雲の平と黒部五郎岳
岡田健志(昭42年卒),投稿日 令和元年9月16日

 
岡田 健志(昭42年卒)
日程   :201985日~10
メンバー :高橋 康夫(昼から会)、岡田健志
 
85日(月)晴れ
東京 - 富山(泊)
 
 今年の夏の暑さは大変なものだ。そんな中、重いリュックを背負って、汗をかきかき出かけるのはどうかとおもうが、富山駅前のホテル、列車の切符も予約しているので、そして何よりも念願の雲ノ平と黒部五郎岳。出かけざるを得ない。
同行は昼から会の高橋さん。ほかのメンバーが「ヤメタッ」と弱気な対応を示す中、80歳の高橋さんは3度目の黒部五郎岳挑戦というお元気さ。奥様が富山ご出身で、剱・立山や薬師岳などへは、複数回登っておられる。
 明日のために、富山駅前でおにぎりやバナナ、トマト、キュウリなどを買い込む。
富山駅前の東横インに投宿。夕食は「鯛家」で富山湾産の新鮮な魚料理を高橋さんからご馳走になった。人口34万人と言われる富山を市電の窓から少しだけ見学した。ホテルの多い町と感じた。
 
86日(火)晴れ昼頃から雷雨
東横イン(500)-駅前バス停発(530)-折立(73050)-アラレちゃんの休憩所(925)-1,870m(三角点、103255)-雨降りだす(1155)-太郎平小屋(1445
 
駅前の東横インからシルエットの剱岳が見える。(写真・下左)シルエットだからか、眠そうな剱だ。
富山駅前から出る、折立行きのバスに乗る(@3500円)。猛暑のなか、13kgの荷物を担ぐことになり、なぜもっと軽く出来なかったのか、と反省しきり。ただし、水2kgカメラ1kgは減らしようがない。1870m地点(三角点)を過ぎた辺りから、北方に剱岳が見える。キンコウカが群生する草原の向うに剱岳が見える風景はなかなかのものだった。(写真・下右)

2019.8.6 剱岳(富山駅前の東横インから)

2019.8.6 キンコウカのお花畑の向うに剱岳

 
 薬師岳山荘までは折立から高度差約1350m。当初計画では、今日中にここまで入り、明朝一番で薬師岳を登ってから雲の平まで、というものだった。ところが11:55に薬師岳方向からしきりと雷が鳴りはじめ、雹まじりの大粒の雨が強い風とともに吹き付け、登山道は川と化して靴はもちろん、なにもかもびしょ濡れ。落雷の恐怖におびえながら太郎平小屋へたどり着くのが精いっぱいの一日となってしまった。

 
87日(水)晴れ夕方雨
太郎平小屋(600)-カベッケが原入り口(750)-薬師沢小屋(9301000)-木道末端(13151330)-アラスカ庭園(1400)-雲の平山荘(1500
 
 今日の行程は、太郎平小屋を出発し、薬師沢小屋まで450mの下降、薬師沢小屋から雲ノ平山荘まで540mの登り。モッタイナイ。雨と朝露に濡れ、滑りやすい木道を注意深く歩く。昨日の雨は相当強かったので、薬師沢出会いまでの下りや雲ノ平までの急登の状態が心配だったので、小屋の方に聴いて出てきたが、その情報どおり、支障は全く感じなかった。
  良く晴れていて、薬師岳の稜線も樹林帯の木々も青空をバックに大変美しい。カベッケが原は広大な笹原で、所々にベンチが置かれていて、休めるようになっている。多くの登山者に追い抜かれ、また多くの下山者(この場合は登りだが)とすれちがう。(写真・下左)
 高橋さんとは同じ住宅地に住んでいる。その住宅地の小学生たちが登校する際に「見守り隊」として交通安全旗をもって見守りをしている。そのお礼ということで、子供たちが公園で採った梅の実で作った梅ジュースをもらった。これを持参した高橋さんが薬師沢小屋の冷たい水で割ってご馳走してくれた。喉にしみる美味しさだった。(写真・下右)

2019.8.7 カベッケが原

2019.8.7 薬師沢小屋

 
 薬師沢小屋(海抜1920m)から雲の平山荘(同2464m)への登りはツライものだった。夏の強烈な日差しこそ樹林帯にさえぎられたが、ちょっと雨が降れば水が流れるであろう溝状の急登を、あえぎあえぎ登る。景色が見えるわけでもない急登のコースタイム2時間10分、これを3時間15分かけて木道末端に達した。深い笹原のなかに続く木道を行く。笹原はいつのまにか這松帯にかわり、向うに雲ノ平山荘が見えてきた。

 山小屋の人に言わせれば「毎日のこと」らしいが、この頃から、雷が鳴りだし、山荘に着く頃には本降りになっていた。
 
 山荘の混み具合は、それほどでもなく、乾燥室も十分なスペースが確保できた。寝るスペースもゆったりしていて、夕食までの間に横になっていると、泊り客がザワザワしてきた。何事かと見ると、雨も上がり山荘のすぐそばに低く虹が出ていた。虹はちょうど山荘の二階の高さくらいで、その一方の根元はキャンプ場の辺りであった。さらに、空高くにも、もう一本の虹があり、泊り客が驚きの声をあげるのも無理ないことだった。(写真・下)

2019.8.7 雲ノ平山荘のすぐそばに虹が出た

 夕日に映える水晶岳、夕焼けに染まった西側の空、また天の川が横たわる星空も美しく、雲の平山荘周辺の景色は大変印象深い。
 夕食には、鮭のかす汁が8人の登山客に対して鍋一杯提供され、味もよかった。

8月8日(木)快晴夕方雨

雲の平山荘発(545)-祖父岳(815840)-岩苔乗越(955)-水場(1000)-祖父岳・三俣山荘分岐(12:00)-三俣山荘(13:1530)-三俣蓮華岳との分岐(15:3045)-黒部五郎小舎(17:10

 新しい小屋で、宿泊する人の数もそれほど多いということもなく、居心地の良いものだっただけに、雲ノ平の滞在が一晩だけというのは少し残念。黒部川源流に位置するこの場所は、里からはほど遠く、私達の脚力から計算しても下山するにはあと山中2泊が必要。となれば、残念ながら雲の平に連泊というわけにはいかない。今日は、私の76回目の誕生日、頑張って歩かなければ。(写真・①)

 歩き初めてすぐに雲ノ平全体に朝日が当たり始めた。夜露に濡れたチングルマの実がキラキラ光る。木道以外を歩けないここでは、カメラの位置決めが難しい。(写真・②)
スイス庭園まで行って、雄大な薬師岳、あくまでも険峻な剱岳を眺めることが出来た。祖父岳は背中に朝日を浴びながらの登りだった。2800m近辺までくると、雲ノ平にくらべると、雪解けが遅いせいか、チングルマもちょうど満開であった。(写真・③)その他にも、コバイケイ草、ハクサンフウロ、イワギキョウ、ミヤマリンドウ、ハクサンイチゲなどまさに百花繚乱状態。(写真・④⑤)
 祖父岳の頂上からは360度の眺望を楽しむことが出来た。西穂高岳から奥穂高、北穂高を経て槍が岳に続く稜線の鋭さは、やはり日本一だ、と感じた。(写真・⑥)
 これに引き換え、三俣蓮華岳から黒部五郎岳、北ノ俣岳に至る山容は、対象的になだらかだ。

① 2019.8.8 高橋さん(雲の平山荘をバックに)
② 2019.8.7 チングルマ(実)
 ③ 2019.8.8 チングルマ(バラ科」)
④ 2019.8.8 イワギキョウ(キキョウ科)
⑤ 2019.8.8 ミヤマリンドウ(リンドウ科)
 ⑥ 2019.8.8 槍・穂(祖父岳頂上から)

 祖父岳の下りは頂上直下にハシゴがかけられた急な下りがあったが、ほとんどがなだらかな稜線漫歩。岩苔乗越では、鷲羽岳越えをあきらめ、黒部川源流を経て三俣山荘へ行くことにする。
 乗越のすぐ下に水場がある。ここで、残りの梅ジュースをいただく。かなりの数の登山者が我々と同じルートをとり、私たちを追い越していった。
流れに沿って下るこのルートには、ミヤマキンポウゲ・モミジカラマツ・ハカサンフウロ・クルマユリ・トリカブト等々たくさんの高山植物が咲いていた。振り返ると、岩苔乗越から緑の傾斜が続き、その上に雲一つない青空が広がっていた。(写真・下左)
  この浅い谷を下って雲ノ平と三俣山荘との分岐から三俣山荘を目指す。三俣山荘は傾斜がグッと緩やかになった場所にあり、そこからは槍が岳と北鎌尾根が真正面に見えた。(写真・下右)

2019.8.8 黒部川源流の谷

2019.8.8 槍が岳と北鎌尾根(三俣山荘にて)

 

 19643月一橋大山岳部は湯俣尾根から鷲羽岳・三俣蓮華岳を越えて、西鎌尾根を槍が岳まで縦走した。その時にみた同じ景色が、無雪期ではあるが、そこにあった。雪のついた槍・穂の稜線も素晴らしいが、雪のない時もまた素晴らしい。何枚も何枚もシャッターを切った。(写真・下)
予定通り黒部五郎岳に行くか、それとも双六岳経由で新穂高温泉に下るか迷い、二人で相談したが、やはりここは当初予定した通り黒部五郎岳へ行かねば、ということで意見一致をみた。

1964.3 湯俣尾根?

 

 三俣蓮華岳は頂上を通らず、捲いた。三俣側から黒部五郎へ向かう登山者は僅かしかいなかったが、反対側からくる登山者は数パーティーいた。捲き道が終わり稜線上の径にでる。チングルマの群落がある辺りから黒部五郎小舎へは最初は笹原をそして小舎の赤い屋根が見えだしてからは、急で長い樹林帯の中の道となった。小舎(「小屋」と書かず「小舎」と書く、その意味は聴きそびれてしまった)へ着く頃にはこの日も雨となった。雷こそ鳴らなかったけれど。
 
89日(金)快晴
黒部五郎小舎(515)-黒部五郎岳肩(910)-黒部五郎岳頂上(93040)-黒部五郎岳肩(955)-赤木岳(1400?)-北ノ俣岳(154050)-太郎平小屋(1800
 
 この日のコースタイム(昭文社地図による)は7時間、我々の足では10時間以上かかるだろう、と考えて早朝出発。ところがなんと、13時間の行動となってしまった。雪渓で水の補給をして時間を費消したこともあるが、もう少し早く歩く訓練を加える必要がある。
 小舎を出発してしばらくは、樹林帯を行く。なかなかカールらしい景色に出合わない。小一時間歩いてようやく黒部五郎岳の北面が見えてきた。朝日を浴びて切り立った岸壁だ。(写真・下左)
 残雪から溶け出した水がいくつかの細い流れをつくっている。明るいカールを登るのだが、大きな石がゴロゴロしていて歩きにくい。岸壁にはなかなか近づかない。
最後は、岸壁に向かって右側の急な傾斜地を登る。振り返ると槍が岳の穂先が少し覗いている。さらにその右に奥穂高岳の稜線も見える。北ノ俣岳へ続く稜線は、なだらかな起伏が続き、今日の目的地である太郎平小屋もはっきりと確認できる。頂上からの眺望に期待が高まる。
 
 「肩」の標識傍に荷物をおき、黒部五郎岳頂上を往復する。頂上は360度の展望台。東側、槍・穂稜線は手前の谷筋から湧き上がる雲のため、上部しか見えないが、槍が岳がより鋭く天空に突きあげている。剱岳に至る稜線は、空に雲が多いながら稜線がはっきり見え、剱が大変格好良い。(写真・下右)
 私個人的には、雲の平と黒部五郎岳頂上を踏み、大変満足であった。

2019.8.9 黒部五郎岳の北面(カールから)

2019.8.9 稜線から剱岳

 

 今日のゴールの太郎平小屋は見えてはいるものの、まだまだ先は長い。「肩」に置いた荷物を背負い、急な下りを降りはじめる。薬師岳方面から来た縦走者、あるいはピストンで黒部五郎まで来た登山者が結構大勢いて、この急な下り(これら登山者にとっては、登り)に苦労している、何組もの登山者に出合った。
一部狭い稜線もあったが、多くは広い稜線を緩やかなアップダウンを繰り替えしながら歩く。右側に平らな箇所が見えるのが赤木平だろうか?
 
 赤木岳の下りは大きな岩が堆積したような道でルートを失わないように慎重に下る。下った所に小さな残雪があり、残り少なくなった水を補充する。ただ、溶ける量が僅かで、水筒に貯まるのにはかなりの時間を要した。冷たくて美味しかった。
このころには、南側から雲が沸き上がってきて、先がわかりにくい。北ノ俣岳も見え隠れしていて、判然としない。道ははっきりしているので、我慢強く歩いていくと1540に北ノ俣岳頂上に着いた。
 雲が湧いてきたが、今日は雨も降らないし雷もならない。ただこの山旅中、午後になると雨に降られるケースが続いたので、先を急ぐ必要があった。幸いにもこの日は雨に降られないですんだ。
 太郎平小屋手前でメスのライチョウが子どもも連れず、ただ一羽でエサを探していた。ここでも少子化が一般的になっているのか?(写真・下)
 到着が遅かったためか、この日の寝床は、明かりも無い屋根裏部屋だった。持参したインスタント食品が殆ど残ってしまったので、この日は素泊まりとし、自炊した。
 同宿の方が持ち込んだ「イブリガッコ」と「チーズ」をいただき、そこそこの夕食となった。

2019.8.9 ライチョウ

 8月10日(土)晴れ
太郎平小屋発(515)-1870m(三角点、73555)-あられちゃん(830)-折立(920
 
 下山日。折立発富山行のバス発車が1110だということで、この日も早出。お盆休みの最所の土曜日ということで、登り客が団体でどんどん登ってくる。やり過ごしていると、待ち時間が大変なので、グループの先頭の方が「下る人がいまーす」と声をかけてくれたのを機に、遠慮なく下らせてもらう。
 ヘロヘロに疲れたが、山中45日の計画を完遂した充実した夏山だった。
東京駅についたら、ここも帰省客でホームに人があふれかえっていた。
 
 最後に、私の場合、登山中に足が攣ることがしばしばである。ところが、今回それがなかった。スクワットなどを毎日欠かさないでやっていることの効果が出たことがその一番の理由だと思う。それに加えて考えられるのが、「ツムラの68」の朝晩二回服用と「ポカリスエット」の効用。「ポカリスエット」は粉末を持参し、毎日2リットル作って行動中に飲んだ。今後の山行に実行して効用を確認したい。

 九州の久住山 ミヤマキリシマを見に (6月20日~21日)
藤田 一成(昭和52年卒),投稿日 令和元年7月2日

 坊がつる賛歌の歌詞に「ミヤマキリシマ咲き誇り  山くれないに大船の 」とある。
これは元歌が広島高等師範学校山岳部の歌なので、広島での酒飲み時代の昔、酔っぱらっては高歌放吟していたので、いつのまにか「ミヤマキリシマの山くれない♪」のセリフは刷り込まれていた。が思い立って、久住山(クジュウサン 1787m)にミヤマキリシマをこの 620日~ 21日と見に行った。 2人ほど誘うも断られ残念ながら単独行。
 問い合わせに、「もう咲き終わりですよ」と言われたが、まあ行ってみようと、阿蘇方面から便数の少ない九州横断バス(熊本~大分)でやまなみハイウェーの最高地点 牧ノ戸峠で午前 11時過ぎ下車。

ミヤマキリシマ
撮影日時:6月20日13時19分
撮影者:藤田

 時期が若干外れとあって久住山へ向かう人は見かけない。天候は晴れ。久住山への最短の一般ルートだが、すこし登ると高い木はなくなり、気持ちの良い稜線がつづく。
 ミヤマキリシマが現れるが、大半は咲き終えて茶色くなっている。登山口から 2時間半で久住山の頂上だ。頂上からは久住山の他の山塊が一通り見渡せる。南には阿蘇のカルデラ平原が広がっている。
 登山ルートからは見えにくかったが、久住山の南斜面には、目的のミヤマキリシマの群生がまさに咲き誇って、久住山の名残りの群生があった。
 この花の色の広がりがミヤマキリシマの 山くれない だと教えてくれる。
 資料写真では山全面がくれない色に燃えているような久住山が紹介されているが、今年は 6月の第 1週くらいだったらしい。
 しかし、昔の人も言ったが、花はピークよりも散る間際
 群生が支配的に 咲き誇っている よりも、おおかたは枯れて散ってしまっていくなかで最後にひと花咲かせるすがたこそが いとおかし ’…と強がりの感想を巡らせて、全盛を見損ねた残念さをごまかした。 

大船山と大戸越の分岐標識
撮影日時:6月21日9:16 撮影者:藤田

 余談だが、この日は、2時間半ほど下山して、ぼうがつる湿原の際にある古い温泉山宿・法華院山荘で一泊し、翌朝、坊がつる讃歌の歌詞に出てくる大船山(1787m)に登った。久住山と同じ標高で、久住の山塊を見渡せる。
 この大船山、タイセンと読む。 長い間 山くれないに大山の♪(ダイセン)と覚えていた。考えてみれば大山(ダイセン)は伯耆の国の山。確かに標識にはTAISENとの記述があった。
 大船山の帰りまた山荘で、一人っきりの湯舟にゆっくりつかって、バス停まで 2時間の下山路に向かった。

 
『南会津の温泉と山を訪ねて』

加藤 博行(昭和51年卒),投稿日 令和元年7月2日

「南会津」と聞くと、広い東北でも他の土地とは少し違う優しい響きを感じると共に、懐かしいような気分になり、行ってみたくなるのは不思議だ。
3月初めに福島の斎藤さん(昭和63年卒)から、「南会津の湯ノ花温泉に泊まって、田代山・帝釈山はどうですか」と懇親山行候補地として提案があった時は、思わずこれに決めた。
針葉樹会報132号(20152月)掲載の、斎藤さん執筆による「会津の山」は、故郷愛に溢れたエッセイだが、そこにも東武浅草駅から南会津の玄関である会津高原尾瀬口駅へのアプローチと湯ノ花温泉の紹介があり、いつかは行ってみたいと思っていた。
東武鉄道、野岩(やがん)鉄道、会津鉄道を直通する特急リバティで会津高原尾瀬口駅に集合し、レンタカーを手配し、温泉で一泊、翌朝田代山登山、その延長として希望者は帝釈山を往復、下山後初日の駅まで戻り、特急で日曜日夕方には東京へ戻る案で、斎藤さんに現地の段取りをお願いした。
会員の参加を募ったところ、最終的に12名となり、年代も70代以上5名、605名、502名と、多少薹(とう)がたってはいるものの、一応「老・壮・青」と幅広く揃ったのは嬉しかった。
 
◆参加者 佐薙、小島、佐藤(久)、吉沢、中村(雅)、前神、藤田、加藤、佐藤(活)、佐藤(周)、川名、斎藤(誠)=現地参加
 
◆日程及びコースタイム
6月15日 
 浅草 9時発
 会津高原尾瀬口着 1205
 昼食、及び前沢集落立ち寄り後、民宿「山楽」着 15時半
 
6月16日 
 民宿発 620分 猿倉登山口 7時 (天候様子見)745分発
 8時15分に、〔帝釈山組〕前神、藤田、佐藤(活)と〔田代山組〕に別れ、帝釈山組が先発する。
〔田代山組〕
 田代山頂上 955分 避難小屋 1005分 避難小屋発 1115分 登山口 1245
〔帝釈山組〕
 田代山頂上 九時半 帝釈山頂上 1110分 避難小屋 12時 
 登山口合流 1320分 
 会津高原尾瀬口発 1518分 浅草着 1815
 
 初日、会津高原到着後、斎藤さんの黄色いアクアに、レンタカー・ヴィッツ2台を仕立てて、昼食に寄った古民家調の蕎麦屋「おり田」の天ざる蕎麦はなかなか美味かった。朝晩の寒暖差が大きい南会津は蕎麦の栽培に適し、全域で蕎麦が作られているようだ。天ぷらを揚げたて、他の客を入れず、待っていてくれたお店の心使いも嬉しかった。
 その後、ひっそりと山合いにたたずむ茅葺きの「前沢曲家(まがりや)集落」に立ち寄る。15軒の茅葺き屋根集落は、小雨に煙るなか、日本の原風景を彷彿とさせてくれた。薪のくべられた囲炉裏端で暖を取りながら、厩(うまや)と人の住居が一体化した造りに、冬の厳しさと家畜に対する愛情を感じた。
 そしてこの日向かった、湯ノ花温泉の民宿「山楽」は、我々を茅葺き屋根で迎えてくれた。部屋で一息入れ、舘岩川沿い4か所に点在する外湯の温泉に各々浸かりに行く。お湯が源泉かけ流しだが、熱すぎて、とても入れないという人もいる一方、温湯(あつゆ)好きにはたまらない、しっかりした温泉だ。
 夜は、川魚と山菜中心の夕食である。お酒がガンガン進み、小ぶりすぎるお銚子がどんどん横に並ぶ中で、明日の天候が気になった。夜中に強い雨が降るが、朝方には雨が上がって小康状態になるとの予想にかすかに期待して、部屋に引き上げ、眠りにつく。
初日は、南会津のおもてなし一色だった。
 
 明け方は、川の流れの音と雨音の区別がつかない中で目が覚める。各自それぞれ朝湯を楽しんだりした後、早い朝食をとり、おにぎりを持って出発。
 その頃から早くも雨足が強くなる。40分のドライブで登山口に着くと、雨は更に強くなり、幹事を泣かせる。やはり、六月中旬からは、梅雨入りリスクがあるなあと思っていたが、兎に角少しおさまるのを祈るしかない。
 小止みになったところで出発、しっかり太い木でステップを作った急坂を進む。時に太い白樺の生木で補修しているのは、少しやりすぎに思えたが、急登の割には歩きやすく、水はけも悪くないので、雨の日は助かる。先日芦安の高谷山登山道整備に参加した時に斜面を「がじった道」と比べると、別世界だ。
 最初の30分で休憩したところで、帝釈山希望者を募ると3名手があがる。前神さんは、そもそも会社の仲間と行く予定であった北東北の焼石岳が雨で中止になって、急きょ転戦したもの。ピーク(300名山)を狙う執着は流石である。佐藤(活)さんは、田代山を既に登っていて、もともと帝釈山がメイン。そして今回初参加で会員に成りたての藤田さんがこれに続く。雨模様で天候回復が微妙な中、モチベーションの高い3人は元気よく急坂を登って、我々の視界から消えた。
 残った9人は、その後ゆっくりと進む。新緑が雨空に鮮やかに映え、やがてシャクナゲやイワカガミ、リンドウの一種が点在し始める。雨もあがり、ガスが少し切れて、遠くの山々が眺望に入ってくる。
 しかし、その後また小雨がぶり返し、頂上に近づくと風も出てきて、今日はこんな天気が続くのかと少々がっかり。そのうち傾斜が少し弱まり、木道が現れ、導かれるように思い切り広い頂上の湿原の端に到着した。
 何という広さだ。風情のある木道が続き、チングルマやヒメシャクナゲをはじめとする小さな花々に彩られた様は、天上の楽園としか言いようがない、見たことのない景色だ。  
ガスで遠くの山々が見えないのが惜しいところ。2列の木道を風に煽られながらしばらく行くと立派な避難小屋が現れ、しばしそこで昼食休憩とする。小屋の中には氏神と弘法大師が祀られ、他のパーティーが所狭しと雨を凌いでいた。
 昼食後は低気圧の通過のせいか、気温が下がり、少し寒い程だ。兎に角小屋を出て、早めに登山口を降ることとする。帝釈山組が、脱兎のごとくすぐそばに迫るとシニア世代は気にし始めたのだ。
 その後少しして、雨もほぼ上がり、時折淡い日差しが新緑に光をかざし、一層緑が鮮やかな色を放つ。高度を下げると寒さは漸く落ち着き、この季節らしい爽やかな風が舞う。
 田代山往復組が下山して程なく、帝釈山組も下山。さすが、9月にホワイトセールへ行く会員は、意欲と強靭さが違うと思った。そんな中、当会に入ったばかりで、会員諸氏と初めての藤田さんが、思わぬ力を発揮してくれたのには驚いた。週末等に続けている小登山の積み重ねの賜物か。
 こうして、今回の会津シリーズも無事終わった。現地幹事を見事に果たしてくれた斎藤さんと別れて、南会津を離れた。帰りの電車で、反省会と称して酒を飲み、何とか大雨だけは避けて全員で登れた僥倖に感謝した。
 
追記
「越後・会津シリーズ」という呼び名で、看板をリニューアルして、この何年か継続されている本シリーズも回を重ねること13回目。私も、20159月の妙高山、201610月の博士山・志津倉山、20176月の守門岳、20185月の粟が岳と、ここ4年参加づいている。
今回初めて、出発地側の山行幹事を仰せつったが、参加の皆さんのご協力のおかげで、季節の慈雨に少し惑わされながらも、何とか両山を無事登れたことに、感謝致します。
 
 

撮影日時:6月16日8時15分 撮影者:佐藤(周)
(左から、佐藤(活)、中村(雅)、藤田、吉沢、斎藤(誠)、佐藤(久)、川名、小島、加藤、佐薙、前神)

撮影日時:6月16日10時7分 撮影者:加藤

 

ショウジョウバカマ
撮影者:川名

イワカガミ
撮影者:川名

チングルマ
撮影者:川名

ヒメシャクナゲ
撮影者:川名

ラショウモンカズラ
撮影者:川名

 

 南会津山旅報告補足

「帝釈山 往復 そこには前神さんの尻だけが・・。」

藤田 一成(昭52年卒),投稿日 令和元年7月2日

 針葉樹会の山行に初参加、昨年12月に針葉樹会の会員に加えていただいた藤田です。
 下記に若干の山がらみ経歴を記します。
 今回南会津の山行に加えていただき、久々の旧知の人たちとの山旅となりました。自己紹介を兼ねて簡単に報告をさせていただきます。
 雨がしょぼしょぼと降るなか 田代山の登りから少し行ったところで、本体と離れて 前神さん、佐藤(活)さんが帝釈山に行くというので、迷いながらも勢いで参加挙手。(実は内心挙手した瞬間後悔がー)田代山の頂上はどうしてこんなところに湿原が・・、というような場所が広がっていたが、折から雨がひどくなる。避難小屋で若干休憩し、往復2時間では、本隊との登山口での待ち合わせに遅れるのでは、との懸念があったが、前神さん、佐藤さんが「まあ行ってみよう」ということで、出発。
 雨は相変わらずしょぼしょぼ降って、またガスは一向に晴れない。前に歩く前神さんがにわかにピッチを上げたためひたすら安定した歩きの尻に、追いついていくのが精いっぱい。帝釈山の頂上はひょいと現れる、どうということのないピークだった。風もあって寒いので、すぐに引き返す。登山口での待ち合わせ時間の約30分前には本隊と合流できた。思わぬ力もなにもーただただ尻と雨の日だった!
※ 広島出身 山岳部の同期は、兵藤さん、加藤さんら
  1977年卒  5年生 広島の中国放送勤務  報道 番組制作畑を歩く
  1991年     四川省の四姑娘山登頂(広島山の会)ドキュメント番組制作
  1992年     アジアキャラバンで、パキスタンのフンザ・ギルギットからフンジラブ峠を超えて新疆を縦断する紀行番組制作
  2006年   広告代理店を東京で始める
  2016年   針葉樹会同期の人らに誘われて、奥多摩の山歩き再スタート 
  20187月  上高地の兵藤さんキャンプに参加
  201812月  針葉樹会参加
 

 
令和 最初の山日記
藤原 朋信(昭44年卒),投稿日 令和元年6月18日

 
 72歳猪年の5月に令和の時代に入りました。何事も最初の滑り出しが肝心と昭和・平成に登りえなかった山々を主体に5月、6月と2か月の計画を立てました。以下がその記録です。
 
 37番はこれまで計画倒れで終っていた案件でしたが、56月は一年で一番日が長く、また雨でも比較的温度が高めなので長時間行動できた為、長年の懸案を済ませることができました。
 ほぼ目ぼしいピークを登り終えた山域もあり、あとどれぐらい残りの課題が片付くかはグランドシニアまでの2年半が頑張りどころでしょうか。
 
 
154日  奥秩父 北奥千丈岳(大弛峠まで) 単独行 7:3014:00
 
長野県川上村山荘から往復しました。今年の山荘開きは例年より遅く5月になりました。山荘も建築後13年になりますので北奥千丈岳も十数回登ったでしょうか、私のお気に入りの山です。令和最初の山は奥秩父最高峰の北奥千丈岳と定め歩き始めましたが、標高2000m地点から4050㎝の積雪があり、また思ったより時間を食い、大弛峠で引き返す羽目になりました。一方塩山側は全く雪がありません。改めて北面と南面の違いを認識しました。
来年は同じコースをスノーシューで楽しもうと考えながら下りました。
 
2512日  仙人ヶ岳・赤雪山  同行:中村(雅)さん 10351455
 
関東の山の中で栃木の山はブナ、雑木が多く新緑・紅葉の時期は歩いて楽しい地域です、人に知られていませんが好ましい山が多いのも特徴で、平成最後の山も42829日に塩原温泉近辺の新湯富士と安戸山に出かけ、GWの人出を避けた大変静かな山登りが出来ました。関東百名山、山梨百名山もあと少しで終わりますので、これからは栃木、群馬の山が多くなりそうです。
 
351820日  大峰南奥駆道 笠捨山・玉置山  同行:中村(雅)さん、田形さ
     18日:麓のバンガロー泊
     19日:行仙小屋登り口~笠捨山~玉置山展望台 テント泊 9時間行動 雨
     20日:展望台~五大尊岳~熊野大社  8時間行動 雨(中村さんは9時間行動)
 
昨年秋に、中断した南奥駆道の残りを2泊3日で完了しました。連日、小雨のなかの荒れた道で、まさに修験道の一端を味わうことができました。中村(雅)さんは吉野から熊野まで4回に分けての奥駆け達成です。中村さんは小辺路等の熊野詣でも全て終えておられるので間違いなく極楽浄土が約束されています。
(本山行の詳細記録は追って中村さんから報告予定です)
 
4525日  丹沢世付権現山 丹沢湖~二本杉峠 単独行 10251425
 
昨年空白区間のプッチェ平を歩いてグルリ丹沢が終りました。あと丹沢のバリエイションルートとして気になっていた権現山を今回登れば丹沢は完了ということにしました。欲を言えば遡行できなかった沢は数えきれないほどありますが、高齢クライマーのクライミングも高齢ドライバーの運転以上に危険なのでここらが潮時でしょう。
 
563日  大峰山上ヶ岳 前夜洞川泊 単独行 5301120 
 
南奥駆道が終ったので、大峰山脈で登り残していた山上ヶ岳に岡山からの帰途立ち寄りました。
現役時代関西に通算20年はいたのに登っていないのが不思議なのですが、会社山岳部での計画が北アルプス主体であったことと、女人禁制で会の計画としては立て難かったためでしょう。雨上がりの山上ヶ岳山頂は広くたおやかな気持ち良い場所で意外でした。帰途は吉野からの稜線を五番関結界まで繋げ大峰山脈は完了とみなしました。
 
669日   鉢盛山  前夜松本泊 単独行 7051820
 
 新島々から黒川林道を延々歩いて往復しました。梅雨入りで天気が悪い中、そこまで鉢盛山に
こだわったのは、昨年登った大滝山~鍋割山から連なる北アルプス支脈が島々宿で一旦高度を落とすも鉢盛山で再び2446mと盛り上がり(上高地から奥穂と同じ1700mの標高差です)、鳥居峠を経て中央アルプスの前衛峰、経ヶ岳まで繋がるからです。北と中央を結ぶジャンクションピークはいかなる景観を見せてくれるのだろうか興味は尽きません。しかし生憎天気は小雨、展望はえられませんでした。
 
 
7.61617日   奥秩父 和名倉山 単独行
      16日:鴨沢西~三条の湯~北天のタル~将監小屋  10:10~17:35
      17日:和名倉山往復後、三番瀬~丹波  4:45~15:10
 
 秩父の三峰から西は清里の飯盛山に至る奥秩父山塊の登り残し、和名倉山を目指します。
今回辿るコースは全て初めてで梅雨の晴れ間を狙って決行です。歳のせいか計画はいくらでも立てるのですがいざ実行となると踏ん切りがつかず、ずるずると10年来延ばしていた案件です。
 三条の湯を過ぎると登山者は誰もいません。雨上がりの緑が目に沁みます。奥秩父連峰、南アルプス、富士山と山の展望に欠かせない役者が勢ぞろいです。時代が変わろうと山は変わりませんね!!
 

大峯奥駈道縦走(吉野から熊野へ)
中村 雅明(昭和43年卒)、投稿日 2019年8月1日

1.はじめに
 2019年5月に南奥駈道・笠捨山~玉置山~熊野本宮まで縦走し、5年越し4回目にして奥駈道の縦走を完了しました。1回目は2015年4月14~17日、吉野山~山上ヶ岳~奥駈道出合を単独で縦走しました。この山行の詳しい模様をHPの『国内山行』に「大峯奥駈道縦走(その1)」と題して投稿しました。当初の計画では縦走の終点を八経ヶ岳と設定していましたが、弥山小屋からの下山路の残雪を懸念して、弥山小屋に2時間手前の奥駈道出合からトンネル西口に下山しました。
 2回目は2016年10月14~17日、奥駈道出合~弥山~八経ヶ岳~釈迦ヶ岳~太古ノ辻を縦走しました。この山行の詳しい模様をHPの『国内山行』に「大峯奥駈道縦走(その2)」と題して投稿しました。当初は太古ノ辻からさらに南奥駈道を熊野本宮まで縦走し、大峯奥駈道縦走を完遂させる目論見でした。また、伊勢の弁護士田形祐樹さん(平6)が八経ヶ岳まで同行、藤原朋信さん(昭44)が吉野から長躯縦走して持経ノ宿で中村と合流する予定でした。ところが同じ時期に奥会津(志津倉山、博士山)懇親山行案内があり、藤原、中村はそれに参加することにしたので太古ノ辻で縦走を切り上げることにしました。さらに藤原さんが8月に体調を崩したので参加を取り止めました。この山行は天気に恵まれ、予定した縦走路をトレースしました。
2.大峯奥駈道縦走(その3:南奥駈道(前半))
 3回目は2017年10月14~18日 太古ノ辻~平治ノ宿~笠捨山~玉置山~熊野本宮と縦走完了を目指しました。中村、藤原さん、佐藤周一さん(昭54卒)の3名が全コースを、田形さんが太古ノ辻から釈迦ヶ岳往復後、下山の予定でした。なお、玉置山は玉置神社宿坊でなくテント泊としました。宿坊の申込誓約書に同行者全員の記名・捺印が必要で書類のやり取りすると提出期限に間に合わないこと、食事なしにしては料金も高いことがその理由でした。
ところが出発前の天気予報が思わしくありません。秋雨前線が南下・中部日本に停滞し、13日からずっと曇り雨予報でした。皆で協議した結果、11日に来年に延期することにしました。
 翌2018年10月13~15日 中村、藤原は太古ノ辻~地蔵岳~行仙岳~行仙宿まで縦走しました。当初は出発前の天気を勘案して昨年延期した計画を1日短縮して行仙宿から笠捨山~玉置山まで縦走し、折立に下山する計画でした。途中下山したのは初日の中村のアクシデントによる体調不良と天候不良によるものでした。同行の田形さんは予定通り太古ノ辻から釈迦ヶ岳を往復後、前鬼に下山しました。

<メンバー>
  中村 雅明(1416日)、藤原 朋信(1416日)、田形 祐樹(1314日)
<行程・タイム>
1013  東京(7:339:17) = 名古屋(9:3711:15) =伊勢市=【田形車)= 前鬼小仲坊
1014  前鬼小仲坊 - 2pで太古ノ辻(8:0008) - 2pで拝み返しの宿跡(12:1017) 2pで持経ノ宿(14:1530) - 平治ノ宿(16:00)
1015日 平治ノ宿(5:45)- 3pで行仙岳(8:23)- 行仙宿(8:3045)- 行仙宿登山口(9:15~30) - 森林植物公園(14:22~15:05) =(村営バス)= 十津川温泉村役場(15:31~16:15) =(奈良交通)= 五條(18:45~21:10)==
1016  新宿(6:10

▼『大峯奥駈道全図』 赤線は南奥駈道

●10月13日(土) 曇り
 7:33の新幹線ひかりで東京を出発。名古屋で紀勢本線に乗り換え、伊勢市に11:07着。
伊勢の弁護士田形さんの出迎えを受け、駅近くの事務所前から田形車で11:30頃前鬼に向けて出発。前鬼小仲坊まで139km、3時間(休憩入れて4時間)の行程です。尾鷲で昼食、下北山のコンビニで買い物した後、前鬼口から小仲坊に向かいました。このルートは一昨年、強い雨の中、1日一本のバス時刻に間に合わせるため必死に歩いた林道です。途中で「前鬼・不動七重の滝」見物&写真撮影をしました。この滝は総落差およそ160m、「日本の滝百選」に選ばれています。
15:30頃、宿坊小仲坊に到着。一昨年、中村が釈迦ヶ岳から下山して単独で泊まったのは宿泊棟でしたが、今回は本坊の広い部屋に泊まりました。宿泊棟には後から10数人の団体が泊まりました。夕食は本坊にて全員でいただきました。テーブルでなく畳に車座で座って、重箱に詰めた料理を食べるのは山小屋とは違った宿坊の趣きがありました。
夕食後はすることがないので早々と就寝しました。夜半から雨が降り始めました。
●10月14日(日) 雨のち曇り
 5:00から全員で朝食。5:30に出発しました。夜半からの雨が止まないので、上下雨具の完全武装です。まだ薄暗くライトで足元を照らします。部落を離れ、沢沿いの道を登りましたが歩き始めて直ぐに道を見失いました。沢を渡った対岸の道が正解だったのですが、手分けして道を探している時に中村にアクシデントがありました。対岸まで横たわっていた大きな丸木を渡り戻ってくる途中で濡れた木肌に靴が滑り墜落。2m近くある川底に臀部から激しく落ちました。幸い石の無い砂地だったので打撲せず事なきを得ました。正に不注意の極み、慎重に足を運ぶべきでした。と言うより最初から歩いてはいけない雨で濡れた丸木でした。実は丸木橋から転落したのは奥駈道では2回目です(前掲「大峯奥駈道縦走(その1)参照」。反省しないサルそのものですね(サル年だからの言い訳は通じません)。何とか歩行できましたが尻を強く打った痛みが残り、不安を抱えながら先に進みました。沢筋を離れると、両童子岩(二つ岩)まで木の階段が連なる厳しい登りです。そこから傾斜は緩みましたが、太古ノ辻まで延々と登りが続きました。それでもほぼコースタイムで8:00に太古ノ辻に着きました。これで後は何とか行けると思いましたが、これは出だしで迷惑をかけた後ろめたさから必要以上に頑張ったからでした。太古ノ辻は開けた笹原で晴れていれば気持ちの良い峠で大休止ポイントですが小雨まじりで寒いので、田形さんとここで別れ、藤原さんと中村は南奥駈道縦走を開始しました。田形さんは単独で釈迦ヶ岳往復後、往路を前鬼まで下り無事下山しました。
 小雨が続き展望のない縦走路を黙々と進みます。持経ノ宿までは石楠花岳~天狗山~地蔵岳~般若岳~涅槃岳~証誠無漏岳~阿須迦利岳とアップダウンの繰り返しです。出だしで打った臀部の痛みが増し、足の運びが不自然になり次第にペースが落ちてきました。持経ノ宿に着いたのが14:15。コースタームより1時間遅れなので本日予定した行仙宿はあきらめ、次の平治ノ宿泊まりとしました。平治ノ宿着16:00。小仲坊からの行動時間11時間でかなり疲れました。平治ノ宿は「新宮山彦ぐるーぷ」が管理する小屋です。収容人数10人。無人ですが、宿泊費(維持管理費用)を2000円以上/人を屋内据付納入箱に納入します。管理費を払って十分報われるのは大きなポリタンクに水の汲み置きがあり、ガスコンロまでありました。宿泊者は我々2人だけで、毛布も十分有り快適に眠れました。
【田形さんの単独行動(タイムと感想)】
10月14日 太古ノ辻08:10~08:40釈迦ヶ岳09:10~09:50太古ノ辻10:00~11:10前鬼
 釈迦ヶ岳頂上には立派な像があり、目を見張った。

10月14日 6:35(撮影:田形)
1p目の林間にて(左から中村、藤原)
10月14日 8:05(撮影:田形)
 太古ノ辻にて(左から藤原、中村)
 10月14日 10:53(撮影:中村)
天狗の稽古場 

●10月15日(月) 雨のち曇り
 朝小雨。今日も完全雨武装で5:45出発しました。転法輪岳を越え倶利伽羅岳までは調子良く歩きましたが行仙岳の登りからは思うように足が進みません。行仙岳から少し下って佐田辻の行仙宿山小屋に8:30着。収容人数40人。奥駈けのコースの中で一番大きな小屋です。平成2年に「新宮山彦ぐるーぷ」によって新築されたこの小屋によって南奥駈道が復活し、奥駈けを歩くほとんどの修験者がここを利用しています。「新宮山彦ぐるーぷ」は千日刈峰行として、今なお道の切り払いや小屋の維持管理、修験者のサポートを行っています。予定では小憩後、笠捨山を越え玉置山を目指すことになっていましたが、中村が不調なこと、雨中に地蔵岳の岩場を歩く危険を避けることを勘案した藤原さんが「縦走をここで打ち切り、林道経由で十津川温泉に下りましょう。来年ここから本宮まで縦走しましょう」と提案。ここまでかなり疲れていたので先へ進むのは気が重かった中村にとっては渡りに舟の有難い提案でした。行仙宿から急ですが良く整備された道を30分下って行仙宿補給路登山口に降り立ちました。そこから未舗装の林道を1.2kmあるいて国道425号に合流しました。少し登ると日谷トンネル東口に着きました。暗くて長くて何となく不気味な全長1kmのトンネルを抜けると十津川村です。この国道425号は山肌を張り付くように道路が走り、殆ど水平に歩いた先で登り道になることもありなかなか高度が下がりません。途中から携帯電話をかけて車を呼びましたが圏外で通じません。結局、21世紀の森という森林植物公園バス停まで14:22に着くまで約13kmを途中昼食で1回休んだきりで歩き通す羽目になりました。約5時間の林道・国道歩きは今まで経験したことがない“酷道”歩きでした。この為、両足裏いっぱいに底豆が出来て帰宅してから治るのに1週間かかりました。バス停でゆっくり着替えして待つこと40分、15:05の十津川村営バスで十津川村役場へ。そこからは新宮から大和八木を結ぶ日本最長(166.9キロ)路線バスに乗って五條に向かいました。面白かったのは上野地停留所での休憩時間で“谷瀬の吊り橋(長さ290m)”を半分往復することが出来たことです。五條着18:45。21:10の夜行バスで翌朝帰京しました。

10月15日 8:23(撮影:中村)行仙岳山頂

3.大峯奥駈道縦走(その4:南奥駈道(後半))
 4回目は201951821日 行仙宿~笠捨山~玉置山~熊野本宮を縦走しました。時期は日が長い梅雨入り前の5月後半としました。田形さんは南奥駈けの代表格の笠捨山まで中村・藤原に同行し、地蔵山を往復後、往路を下山することにしました。初日に宿泊を予定した行仙宿山小屋がそこを管理している『新宮山彦ぐるーぷ」』に確認したところ、修験者団体他が大勢宿泊するので宿泊できないとのことで麓の部落・池原の下北山スポーツ公園のバンガロー泊まりとしました。3人用バンガロー1棟7500円(近くの温泉きなりの湯入浴券付き)で、当日の天気予報・予約情報の確認がネットで可能でした。
<メンバー>
  中村 雅明(1821日)、藤原 朋信(1821日)、田形 祐樹(1819日)
<行程・タイム>
518  東京(7:339:17) = 名古屋(9:3711:15) =伊勢市=【田形車)= 池原下北山スポーツ公園
519  下北山スポーツ園(6:00) - 行仙宿補給路登山口(6:4050) - 行仙宿(7:20~35) - 2pで笠捨山(9:00~05) - 2pで東屋岳(10:35~40) - 2pで貝吹金剛(12:15~39)- 如意宝珠岳(13:20~30)- 3pで玉置山展望台(15:25)
520  玉置山展望台(6:00) - 玉置山頂(6:2025) - 3pで大森山(9:3340)- 五大尊岳(10:08~18) - 2pで大黒天神岳(11:50~12:00) - 吹越山(12:55~13:00)- 2pで本宮大社(15:30~16:10)==新宮(17:41~20:25)
==(夜行バス)==
521  新宿(5:55
 
●5月18日(土) 曇り後雨
昨年と同じ時刻に伊勢市で中村・藤原は田形さんと合流し、本日の宿泊地の池原下北山スポーツ公園に向かいました。途中、熊野灘に面して迫力満点の奇岩が連なる鬼ヶ城に立ち寄りました。熊野古道歩きで「松本峠」、「七里御浜」コースを歩いた時にここは訪れなかったので「千畳敷」、「鬼の見晴場」などの見どころを楽しみました。下北山スポーツ公園の一番奥、池原ダムの近くの平成の森キャンプ場のバンガローが今日の宿です。このキャンプ場は2017年から2年連続で予約件数西日本一になったとの事で、連休後で天気もあまり良くないのにバンガローは殆ど埋まっていました。キャンプ場内の「きなりの湯」まで車で往復、さっぱりした後夕食を済ませあとは寝るだけですが、田形さんがスマホで調べた天気予報によると明日は朝から終日小雨との不安を抱えて就寝しました。
●5月19日(日) 曇り後雨
 5:00起床。今にも雨が落ちて来そうな天気です。完全雨装備でバンガローを6:00に出発。国道425号を白谷トンネル東口手前まで登り、そこから未舗装に林道を走って行仙宿補給路登山口に6:40到着。この補給路は行仙宿補修荷揚げ用に新宮山彦グループが整備したルートで急登ですが歩きやすい道でした。コースタイムより若干早く40分で行仙宿着。宿には昨晩泊まった新宮山彦グループの人達が5~6人出発準備をしていました。昨晩は天気が悪いので予定より小人数だった様です。地蔵岳の様子など聞き、7:20昨年中断した縦走を再開しました。小雨模様です。老杉の巨木の根元に祀られた大峰八大金剛童子を過ぎると傾斜がきつくなり、笠捨山まで4つの前衛鋒を越えて行きます。ほぼコースタームで9:00笠捨山着。ガスで展望なし、南奥駈の主峰格で晴れていれば八人山方面の眺めが良いので展望なしは残念。田形さんは天気が悪く岩場歩きは危険なので予定していた地蔵岳往復を断念しました。昨年同様に展望ないピークハントはお気の毒でした。車での入山サポートに感謝して別れました。
 葛川辻まで急坂を下り、地蔵岳の登りにかかりましたが、南奥駈けで最大の難所と言われるだけあって、鎖や木の根を掴みながらの急な登りが続きました。槍ヶ岳を越えて2pで地蔵岳着。
コースタームより余分にかかりました。地蔵岳からの下りも鎖場が連続し油断できません。
最難関は6~7mの垂直の岩場の鎖場で雨の為、鎖が滑り緊張しました。香精山から塔ノ岳峠までの下りも“激下り(逆落とし)”と言われる急傾斜に階段が延々と続き疲れました。約500m下り岩ノ口。ここから玉置山まで登り返します。緩やかな登り、道も整備されているので快調に歩いて15:25玉置山展望台に着きました。小雨が止みません。ここでがっかりしたのは幕営を予定した東屋には先着者がいたことです。しかもマイカー登山者です。車で眠れるのに東屋を使用するのは贅沢だろうと気分を害しましたが、気が弱い我々はクレームをつける勇気はありません。玉置神社下の駐車場まで歩くことも考えましたが、かなり疲れていたので展望台の下に幕営することにしました。ところが、テントを張り始めて直ぐ藤原さんから「あれ、ポールを忘れた!」の声。雨足が強くなり焦りましたが、展望台の柱に何とか2箇所縛り付けて不完全ながら設営終わりました。テント内部に入ると頭は天井に付きますが足は延ばせます。不自由な体勢で夕食を済ませ早々と就寝しました。
 
【田形さんの単独行動(タイムと感想)】
519日 09:00笠捨山09:10~(不明)行仙宿(不明)~10:15行仙宿補給路登山口
天気は悪かったが、奥駆道の雰囲気を味わえ、よかった。
●5月20日(月) 雨のち曇り
 夜半2時頃から雨が強まり、横殴りの雨がテントを濡らし、上からポタリ、ポタリと顔に落ちてきました。どうすることも出来ないのでシュラフを被ってしばらく不貞寝しましたが、テントの床も雨が溜まり始めたので、夜が白んだ4:30にテントから出ました。朝食は近くのトイレで済ませ、6:00に出発しました。出発時の失敗は水を切らしてしまったので天水タンクの水を煮沸しないで2人共ペットボトルに入れてしまったことです。
 昨夜の寝不足と小雨降り止まぬ天気に足取りは重いものの20分で玉置山頂(1,076.8m)着。晴れていれば熊野連山の向こうに太平洋が見えた(別名「沖見岳」)でしょうが展望ゼロ。でも山頂付近はシャクナゲの群生が見事でした。急坂を下ると熊野三山奥の院・玉置神社。早朝なので誰もいません。本殿に参拝し本宮までの無事を祈りました。本殿の裏手に聳えたつ巨杉群が見事で山岳修行の聖地の雰囲気十分です。神社からゆるやかな林道を30分下り玉置辻。ここで玉置山域から離れ本宮に向かいました。次の目標は大森山ですがこれが難物でした。玉置山より若干高いのです。前衛峰の大平多山への分岐までの激登り、切畑辻への激下りは疲れました。次の五大尊岳の登り下りも急で南奥駈道の厳しさを実感しました。その先の平坦なコル・六道ノ辻でホッとしました。後は本宮までは緩やかです。最後の大きなピーク大黒天神岳で大休止した後、本宮に向かいました。山在峠の先で藤原さんは林道を下って本宮を、中村は縦走を続け終点の備崎を目指しました。ところが中村は最後の詰めを誤りました。吹越山を越え吹越宿跡の先の道路を渡った先の登山道を見逃し、1度本宮小津荷に向かう車道を下ってしまいました(ミスその1)。30分程下っておかしいと気が付き峠に登り返し、道路を渡った先の山道に入りました。ところが15分程登ってもまだ山の頂に向かっているので道を間違えたと勘違い(ミスその2)して引き返してしまいました。そのまま進んでいれば吹越峠~展望台~七越峰~備崎~大斎原~熊野本宮まで行き藤原さんと合流した筈です。事前の調査不足、読図お粗末を帰宅後反省しました。当日は迷った末、最初に間違えた反対の林道を下りました。ことろがどんどん本宮に下ると思いきや山腹を少しずつ下りばかりで熊野川沿いの道に出ません。ようやく林道を離れた箇所は本宮から30分上流にかかる下向橋の2km先の右岸でした。生憎ずっと止んでいた雨が降り始めた為、かなり濡れながら約1時間歩いて15:30藤原さんが待つ本宮大社前バス停に着きました。本日の行動時間9時間半。奥駈道の終点備崎に辿り着く有終の美は飾れませんでしたが本宮に到達し、吉野からスタートした奥駈道縦走が完了し感慨深いものがありました。着替えが済んだ頃合いの16:10のバスで新宮に向かい17:41着。駅前の小料理屋で無事登山を祝って乾杯・夕食。20:25の夜行バスで帰京(新宿着21日5;55着)しました。

5月20日  6:38(撮影:中村)
玉置山頂
5月20日 11:50(撮影:中村)
大黒天神岳山頂

4.おわりに
(1)当初2回で完遂すると思って始めた奥駈道縦走は各局4回かかりました。その原因は古希を過ぎてからの長時間の行動に耐えられない体力的な衰えと多雨の紀伊半島の山系故に雨天が多く、縦走路が険しい事を考慮して縦走を打ち切ったことがあったことです。また、この長い縦走路には有人山小屋が1件(弥山小屋)、宿坊が2件(山上ヶ岳、玉置神社)しか無く、日数が長くなると年配者には装備・食料の重さがつらいことでした。
(2)1回目は単独行でしたが、田形さんには2回目から3回、藤原さんには3回目から2回ご一緒していただき、縦走完遂は2人のお陰と感謝します。特に南奥駈道は田形さんの伊勢市から登山口までの車走行、藤原さんの先達としてのガイドなしでは達成できませんでした。
(3)2004年から始めた熊野古道歩きが今回の大峯奥駈道縦走を持って一段落しました。
 その行動記録を前掲の大峯奥駈道縦走(その1)の末尾に【熊野古道遍歴】として掲載しましたが、一部誤り・追加がありますので、大峯奥駈道も追加し再録します。
  【熊野古道遍歴】
1.伊勢路(新町~馬越峠~尾鷲)
    ・2004年10月(日は不明:土日の2日間)
    ・中村夫妻
2.伊勢路(尾鷲~八鬼山越え~曽根次郎坂・太郎坂~逢神坂越え~新鹿)
    ・2005年12月23~26日
    ・中村夫妻
3.伊勢路(新鹿~大吹峠・松本峠越え~七里御浜~熊野速玉大社~熊野那智大社)
    ・2007年11月28~12月1日
    ・中村夫妻、他2名(中村友人、中村妻妹)
4.小辺路
    ・2008年11月17~22日
    ・中村夫妻、他1名(家内友人)
5.中辺路・小雲取越え・大雲取越え(下鮎川~熊野本宮~那智大社~那智)
    ・2009年11月24~29日
    ・中村夫妻
6.伊勢路本宮道(花の窟~風伝峠越え~丸山千枚田~楊枝の渡し跡~万才峠~大日越え)
    ・2010年5月11~14日
    ・中村夫妻
7.大辺路(紀伊田辺から那智)
    ・2015年11月11~16日
    ・中村夫妻、他1名(中村妻妹)
 8.大峯奥駈道(吉野~熊野本宮)
    ・その1:2015年4月14~17日、その2:2016年10月14~17日 
     その3:2018年10月13~15日、その4:2019年5月18~21日
    ・中村、藤原、田形

 東北湯治・山スキー
齋藤 誠(昭和63年卒),投稿日 令和元年7月3日

 
日程 ;2019427日~29日(斎藤、川名が参加した日)
  岡部(27日〜28日朝)、中西(27日〜29日朝)は、山は不参加。
  前神、兵藤、佐藤、神野は26日出発。29日下山後は別行動
参加者;前神直樹(昭51)、兵藤元史(昭52)、佐藤活朗(昭53)、神野 隆(昭54)、
    岡部寛史(昭55)、中西 茂(昭56)、川名真理(昭63)、斎藤 誠(昭63
 
 10連休の前半、兵藤さんに誘ってもらい、東北湯治山スキーに出かけた。
 現地(銭川温泉)集合で、私、齋藤は福島から車。盛岡を過ぎると吹雪となり、季節が逆戻りしたよう。タイヤを交換しないでおいて正解だった。
 山スキー2名、ショートスキー1名、スキーなし3名、湯治のみ2名。
 銭川温泉はオンドル(温泉を循環させた床下暖房)の付いた快適な自炊湯治宿。乳頭温泉、玉川温泉など、そうそうたる有名温泉がひしめく中、落ち着いたお手頃の宿。
 湯治組の岡部さん、中西さんが食当になって、おいしいきりたんぽ鍋、すき焼きをごちそうになった。ありがとうございました。中西さんは釣りを試みたようですが、釣果はなかったよう。
 
 翌朝、温泉、宴会気分でアスピーテライン入口ゲートに達するが、ゲートは降雪のため閉鎖されており、八幡平の山頂まで道路を歩くか、積雪の登山道に入り込むか、意見が分かれた。
 なんとか登山道でまとまり、歩き始める。
 程なく広い尾根筋のルートに出て、快適に上ることができた。快晴。ガスっていればルートに迷うような特徴のない広い大地が広がっていた。ところどころ、ツアー用の番号が付いた看板が設置されていた。山頂には展望台。
 帰途、クロスカントリースキーの練習に行くらしいスポーツ少年団の一行らしき集団とすれ違う。
 
 田沢湖は、絶世の美女、黄金のたつこ像が印象的。インバウンドか、地元で研修生として働いている人々なのか判然としないが、アジア系の観光客が多数であった。
 
 翌日の森吉山は阿仁またぎの本拠地のような奥深い土地。銭川温泉からは尾根をはさみ、長距離ドライブ。
 かつて前神さんご夫妻がバスツアーで訪問した縁もあり、頂上を目指す。
 神社の傍らにりっぱな避難小屋があるらしいのを遠望し、次回はその小屋をベースに宿泊合宿は?という提案がなされる。歩行距離も短く、安全性を確保できる、手頃でありながら奥深い山。マタギの勉強をしてから一帯を訪れれば、一層、趣深そう。
 頂上からは360度の展望。鳥海山、岩手山、岩木山、早池峰……北東北の名山を眼中に収める。
 
 齋藤、川名両名は北上ルートで帰途につく。大きな町はないが、家々が途切れることなく街道に連なる様子で、山の幸で食っていたのだろうと想定される街並みが延々と続いた。
 軽い山行ではあったが、湯治ツアーと捉えればこれはこれで中々のものだった。年相応に無茶をせず、旧交を温める山行もまた乙なもの。温泉なりバーべキューなり、山+αの山旅の比重が、今後ますます高まりそう。

銭川温泉台所できりたんぽ鍋を調理する中西(左)、岡部 
4月27日16時 撮影者:川名

八幡平頂上展望台 4月28日 
撮影者:川名 (前列 斎藤(誠)、後列左から、佐藤(活)、神野、前神、兵藤)

.銭川温泉玄関にて集合写真
4月29日 撮影者:宿のご主人
(左より、斎藤(誠)、佐藤(活)、川名、前神、兵藤、神野、中西)

 

 
坪山リハビリ山行
竹中 彰(昭39年卒), 令和元年4月21日

 
 昨年中苦しめられた脊柱管狭窄からの坐骨神経痛のリハビリを兼ねて一昨年12月に宮武さん他の滑落事故が発生した坪山に出かけました。
 
 事故発生時には、小生の動きが取れず現地参加は叶いませんでしたが、どんな山かの確認とミツバツツジ、ヒカゲツツジ、イワウチワ、イワカガミなどの花の観察を兼ねて出かけました。4月に入ってからの低温・降雪等でイワウチワ、イワカガミには早かったようですが、ツツジ類は盛りでした。また山麓ではサクラやハナモモも素晴らしく、バスはさながら桃源郷を行く心地(少しオーバーか?)だった。上野原の駅も嘗てのイメージとは様変わりで、5階建ての立派なものに建て替わり、駅南側のバスターミナルも良く整備されていました。
 
 8:06の鶴峠行に乗車すること50分余で登山道入口(トイレあり)の八ツ田停留所に着き、鶴川の橋を渡ったトイレ手前には警官が立って登山届提出と宮武さん達のケースにも触れながら、東尾根ルートは危険性高いことを呼びかけていた。910分に届を提出して西尾根ルートに向かった。
 
 暫く畑等の間を進み針葉樹林に入ると急な登りが続く。その前の木橋(川床は白い平滑な秩父チャート?)を直進すれば恐らく3人が発見された現場近くに行きつくと思われたが、単独行であり登山道に沿って急登を進み尾根に取付く。トイレにも寄らずに進んで来たので満員で運ばれたバス客のトップで進むが、リハビリなので無理をせずにユックリペースで進む。
 
 尾根は予想以上に急傾斜で、部分的に痩せており、要所に張られたトラロープや木の根、岩角などをホールドにする。最初はピンクのミツバツツジが姿を見せるが、次第に道の両側に薄黄色のヒカゲツツジ(印象としては黄花石楠花に近い)の群落が優勢となり、地表にはイワウチワ、イワカガミの葉が現れる。頂上直下まで急登が続くが、頂上にはジグザグを切って飛び出す。ユックリペースで時間的には登山口を出て1時間45分を要した。
 
 頂上は名前の通り狭く、頂上標識と三等三角点の標石が埋設されていた。標識に向かって手を合わせ心の中で3名の冥福を祈り、頂上の一角に腰を据えて昼食とした。食事をしながら周囲の山座同定を試みる。北側の奥多摩方面は直ぐ近くに三頭山、槙寄山など笹尾根に繋がる山並み、三頭と奈良倉山の間、遠景に雲取山、七ツ石山、南西遥か彼方には最近の降雪で一段と白さを増した富士山などの絶景が広がる。
 
 絶好の好天の下で久し振りに山の空気を吸い、足腰の故障も認められなかった嬉しさから脚に少し疲れが出ていたが、気持ちは軽やかだった。1時間近く滞在し、1140分に頂上を後にする。下山路の東尾根入口には2枚の大きな看板に「東ルートは急坂・岩場の多い未整備・事故多発ルートのため「びりゅう館」への下山ルートをご利用ください。上野原市」と記されていた。指示に従ってびりゅう館を目指して緩やかな尾根道を進むが、最初は急下降が続き、灌木やトラロープを利用しながら暫らく緊張を強いられた。その後は自然林の中、アセビの間のアップダウンを繰り返しながら、概ね赤松などの自然林の間を進むがここでも所々でピンクのミツバツツジ゙が目を楽しませてくれた。
 
 頂上からノンストップ50分余で、枯れた赤松の大木が立つ阿寺沢分岐(850m)で道は左折して降下する。直進は阿寺沢バス停方面に下るが、地元コース案内では道が荒れているとのことでバツ印がある。この辺りまで来ると久し振りの山道歩きに足に疲労感が出てくる。少憩後にびりゅう館を目指して下るが、ヒノキの植林が多く、単調な道で偶に現れるミツバツツジ以外に見るべきものは少ない。いい加減飽きた頃に下にゴールのびりゅう館の青い屋根が見える。
 
 頂上から1時間半余り、1315分にトイレや地元産野菜、お土産売店、食堂などがあるびりゅう館に到着する(540m)。予定ではスグそばの学校前バス停1443分まで待機の筈だったが、今日は客が多く増便(臨時)が出るとのことで、待つうちに構内駐車場に乗り入れて来たバスに乗車する。座席定員40名になったところで予定より1時間以上早く1345分に出発して上野原に向かう。駅には1436分に着き、遅れて来た中央線高尾行にタイミング良く間に合い、八王子経由で16時前には自宅に帰り着いた。
 
 久し振りの登山で、長い下りの所為もあって、翌日からかなり酷い大腿四頭筋痛に悩まされ、自宅の階段昇降に難儀をしているが、昨年までの坐骨神経痛で屋内もストック頼みで歩いていたことからすれば、ある意味贅沢な悩みと割り切って、新しい令和に時代を迎えようとしている。徐々に皆さんの山行のお供も出来ればと考えている。宜しく。
 
 
 

焼岳登れずの記(懇親山行報告)
兵藤 元史(昭52年卒)

 
 冬の穂高連峰を久方ぶりに眺めて、焼岳もついでに登りませんかとの呼びかけに、老登山家達9人で出かけた懇親山行の報告です。
 
行程 : 
2019年29日 松本駅集合 1435  中ノ湯温泉 1610
     2月10日 中ノ湯発 640  到達点(2020m)1100  中ノ湯着1320
 
参加者(敬称略):
佐藤(久)、岡田、吉沢、中村(雅)、前神、佐藤(周)、兵藤(焼岳組)小島、藤原(上高地組) 計9
 
2月9日 小雪
 関東地方は大雪のおそれとの予報で、電車の遅延が心配されたが、降ったのは千葉方面が中心で、中央線は順調に動いていた。茅野辺りから小雪が舞い始めた。手配してあった中ノ湯温泉からの迎えのバス(無料)は、三連休の初日とあって満員だった。
 
 今回は中の湯温泉旅館の「スノーシュープラン」にて予約(12食付き12,800円、スノーシューやストック無料貸出付き)したため、本来は眺めのない部屋だったはずが、満員に依る部屋繰りのため、吊り尾根が眺められる部屋となった。天気が悪いので、当然眺望はなかったが、翌朝ゆっくり出発した上高地組はその恩恵にあずかったとのこと(別記報告書参照されたし)。
 
2月10日 薄曇りガス&雪晴れ
 焼岳組は浴衣、丹前姿の上高地組の見送りを受けて640に出発。朝食は7時からとのことで前夜おにぎり弁当受け取った。出発前に全部食べた人、一部食べた人、山に持ち上げた人、それぞれであった。
 
 さて、スノーシューであるが、持参したのは中村さん、前神さん、それにワカンの周さん。残り4人は初めて履いたのであった。昨夜靴の合わせ方を教わって、十分理解したつもりだったのだが、少々酔った状態だったこと故か、レンタル品の故か、歩き始めてすぐに外れる人が続出・・・・どうなりますやら。
 
 ともあれ、スノーシューを付けて温泉横の登山口を出発。昨夜の雪は1015cm程度。数日前の雨でその下はクラストしていた。40分ほど車道を歩くと、焼岳登山口に到着。
傾斜の無いところではスノーシューは快調だったが、傾斜がきつくなると下のクラスト面で滑って、結構な苦労となった。久さんは早々にスノーシューを諦めてデポし、アイゼンに履き替えた。
 2時間ほど歩いた時点で吉沢さんもアイゼンに替えた。ワカンの周さんは結構潜ると言っていた。但し、ワカンとスノーシューの違いなのか、体重の差なのか、そこら辺は不明!!
 
 樹林帯を抜け出して、「広場」と呼ばれる場所に近づく頃には、雪が降り始め、本来見えるはずの穂高や焼岳も隠れてしまった。ラッセルもこの辺りで深くなり、疲れから遅れ始める人もでたため、11時に登高を止めて下山することに。疲れた人の原因は、間違いなくシャリバテでしょう。下り始めてから朝食のおにぎりを食べていましたから・・・。
 
 連休というのに他の登山者は、単独BC(バックカントリー)スキーヤー(前日広場にてテント泊とのこと。スキーも上手げであった)と下山時に登って来た2人組とのたった3人だった。満員の中ノ湯の宿泊客は、皆上高地に向かったようだ。
 
 登頂はできなかったけれど、久しぶりに冬山の雰囲気を味わえて楽しかった、などと語らう内に下山終了1320。チェックアウトは朝済ませていたが、宿泊客は下山後も温泉に入れるとのことで、汗を流した。この頃から穂高の稜線が見られるようになり、吊り尾根、明神を眺めつつ露天風呂を堪能した(岡田さん撮影の穂高をご覧下さい。素晴らしい写真です。)
 
 その後、久さん他3人は15時の定期バス(松本高山)にて松本へ出、「あずさ」にて帰京した。中村さん、岡田さん、吉沢さん、周さんは中ノ湯に連泊した。
 皆さんご苦労様でした。

焼岳登頂を諦めた地点で
2月10日(撮影・岡田)
穂高吊尾根-中の湯玄関にて
2月10日(撮影・岡田)
前穂高岳と明神岳
2月10日(撮影・岡田)
穂高吊尾根-中の湯温泉旅館から
2月10日(撮影・岡田)
 

冬の上高地散策
小島和人(昭40年卒)、藤原朋信(昭44年卒)

 
1.2019年210日(日) 
  釜トンネル入口(845)~大正池(945)ここから二人別行動
  小島: 河童橋まで散策し、13時過ぎにトンネルに戻り。
  藤原: ~河童橋(1015)~明神(徳本峠分岐)(1100)  
      近辺でスノーシュー練習し12時に往路を戻る  釜トンネル着 (1430
2.メンバー 小島和人(昭40年卒)、藤原朋信(昭44年卒)
3.記録
 
 早朝6時半に出発する7人のシニアアルピニストを見送る。玄関にいたご婦人が皆さんどこに行くのかと聞くので、焼岳に登頂ですと答えると、尊敬のまなざしで頑張ってと応援して頂いた。
 全くレスペクトされなかった我々二人は朝風呂に入り小原庄助さん気分である。部屋に戻ると陽が出て窓からのぞくと、なんと明神、前穂、吊尾根、奥穂が一望できた、神様は焼岳に向けて寒風とラッセルにあえぐ者にも、エアコン付き部屋から遠望する者にも等しく恵を与えてくださる。これも日ごろの行いが良いせいだと納得した。今回の目的は、50年来傍を素通りするだけであった中の湯に初めて泊まることと、冬の穂高を眺めることで、後者は先ず天候面で無理だろうと思っていたのに、早くも実現し信じられない思いであった。
 8時に朝食をすませ、釜トンネル入り口に着いたのは845分である。中国からの子供連れを含む数パーティーが同時に釜トンネルに入る。腰と太腿に強い痛みを抱える小島兄を先頭に自分のペースで歩いてもらうことにしたが、予想に反しペースが早い。朝風呂で体も心も弛緩している私にはついていくのがやっとである。
 釜トンネルを抜けた上高地トンネルの前で小休止し、朝焼けの焼岳を見上げる。7人の士は慣れぬスノーシューに苦労しているのではと思いやるが、こちらは冬晴れで何の苦労もない。歩き始めて1時間弱で大正池に着いた。ここから先は小島兄より各人好きなペースで上高地を楽しむ為に別行動の提案があり、私が河童橋に先行する。道は先行者の足跡が入り乱れラッセルは不要、かつ凍結もないのでアイゼンもいらない。夏タイムとそれほど違わず河童橋に出た。冬景色の河童橋はまた別の趣であるが、新緑と雪解け水で命萌える6月が懐かしい。ここで軽く昼食を取り、スノーシューをつけた、小梨平より先は人も踏み跡も少なくなり、スノーシューが快適である。
 踏み跡がない横道をえらんで進むと明神まで良い練習になった、踏み跡はなおも徳澤方面に続くが徳本峠への分れで全くラッセルがない峠道へ入る。処女雪を500mほど蹴散らして至極満足したのと時間切れが迫ってきたので帰途についた。冬に再訪することはないと思い、帰りは明神を眺めながらゆっくり歩いた。天気はまだ持っている。それでも最後の釜トンネルで中を吹き抜ける風の冷たさにやはり冬の北アルプスの片りんを感じさせられた。
 
 バス停で松本行のバスを待っていると焼岳組の三人が現れ、互いの無事を確認できました。冬には滅多にない好天に恵まれた良い山行でした。幹事さんに感謝!感謝!です。(藤原記)
 
追記
 
 藤原さん今回の懇親山行では大変お世話になりました。太腿の痛みから、今回の山行では湯治と宴会だけと決めて参加しましたが、夜と朝の風呂の効果か痛みも和らぎ、藤原さんの後押しで釜トンだけは歩いて見ようと思い出かけました。広くゆるい傾斜で、電灯も付いた新しいトンネルに感心して歩くうちに、雪崩の怖かった釜トンの先に出て、きれいに治水工事のできた沢筋にまたまた感服、足腰の痛みなど忘れ新しい上高地トンネルを抜け、踏み固められた雪道を辿り、歩き始めて一時間で大正池でした。
 大正池で藤原さんには先に行ってい頂いた後、ゆっくり歩きを楽しみながら河童橋に10時半過ぎに着きました。信じられない気持ちでしたが、橋のたもとの建物の軒先で陽光を浴びながら小一時間ぼーっと過ごしました。
 
 帰りは大正池のほとりで、暫く、雲の上に顔を出した明神と前穂の雄姿に見とれました。13時過ぎに釜トンの下につきました。
 
 こんなに楽しめたのも藤原さんの柔らかなプッシュのお陰です。本当にありがとうございました。
 藤原さんは徳澤からの帰り道かなと思いながらタクシーで沢渡に行って村の様子など見てからバスに乗りました。
 
焼岳に行った皆さん
 上高地への往復の間、焼岳はずーっと厳しい姿を見せていました。強い風と雪と戦った皆さん。ご苦労様でした。今度の三月会でお話を聞くのが楽しみです。
 
 最後になりましたが、兵藤さん素晴らしい懇親山行を企画、行き届いた配慮をいただき有難うございました。ご苦労様でした。(小島記)

花の山されど魔物のいる山「坪山」- 故宮武幸久氏の追悼登山 -
佐藤久尚(昭和41年卒)

 
 宮武さんが昨年12月23日、中学時代の友人二人と共に坪山(1102.7m)で亡くなってから10ヶ月が経った。「去る者は日々に疎し」と言うが、宮武さんに関しては全くそんな気がしない。毎月の三月会の場などで、山岳部への支援について熱く語る宮武さんの姿が目に焼き付いている。また三月会の後の二次会(神保町の居酒屋)でも、同じ話を繰り返し、挙げ句の果てには「原さんや久さんなんかは、現役時代、自分達の好きな山にばっかり行っていて、我々1年生の面倒を全くみてくれなかった。」と、からんで来る、その酔った口調と声が、耳の奥に張り付いている。兎に角、宮武さんは学生への支援には熱心で、寝言でまでその必要性について蕩々と述べる程であった。そんな宮武さんだったから、追悼登山をなるべく早く行いたいと思って、8月の三月会で「追悼登山を1013日(土)に行いたい」と提案したところ賛同を得たので、HUHACメールで案内を出した。        
 その結果、上は御年86歳の佐薙先輩から下は大学2年生の川原の乃さんまで、幅広い層の針葉樹会員並びに山岳部員から参加の返事が寄せられた。また、ホームページで追悼山行のことを知った宮武さんの中学時代の友人の中村健さんからも参加の意向が寄せられ、参加者は総勢18名となった。(当初22名から参加の申し出があったが、4名が途中でキャンセル)
 
 当日は、一週間前から秋雨前線が日本列島の上に停滞していて天気が心配されたが、宮武さんの人徳のお陰か、曇りながら熱くもなく寒くも無い絶好の登山日和となった。全員が830分に上野原駅に集合しバスで登山口(八ツ田バス停)まで行く。バスを降りると、坪山は紅葉前の青々しい姿のままで我々を待っていた。歩き出す前に坪山の地図を配布し、コースと宮武さんの遺体が発見された場所について説明、バス停近くに設置された公衆トイレでトイレを済ませて歩き出す。(地図は1月15日にお礼方々遺体発見状況について聴取するため、小島会長ほかと上野原警察署を訪れた際に入手したものである。)
 
 坪山には西原側からのルートが三つある。このうち宮武さん一行は、西尾根ルートから登って東尾根ルートを下ったと考えられるので、我々も忠実に彼らのルートを辿ることにした。登路の西尾根ルートは、ヒカゲツツジやミツバツツジの群生のほかイワカガミやイワウチワなどが密生しており、4,5月頃には花を楽しむハイカーで賑わう、近年人気のコースである。しかし傾斜はかなり急で、ロープが張られた所もある。佐薙先輩のお年を考えて、トップの佐藤(周)さんには、ゆっくり、ゆっくり歩くよう頼んだが、それも無用の心配、全員ほぼコースタイム通りで登りきった。坪山は頂上が一坪程度の広さであるところから坪山という名前が付けられたという説もあるが、実際の頂上はそれ程狭くはない。18人が休むには十分な広さがあり、穏やかな頂上で三頭山や権現山などの眺めも良い。またこの日は見えなかったが、富士山もよく見えるという。12月末に登った宮武さん達は、ここから白銀の富士山の眺望を楽しんだに違いない。頂上到着が丁度ランチタイムであったので昼食を取った後、山讃賦を歌って遭難した3名のご冥福を祈った。なお、お線香も持参したが、山火事の心配もあるので焼香は控えた。
 
 下降路の東尾根ルートは西尾根ルートよりも更に急で、地図にも「岩場が多く危険」と注意書きがある。追悼登山で事故を起したのではシャレにもならないので、ザイルを持参した斉藤さんと佐藤(周)さんの二人に先行してもらい、必要に応じてザイルやトラロープを張るよう依頼、残り16人はその後を慎重に下ることにした。実際に下ってみると、西尾根ルートは確かに急坂や痩せた岩尾根があり、落ちたら致命傷を負いかねないような場所があったが、ただ一カ所()を除いては、ロープが張られたり樹木が適度に密生していたりして、それらにつかまって下ることができるので、私自身はそれ程危険は感じなかった。またルート工作のため先行した斉藤、佐藤両氏も頂上直下の急斜面で20mのトラロープを張ったが(そこにもロープがフィックスされていたが、既存のロープが古いので念のために張った由)、他の場所ではザイルやロープを使うまでには至らなかった。
 
(注) 地図で「急坂」と記してある所に何故かロープが固定されていなかった。そこは樹木もまばらでホールドも無いので、冬の落ち葉が積もった時などは滑落の危険があると判断、また宮武さん達が滑落したとすればこの辺りかも、と思われたので、岡田さんと私でトラロープ20mを張って残してきた。
 
 山行幹事としては、下りはコースタイムの2倍かかると見込んで、15:51発のバスに乗るものと予定していたが、皆さんあまり難儀した様子も無く順調に下って、ほぼコースタイム通りで麓の御岳神社登山口に着くことができた。このため予定していたよりも一本前のバスに乗ることができて、上野原駅前の「一福食堂」で明るいうちからの打ち上げの酒宴となった。打ち上げでは、まず小島会長のご発声により、遭難した3人のご冥福を祈って献杯、その後、友人の中村さんから、「宮武さんは中学2年生の時に転校してき来て、いきなり一番の成績を取った。」など、我々の知らない逸話が披露された。また他の参加者からも、宮武さんの楽しい思い出話しがいろいろ出され、さらには学生時代、宮武さんに面倒をみてもらい、今年の春卒業したばかりの内海君と大矢君からも、宮武さんの思い出話しと共に新社会人としての近況報告がなされ、座は大いに盛り上がった。お酒がほど良く回ったところでお開き、各自それぞれ帰路についた。
 
 こうして追悼山行は終えたが、今回坪山に登ってみても、遭難当初から抱いていた疑問、「何故あんな山で宮武さんともあろう者が遭難したのか。しかも3人で。」という疑問は消えない。グーグルのブログにも「岩登りでロープに繋がっていての滑落なら分かるが、坪山のルートでは可能性なかろう。普通の山歩きで3人が同時に滑落なんてありえない。不可解極まる。」という、遭難の新聞記事を見た読者からの投稿もある。警察も我々の質問に対して滑落とは言うもののそれ以上の事は答えてくれない。東尾根ルートを踏査し改めてあれこれ考えてみたが、やはり疑問は消えない。私には「坪山には魔物がいる。」という思いが募るばかりである。
(当日の参加者―敬称略)
佐薙、本間、小島、佐藤力、佐藤久、岡田、斉藤正、吉沢、藤本、加藤博、松田、佐藤周、内海、大矢、(以上OB
安藤、吉田、川原、(以上学生)
中村健(宮武さんの友人)
        
以上

坪山頂上にて撮影(加藤)
前列左から、佐藤(力)、本間、佐藤(久)
中列左から、斎藤(正)、川原、岡田
後列左から、松田、小島、佐薙、中村健氏、吉沢、藤本、安藤、吉田大矢、内海、佐藤(周)