九州の久住山 ミヤマキリシマを見に (6月20日~21日)
藤田 一成(昭和52年卒),投稿日 令和元年7月2日

 坊がつる賛歌の歌詞に「ミヤマキリシマ咲き誇り  山くれないに大船の 」とある。
これは元歌が広島高等師範学校山岳部の歌なので、広島での酒飲み時代の昔、酔っぱらっては高歌放吟していたので、いつのまにか「ミヤマキリシマの山くれない♪」のセリフは刷り込まれていた。が思い立って、久住山(クジュウサン 1787m)にミヤマキリシマをこの 620日~ 21日と見に行った。 2人ほど誘うも断られ残念ながら単独行。
 問い合わせに、「もう咲き終わりですよ」と言われたが、まあ行ってみようと、阿蘇方面から便数の少ない九州横断バス(熊本~大分)でやまなみハイウェーの最高地点 牧ノ戸峠で午前 11時過ぎ下車。

ミヤマキリシマ
撮影日時:6月20日13時19分
撮影者:藤田

 時期が若干外れとあって久住山へ向かう人は見かけない。天候は晴れ。久住山への最短の一般ルートだが、すこし登ると高い木はなくなり、気持ちの良い稜線がつづく。
 ミヤマキリシマが現れるが、大半は咲き終えて茶色くなっている。登山口から 2時間半で久住山の頂上だ。頂上からは久住山の他の山塊が一通り見渡せる。南には阿蘇のカルデラ平原が広がっている。
 登山ルートからは見えにくかったが、久住山の南斜面には、目的のミヤマキリシマの群生がまさに咲き誇って、久住山の名残りの群生があった。
 この花の色の広がりがミヤマキリシマの 山くれない だと教えてくれる。
 資料写真では山全面がくれない色に燃えているような久住山が紹介されているが、今年は 6月の第 1週くらいだったらしい。
 しかし、昔の人も言ったが、花はピークよりも散る間際
 群生が支配的に 咲き誇っている よりも、おおかたは枯れて散ってしまっていくなかで最後にひと花咲かせるすがたこそが いとおかし ’…と強がりの感想を巡らせて、全盛を見損ねた残念さをごまかした。 

大船山と大戸越の分岐標識
撮影日時:6月21日9:16 撮影者:藤田

 余談だが、この日は、2時間半ほど下山して、ぼうがつる湿原の際にある古い温泉山宿・法華院山荘で一泊し、翌朝、坊がつる讃歌の歌詞に出てくる大船山(1787m)に登った。久住山と同じ標高で、久住の山塊を見渡せる。
 この大船山、タイセンと読む。 長い間 山くれないに大山の♪(ダイセン)と覚えていた。考えてみれば大山(ダイセン)は伯耆の国の山。確かに標識にはTAISENとの記述があった。
 大船山の帰りまた山荘で、一人っきりの湯舟にゆっくりつかって、バス停まで 2時間の下山路に向かった。

 
『南会津の温泉と山を訪ねて』

加藤 博行(昭和51年卒),投稿日 令和元年7月2日

「南会津」と聞くと、広い東北でも他の土地とは少し違う優しい響きを感じると共に、懐かしいような気分になり、行ってみたくなるのは不思議だ。
3月初めに福島の斎藤さん(昭和63年卒)から、「南会津の湯ノ花温泉に泊まって、田代山・帝釈山はどうですか」と懇親山行候補地として提案があった時は、思わずこれに決めた。
針葉樹会報132号(20152月)掲載の、斎藤さん執筆による「会津の山」は、故郷愛に溢れたエッセイだが、そこにも東武浅草駅から南会津の玄関である会津高原尾瀬口駅へのアプローチと湯ノ花温泉の紹介があり、いつかは行ってみたいと思っていた。
東武鉄道、野岩(やがん)鉄道、会津鉄道を直通する特急リバティで会津高原尾瀬口駅に集合し、レンタカーを手配し、温泉で一泊、翌朝田代山登山、その延長として希望者は帝釈山を往復、下山後初日の駅まで戻り、特急で日曜日夕方には東京へ戻る案で、斎藤さんに現地の段取りをお願いした。
会員の参加を募ったところ、最終的に12名となり、年代も70代以上5名、605名、502名と、多少薹(とう)がたってはいるものの、一応「老・壮・青」と幅広く揃ったのは嬉しかった。
 
◆参加者 佐薙、小島、佐藤(久)、吉沢、中村(雅)、前神、藤田、加藤、佐藤(活)、佐藤(周)、川名、斎藤(誠)=現地参加
 
◆日程及びコースタイム
6月15日 
 浅草 9時発
 会津高原尾瀬口着 1205
 昼食、及び前沢集落立ち寄り後、民宿「山楽」着 15時半
 
6月16日 
 民宿発 620分 猿倉登山口 7時 (天候様子見)745分発
 8時15分に、〔帝釈山組〕前神、藤田、佐藤(活)と〔田代山組〕に別れ、帝釈山組が先発する。
〔田代山組〕
 田代山頂上 955分 避難小屋 1005分 避難小屋発 1115分 登山口 1245
〔帝釈山組〕
 田代山頂上 九時半 帝釈山頂上 1110分 避難小屋 12時 
 登山口合流 1320分 
 会津高原尾瀬口発 1518分 浅草着 1815
 
 初日、会津高原到着後、斎藤さんの黄色いアクアに、レンタカー・ヴィッツ2台を仕立てて、昼食に寄った古民家調の蕎麦屋「おり田」の天ざる蕎麦はなかなか美味かった。朝晩の寒暖差が大きい南会津は蕎麦の栽培に適し、全域で蕎麦が作られているようだ。天ぷらを揚げたて、他の客を入れず、待っていてくれたお店の心使いも嬉しかった。
 その後、ひっそりと山合いにたたずむ茅葺きの「前沢曲家(まがりや)集落」に立ち寄る。15軒の茅葺き屋根集落は、小雨に煙るなか、日本の原風景を彷彿とさせてくれた。薪のくべられた囲炉裏端で暖を取りながら、厩(うまや)と人の住居が一体化した造りに、冬の厳しさと家畜に対する愛情を感じた。
 そしてこの日向かった、湯ノ花温泉の民宿「山楽」は、我々を茅葺き屋根で迎えてくれた。部屋で一息入れ、舘岩川沿い4か所に点在する外湯の温泉に各々浸かりに行く。お湯が源泉かけ流しだが、熱すぎて、とても入れないという人もいる一方、温湯(あつゆ)好きにはたまらない、しっかりした温泉だ。
 夜は、川魚と山菜中心の夕食である。お酒がガンガン進み、小ぶりすぎるお銚子がどんどん横に並ぶ中で、明日の天候が気になった。夜中に強い雨が降るが、朝方には雨が上がって小康状態になるとの予想にかすかに期待して、部屋に引き上げ、眠りにつく。
初日は、南会津のおもてなし一色だった。
 
 明け方は、川の流れの音と雨音の区別がつかない中で目が覚める。各自それぞれ朝湯を楽しんだりした後、早い朝食をとり、おにぎりを持って出発。
 その頃から早くも雨足が強くなる。40分のドライブで登山口に着くと、雨は更に強くなり、幹事を泣かせる。やはり、六月中旬からは、梅雨入りリスクがあるなあと思っていたが、兎に角少しおさまるのを祈るしかない。
 小止みになったところで出発、しっかり太い木でステップを作った急坂を進む。時に太い白樺の生木で補修しているのは、少しやりすぎに思えたが、急登の割には歩きやすく、水はけも悪くないので、雨の日は助かる。先日芦安の高谷山登山道整備に参加した時に斜面を「がじった道」と比べると、別世界だ。
 最初の30分で休憩したところで、帝釈山希望者を募ると3名手があがる。前神さんは、そもそも会社の仲間と行く予定であった北東北の焼石岳が雨で中止になって、急きょ転戦したもの。ピーク(300名山)を狙う執着は流石である。佐藤(活)さんは、田代山を既に登っていて、もともと帝釈山がメイン。そして今回初参加で会員に成りたての藤田さんがこれに続く。雨模様で天候回復が微妙な中、モチベーションの高い3人は元気よく急坂を登って、我々の視界から消えた。
 残った9人は、その後ゆっくりと進む。新緑が雨空に鮮やかに映え、やがてシャクナゲやイワカガミ、リンドウの一種が点在し始める。雨もあがり、ガスが少し切れて、遠くの山々が眺望に入ってくる。
 しかし、その後また小雨がぶり返し、頂上に近づくと風も出てきて、今日はこんな天気が続くのかと少々がっかり。そのうち傾斜が少し弱まり、木道が現れ、導かれるように思い切り広い頂上の湿原の端に到着した。
 何という広さだ。風情のある木道が続き、チングルマやヒメシャクナゲをはじめとする小さな花々に彩られた様は、天上の楽園としか言いようがない、見たことのない景色だ。  
ガスで遠くの山々が見えないのが惜しいところ。2列の木道を風に煽られながらしばらく行くと立派な避難小屋が現れ、しばしそこで昼食休憩とする。小屋の中には氏神と弘法大師が祀られ、他のパーティーが所狭しと雨を凌いでいた。
 昼食後は低気圧の通過のせいか、気温が下がり、少し寒い程だ。兎に角小屋を出て、早めに登山口を降ることとする。帝釈山組が、脱兎のごとくすぐそばに迫るとシニア世代は気にし始めたのだ。
 その後少しして、雨もほぼ上がり、時折淡い日差しが新緑に光をかざし、一層緑が鮮やかな色を放つ。高度を下げると寒さは漸く落ち着き、この季節らしい爽やかな風が舞う。
 田代山往復組が下山して程なく、帝釈山組も下山。さすが、9月にホワイトセールへ行く会員は、意欲と強靭さが違うと思った。そんな中、当会に入ったばかりで、会員諸氏と初めての藤田さんが、思わぬ力を発揮してくれたのには驚いた。週末等に続けている小登山の積み重ねの賜物か。
 こうして、今回の会津シリーズも無事終わった。現地幹事を見事に果たしてくれた斎藤さんと別れて、南会津を離れた。帰りの電車で、反省会と称して酒を飲み、何とか大雨だけは避けて全員で登れた僥倖に感謝した。
 
追記
「越後・会津シリーズ」という呼び名で、看板をリニューアルして、この何年か継続されている本シリーズも回を重ねること13回目。私も、20159月の妙高山、201610月の博士山・志津倉山、20176月の守門岳、20185月の粟が岳と、ここ4年参加づいている。
今回初めて、出発地側の山行幹事を仰せつったが、参加の皆さんのご協力のおかげで、季節の慈雨に少し惑わされながらも、何とか両山を無事登れたことに、感謝致します。
 
 

撮影日時:6月16日8時15分 撮影者:佐藤(周)
(左から、佐藤(活)、中村(雅)、藤田、吉沢、斎藤(誠)、佐藤(久)、川名、小島、加藤、佐薙、前神)

撮影日時:6月16日10時7分 撮影者:加藤

 

ショウジョウバカマ
撮影者:川名

イワカガミ
撮影者:川名

チングルマ
撮影者:川名

ヒメシャクナゲ
撮影者:川名

ラショウモンカズラ
撮影者:川名

 

 南会津山旅報告補足

「帝釈山 往復 そこには前神さんの尻だけが・・。」

藤田 一成(昭52年卒),投稿日 令和元年7月2日

 針葉樹会の山行に初参加、昨年12月に針葉樹会の会員に加えていただいた藤田です。
 下記に若干の山がらみ経歴を記します。
 今回南会津の山行に加えていただき、久々の旧知の人たちとの山旅となりました。自己紹介を兼ねて簡単に報告をさせていただきます。
 雨がしょぼしょぼと降るなか 田代山の登りから少し行ったところで、本体と離れて 前神さん、佐藤(活)さんが帝釈山に行くというので、迷いながらも勢いで参加挙手。(実は内心挙手した瞬間後悔がー)田代山の頂上はどうしてこんなところに湿原が・・、というような場所が広がっていたが、折から雨がひどくなる。避難小屋で若干休憩し、往復2時間では、本隊との登山口での待ち合わせに遅れるのでは、との懸念があったが、前神さん、佐藤さんが「まあ行ってみよう」ということで、出発。
 雨は相変わらずしょぼしょぼ降って、またガスは一向に晴れない。前に歩く前神さんがにわかにピッチを上げたためひたすら安定した歩きの尻に、追いついていくのが精いっぱい。帝釈山の頂上はひょいと現れる、どうということのないピークだった。風もあって寒いので、すぐに引き返す。登山口での待ち合わせ時間の約30分前には本隊と合流できた。思わぬ力もなにもーただただ尻と雨の日だった!
※ 広島出身 山岳部の同期は、兵藤さん、加藤さんら
  1977年卒  5年生 広島の中国放送勤務  報道 番組制作畑を歩く
  1991年     四川省の四姑娘山登頂(広島山の会)ドキュメント番組制作
  1992年     アジアキャラバンで、パキスタンのフンザ・ギルギットからフンジラブ峠を超えて新疆を縦断する紀行番組制作
  2006年   広告代理店を東京で始める
  2016年   針葉樹会同期の人らに誘われて、奥多摩の山歩き再スタート 
  20187月  上高地の兵藤さんキャンプに参加
  201812月  針葉樹会参加
 

 
令和 最初の山日記
藤原 朋信(昭44年卒),投稿日 令和元年6月18日

 
 72歳猪年の5月に令和の時代に入りました。何事も最初の滑り出しが肝心と昭和・平成に登りえなかった山々を主体に5月、6月と2か月の計画を立てました。以下がその記録です。
 
 37番はこれまで計画倒れで終っていた案件でしたが、56月は一年で一番日が長く、また雨でも比較的温度が高めなので長時間行動できた為、長年の懸案を済ませることができました。
 ほぼ目ぼしいピークを登り終えた山域もあり、あとどれぐらい残りの課題が片付くかはグランドシニアまでの2年半が頑張りどころでしょうか。
 
 
154日  奥秩父 北奥千丈岳(大弛峠まで) 単独行 7:3014:00
 
長野県川上村山荘から往復しました。今年の山荘開きは例年より遅く5月になりました。山荘も建築後13年になりますので北奥千丈岳も十数回登ったでしょうか、私のお気に入りの山です。令和最初の山は奥秩父最高峰の北奥千丈岳と定め歩き始めましたが、標高2000m地点から4050㎝の積雪があり、また思ったより時間を食い、大弛峠で引き返す羽目になりました。一方塩山側は全く雪がありません。改めて北面と南面の違いを認識しました。
来年は同じコースをスノーシューで楽しもうと考えながら下りました。
 
2512日  仙人ヶ岳・赤雪山  同行:中村(雅)さん 10351455
 
関東の山の中で栃木の山はブナ、雑木が多く新緑・紅葉の時期は歩いて楽しい地域です、人に知られていませんが好ましい山が多いのも特徴で、平成最後の山も42829日に塩原温泉近辺の新湯富士と安戸山に出かけ、GWの人出を避けた大変静かな山登りが出来ました。関東百名山、山梨百名山もあと少しで終わりますので、これからは栃木、群馬の山が多くなりそうです。
 
351820日  大峰南奥駆道 笠捨山・玉置山  同行:中村(雅)さん、田形さ
     18日:麓のバンガロー泊
     19日:行仙小屋登り口~笠捨山~玉置山展望台 テント泊 9時間行動 雨
     20日:展望台~五大尊岳~熊野大社  8時間行動 雨(中村さんは9時間行動)
 
昨年秋に、中断した南奥駆道の残りを2泊3日で完了しました。連日、小雨のなかの荒れた道で、まさに修験道の一端を味わうことができました。中村(雅)さんは吉野から熊野まで4回に分けての奥駆け達成です。中村さんは小辺路等の熊野詣でも全て終えておられるので間違いなく極楽浄土が約束されています。
(本山行の詳細記録は追って中村さんから報告予定です)
 
4525日  丹沢世付権現山 丹沢湖~二本杉峠 単独行 10251425
 
昨年空白区間のプッチェ平を歩いてグルリ丹沢が終りました。あと丹沢のバリエイションルートとして気になっていた権現山を今回登れば丹沢は完了ということにしました。欲を言えば遡行できなかった沢は数えきれないほどありますが、高齢クライマーのクライミングも高齢ドライバーの運転以上に危険なのでここらが潮時でしょう。
 
563日  大峰山上ヶ岳 前夜洞川泊 単独行 5301120 
 
南奥駆道が終ったので、大峰山脈で登り残していた山上ヶ岳に岡山からの帰途立ち寄りました。
現役時代関西に通算20年はいたのに登っていないのが不思議なのですが、会社山岳部での計画が北アルプス主体であったことと、女人禁制で会の計画としては立て難かったためでしょう。雨上がりの山上ヶ岳山頂は広くたおやかな気持ち良い場所で意外でした。帰途は吉野からの稜線を五番関結界まで繋げ大峰山脈は完了とみなしました。
 
669日   鉢盛山  前夜松本泊 単独行 7051820
 
 新島々から黒川林道を延々歩いて往復しました。梅雨入りで天気が悪い中、そこまで鉢盛山に
こだわったのは、昨年登った大滝山~鍋割山から連なる北アルプス支脈が島々宿で一旦高度を落とすも鉢盛山で再び2446mと盛り上がり(上高地から奥穂と同じ1700mの標高差です)、鳥居峠を経て中央アルプスの前衛峰、経ヶ岳まで繋がるからです。北と中央を結ぶジャンクションピークはいかなる景観を見せてくれるのだろうか興味は尽きません。しかし生憎天気は小雨、展望はえられませんでした。
 
 
7.61617日   奥秩父 和名倉山 単独行
      16日:鴨沢西~三条の湯~北天のタル~将監小屋  10:10~17:35
      17日:和名倉山往復後、三番瀬~丹波  4:45~15:10
 
 秩父の三峰から西は清里の飯盛山に至る奥秩父山塊の登り残し、和名倉山を目指します。
今回辿るコースは全て初めてで梅雨の晴れ間を狙って決行です。歳のせいか計画はいくらでも立てるのですがいざ実行となると踏ん切りがつかず、ずるずると10年来延ばしていた案件です。
 三条の湯を過ぎると登山者は誰もいません。雨上がりの緑が目に沁みます。奥秩父連峰、南アルプス、富士山と山の展望に欠かせない役者が勢ぞろいです。時代が変わろうと山は変わりませんね!!
 

 東北湯治・山スキー
齋藤 誠(昭和63年卒),投稿日 令和元年7月3日

 
日程 ;2019427日~29日(斎藤、川名が参加した日)
  岡部(27日〜28日朝)、中西(27日〜29日朝)は、山は不参加。
  前神、兵藤、佐藤、神野は26日出発。29日下山後は別行動
参加者;前神直樹(昭51)、兵藤元史(昭52)、佐藤活朗(昭53)、神野 隆(昭54)、
    岡部寛史(昭55)、中西 茂(昭56)、川名真理(昭63)、斎藤 誠(昭63
 
 10連休の前半、兵藤さんに誘ってもらい、東北湯治山スキーに出かけた。
 現地(銭川温泉)集合で、私、齋藤は福島から車。盛岡を過ぎると吹雪となり、季節が逆戻りしたよう。タイヤを交換しないでおいて正解だった。
 山スキー2名、ショートスキー1名、スキーなし3名、湯治のみ2名。
 銭川温泉はオンドル(温泉を循環させた床下暖房)の付いた快適な自炊湯治宿。乳頭温泉、玉川温泉など、そうそうたる有名温泉がひしめく中、落ち着いたお手頃の宿。
 湯治組の岡部さん、中西さんが食当になって、おいしいきりたんぽ鍋、すき焼きをごちそうになった。ありがとうございました。中西さんは釣りを試みたようですが、釣果はなかったよう。
 
 翌朝、温泉、宴会気分でアスピーテライン入口ゲートに達するが、ゲートは降雪のため閉鎖されており、八幡平の山頂まで道路を歩くか、積雪の登山道に入り込むか、意見が分かれた。
 なんとか登山道でまとまり、歩き始める。
 程なく広い尾根筋のルートに出て、快適に上ることができた。快晴。ガスっていればルートに迷うような特徴のない広い大地が広がっていた。ところどころ、ツアー用の番号が付いた看板が設置されていた。山頂には展望台。
 帰途、クロスカントリースキーの練習に行くらしいスポーツ少年団の一行らしき集団とすれ違う。
 
 田沢湖は、絶世の美女、黄金のたつこ像が印象的。インバウンドか、地元で研修生として働いている人々なのか判然としないが、アジア系の観光客が多数であった。
 
 翌日の森吉山は阿仁またぎの本拠地のような奥深い土地。銭川温泉からは尾根をはさみ、長距離ドライブ。
 かつて前神さんご夫妻がバスツアーで訪問した縁もあり、頂上を目指す。
 神社の傍らにりっぱな避難小屋があるらしいのを遠望し、次回はその小屋をベースに宿泊合宿は?という提案がなされる。歩行距離も短く、安全性を確保できる、手頃でありながら奥深い山。マタギの勉強をしてから一帯を訪れれば、一層、趣深そう。
 頂上からは360度の展望。鳥海山、岩手山、岩木山、早池峰……北東北の名山を眼中に収める。
 
 齋藤、川名両名は北上ルートで帰途につく。大きな町はないが、家々が途切れることなく街道に連なる様子で、山の幸で食っていたのだろうと想定される街並みが延々と続いた。
 軽い山行ではあったが、湯治ツアーと捉えればこれはこれで中々のものだった。年相応に無茶をせず、旧交を温める山行もまた乙なもの。温泉なりバーべキューなり、山+αの山旅の比重が、今後ますます高まりそう。

銭川温泉台所できりたんぽ鍋を調理する中西(左)、岡部 
4月27日16時 撮影者:川名

八幡平頂上展望台 4月28日 
撮影者:川名 (前列 斎藤(誠)、後列左から、佐藤(活)、神野、前神、兵藤)

.銭川温泉玄関にて集合写真
4月29日 撮影者:宿のご主人
(左より、斎藤(誠)、佐藤(活)、川名、前神、兵藤、神野、中西)

 

 
坪山リハビリ山行
竹中 彰(昭39年卒), 令和元年4月21日

 
 昨年中苦しめられた脊柱管狭窄からの坐骨神経痛のリハビリを兼ねて一昨年12月に宮武さん他の滑落事故が発生した坪山に出かけました。
 
 事故発生時には、小生の動きが取れず現地参加は叶いませんでしたが、どんな山かの確認とミツバツツジ、ヒカゲツツジ、イワウチワ、イワカガミなどの花の観察を兼ねて出かけました。4月に入ってからの低温・降雪等でイワウチワ、イワカガミには早かったようですが、ツツジ類は盛りでした。また山麓ではサクラやハナモモも素晴らしく、バスはさながら桃源郷を行く心地(少しオーバーか?)だった。上野原の駅も嘗てのイメージとは様変わりで、5階建ての立派なものに建て替わり、駅南側のバスターミナルも良く整備されていました。
 
 8:06の鶴峠行に乗車すること50分余で登山道入口(トイレあり)の八ツ田停留所に着き、鶴川の橋を渡ったトイレ手前には警官が立って登山届提出と宮武さん達のケースにも触れながら、東尾根ルートは危険性高いことを呼びかけていた。910分に届を提出して西尾根ルートに向かった。
 
 暫く畑等の間を進み針葉樹林に入ると急な登りが続く。その前の木橋(川床は白い平滑な秩父チャート?)を直進すれば恐らく3人が発見された現場近くに行きつくと思われたが、単独行であり登山道に沿って急登を進み尾根に取付く。トイレにも寄らずに進んで来たので満員で運ばれたバス客のトップで進むが、リハビリなので無理をせずにユックリペースで進む。
 
 尾根は予想以上に急傾斜で、部分的に痩せており、要所に張られたトラロープや木の根、岩角などをホールドにする。最初はピンクのミツバツツジが姿を見せるが、次第に道の両側に薄黄色のヒカゲツツジ(印象としては黄花石楠花に近い)の群落が優勢となり、地表にはイワウチワ、イワカガミの葉が現れる。頂上直下まで急登が続くが、頂上にはジグザグを切って飛び出す。ユックリペースで時間的には登山口を出て1時間45分を要した。
 
 頂上は名前の通り狭く、頂上標識と三等三角点の標石が埋設されていた。標識に向かって手を合わせ心の中で3名の冥福を祈り、頂上の一角に腰を据えて昼食とした。食事をしながら周囲の山座同定を試みる。北側の奥多摩方面は直ぐ近くに三頭山、槙寄山など笹尾根に繋がる山並み、三頭と奈良倉山の間、遠景に雲取山、七ツ石山、南西遥か彼方には最近の降雪で一段と白さを増した富士山などの絶景が広がる。
 
 絶好の好天の下で久し振りに山の空気を吸い、足腰の故障も認められなかった嬉しさから脚に少し疲れが出ていたが、気持ちは軽やかだった。1時間近く滞在し、1140分に頂上を後にする。下山路の東尾根入口には2枚の大きな看板に「東ルートは急坂・岩場の多い未整備・事故多発ルートのため「びりゅう館」への下山ルートをご利用ください。上野原市」と記されていた。指示に従ってびりゅう館を目指して緩やかな尾根道を進むが、最初は急下降が続き、灌木やトラロープを利用しながら暫らく緊張を強いられた。その後は自然林の中、アセビの間のアップダウンを繰り返しながら、概ね赤松などの自然林の間を進むがここでも所々でピンクのミツバツツジ゙が目を楽しませてくれた。
 
 頂上からノンストップ50分余で、枯れた赤松の大木が立つ阿寺沢分岐(850m)で道は左折して降下する。直進は阿寺沢バス停方面に下るが、地元コース案内では道が荒れているとのことでバツ印がある。この辺りまで来ると久し振りの山道歩きに足に疲労感が出てくる。少憩後にびりゅう館を目指して下るが、ヒノキの植林が多く、単調な道で偶に現れるミツバツツジ以外に見るべきものは少ない。いい加減飽きた頃に下にゴールのびりゅう館の青い屋根が見える。
 
 頂上から1時間半余り、1315分にトイレや地元産野菜、お土産売店、食堂などがあるびりゅう館に到着する(540m)。予定ではスグそばの学校前バス停1443分まで待機の筈だったが、今日は客が多く増便(臨時)が出るとのことで、待つうちに構内駐車場に乗り入れて来たバスに乗車する。座席定員40名になったところで予定より1時間以上早く1345分に出発して上野原に向かう。駅には1436分に着き、遅れて来た中央線高尾行にタイミング良く間に合い、八王子経由で16時前には自宅に帰り着いた。
 
 久し振りの登山で、長い下りの所為もあって、翌日からかなり酷い大腿四頭筋痛に悩まされ、自宅の階段昇降に難儀をしているが、昨年までの坐骨神経痛で屋内もストック頼みで歩いていたことからすれば、ある意味贅沢な悩みと割り切って、新しい令和に時代を迎えようとしている。徐々に皆さんの山行のお供も出来ればと考えている。宜しく。
 
 
 

焼岳登れずの記(懇親山行報告)
兵藤 元史(昭52年卒)

 
 冬の穂高連峰を久方ぶりに眺めて、焼岳もついでに登りませんかとの呼びかけに、老登山家達9人で出かけた懇親山行の報告です。
 
行程 : 
2019年29日 松本駅集合 1435  中ノ湯温泉 1610
     2月10日 中ノ湯発 640  到達点(2020m)1100  中ノ湯着1320
 
参加者(敬称略):
佐藤(久)、岡田、吉沢、中村(雅)、前神、佐藤(周)、兵藤(焼岳組)小島、藤原(上高地組) 計9
 
2月9日 小雪
 関東地方は大雪のおそれとの予報で、電車の遅延が心配されたが、降ったのは千葉方面が中心で、中央線は順調に動いていた。茅野辺りから小雪が舞い始めた。手配してあった中ノ湯温泉からの迎えのバス(無料)は、三連休の初日とあって満員だった。
 
 今回は中の湯温泉旅館の「スノーシュープラン」にて予約(12食付き12,800円、スノーシューやストック無料貸出付き)したため、本来は眺めのない部屋だったはずが、満員に依る部屋繰りのため、吊り尾根が眺められる部屋となった。天気が悪いので、当然眺望はなかったが、翌朝ゆっくり出発した上高地組はその恩恵にあずかったとのこと(別記報告書参照されたし)。
 
2月10日 薄曇りガス&雪晴れ
 焼岳組は浴衣、丹前姿の上高地組の見送りを受けて640に出発。朝食は7時からとのことで前夜おにぎり弁当受け取った。出発前に全部食べた人、一部食べた人、山に持ち上げた人、それぞれであった。
 
 さて、スノーシューであるが、持参したのは中村さん、前神さん、それにワカンの周さん。残り4人は初めて履いたのであった。昨夜靴の合わせ方を教わって、十分理解したつもりだったのだが、少々酔った状態だったこと故か、レンタル品の故か、歩き始めてすぐに外れる人が続出・・・・どうなりますやら。
 
 ともあれ、スノーシューを付けて温泉横の登山口を出発。昨夜の雪は1015cm程度。数日前の雨でその下はクラストしていた。40分ほど車道を歩くと、焼岳登山口に到着。
傾斜の無いところではスノーシューは快調だったが、傾斜がきつくなると下のクラスト面で滑って、結構な苦労となった。久さんは早々にスノーシューを諦めてデポし、アイゼンに履き替えた。
 2時間ほど歩いた時点で吉沢さんもアイゼンに替えた。ワカンの周さんは結構潜ると言っていた。但し、ワカンとスノーシューの違いなのか、体重の差なのか、そこら辺は不明!!
 
 樹林帯を抜け出して、「広場」と呼ばれる場所に近づく頃には、雪が降り始め、本来見えるはずの穂高や焼岳も隠れてしまった。ラッセルもこの辺りで深くなり、疲れから遅れ始める人もでたため、11時に登高を止めて下山することに。疲れた人の原因は、間違いなくシャリバテでしょう。下り始めてから朝食のおにぎりを食べていましたから・・・。
 
 連休というのに他の登山者は、単独BC(バックカントリー)スキーヤー(前日広場にてテント泊とのこと。スキーも上手げであった)と下山時に登って来た2人組とのたった3人だった。満員の中ノ湯の宿泊客は、皆上高地に向かったようだ。
 
 登頂はできなかったけれど、久しぶりに冬山の雰囲気を味わえて楽しかった、などと語らう内に下山終了1320。チェックアウトは朝済ませていたが、宿泊客は下山後も温泉に入れるとのことで、汗を流した。この頃から穂高の稜線が見られるようになり、吊り尾根、明神を眺めつつ露天風呂を堪能した(岡田さん撮影の穂高をご覧下さい。素晴らしい写真です。)
 
 その後、久さん他3人は15時の定期バス(松本高山)にて松本へ出、「あずさ」にて帰京した。中村さん、岡田さん、吉沢さん、周さんは中ノ湯に連泊した。
 皆さんご苦労様でした。

焼岳登頂を諦めた地点で
2月10日(撮影・岡田)
穂高吊尾根-中の湯玄関にて
2月10日(撮影・岡田)
前穂高岳と明神岳
2月10日(撮影・岡田)
穂高吊尾根-中の湯温泉旅館から
2月10日(撮影・岡田)
 

冬の上高地散策
小島和人(昭40年卒)、藤原朋信(昭44年卒)

 
1.2019年210日(日) 
  釜トンネル入口(845)~大正池(945)ここから二人別行動
  小島: 河童橋まで散策し、13時過ぎにトンネルに戻り。
  藤原: ~河童橋(1015)~明神(徳本峠分岐)(1100)  
      近辺でスノーシュー練習し12時に往路を戻る  釜トンネル着 (1430
2.メンバー 小島和人(昭40年卒)、藤原朋信(昭44年卒)
3.記録
 
 早朝6時半に出発する7人のシニアアルピニストを見送る。玄関にいたご婦人が皆さんどこに行くのかと聞くので、焼岳に登頂ですと答えると、尊敬のまなざしで頑張ってと応援して頂いた。
 全くレスペクトされなかった我々二人は朝風呂に入り小原庄助さん気分である。部屋に戻ると陽が出て窓からのぞくと、なんと明神、前穂、吊尾根、奥穂が一望できた、神様は焼岳に向けて寒風とラッセルにあえぐ者にも、エアコン付き部屋から遠望する者にも等しく恵を与えてくださる。これも日ごろの行いが良いせいだと納得した。今回の目的は、50年来傍を素通りするだけであった中の湯に初めて泊まることと、冬の穂高を眺めることで、後者は先ず天候面で無理だろうと思っていたのに、早くも実現し信じられない思いであった。
 8時に朝食をすませ、釜トンネル入り口に着いたのは845分である。中国からの子供連れを含む数パーティーが同時に釜トンネルに入る。腰と太腿に強い痛みを抱える小島兄を先頭に自分のペースで歩いてもらうことにしたが、予想に反しペースが早い。朝風呂で体も心も弛緩している私にはついていくのがやっとである。
 釜トンネルを抜けた上高地トンネルの前で小休止し、朝焼けの焼岳を見上げる。7人の士は慣れぬスノーシューに苦労しているのではと思いやるが、こちらは冬晴れで何の苦労もない。歩き始めて1時間弱で大正池に着いた。ここから先は小島兄より各人好きなペースで上高地を楽しむ為に別行動の提案があり、私が河童橋に先行する。道は先行者の足跡が入り乱れラッセルは不要、かつ凍結もないのでアイゼンもいらない。夏タイムとそれほど違わず河童橋に出た。冬景色の河童橋はまた別の趣であるが、新緑と雪解け水で命萌える6月が懐かしい。ここで軽く昼食を取り、スノーシューをつけた、小梨平より先は人も踏み跡も少なくなり、スノーシューが快適である。
 踏み跡がない横道をえらんで進むと明神まで良い練習になった、踏み跡はなおも徳澤方面に続くが徳本峠への分れで全くラッセルがない峠道へ入る。処女雪を500mほど蹴散らして至極満足したのと時間切れが迫ってきたので帰途についた。冬に再訪することはないと思い、帰りは明神を眺めながらゆっくり歩いた。天気はまだ持っている。それでも最後の釜トンネルで中を吹き抜ける風の冷たさにやはり冬の北アルプスの片りんを感じさせられた。
 
 バス停で松本行のバスを待っていると焼岳組の三人が現れ、互いの無事を確認できました。冬には滅多にない好天に恵まれた良い山行でした。幹事さんに感謝!感謝!です。(藤原記)
 
追記
 
 藤原さん今回の懇親山行では大変お世話になりました。太腿の痛みから、今回の山行では湯治と宴会だけと決めて参加しましたが、夜と朝の風呂の効果か痛みも和らぎ、藤原さんの後押しで釜トンだけは歩いて見ようと思い出かけました。広くゆるい傾斜で、電灯も付いた新しいトンネルに感心して歩くうちに、雪崩の怖かった釜トンの先に出て、きれいに治水工事のできた沢筋にまたまた感服、足腰の痛みなど忘れ新しい上高地トンネルを抜け、踏み固められた雪道を辿り、歩き始めて一時間で大正池でした。
 大正池で藤原さんには先に行ってい頂いた後、ゆっくり歩きを楽しみながら河童橋に10時半過ぎに着きました。信じられない気持ちでしたが、橋のたもとの建物の軒先で陽光を浴びながら小一時間ぼーっと過ごしました。
 
 帰りは大正池のほとりで、暫く、雲の上に顔を出した明神と前穂の雄姿に見とれました。13時過ぎに釜トンの下につきました。
 
 こんなに楽しめたのも藤原さんの柔らかなプッシュのお陰です。本当にありがとうございました。
 藤原さんは徳澤からの帰り道かなと思いながらタクシーで沢渡に行って村の様子など見てからバスに乗りました。
 
焼岳に行った皆さん
 上高地への往復の間、焼岳はずーっと厳しい姿を見せていました。強い風と雪と戦った皆さん。ご苦労様でした。今度の三月会でお話を聞くのが楽しみです。
 
 最後になりましたが、兵藤さん素晴らしい懇親山行を企画、行き届いた配慮をいただき有難うございました。ご苦労様でした。(小島記)

花の山されど魔物のいる山「坪山」- 故宮武幸久氏の追悼登山 -
佐藤久尚(昭和41年卒)

 
 宮武さんが昨年12月23日、中学時代の友人二人と共に坪山(1102.7m)で亡くなってから10ヶ月が経った。「去る者は日々に疎し」と言うが、宮武さんに関しては全くそんな気がしない。毎月の三月会の場などで、山岳部への支援について熱く語る宮武さんの姿が目に焼き付いている。また三月会の後の二次会(神保町の居酒屋)でも、同じ話を繰り返し、挙げ句の果てには「原さんや久さんなんかは、現役時代、自分達の好きな山にばっかり行っていて、我々1年生の面倒を全くみてくれなかった。」と、からんで来る、その酔った口調と声が、耳の奥に張り付いている。兎に角、宮武さんは学生への支援には熱心で、寝言でまでその必要性について蕩々と述べる程であった。そんな宮武さんだったから、追悼登山をなるべく早く行いたいと思って、8月の三月会で「追悼登山を1013日(土)に行いたい」と提案したところ賛同を得たので、HUHACメールで案内を出した。        
 その結果、上は御年86歳の佐薙先輩から下は大学2年生の川原の乃さんまで、幅広い層の針葉樹会員並びに山岳部員から参加の返事が寄せられた。また、ホームページで追悼山行のことを知った宮武さんの中学時代の友人の中村健さんからも参加の意向が寄せられ、参加者は総勢18名となった。(当初22名から参加の申し出があったが、4名が途中でキャンセル)
 
 当日は、一週間前から秋雨前線が日本列島の上に停滞していて天気が心配されたが、宮武さんの人徳のお陰か、曇りながら熱くもなく寒くも無い絶好の登山日和となった。全員が830分に上野原駅に集合しバスで登山口(八ツ田バス停)まで行く。バスを降りると、坪山は紅葉前の青々しい姿のままで我々を待っていた。歩き出す前に坪山の地図を配布し、コースと宮武さんの遺体が発見された場所について説明、バス停近くに設置された公衆トイレでトイレを済ませて歩き出す。(地図は1月15日にお礼方々遺体発見状況について聴取するため、小島会長ほかと上野原警察署を訪れた際に入手したものである。)
 
 坪山には西原側からのルートが三つある。このうち宮武さん一行は、西尾根ルートから登って東尾根ルートを下ったと考えられるので、我々も忠実に彼らのルートを辿ることにした。登路の西尾根ルートは、ヒカゲツツジやミツバツツジの群生のほかイワカガミやイワウチワなどが密生しており、4,5月頃には花を楽しむハイカーで賑わう、近年人気のコースである。しかし傾斜はかなり急で、ロープが張られた所もある。佐薙先輩のお年を考えて、トップの佐藤(周)さんには、ゆっくり、ゆっくり歩くよう頼んだが、それも無用の心配、全員ほぼコースタイム通りで登りきった。坪山は頂上が一坪程度の広さであるところから坪山という名前が付けられたという説もあるが、実際の頂上はそれ程狭くはない。18人が休むには十分な広さがあり、穏やかな頂上で三頭山や権現山などの眺めも良い。またこの日は見えなかったが、富士山もよく見えるという。12月末に登った宮武さん達は、ここから白銀の富士山の眺望を楽しんだに違いない。頂上到着が丁度ランチタイムであったので昼食を取った後、山讃賦を歌って遭難した3名のご冥福を祈った。なお、お線香も持参したが、山火事の心配もあるので焼香は控えた。
 
 下降路の東尾根ルートは西尾根ルートよりも更に急で、地図にも「岩場が多く危険」と注意書きがある。追悼登山で事故を起したのではシャレにもならないので、ザイルを持参した斉藤さんと佐藤(周)さんの二人に先行してもらい、必要に応じてザイルやトラロープを張るよう依頼、残り16人はその後を慎重に下ることにした。実際に下ってみると、西尾根ルートは確かに急坂や痩せた岩尾根があり、落ちたら致命傷を負いかねないような場所があったが、ただ一カ所()を除いては、ロープが張られたり樹木が適度に密生していたりして、それらにつかまって下ることができるので、私自身はそれ程危険は感じなかった。またルート工作のため先行した斉藤、佐藤両氏も頂上直下の急斜面で20mのトラロープを張ったが(そこにもロープがフィックスされていたが、既存のロープが古いので念のために張った由)、他の場所ではザイルやロープを使うまでには至らなかった。
 
(注) 地図で「急坂」と記してある所に何故かロープが固定されていなかった。そこは樹木もまばらでホールドも無いので、冬の落ち葉が積もった時などは滑落の危険があると判断、また宮武さん達が滑落したとすればこの辺りかも、と思われたので、岡田さんと私でトラロープ20mを張って残してきた。
 
 山行幹事としては、下りはコースタイムの2倍かかると見込んで、15:51発のバスに乗るものと予定していたが、皆さんあまり難儀した様子も無く順調に下って、ほぼコースタイム通りで麓の御岳神社登山口に着くことができた。このため予定していたよりも一本前のバスに乗ることができて、上野原駅前の「一福食堂」で明るいうちからの打ち上げの酒宴となった。打ち上げでは、まず小島会長のご発声により、遭難した3人のご冥福を祈って献杯、その後、友人の中村さんから、「宮武さんは中学2年生の時に転校してき来て、いきなり一番の成績を取った。」など、我々の知らない逸話が披露された。また他の参加者からも、宮武さんの楽しい思い出話しがいろいろ出され、さらには学生時代、宮武さんに面倒をみてもらい、今年の春卒業したばかりの内海君と大矢君からも、宮武さんの思い出話しと共に新社会人としての近況報告がなされ、座は大いに盛り上がった。お酒がほど良く回ったところでお開き、各自それぞれ帰路についた。
 
 こうして追悼山行は終えたが、今回坪山に登ってみても、遭難当初から抱いていた疑問、「何故あんな山で宮武さんともあろう者が遭難したのか。しかも3人で。」という疑問は消えない。グーグルのブログにも「岩登りでロープに繋がっていての滑落なら分かるが、坪山のルートでは可能性なかろう。普通の山歩きで3人が同時に滑落なんてありえない。不可解極まる。」という、遭難の新聞記事を見た読者からの投稿もある。警察も我々の質問に対して滑落とは言うもののそれ以上の事は答えてくれない。東尾根ルートを踏査し改めてあれこれ考えてみたが、やはり疑問は消えない。私には「坪山には魔物がいる。」という思いが募るばかりである。
(当日の参加者―敬称略)
佐薙、本間、小島、佐藤力、佐藤久、岡田、斉藤正、吉沢、藤本、加藤博、松田、佐藤周、内海、大矢、(以上OB
安藤、吉田、川原、(以上学生)
中村健(宮武さんの友人)
        
以上

坪山頂上にて撮影(加藤)
前列左から、佐藤(力)、本間、佐藤(久)
中列左から、斎藤(正)、川原、岡田
後列左から、松田、小島、佐薙、中村健氏、吉沢、藤本、安藤、吉田大矢、内海、佐藤(周)