っていただき、ここで札幌へ帰る小野さん、函館に戻る蛭川さんと別れ、本間さんと私は新幹線に乗った。 函館に3泊したことしの三四郎会では蛭川さんと小野さんに大変お世話になりました。また函館マウンテンクラブの土佐さん、内城さんには2日もお付き合いいただき本当に有難うございました。 |
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5月11日 10:16 (撮影:岡田) 袴腰岳への途中 本間が持っているのは道端で採集したフキノトウ (左から)蛭川、小野、本間 |
■2018年5月10日 「恵山&海向山」登山記(三四郎会山行) 半場 三雄(昭和40年卒) ****** 2018年6月11日投稿 (編集子より) 2012年12月に蛭川、小野が恵山を登った記録が当ホームページの『国内山行』に 「2012年12月10日 冬の北海道の恵山に登る」の題で掲載されています。 北海道在住の、蛭川さん・小野さんの両幹事による、5月8日から、5月11日までの期間の至れり尽くせりのアテンドと事前準備は、見事でした。わけても、「山行に際しては寒さ対策を!」の事前メールの配信は、さすが道在住と、敬服したところ。 5月10日は、朝7時30分、函館マウンテンクラブの土佐・内城氏の出迎えを受け2台の車に分乗して恵山・海向山へ出立、途中コンビニで、めいめい昼食を買い込み、恵山・海向山への登山口駐車場へは10時頃到着。土佐氏の先導・内城氏がしんがりとなり、蛭川・本間・小野・半場の75歳超の杖持ちグループの4名と、岡田・吉沢・中村(雅)の75歳以下の杖無しグループの3名とガイド役の2名の合計9名で歩行開始。 天気は曇りで、恵山の上部はガスの中を九十九折れの道をゆっくりと登って行く。 スロープは比較的緩やかではあるが、活火山(噴火警戒レベル1…活火山であることに留意…幹事の事前案内に従って、几帳面にもヘルメット持参・着用は中村(雅)さんのみ)ゆえに道中にはザック台の大きさの火山由来の石が転がっていて流石に散歩気分という訳にはゆかない。所々に微かな噴気もあがっていて、風向き次第で硫黄臭が漂う。 1時間強で頂上へ…残念ながら眺望はゼロ。記念撮影を済ませてもう一つのピークへ…ここには鳥居と小屋(土佐氏によれば、避難小屋としての利用も可)があり、中には漁師の安全祈願を旨とすると思われる神棚がある。寒さに追い立てられて下山開始。30分ほど下った所で腰を下ろす。腰を下ろせば、誰ということもなく早目の昼食を始める。この辺りではガスもはれて、噴火湾が見下ろせ、海向山の頂上もよく見える。 岡田さん(プロ並みカメラマン)の群モデルをつとめながら、火口原を辿って登り口の駐車場着。恵山の向かいにある海向山(天候及び体調良好ならばチャレンジを予定されていた。)を目指す。左回りと右回りの分岐点で主力は時計回りで、体調にいまいちの蛭川・半場は自重して左回りで主力組を迎えることにする。下部に僅かな這松らしきものが生えている火山の恵山とは植生が全く違う灌木の樹林帯を、可憐な白根葵の花をみながら行く。標高は500メートル弱とおもわれるが、さすが北海道ゆえか、ダケカンバが良く現れる。 30分程待機していると、主力組が急な所を下山してきた。合流時、開口一番「頑張って良くここまで登ってきたね」の小野さんの労いを得ながら、もと来た道を辿って3時半ころ登山口へ戻り着く。 朝方はガスの中であった恵山が、時を計ったように晴れてきて、ピークを含む全容を見せてくれた。「恵山の頂上を踏むのは一握り、大半が火口原を散策するだけ」の土佐氏言と「海沿いの、チョロイ山と思っていたが…」の本間さんの一言を聞きながら、標高では推し量れないそれなりの山歩きを堪能できた。 海沿いの露天風呂に未練があったであろう吉沢さんと、幸いにもヘルメットがファッション機能となった中村さんの両名と函館空港で別れ、5時頃には市中に戻った。 期間中非常に寒かったのは、函館近辺だけと思っていたが、この寒冷現象は全国的であったことを後日の気象解説で知った。しかし山登りには快適な陽気であった。 |
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■「函館ブラ」記 延長戦2日目参加の面々を見送った後、午後1時5分のAIRDO128便までの時間をいかにつぶすかを考えながら、まず、かの有名な朝市を覗いてみることにする。宿泊場所が朝市前だけに函館駅前への通り道であり、迷うことはない。少し前になるが、所謂朝市は、輪島市のそれを訪れたことがあるので、似た様なものかと思っていたが、皆しっかりした建物が軒を連ねていて、露店が中心とは大分趣が異なっている。これも随分昔のことではあるが、アメ横に似ているな〜と思った。概ね海産物を並べているが値段もしっかりとしていて、土産には手が出し難い。イカ釣りのコーナーがあったが、小ぶりなものが、1杯¥1000を横目に15分駅前のバス乗り場へ着く。 五稜郭への乗り場を探すと、いくつもの路線がそこを通る、となっている。駅前案内所があったが、尋ねることもなく、たまたま発車待のバスでも行けるようだったので、迷わず乗車。かなりの時間乗車し、運賃は¥260であった。最適アプローチを尋ねそこなった咎か、15分程歩いてやっと、タワーが見えた。すでに飛行機から五稜の姿ははっきりと確認済であったので、タワー(¥900)へは登らず、うずく足をひきずりながらも、五稜郭の外周を半周し、裏の橋から入って途中環濠の内側に築かれた小高い土塁に上り、函館戦争は如何様であったかとしばし思いを馳せた後、場内を横切り、染井ヨシノは葉桜となっていたが、まだ残っていた枝垂桜と、八重桜を鑑賞した。ここでもきこえてきたのは、中国語と思しき声と修学旅行の思しき中学生の一団の声ばかりでした。 その後五稜郭近くの「函館美術館」横の「北洋資料館]へ予備知識もなく入館(¥100)したところ、見ごたえのある北洋漁業の沿革史(千島樺太交換前に日魯漁業の前身の業者が、カムチャッカ半島での定置網漁を行ったのが最初であり、母船を中心とする船団を組んでの流し網漁は後の事である等)を中心とした展示物と説明と北海の海を操舵する体験(ローリング無しのピッチングのみ)で、たっぷり時間をつかい、程よく出発約1時間前に空港に着く。中部空港では持参の杖(ストック)の長さが60p超という理由で機内持ち込み不可の扱であったので、窓口で申告すると、今度は、先端が金属ではなくゴムであるから、機内持ち込み可能の由。中部空港のカウンターがANAで函館がAIRDOのゆえか兎に角不可解ではあったが、担当者から謝りの言あり、受け取りの手間が省けるので、了とする。 今回二度目となる函館ラーメンで、北海道を味わい、夕刻5時少し前に無事帰宅しました。 また、今回同行した皆さんにも感謝します。あらためて、ありがとうございました。 |
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■2018年5月9日 函館山縦走記(三四郎会山行) 吉沢 正(昭和42年卒) ****** 2018年6月11日投稿 参加者:本間、小野、半場、坂井、池知、岡田、中村(雅)、吉沢 5月9日 晴れ 8:00 湯の川温泉「祥苑」を出発。路面電車で函館山の麓に向かう。神社参道の入口付近で下車。小野リーダーを先頭に登山口目指して車道を進むが、暫し道に迷う。20分後に神社横の登山口と思しき広場に到着。小休止の後9:40登山開始。 登山道はトラック等も通るようで、処々舗装もされている。函館山には山麓からロープウエイが通じており、バス道もあるようだが、登山道からは目に入らない。 暫く進むと単独で登っている中年の婦人に追い着いた。東京から来たというが、何となく??永小百合に似た感じで、小野リーダーと盛んに会話している。この婦人とはこれからのほぼ全行程をご一緒することとなる。 11:00 函館山山頂に到着。展望台より360度の景観を楽しむ。眼下に五稜郭を含む函館市街が広がり、東方遠方には明日向かう恵山、海向山の一角が望まれる。本州の下北・津軽両半島は薄雲に遮られ、残念ながら視認できない。 11:30 ここで坂井、池知両氏はロープウエイで下山。残りの6名が南方に位置する千畳敷展望台へ向かう。千畳敷までは約1.5kmの心地良い遊歩道のような尾根歩きだ。遊歩道の両側に咲くコジマエンレイソウ、シラネアイ、シロバナエンレイソウ等の山花を愛でながら歩を進め、12:10展望台到着。展望台は野球のグラウンド程の大きさがあり、芝生が敷き詰められて綺麗に整備されている。ここで昼食のため40分の長休止。昼食で腹を満たした後、立待岬目指し下山開始。ジグザクの下山道に沿って頂上付近でも見たシラネアイやシロバナエンレイソウに加え、ヒトリシズカがあちこちに顔を出す。名前に似合わず群生しているのもある。 13:20 全員無事下山し立待岬に立つ。岬の付根部分に石川啄木一族の墓があり、そこから岬の先端に向かって綺麗な遊歩道が造られている。途中に与謝野寛・晶子の碑もある。ここは古から沖の漁に向かった男達の家族が、無事帰還を願って待ち続けた場所なのだろうか。沖の白波を見ると何となくそんな詩情が湧いて来る。 暫しセンチメンタルな感情に浸った後、徒歩で谷地頭温泉に向かう。温泉は謂わば街中の大銭湯のようなもので、入場料を払って入ると大浴場の真ん中に赤茶色の湯舟が広がっており、一般市民がのんびりと湯に浸かっている。始め沸かし湯かと思ったが、天然の温泉とのことだ。函館一帯は函館山を含め火山帯の上に位置しているため、温泉が多い。こちらものんびりと湯に浸り、約3時間半の山歩きの疲れを癒す。 疲れがすっかり癒えたところで路面電車に乗り、今夜の宿泊地の函館朝市東横インに向かう。 |
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■2018年1月10〜12日 「昼から会」メンバーによる新年丹沢行記録 ―― 鳥尾山中尾根から桧洞丸まで ―― 竹中 彰(昭和39年卒) *********** 2018年1月24日HUHACメールより転載 一昨年12月に今回と同メンバーにより、東丹沢の源次郎尾根を登って尊仏山荘に一泊後烏尾山仲尾根*を下降したことがあったが、今回は逆に仲尾根を登って表尾根、主脈を桧洞丸まで縦走する計画が昨年末に本間さんから提案され衆議一決して新年最初の山行として実施した。 小屋の手配、食糧計画は言いだしっぺのCL本間さんが担当し、各自は何時もの様に指示に従って公物等を調達した。 今回の山行には、宮武(S45卒) 君参加も予定されていたが、年末押し詰まっての事故で叶わぬこととなった。今は冥福を祈るばかりである。 また、2日目の途中で1名の脱落があったものの、残る3名で当初計画通り蛭ケ岳山荘宿泊、桧洞丸に到達し、無事に西丹沢ビジターセンターに下って計画完了し、バス車内から留守連絡先の佐藤(久)さんにSMSで下山報告を。 ●メンバー:本間(CL、S40卒)、竹中(SL、39)、岡田(42)、高橋(昼から会) *この尾根は昭文社の山と高原地図にはコース記載がなく、地理院2万5千図、守屋益男版「東丹沢登山詳細図(全120コース)」には道標のない登山道、小径としてルート記載がある。 【コースタイム】
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【以下敬称略】 ●1月10日 (水) 晴れ 小田急・渋沢駅9時集合に間に合せるべく最寄の成瀬駅から通勤客に混じって、町田経由で向かう。予定よりスムーズに乗換えができて渋沢には8:15頃に到着した。改札口前の小田急OXで昼食を調達しようとしたが、9時開店とのことで、改札横の売店でオニギリ等を買う。全員揃った所で公物重量を最若手の岡田に傾斜をつけての再配分する。全体にアルコール(日本酒2Lパック1、0.9L、ウイスキー0.7L、花立さんへの芋焼酎「しまむらさき」)や初日のスキヤキ用の肉、野菜、生タマゴ等がかさ張る。 パッキング後タクシー乗場に移動して2台に分乗して登山口に向かう。大倉の戸川公園横を過ぎ、戸川林道を水無川に沿って進み、駅から30分程度で作治小屋下の仲尾根登山道入口に着く(9:30、550m、@3250円)。 準備を整えて9:40に本間トップで登り始める。尾根に取り付く迄の木の根が露出し、段差の大きい急登が堪える。200mほど登った植林帯を過ぎ視界が開けた地点で一本立てる。 その後は前回下降した草原状の緩急繰り返す尾根を辿り、下降時に見覚えのある残置ロープで左にトラバースを指示された地点などで適宜休憩しながら進む。 右手には源次郎尾根の植林帯や昼食をとった上部草付きなどが懐かしく眺められる。その後、次第に濃くなるアセビやイバラ、枯れたスズタケの植生の間を辿り、取り付から2.5時間弱で緊急連絡用標識No.9の地点で表尾根縦走路に出て昼食とする(12:05‐26、1130m)。風が徐々に強まってきたので食後スグ行者岳に向けて出発し、ワンピッチで役行者像のある頂上(1209m)に達し、クサリ場の下りに備えて一息入れる12:58‐13:05)。その後白く輝く2本の太いクサリの下りを慎重に下降して短い尾根上の桟道(橋)を渡り、政次郎尾根の先でピッチを切る(13:35‐42)。次のピッチは新大日への登りに息を切らせ、頂上で表尾根の来し方を振り返る(14:16‐30)。 その後は木の又大日を経て2ピッチでひと気のない搭ノ岳頂上に着くが、富士山は頂上が雲に覆われていた(15:45、1491m)。烏尾山からは、コースタイム2時間弱のところ3時間20分を要したことになり、後期高齢者部隊(平均年齢76歳弱)としても、稍々時間がかかり過ぎた感がある。 尊仏山荘には若手の小屋番が一人いたが、外人2人、日本人の単独行1人が同宿客となる。外人は後でウイーンのオーケストラ(ウイーン・ヨハン・シュトラウス管弦楽団)のオーボエとチェロ奏者である事が判明。横須賀での演奏会後の2日のオフを利用して登って来たとのことで、明日は蛭ケ岳山荘泊、その後は姫次から三ケ木に下山して八王子の演奏会場(オリンパスホール)に向かうとのこと。 小屋番氏(主人の花立氏の指示によって)からは松竹梅の一升瓶と2Lの水の差し入れがあった。ただ、今後2日分の炊事と個人用の水を確保する要があるので、全員で不動ノ水場(下り10分弱、登り20分)に汲みに行く。低温で一部凍結もあり水の出はチョロチョロで、2Lのプラティバス水筒を満タンにするには時間がかかる。何とか合計10Lを確保して一安心。夕暮れ前に再び小屋に戻って、先ずはビールで乾杯(岡田、高橋は淹れたての美味しいコーヒーで)。 少し落ち着いてから、持参のツマミ類(スモークサーモン、タイの昆布締め、シメサバ、漬物、乾きもの等)を開け、差し入れの松竹梅で宮武君に献杯後、お燗しながら新年会モードに突入する。頃合いを見て、小屋に寄託している家庭用コンロの上で並行的にスキヤキを始める。肉の量が1kg近くあり、結局は3/4くらいを消費して翌朝のうどん用に残った。この日は肉中心に食べた所為か、持参したアルファ米やモチに手を付けることはなかった。3名の客は我々の隣のテーブルで小屋のカレーライスを食べ終わっていた。ウイーンからの楽士は写真にも関心があり、小屋の外に出ては富士山の夜景や足元の相模湾、横浜・湘南の市街地などの撮影に勤しんでいた。一段落してから我々のテーブルに招くと、稍々小太りのオーボエ奏者が加わり、日本酒を飲みながら歓談した。宴は消灯時間の20時に終了し、2階の寝床に移動した。それなりの荷物(一人約13-15kg)を担いで歩いて来た疲れに程よくアルコールが廻り、床に就くなり眠りに落ちた。日中吹いていた風は夜間もおさまらず、明け方は冷え込みがきつかった。(17.5k歩) |
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●1月11日 (木) 晴れ 5時頃に目が覚め、1階に降りると本間が既にうどんを食していた。 朝食準備で昨夜の肉などの残りの材料を使用してうどん鍋を作って朝食とした。 色々整理して8:30過ぎに小屋を後にする。北側に急降下してガレたコルに出て、狭い橋を渡り登り返して暫らく平坦な道を進み日高に着く(9:20、1461m)。 ここで、本間が(高橋証言:昨夜23時と今朝4時頃にトイレに行った際に1階で本間さんが一人で日本酒の2Lパックを横に飲み続けているのを見かけた)寝不足状態なので一眠りしたいと、道端に横になった。後から追いかけるので先に行って欲しいとのこと。3人で相談し、これでは鬼ケ岩クサリ場通過も難しく下山すべき、時間が経てば酔いも醒め、通過は空身なら可能だろうなどの意見が出たが、取り敢えずは丹沢山まで先行することとして竹中、高橋が出発する。20分余進んだ所で竜ケ馬場のベンチに着き、後続の到着を待つこととした(10:00、1504m)。待つこと暫し、20分ほど後に岡田が到着し、本間から食材を分けて来た、本間は今夜も尊仏に宿泊するとの伝言が伝えられた。しかし、会計担当だった本間が握っていた会費を失!念していたとのこと。この先の宿泊費や緊急事態を考慮するとこの場のメンバーの手持ち現金に不安があるので、竹中が戻って本間を捉まえて会費を回収することとした。空身で本間を求めて来た道を駆け戻り、日高に着いたが姿はなく、携帯も繋がらず、更に尊仏方面に走った。擦れ違う登山者にこんな風体の人間は?と訊くと、搭ノ岳方面に向かって行ったと確認できた。搭ノ岳への急登手前で「ヤッホーヒトーツ」「ホンマー」のコールを掛ける。微かに応答が聞こえたので、「前に進むな」とコール。少し登りにかかった所で、姿を現しこれだろうと会費を手渡される。 本間はこのまま大倉に下山して帰宅し、明日は西丹沢教室に行って反省会に参加するとのこと。ここで別れて再び二人が待つ竜ケ馬場に走り戻る(11:05‐10)。1時間以上のロスタイムが生じたが、この先は3人パーティーで進むことになる。30分で平坦な丹沢山に着き、昼食とする(11:40‐12:05、1567m)。 丹沢山からは110m以上急降下し、その後は不動ノ峰、鬼ケ岩と徐々に高度を取り戻し、蛭ケ岳に至る長丁場となる。 最低鞍部の早戸川乗越(?)近くの南側、箒杉沢側の斜面に4-5人派手な赤系のジャケットの集団がいたが、シカ捕獲作業中の一団だった様で、通り過ぎて不動ノ峰の辺りで数発の銃声が響いていた。 この後蛭ケ岳頂上の標識柱には県の告示が貼付されていた。 不動ノ峰手前には休憩所が設置されており、搭ノ岳から丹沢山への主脈の展望が良い(13:03‐15、1580m)。スグに不動ノ峰頂上(丹沢山域第2の高峰!)で、この先に棚沢の頭があるが、シカ除けの柵が多い。7年前の昼から会山行で本間等と尊仏に泊まって、棚沢の頭から弁当沢の頭経由で熊木沢に下山したことがあったが、その時の下山口の記憶は全く失せていた。その後は鬼ケ岩のクサリ場などを下降し、思ったより長い蛭ケ岳(1673m)の登りにしごかれ、鬼ケ岩から丁度1時間、15:00に山荘に到着した。しばらく小屋前のベンチで丹沢周辺の景色を愛でつつ休憩し、写真撮影で過ごす。少し先の頂上看板を確認すると、支柱には県自然環境保護センター野生生物課の管理捕獲実施の告示が地図入りで貼付されていた。丹沢山の下部で聞いた銃声はこの一環と納得。しかし、今回の山行ではシカの姿は全く見かけなかったのは稍々寂しい感じもあった。 丹沢の盟主・蛭ケ岳には丁度10年前に、昼から会でユーシン避難室一泊後熊木沢を遡り、直登ルート(守屋地図には破線で表示がある、頂上直下では急斜面に残置ロープなどもあった)を登って以来である。この時は食糧計画を極力絞り込んで軽量化を図り、尊仏山荘ではカレーライスとおでんの小屋食を利用した。 小生は初めての蛭ケ岳山荘だが、受付で手続き後、管理人から利用について説明があり、右手奥のトイレは使用後ペットボトルの水を流す洋式水洗式で、寝所は左奥の部屋だが、ストーブのある入口広間とは戸で仕切られており、寝る時は相当冷えるので、予備の布団、毛布は自由に使って寒さを防いでと案内を受ける。同宿者は例の楽士2人と他に2人パーティのみで、客は7人と少ない。 自炊は我々3人のみで、広間の丹沢山側にガラス戸で区切られていたが、石油ストーブで温まっており、窓からは相模湾、横浜、東京方面の展望が開けており、居心地が良さそうだった。暫しツマミ(炙りイワシ等)2L紙パック日本酒をお燗してくつろぐ。次第に暮れてくる中で、時々日没直前の富士山撮影に外に出るが、風が強く冷え切った身体を熱燗で凌ぐ。夕食の献立はウナギなので、岡田が持参した佐藤のご飯2パックを湯煎し、その後蒲焼ウナギも入れて暖める。料理する手間もなく、水とガスストーブがあれば簡単に準備が出来る、食料計画担当の本間に感謝。ウナギは以前に鳳凰三山縦走の際にスキヤキに入れたことがあったが、そんな贅沢しなくてもご飯に最適なオカズと考えられる。サイドメニューの漬物、チーズをツマミにウイスキーも交え、窓からの下界の夜景を眺め、夜景撮影の手解きをオーボエ奏者から受けながら消灯時間まで過ごす。 寝床についてからは身体の内側から暖まっているためスグ眠りに落ちたが、明け方はかなり冷え込み、安眠できぬままウツラウツラしていた。 (26k歩) |
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●1月12日 (金) 晴れ時々曇り 5時頃に照明が戻り、広間のストーブが点火した気配に起きだすが、外の闇は濃く室内の空気は冷え切っていた。自炊室に行くとここのストーブも点火され、少しずつ温まってきた。朝食メニューは雑煮なので、お湯を沸かすべく昨夜置いておいたプラティバスを見ると中の水は凍っており、室内の冷え込みのきつさが分かる。何とか雑煮用の汁を作り、餅は各自2個宛コッヘルに入れる。テルモスにお湯を入れ、食後のお茶を飲んで出発準備にかかる。発つ鳥後を濁さずで、前日からのゴミ箱(袋)を最後にパッキングに入れる。パッキング後頂上で富士山始め、南アルプス、八ケ岳周囲の見事な展望を楽しむ。 なお、出発間際に管理人に都岳連その他山岳団体の会員割引の案内が入口横に掲示されているが、日本山岳会は記載が無いがどうかと問いかけたところ、管理人氏も現在入会手続き中(一昨年の神奈川支部設立総会には参加して講演会も聞いたとのこと)で、割引についても検討したいとのことであった。楽士2人も出てきて姫次に下山して行く。 我々も7時半過ぎにスタートして、頂上から200m余の一部クサリ場も含む下降をこなす。最低コルからは臼ケ岳に向けてミカゲ沢の頭や小さなコブを越えて行く。臼ケ岳(1460m)までは2ピッチ、1時間40分ほど要した。頂上ベンチで尊仏山荘からの主脈縦走コースを振り返る。計画検討時には昼から会未踏ルートとして臼ケ岳から朝日向尾根をユーシンロッジに下山することも検討したが、ユーシンからの玄倉林道、雨山峠越え何れも退屈な林道歩きが長い点で没となった。頂上で直角に屈曲して桧洞丸方面、神ノ川乗越に100m余下る。この先で本日初めてトレランの単独行者とすれ違う。この辺りは痩せ尾根を通過する部分も有り、極め付きは金山谷乗越で、クサリ、ハシゴなどが連続し、慎重に進む。その後は桧洞丸に向けて急なハシゴや階段を登り、神ノ川から4ピッチで青ケ岳山荘を越え、頂上に到着して昼食とする(1601m、12:30‐55)。頂上には単独行の高齢者1名がベンチで休んでいた。 ここまで来れば我々も西丹に下るだけと少し気が軽くなる。腰を上げて下りにかかるが、頂上直下は比較的緩傾斜の高床木道、桟道が続くが、次第に傾斜が増すとナカナカ簡単ではない、以前つつじ見物に登った時にこんなだったか、と些か思惑がはずれ、足取りも重くなる。2ピッチ1時間20分ほどで展望園地に着き、その後30分でゴーラ沢出合、更に1時間余で西丹への林道(つつじ新道入口)に着く(16:20)。到着直前に本間から携帯に電話が入り、現在地を確認してきた。答えると、西丹発17:05のバスだなとのこと。本間は自宅で一杯やっている様子で、昨日別れ際に西丹 (新松田?) に行くと言っていたのは何だったのか・・・。荷物整理していると、近くのキャンプ場の従業員(外人)がトイレを使うならどうぞと声を掛けてきた。西丹のビジターセンターも近いのでそのまま向かうこととした。ビジターセンターでは未だバス発車まで時間があると、係員が一旦閉めた鍵を開け、ヒーターのスイッチも入れてくれた。山行の締めくくりに続けて親切な人々に会えたのは気持の良いことであった。 メンバーの1名が途中脱落したのは残念だったが、兎に角無事に所期の目的を果たして満足であった。本間には計画立案、食糧計画など世話になったが、次回以降山行中の飲酒については、今回の反省を踏まえて、体調、行程を勘案して無茶をしないことを望みたい。 松田では岡田、高橋は何時もの反省会会場若松食堂に向かったが、小生は翌日に東京多摩支部5期登山教室で朝早くから三ツ峠山に行く予定だったのでそのまま直帰した。皆さんお世話になりました、お疲れ様でした。 (20k歩) (2018年1月20日記) |
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■2017年12月10日 越前岳(富士ビュー、懇親山行) 岡田 健志(昭和42年卒) ****** 2018年1月19日投稿
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毎年、雪をかぶった白い富士山が良く見える山で懇親山行が計画されている。当会のなかでは、「富士ビュー山行」という呼び名が定着している。 寒くはあるが天気が安定しており、年賀はがき用の写真が撮れるので、参加希望者は多い。また、富士山学の泰斗、佐薙先輩とその弟子である宮武会員が参加となれば、実物のお山を目の前にして楽しい解説を聞くことが出来る。 JRでくる人、小田急線でくる人まちまちで、御殿場駅に集合。そこから富士急バスで十里木へ。5分で登山口に到着。乗用車やバスが沢山駐車していて、なかなか人気の高い山であることがわかる。登り始めて振り返ると富士山の東南面が見える。雪が少なくて、黒々としている。北面とくらべると、東南面は積雪量がちがうとのこと。 十里木高原のバス停から歩きだすとほぼ直線にルートがとってあり、振り返ると富士山の横っ腹に巨大な穴が目につく。宝永4年(1707年)の宝永大噴火によってできた噴火口で、第一火口と呼ばれている。このときの大噴火を最後に、富士山はおとなしくしている。 十里木高原展望台までは、下ばかり見ながらひたすら登る。ここで振り返ると、富士山の左側に南アルプス南部の山々が雪をかぶって青空にそびえたっているのが見える。近くの、巨大な富士山と遠くの、白い頂を連ねる南アルプス。こんな景色を眺めることができるだけでハッピーになる。 登山路は、樹木の茂るルートとなり展望もきかなくなる。越前岳の頂上は、大勢のトレッカーで満杯状態だった。我々もここで昼食とする。 帰路は富士見台・富士見峠を経て山神社を目指す。午後になって雲が出たため、富士見台では富士山にお目見えできなかった。急斜面に足をとられてスッテンコロリンする人もいたが、山神社経由で愛鷹山登山口バス停に出た。 御殿場駅近辺で反省会を行い、来た時と同様まちまちのルートで帰宅した。 (本稿は、この山行を幹事として計画した 故宮武 幸久氏が作成することになっていた。残念なことに、氏が上野原近郊の坪山で亡くなったため、岡田が代わりに作成した。反省会で美味そうにビールを飲んでいた氏の笑顔が、今でも思い出されます。宮武さん、やすらかにお眠りください) |
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12月10日 12:39(撮影:岡田)富士見台にて (後列左から)岡田、中村、太田、佐薙、宮武、佐藤(久) (前列左から)小島、本間、佐藤(周) |
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●速報 加藤 博行(昭和51年卒) ****** 2017年6月4日HUHACメールより転載 針葉樹会の皆様への報告 6月3日〜4日実施された針葉樹会懇親山行越後シリーズは、参加者11名「 (順不同)佐薙さん、小野さん、小島さん、佐藤(久)さん、岡田さん、宮武さん、前神さん、佐藤(周)さん、川名さん、幹事:太田さん、加藤」により、6月3日長岡のロッジ道院前泊、4日早朝より、保久礼小屋まで車で乗り入れ、そこから往復して無事守門岳に登頂し、下山しました。(全行動時間8時間10分) 天候が終始曇り空の中、参加者の皆様にはご苦労様でした。 詳細は、後日の針葉樹会報で幹事より報告いたします。 ●守門岳山行記録 太田 貴之(平成28年卒) ****** 2017年7月3日投稿 【準備編】 今回の懇親山行にあたって、私が事前に行ったことは、宿泊先および移動手段の手配、偵察山行である。宿泊先および移動手段の手配は、宿とレンタカーを予約した。レンタカーは、長岡のような地方都市での移動には、大変都合がよく6月3日に弥彦山や五十六記念館に行って、長岡観光を楽しむことができた。 また、ミニバンを2日間借りても、料金は、27,000円程度であり、タクシーよりも値ごろだった。今後も、移動手段として、レンタカーを検討するのがよい。 偵察山行は、大岳までだったが、登山道の状況をたしかめることができたので、意義があった。偵察山行は山開きと重なっていたこともあり、6月4日と比べて、登山者の数が多く、中には、長靴で登山している人もいて、装備について参考になった。 これらにより、アイゼンは不要と判断したが、念のため、栃尾観光協会と魚沼観光協会に確認した。反省点としては、事前に宿泊先であるロッジ道院から保久礼小屋登山口への経路の確認が不十分だったため、6月4日は登山口に行くまでに少し道に迷い、時間をロスしてしまったことだ。 |
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【6月4日のコースタイム】 0645保久礼小屋登山口⇒0905大岳⇒1043青雲岳⇒11:05袴岳⇒14:55保久礼小屋登山口 【山行記録】 保久礼小屋登山口の名のとおり、登山口の近くには、保久礼小屋がある。保久礼小屋は、2階建てのコンクリート造りの小屋である。小屋の中は、汚いものの、スペースも十分あり、ここで雨具を身に着けた。 また、この小屋の近くには、水場があるため、出発前にここで水を補給していくとよい。 6:45に佐藤(周)さんをトップに登り始めた。登り始めてから稜線上の大岳にでるまでは、登り一辺倒である。当日の明け方まで雨が降っていたこともあり、登山道の足場は悪く、ぐちゃぐちゃしていた。登っていくと、徐々に登山道に雪が現れ始め、大岳からの稜線上の登山道は雪で覆われるようになった。 稜線上では、ルートを見失いかけることがあったものの、ピークの袴岳に11:45登頂した。残念ながら、天候は回復せず、景色は見えなかったものの、参加者全員、登りきることができたのでよしとしよう。 袴岳山頂で、大白川のバス停までいく佐藤(周)さんと別れ、登りと同じコースを下山した。そして、14:55に保久礼小屋登山口に無事に到着して、怪我なしで懇親山行を終えることができた。 |
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6月4日 11:12(撮影:川名)守門岳山頂にて (後列左から佐藤(久) (中列左から小島、岡田、小野、前神、加藤、佐藤(周) (前列左から太田、川名、佐薙、宮武)
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●Re:6月3日〜4日懇親山行のご案内(守門岳) 佐藤 久尚(昭和41年卒) ****** 2017年6月4日HUHACメールより転載 加藤さん 太田さん 大変お世話になりました。 きめ細かいアレンジのお陰で大変エンジョイできました。 ありがとうございました。 ●無事、大白川へ下山 佐藤 周一(昭和54年卒) ****** 2017年6月4日HUHACメールより転載 守門岳懇親山行にご参加の皆様 佐藤(周)です。本日はお疲れ様でした。 あれから当方は、標高1300b付近の雪原でルートをロストし、15分位の薮こぎを余儀なくされたり、1000b付近からの急坂では2度ほどスッテンコロリしたりしましたが、何とか大白川のバス停に3時前には着いて宿の車にピックアップしてもらい、先ほど熱めの温泉で汗を流し、生き返ったところです。 皆様の復路は如何でしたでしょうか? 守門岳は生憎のガスで眺望は得られませんでしたが、豊富な残雪や高山植物にも出会えて有意義な山旅でした。 細かなご配慮をいただいた加藤さん・太田さんには心より御礼申し上げます。 今日こそは?早めに寝て、明日の浅草岳に備えたいと思います。引き続き、よろしくお願いいたします。 ●Re:無事、大白川へ下山 加藤 博行(昭和51年卒) ****** 2017年6月4日HUHACメールより転載 佐藤さん、 無事大白川着とのこと、ほっとしました。我々は、午後2時55分に保久礼小屋に到着、そのまま栃尾のおいらこの湯に移動して、温泉につかり、長岡駅で再びビール??と酒??、へぎそばでしめて、解散しました。 大人数のトップ約を無理にお願いし、全うしていただき、有り難うございました。あすの浅草岳が素晴らしいことをお祈りします。また次回、どこかでお会いしましょう。 太田さん、 ご苦労様でした。結局、あのあと長岡でへぎそばでしめたので、今回はオプション二つともほぼ完了しました。本当にご苦労様でした。後日慰労会をやりましょう。 |
■2017年6月17日 日留賀岳 藤原 朋信(昭和44年卒) ****** 2017年6月18日投稿
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■2017年6月4〜5日 守門岳・浅草岳(懇親山行・単独&延長山行) 佐藤 周一(昭和54年卒) *********** 2017年6月6日投稿 【6月4日(日):曇り】 冷たいガスに包まれた守門山頂で集合写真を撮った後、私は往路を戻る本隊と別れ、南の大白川登山口を目指した。歩き易い稜線を暫く進むと標高1300b付近から緩傾斜の広い雪原が広がる。視界がよければエデシ尾根の取り付きが分かるのに、濃いガスのため道をロスト。ピンクテープを探すために藪漕ぎを15分ほど強いられて漸く下降路を発見。その先、標高1000b付近からは奈落の底へ落ちるような急降下。要所要所にはロープが張られているので不安は感じなかったが、雨上がりのぬかるみに足を取られ数回ズルッ、ズッデーン。尻を汚しながら林道終点に午後1時半に到着。見ると多摩ナンバーの車が2台有り、傍らで数名が取れたての山菜天ぷらを楽しんでいた。途中、スキー場ゲレンデを突っ切りながら林道を辿り、3時前には大白川バス停着。ここから今夜の宿に電話して車で迎えに来てもらった。宿には浅草岳山麓に沸く温泉が引き込んであり、熱い湯に守門山行の疲れが溶け出していく気分だった。 11:20 守門山頂 → 13:30 林道終点駐車場 → 14:50 大白川バス停 【6月5日(月):晴れのち曇り】 前日までの天候とガラリ変わって無風快晴の朝。5時半に朝食を出してもらい、宿の車で林道の奥の行けるところまで行くことに。ネズモチ平登山口近くまで運んでもらったので1時間近く短縮出来た。但し平坦な所は田んぼ状態で歩きにくいことこの上なし。ぬかるみを脱すると今度は急登が待っており、木の根や岩角を掴んで攀じ登ること2時間余。樹林帯を抜け傾斜が緩くなると前岳手前の分岐に出る。ここから稜線上はたっぷりの残雪で、沢の源頭付近はスッパリ切れ落ちているので傾斜が緩い所を選んで慎重に進む。露地が出てくると木道が現れ、頂上直下まで続いていた。9時過ぎには山頂着。少し前から上空に雲が広がり始めており、守門岳方面も頂上付近は雲に覆われていたが、反対側の田子倉湖や浅草岳から稜線が続く鬼ヶ面山の東面壁がよく見える。越後三山や会津駒ケ岳方面も標高1800b以上は雲の中。しばしの休息後、往路を戻る。前岳への雪面降下は念のため軽アイゼンを出した。分岐から西にムジナ沢登山口への下降を開始。途中、やせ尾根を残雪が覆う数箇所は少々緊張を強いられた。桜ソネ広場に出る手前、標高1000b付近では早咲きのヒメサユリにも出会えた。 急坂を下り切り平坦な地形になると再び田んぼ状態が多くなるが、途中、ミズバショウの群落地もあり気分転換になる。計3時間半の下降で登山口に出た。 朝の短縮効果もあり予定より2時間近く早めに宿に帰着するが、JR只見線の本数が少ないので乗る時間まで宿で休憩させてもらう。食堂で行動食を頬張っていたら女将さんが山菜の漬物とお茶を出してくれたのでビールを注文させてもらう。腹が膨れた上に酔いと疲れとで眠くなり1時間ほど午睡。3時半には大白川駅まで送ってもらい、小出・浦佐経由で新幹線で帰京した。 6:00 民宿発 → 6:20 ネズモチ平登山口 → 8:50 前岳分岐 → 9:10浅草岳 → 9:40 前岳分岐 → 11:20 桜ソネ広場 → 13:15 ムジナ沢登山口 → 13:20 民宿着 (補足)只見線は東北大震災の年の豪雨災害で会津川口駅と只見駅間が不通になっており、昨秋の博士山・志津倉山行の 際に先導役をしてくれた地元の斉藤君が「復旧に100億近い費用が必要で全通の目処が立たない」とのことでしたが、 今回の宿の主人の話では何とか目処が立ち、復旧工事が年内にも着工予定とのことでした。 |
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■2017年5月2日〜4日 五竜岳−宿願を達する− 岡田 健志(昭42年卒) ********** 2017年6月21日投稿
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